9-6 夜更けの逢瀬
精霊が、ざわついている。誰かが彼らに働きかけて万象の理に手を加えたらしい。心当たりは言わずもがな、だが。
彼の心理を理解できないわけではない。自分と近しい願いを抱える少女に、自分が望みを託した少女に、力を貸すということが何を意味しているのか――解らないなんて子ども染みた言い訳を、するつもりはない。
だけれどそれを素直に感謝するには、自分はあまりに多くを知りすぎている。
今日最後の書類に判を押し執務室の明かりを落とした頃には、もう日付が変わろうとしていた。手燭に持ち替え廊下へ出た黒曜姫は、明かりの灯った壁際に
「……
拍動が上がって声がわずかに震えた。今が深夜で廊下が薄暗くて良かった。そうでなければ、頰に差した熱を気づかれてしまっただろう。
彼は優しく笑んで、黒曜を見返し言った。
「お疲れさまです、黒曜姫様。遅い時間ですが、少し庭で話しませんか?」
何の話だろうとか、いつも一緒の連れはどこにとか、気になることはたくさんあるのに、うまく言葉が出てこない。
俯く彼女に歩き寄り、シェルシャは右手を差し出してにこりと笑った。
「たまには二人きりで話すのもいいでしょう?」
その誘いの引力を黒曜が拒めるはずがなかった。彼女は息を詰めて頷き、彼の手に自分が携えていた明かりを手渡す。シェルシャは一瞬だけ不思議そうに視線を落としたが、何も言わずそれを受け取って歩き出した。
差し出されたてのひらに、躊躇いなく自分の手を重ねるほどには子どもになれず。かといって、想いを押し殺し器用に立ち回るほどには大人になりきれない自分が嫌で、複雑な胸中のまま黒曜はシェルシャの後に随い庭に出る。
空には銀月と銀砂の星辰。夜光を照り返す黒水晶の噴水まで行くと、シェルシャは手に持っていた明かりを近くの樹に掛け、足を止めた。
「カミル様は、しっかり叱っておきましたよ」
振り向きざまに笑いながらそう報告されて、黒曜は一瞬絶句し、そして声を上げる。
「なんの話ですのっ」
「あまり黒曜様をいじめては駄目ですよ、って。年齢ばかり重ねて、いまだに子どもみたいなあの性格は、困りものですね」
優しく穏やかな口調だが、評価はなかなかに辛辣だ。十人が見れば十人全部が認めざるを得ないほどの美貌を持ちながら、この
初めて会った時から変わらず彼は、静かで、穏やかで、率直だ。だからだろうか、どんなに心が波立っても、重く塞いでも、彼の声を聞くと全部が解けてしまうように思うのは。
無意識に眉を寄せたのは、涙を堪える自衛の所作だ。
甘えてはいけない相手だと、ずっと昔から決めている。それでも声が震えるのを止めることができない。
「本当にっ、困りますわ。いつもいつも、ご自身の価値観で物事を、かき回してくださるんですもの……! わたくしが何を言ったって、反省してくださいませんしっ」
まるで八つ当たりみたいな言い方になってしまったと気づいたが、シェルシャは気分を害した様子もなく頷いて言った。
「あれでも反省してるんですよ、……あの人なりにね」
だからっていきなり殊勝になられても逆に気味が悪いから、そう言って彼は柔らかく笑う。その言には納得せざるを得なくって、でも納得したくなくて、黒曜は拗ねたような声で呟いた。
「それは、そうですけれど。悪意はないと、わたくしだって解っておりますわ。でも、あの方が関わるといつも、別れが伴うのですもの」
ふわりと広がった大きな翼が小さな身体を包み込んだ。
「泣いていいですよ、黒曜様。僕は見なかったことにして、しばらくこうしていますから」
「……子どもみたいに、甘やかさないでくださいませっ」
翼の陰でくぐもった声が虚勢を張るのを、シェルシャは聴かない振りをする。慰めや励ましの言葉なら幾らでも思いつくが、そうやって感情の堰を砕いてしまったら、次からどんな顔で彼女と会えば良いか解らないからだ。
二人の間に存在する暗黙の禁忌がいつまで続くのか、当人たちもまだ、知らない。そんな束の間の逢瀬を闇のとばりに抱え込み、夜は静かに更けてゆく。
そして。
明くる朝は大賢者の予言に違わず、抜けるような快晴だった。
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