神なるもの㉒『晩夏の粉雪』

鈴音すずね姉さん……!」


 優しく握られた手を、美鈴みすずがきゅっと握り返す。


 柔らかく、温かく、そして適度な手ごたえ。けれどその感触はどことなく虚ろで――


「ふふっ。

 うん、ようやく会えた」


「はい……、はい……!」


 美鈴はしきりにコクコクと頷く。

 ずっと互いの顔すら知らないまま生きてきた。二十年もの長きに渡って。

 それが今、ようやく会えた。

 溜まった感情が目から溢れて止まらない。


「大きくなったね。それに、綺麗にもなった。ふふっ、離れ離れになったのはまだお母さんのお腹の中にいる時だったから、なんだか新鮮。

 でもそっかぁ、あれから二十年も経ってたんだね」


「……ひぐっ、ぐすっ……はい、はい……!」


 涙声で、美鈴はさらに大きく頷く。


「こーら、もう泣かないの。もうすぐ成人でしょ?

 泣いたらせっかくの美人が台無し」


 鈴音はその手で美鈴の涙を拭い、長い前髪をそっとかき上げた。

 するとその奥からはやや腫れあがった、鈴音のそれとよく似た円らな瞳が顔を覗かせる。


「グスッ……、姉さん……」


「よし、これで綺麗になった。

 けどこうして見ると確かに姉妹って感じ。目とか私そっくりだもの。

 ふふっ、何だか嬉しいな」


 鈴音は美鈴の頬をそっと撫で、視線を横へずらしした。


風音かざねちゃんも、久しぶりだね」


「……鈴音お姉ちゃん」


「ちょうど十年ぶりになるのかな。

 見た目は……あまり変わってないみたいだけれど」


 鈴音は美鈴の体から離れ、顔を少し寄せて風音の全身を見つめた。


 彼女が異世界へと渡ったのがちょうど十年前。

 ならば大人子供に限らず、外見に相応の変化があってもよいはず。しかし風音の姿は時間が止まったかのようにほとんど変わっておらず、体格は子供のままだった。


「それは……」


 鈴音は目を伏せた。久しぶりにあった鈴音の手前、あまりネガティブなことは話したくはなかったのだ。

 けれど、鈴音は小さく頭を下げる。


「ゴメンね」


「えっ」


「詳しい経緯は分からないけど、風音ちゃんがそうなったはきっと私のせい。

 私が『巫女参り』の日に突然いなくなっちゃったから、風音ちゃんの時間はそこで止まってしまった。違う?」


「それは……」


「ち、違うんだ鈴音。

 これは俺が風音を閉じ込めたせいで……」


 俯く風音の前に、団平が割って入る。


「団平さん……」


「全部、俺が悪いんだ。

 俺が何年も監禁したから、今も風音は子供の姿のままになってしまったんだ。だからお前のせいじゃない。それに今回の『卑奴羅ひどら』の件だって……」


「団平さん、それは違います」


 鈴音はきっぱりと言い切った。


「いやだが俺は危うくこの村を……」

 

