7-6 掛け違う想いと願い
「
常にない固い声で黒曜姫が書庫に来たのは、日付が変わろうとしている夜更けだった。カミルはペンを走らせる手を止め、紅い両眼を彼女に向ける。
「向こうが勝手に此処へ出入りして、勝手に話して行くだけだろう」
「開き直らないでくださいませ」
溜息と共に吐き出し、彼女は積み上げられた本の間を器用にすり抜けて、奥に座るカミルの正面まで来た。大きな両眼と細い眉が今は怒ったようにつり上がっている。
「……何年振りだ? おまえがそんなに怒っているのは」
揶揄するように言った途端、少女のほっそりとした手が伸びて、ぐいぃと彼の襟を掴んだ。
「殴りますわよ?」
「嫁の貰い手がいなくなるぞ」
「そうしたら、カミルさまが貰ってくださいますわよね?」
「殴られたから嫁に取れとは、どんな道理だ」
「嫁入り前の女性が手を上げてしまうほどの意地悪をなさった、責任ですわ?」
一瞬、息継ぎのような沈黙。テンポ良い台詞の応酬が不自然に途切れ呼吸を乱された黒曜を、カミルの両腕が抱え込んだ。
「何をなさいますのっ」
裾の長い衣の間にすっぽり埋められ抗議の声を上げる彼女の髪に、軽く唇を落としカミルは甘く囁く。
「怒ってばかりの泣き虫ナティ。何がそんなに不満なのだい?」
「不満なんてありませんわ……!」
強く言い返したところで、台詞の最後が幾分か湿っているとカミルが気づかぬはずもない。彼は
「監獄島に関わらぬという決意は、おまえが自分に課した誓約だ。監獄島へ渡るという決意は、あの娘が自分に課した使命だ。私はどちらの味方でもないが、沈黙を貫くべき理由もない」
「……わかっていますわ、カミルさま。あなたは、ご自身が面白いと思われることにしか協力しませんもの。わたくしの誓いはわたくし自身の事情、翻したとしても国が不利益を被るわけではない。とのことも、とくと理解しておりますわ。なんて慈悲のない、頑なな女だと思ってくださって結構ですのよ」
白い守護者の腕の中、少女は震える声で心を吐き出す。
カミルの指がつぅっと彼女の頬を撫でた。
「本当は協力してやりたいのか」
「いいえ」
黒曜の返答は明瞭だ。カミルは黙って目を伏せた。長い指を、愛撫するように彼女の黒髪へ絡ませる。
「建国王は、馬鹿な男だった」
不意に耳元でそんな台詞を囁かれ、少女の肩が震えた。
「おじいさまを侮辱するのは、カミルさまでも許しませんわよ」
噛みつくような勢いで言われて、白い
「馬鹿だったが、あれは愛し方を知っていた男だ」
少女の答えは沈黙。カミルの言葉だけが独白のように続く。
「私なら」
昔語りを聴かせるのと同じ、囁くような声音で。
「世界を従えることが出来る」
甘く優しく、鼓膜を震わせる。
「だが。全てを従えた所で得られぬものは在ると、識っている」
全身を包んでいた温度が離れた。息苦しい布から解放され、黒曜は大きく息を吐いて眼前の守護者を見上げる。
「サイヴァが誰より愛したおまえだ。私が永遠を費やそうと決して知り得ぬ方法を、おまえは奴から譲り受けただろう。金や力では得られぬものを得る方法を、知っているだろう。ナティ、おまえ自身はこのままでいいのか」
「愚問ですわ、カミルさま」
黒曜がまっすぐ彼を見上げる。大きな
「わたくしは、おじいさまではありませんの。わたくしはわたくし以外の誰にも、なれませんのよ」
「そうか」
薄く笑み、カミルは身を屈めて唇を重ねた。軽いキスを続けて頰、額、髪に落としていく。目を閉じて身を任せる彼女の耳元に囁いて尋ねる。
「聴く耳すら持たぬのは、理由を知ればそれが楔になると理解しているからか。だがナティ、それほど難しい事なのか?」
「灰竜さまには分かりませんわ」
答えた声の調子が拗ねているようで、カミルは小さく笑った。
「好きにしなさい、頑固者のナティ。もう夜更けだ、明日に備えて寝た方がいい」
「ええ、言われなくとも」
お互い自然に唇を合わせ、それから黒曜は足早に書庫を去って行った。
夜更けの王宮は、ただただ静まり返っている。この静けさを揺るがす嵐の到来を予見していた者は、カミルの他に多くはいなかっただろう。
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