神なるもの⑮『瞼を閉じれば』

――もうどれくらい、この怪物を殴っただろうか。


「……団平さん、もうやめた方が。

 さすがにこれ以上は死んでしまいます」


 振り上げた左拳に、政子がそっと手を添えた。


「はぁ……、はああああっ……!

 ふぅ……」


 息も絶え絶え、さらにはしわじわと拳に痛みが襲い掛かってくる。

 これが、本気で人を殴るということだろうか。


「ふう……、はぁ……」


 団平は右手で顔の汗を拭い、地面に倒れている登美枝に視線を移した。

 顔は赤く腫れ、鼻と口からは血が出したまま白目を向いていた。だが、息は微かにある。どうやら気絶しているだけの様だ。


「お父さん……」


 背中越しに、風音の声が耳に入ってきた。

 ある意味では、今一番話しかけて欲しくなかった相手。


「ごめんな……」


 だから今の団平には、この一言だけが精一杯だった。

 団平はゆっくりと立ち上がり、引きずるような足取りで歩き出す。その先にあるのは、『神域』。


 今まさに『卑奴羅』がその巨体を揺らして大暴れしている現場だった。


「団平さん、どこに行くつもりですか?」


 体を割り込ませるように、政子が団平の前に立った。


「……止めないでくれ。

 もう、こうするしかないんだ」


「まさか、生贄に――!」


「女ではないが、俺だって清川家の血を継いだ人間だ。

 全力で頭を下げれば、もしかしたらあの化け物も俺一人だけで満足してくれるかもしれない」


 そう言って団平は政子の体をそっと横にどかし、再び歩き始めた。


――そうだ、最初からこうすればよかったんだ。


 30年前の姉の時も。

 10年前の妻の時も。

 最初から、自分が進んで犠牲になる覚悟があれば――そう思い歩を進めた時、何かが、腰のあたりに抱き着いた。

 団平は歩みを止めて後ろを振り返る。


「風音……」


「お父さん……」


 風音は瞳から大粒の涙を溢れさせ、ゆっくりと首を左右に振った。

 か弱いなりに、全力で団平の体を押さえつけようとする両手。団平は不思議と、それを力づくでほどく気にはなれなかった。


「……放して、くれないか」


「グスッ……ひゃ、ひゃだ」


 涙声で、風音は答えた。


「……」


「イヤだ。死んじゃ、ダメ。

 私を……一人に、しないで」


 さらには腰を押さえる力を一段と強める。


「頼む、止めないでくれ。

 俺はもう、お前の父親でいる資格がないんだ」


「お父さん……!」


「村長が言っていた通り、俺は美鈴みすずを脅し、そして無理やり生贄にした。

 それに美鈴の友人である八坂やさかという男に関しては……俺が殺したも同然なんだ」


 団平は目を瞑り、絞り出すように己の罪を告白した。


 娘の為、と言えば聞こえはいい。

 しかし実際にやっていることは脅迫に殺人、死体遺棄と凶悪な犯罪ばかり。すぐにそんな卑劣な行動に頼ってしまう己の弱さに団平は辟易とする。


「いえ、美鈴さんと八坂さんは生きてます」


 しかし政子の言葉を聞いて、団平はハッと目を開いた。


「……な、何だって?」


「そもそも我々がここに来た理由は、美鈴さんが突然攫われてしまったからです。

 死んだはずの八坂さんの手によって」


「い、いやしかし……俺はこの手で彼の遺体を埋葬したんだ!

 生きている筈は……」


「ですが、神社に現れたのは紛れもなく彼でした。

 そして一撃で岩夫を気絶させ、美鈴さんを連れてどこかへ去ったのです」


「な……!」


 団平はその事実に唖然とした。

卑奴羅ひどら』のことといい、今夜はあまりにも団平の想像を超えた事象が起こりすぎだ。


――――ドドドドドドドドドドドドッ!!!!


「こ、今度は何なんだ!?」


 さらには突然、これまでとはまるで趣の違った轟音が辺りに響いた。

 団平は慌てふためきながら周囲を見回すと、凄まじい光景が目に入った。


「あれは……水!?

 地下水が、噴出でもしたのか?」


 それは巨大な水の壁。

 その高さは数メートルにも及び、『神域』を丸ごと囲むようにして出現した。


「す、すごい。まるで水の神様が現れたみたい。

 それに……お父さん! あれを見て!」


 風音がその人差し指で『卑奴羅ひどら』の周囲を舞う稲光を指し示す。


「あれは……人影?」


 暗いのと遠いのであまり良くは見えないが、稲光の中心に黒い人影のようなものが見えた。

 どうやらその人影は『卑奴羅ひどら』の巨体に向かって果敢に突進しているよだった。


「きっと『卑奴羅ひどら』と戦ってくれてるんだよ!」


「まさかそんな……」


 そう呟きながらも、団平は再び『神域』の方角を眺めた。

 もしあの化け物と戦う人物がいたとして、それが一体誰なのか――そう考えた時、団平の脳裏には一人の人物が浮かび上がった。


「まさか、あの男が……?」


 それは美鈴の友人である、八坂やさか英人ひでと

 この村に来てから、何かと団平を悩ませる男の名だった。


「……私、行ってくるよ」


 団平がその光景を見つめていると、風音が突然パタパタと自宅へ急ぎ始める。


「お、おい風音、お前一体何を」


 手を伸ばし、その後ろ姿に声を掛ける団平。

 すると風音は立ち止まって後ろを振り返る。


「だって藤太とうたには、武器が必要だったでしょ?」


 それは団平が初めて見る、決意のこもった表情だった。





 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




『ようし、見たか契約者よ! これぞ神器である私が持つ力! このあたりの水脈、地下水の類は既に支配下さ!