「確かに団平さんのやったことは許されることじゃありません。生きて罪を償うべきです。

 でも、この村で起こった悲劇全てが貴方のせいというわけではないでしょう?」


「それは……」


 団平は体の横で拳を握った。


「罪悪感があるのは分かります。でも、貴方が全部の罪を背負ってしまう必要はない。

 貴方は貴方が犯した分だけ、罪を償うべきなんです。そうでなければその罪が嘘になってしまう……違いますか?」


 鈴音はその拳を手に取り、そっと両手を添えた。

 伝わる感触は、柔らかく、そして暖かなもの。


 ふと団平の脳裏には、亡くなった姉が過った。

 もし姉がまだ生きていたら同じことを言ったのだろうか。


「……そうだな、お前の言う通りだ。

 鈴音、すまなかった」


 団平は一筋の涙を流しながら、頭を下げる。


「いいんです。それに」


 鈴音はゆっくりと後ろを振り返る。

 そこには左肩を押さえながら立つ英人の姿があった。


「何でも背負っちゃう人は、もう一人いるから」


「……鈴音さん」


「改めてありがとうね、この村のために戦ってくれて。

 おかげでヒュドラは消えてみんなも生き残った。さすがに元通りの日常、とはいかないだろうけど……でもこれは私たちの問題。

 本当に、ありがとう」


「……鈴音さんの協力があったからこそですよ」


 鈴音の言葉に、英人はぼそりと答えた。

 しかし鈴音は首を横に振って、


「それでも、だよ。

 君がここに立ってそして魔力が底を突くまで戦ってくれなきゃ、私はこうして現れることが出来なかった。

 正真正銘君の頑張りが、この村を救ったの。

 だからね……」


 そう言い終えると鈴音は胸の前で両手を握る。

 まるで何かに祈りを捧げるように。


「――今度は私が、この村を救わなきゃ」


 次の瞬間、鈴音の身体は光を放ち始める。

 『変換』された魔力だ。


「――ッ! ダメだ!」


 その様子を見た英人が、すぐさま鈴音の下へと駆け寄った。表情は焦りそのもの。

 当然だ、彼女は今自身の存在を再び魔力へと再『変換』しているのだから。


「ゴメンね。これはもう決めてたことなんだ。

 まだヒュドラの毒が残っている以上、誰かが浄化しないといけないから」


「なら俺の『再現』でも!

 このままだと鈴音さんの姿と自我が……っ!」


 英人は必死に訴えるが、鈴音は首を横に振った。


「ううん、ダメ。

 効率はいいんだろうけど負担が大きいし、時間がかかっちゃう。何せこの伊勢崎の地には、ヒュドラが溜めた900年分の毒があるわけだしね。

 だから私がこの地に残って毒を『変換』し続けるのが一番いい。

 だって私、もう死んじゃってるし」


 優しく微笑む鈴音。

 腹を括った時、彼女は決まってこの表情をする。

 こうなったらもう梃子でも動かない。


「鈴音さん……」


 そして英人には、それが痛いほど分かっていた。


「だから、最後は私に任せて欲しいな」


「……はい」


 目を無理やり閉じ、英人はゆっくりと頷く。

 それを見た鈴音は満足そうにニッコリと笑った。


「ありがとね、英人君。

 ……さて! 早いけど、もうお別れかあ!」


 鈴音は再び清川家の三人の方へと振り向く。


「鈴音……お前、何を……」


「みんな、まずは謝らせて。実は私、もう死んでるの。

 この姿も実はもうじき消える幽霊みたいなものなんだ」


「そんな……! 鈴音お姉ちゃん!」


 風音は鈴音へと駆け寄って抱き着こうとするが、霞のように通り抜けてしまう。

 先程まで触れていた筈なのに、もうそれが叶わない。その現象が三人に鈴音の死んだという事実を実感させた。


「うう……鈴音お姉ちゃん……!」


 風音はボロボロと涙を流し始める。


「ゴメンね風音ちゃん、勝手にいなくなっちゃて。

 でももう大丈夫だから。この村に風音ちゃんを縛り付けるものはなくなったから。

 だからもう、子供でありつづけなくたっていい。風音ちゃん自身の意思で生きて」


「ヒグッ……、う、うん……」


 涙を拭いながら、風音はコクリと頷く。


「おねーさんとの約束だぞ?

 それに、団平さん」


「ああ……」


「さっきも言いましたけど、あんまり無理しちゃダメですよ?

 風音ちゃんも心配しますから。

 きっちりと罪を償って、ちゃーんとしたお父さんになってきてくださいね?」


「ああ、そうだな……」


 鈴音の言葉に、団平は力強く首を縦に振った。

 その頬に、大筋の涙を流しながら。


「……そして、美鈴ちゃん」


「はい……」


 その声で呼ばれ、美鈴は一瞬ドキリとするが、すぐに覚悟を固める。

 なにせこれが初めてあった姉からの、おそらく最後となる言葉なのだから。


「ありがとね、生きていてくれて。

 多分、苦しいことも辛いことも沢山あったんだと思う。でも、生きててくれて本当に良かった。

 おかげで私は今、報われている」


「姉、さん……!」


「だからこれからも生きて、美鈴ちゃん。そして出来れば、幸せになって欲しいな。

 私が羨ましいと思えるくらいに」


「はい……なります……! 姉さんの分も、絶対に……!」


 美鈴は両手で口元を押さえ、コクコクと頷いた。


「もー私の分もだなんて大げさ。美鈴ちゃんの分だけ幸せになってくれればいいのに。

 さて、最後に……」


 鈴音は英人の方へと振り返る。


「英人君」


「……はい」


「今にして思えば、君にはお世話になりっぱなしだったね。死んだ後もそうなるとはさすがに思ってなかったけど。

 でも、だからこそこれ以上私の都合で君を縛りたくない」


 鈴音は一歩、英人に近づく。


「鈴音さん……」


「私としてはね、英人君。君には戦いなんかせずにもっと自由に生きて欲しかった。

 もう何かを背負うことなく、気楽にこの世界での人生を謳歌して欲しかったんだよ? 多分、『英雄』の皆だってそう思ってると思う。

 だってせっかく生き残ったんだもの、その位の資格、君にはあるはず」


「……」


 鈴音の言葉に、英人は何も答えない。

 それはある意味、自分の考えを変えないという決意の表明でもあった。

 その姿を見て、鈴音は呆れたように小さくため息を吐いた。


「……でもこの世界での君を見てきて、それが難しいとつくづく思ったわ。英人君って本当、お人好しすぎ。

 この世界に来てからますます拍車がかかってるんじゃない?」


「好きでやってることなんで、こればかりは」


 鈴音の困り顔に、英人は僅かにほほ笑んで返した。


「ああもう……! だったらこれだけは約束して。

 英人君、貴方は自分の好きなように戦い、そして誰かを助けなさい。それも助けたい人をね。

 いい?」


 鈴音は人差し指を立て、ずいっと英人に詰め寄る。


「……はい、約束します」


 少し狼狽えた後、英人は大きく頷いた。


「よし! 言質とったぞー。

 これで破ったら、おねーさん祟ってやるからなー」


「……お手柔らかにお願いします」


「ふふっ、じゃあね英人君。

 それにたまにでいいから、ここに会いに来てくれたら嬉しいな」


「はい、必ず」


 英人が答えると鈴音は満足そうに『変換』の準備へと入っていく。


 集中していく魔力と比例するように、消えていく姿。

 彼女は今から、この地に残った毒を浄化し続ける術式そのものに変化するのだ。

 そしてその術式は『神域』全体に薄く広がるため、その中に人の姿や自我というものは存在しえない。ただその土地を浄化し続ける機構システムとして残り続ける。


 でも。

 それでも。


(……想いだけは、しっかりと刻み込むから)


「鈴音……」


「鈴音お姉ちゃん……」


「姉さん……」


 団平たち三人が、消えゆく鈴音の姿を見つめる。

 皆が一様に大粒の涙を流しながら。そんな彼らを、鈴音は微笑みながら眺めていた。


(皆には失礼かもしれないけど、こういう時に泣いてくれる人がいるというのは嬉しいな。

 ……お父さん、お母さん、そしてみんな)


「さようなら!」


(清川の家に生まれて、よかった……!)


 次の瞬間、光に包まれた鈴音の姿は一気に霧散していく。

 『神域』全体へと広がる、魔力のこもった術式。それらは淡く輝く光の粒に形を変え、荒れた土地に優しく降り注ぐ。

 まさしく季節違いの粉雪であった。

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