 はははヒュドラの毒など完璧に防いで見せよう!』


 水の壁を展開したミヅハが、念話を通して英人にやかましく語りかけた。

 どうやら自身の力にはかなりの自信があるらしい。

 とはいえ口だけのことはあり、水の壁は山の間を伝って流れてくる毒を綺麗にシャットダウンしていた。これで少なくとも民家のある場所まで毒が流れ込むことはない。


「ほう……これは水の神器か。

 なるほど、契約を交わす程の者ならこの実力、納得できる」


「そりゃどうも……ミヅハッ!」


『あいよっ』


 念話での合図と共に英人は木から飛び上がり、ヒュドラへと向かっていく。


「小癪なっ!」


 しかしその手を阻もうと、ヒュドラは表皮から大量の触手を展開した。

 数十にも及ぼうかという毒槍の束が一斉に英人の体に襲い掛かる。


「今ぁっ!」


 しかし英人がそう叫んだ瞬間、地中から突然水の柱が噴き出す。

 それはたちまち龍を形作り、触手の群れを一掃した。


「何っ!?」


 驚愕するヒュドラ。

 だがそれをよそに、英人は迅速に次の攻勢へと移った。


「おおおおっ!」


 英人は水龍の頭部に乗りってその勢いのままヒュドラへと一直線に突っ込み、『大鬼王の剛腕』で思い切りヒュドラの頭部を殴りつけた。


「グフッ……!」


「まだまだっ!」


 英人はだらしなく開いたヒュドラの口に、大量の水を流し込む。


「ゴゴゴフッ、ゴゴッ!」


「溺れ死ぬか……それとも」


 さらにそこへ雷魔法の追加。

 当然その雷撃は体内の入った水を伝い、内側からヒュドラの肉を焼き始めた。


「ゴゴグガアアアアアアアアアッ!!!!!!」


「焼け死ぬかだ」


 まるで地割れでも起こったかのような、苦痛を伝える咆哮。

 あまりの音量に間近にいる英人の鼓膜が破れそうになるが、必死に耐えて雷撃と水を流し続ける。


 しかし、


「オオオオオオオッ!」


『マズい! こっちが押されてる!

 ヒュドラの奴、凄まじい勢いの毒でこっちの水ごと吐き出す気だ!』


「何ッ!?」


 瞬間、水の勢いは止まり、代わりに口からは大量の毒が吐き出された。


「くっ……!」


 英人は回避が間に合わず、ほぼ全身にその毒を浴びる。

 そのまま毒の川となっている地面へと落下した。


『契約者!』


「つつ……いや、大丈夫だ……『全身修復』。

 それより足場頼む」


 英人は再び自身の体を毒に侵される前に戻し、水で出来た足場に飛び乗った。


「ほう……先程といい、我の毒を治すか。

 いや、貴様の場合は元に戻すという表現の方が正しいか」


「はっ、さすがに二度も見せればバレるか」


「それにその手段を選ばぬ戦い方……増々あの男を思い出す。

 人間共に『英雄』などと持て囃されたていた、あの男を!」


 言って、ヒュドラは目をギラつかせた。

 どうやらかなりその男とやらには思う所があるらしい。


「先代の『英雄』のことか」


 その男とは、今から千年ほど前にこの世界から異世界へと渡った人間。

 卓越した力を持ち、『魔王』を倒して『異世界』に平和をもたらした伝説の『英雄』。

 英人たち5人が異世界に召喚されたのも、この伝説の『英雄』の故事に倣ったことによる。


「しかしあの男といい、貴様といい、不可解なものよ」


「……あ?」


 英人が眉を顰めると、ヒュドラは笑って続ける。


「だってそうだろう? 凡百な者どもの為に命を賭して戦うなど、まさに愚行の極み。

 我はずっと見てきたぞ、人間共の愚かさそして醜さ。特にこの村などその極みであった。

 だというのになおも貴様は戦うという、その馬鹿らしさよ!」


「馬鹿らしくて結構!」


「な、何ぃ……?」


 英人のきっぱりとした物言いに、ヒュドラは瞳を僅かに凝らした。


「これでも好きでやってるんでね。

 先代の戦う理由なんぞ知らんが、今の俺にはこれで十分」


「ぬぅぅ……!」


「それに、人間悪い部分もあればいい部分もある。

 確かにそれはごく少量で、吹けば飛びそうな程に朧げだが……それでもこの頭にはちゃんと残ってんだよ、マヌケなお前と違ってな」


 英人は瞼を閉じた。

 浮かび上がってくるのは――最愛を誓った人、そして苦楽を共にした4人の仲間たち。その後ろには、もっと沢山の人たちも。


 怖れは、ある。

 だがそれは、決意を止めるには到底足りない――だから、戦う。

 命を賭して。


「貴様ァッ!」


「いくぞ――!」


 英人は瞼を開き、再びヒュドラに向かって跳躍した。

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