第176話 勉強しろ

 京介はドラニキから目を上げ、ウサノフを見た。

「いまさら勉強しろ、か」

「おれは教育者だ。勉強しない若者は、いつでも気になる」

 京介は新たなジャガイモパンケーキをフォークで持ち上げ、かぶりついた。

 もぐもぐと言う。

「かつてのおれは、勉強が嫌いだった。勉強するだけの17歳はまちがっている、そう信じ、ここまでやってきたのだ」

「いまはちがうのか」

「いやらしい話だが、一生食っていける見込みが立った。勉強は大事だと、いまは思っている。だがおれには必要ない」

「なるほど。18歳でラノベを引退し、それまでで得た莫大な収入で残りの人生を遊んで暮らす。おまえの決めた道ならば、それもいい」

 残りのジャガイモにサワークリームをのっけてあげながらつづけた。

「退屈な人生だろうがな」

「おれの人生だ。どう生きようとおれの勝手だ」

「人気を博した子役がドラッグに溺れる。ハリウッドあるあるだ。なぜこのあるあるがあるあるたり得るのか。湯水のように金を使い、ありとあらゆる娯楽に興じ、ふと気づけば、人生の終点はまだまだ先。つまり、やるべきことがなくなったからだ」

「だから死を望むのか」

「勤労は尊いというのは、嘘だ。生きるために働くのは、尊くもなんともない。働くために生きるのも、つらい人生だ。だが最も恐れるべきは、やるべきことがなくなったあとも生きつづけなければならない人生だ」

「それと勉強とになんの関係があるのだ」

「おれは全合成が趣味なんだ。有機化学はおもしろいぞ。一生飽きることはないし、もちろんおれ程度の者が極められるはずもない。おまえも、出来合いのナイロンマンじゃなく、自分で造って戦わせてみたいと思わないか」

「思わない」

「なぜだ」

「そもそも知識がない」

「そうだ。だがおれは、その知識を持っている。なぜなら勉強したからだ」

「興味もない」

「知識がないからだ」

「…………」

「いまさらラノベをやめろとは言わない。ラノベをつづけながら、時間を見つけ、1日1時間でも勉強する。そう約束してくれたなら、おまえに勝ちを譲ろう」

 京介の食べる手が止まった。

 同時に世界中で円売りの手が止まった。

「なぜだ」

「おまえは教師を誤解している。まあ誤解されるような連中ばかりだったので自業自得とも言えるがな。おれたち教師にとっては、〈バトル〉の勝ち負けなど、どうでもいいんだ。教頭の個人的な思惑も、やはりどうでもいい。勉強すると宣言しさえすれば、ほかの心ある教師はみな、喜んでおまえに道を譲るだろう。われわれ教師が塔での最終〈バトル〉を教頭に進言したのは、最終決戦にふさわしいからという理由だけではない」

「まさかそのために、総工費1兆円のバトルタワーをわざわざ建設したのか。各階にひとりの教師を配し、楽しみながら勉強させるために」

「おまえは手のかかる生徒だ」

 ウサノフは声を出して笑った。

「さあ、勉強するか」

 そのころ世界は、政府発表の約20倍の期待感に包み込まれていた。

 日本の個人投資家がチャートをにらみつけながら叫んだ。

「勉強しろ! 勉強してくれ、岸田京介!」

 すでに30億ドルもショートさせているドイツ銀行のデリバティブ・トレーダーが叫んだ。

「勉強するんだ、岸田京介!」

 国際宇宙ステーションでは、船外活動中の美人宇宙飛行士が青い宝石のような地球を見下ろしながら祈りのポーズを取っていた。地球は美しい、だが不動産投資はもっと美しい。

「お願い、京介くん。勉強して」

 モンゴルでは遊牧民が東の空を見上げ、「勉強しろよ」と言った。ヒツジがメエと鳴いた。アフリカ大陸の某国ではデルタ部隊が倒壊した建物の壁に背を預け、弾薬を装填しながら言った。

「勉強しろよ、岸田京介! ゴー、ゴー!」

 ピックアップトラックに山積みの出稼ぎコスタリカ人がラジオを耳に当てながら言った。

「勉強しとけよ、岸田京介」

「勉強しろ、岸田京介」

 ナマズ髭のウサノフが、組んだ手に顎を乗せ、じっと見つめる。

「おれは」

 世界中が耳を傾ける。

「おれは」

 そのとき。

 杭打機のような強烈な打撃音とともに、ベラルーシの青空が大きくたわんだ。

 京介とウサノフは同時に見上げた。打撃音は一定のリズムで、ときにシンコペーションを交えつつ、青空を波打たせる。

 青空に亀裂が走った。

 ウサノフが立ち上がり、言った。

「目覚めたか!」

「だれが目覚めたのだ」

「青木だ。1階上の18階を守る教師だ」

 青木の名を聞き、タヒチでの瀉血治療の記憶が蘇った。

「ヤブ医者の青木なら、おれが倒したはず」

「あの青木の兄だ」

「兄、だと?」

 青空の一部が砕け散った。ライ麦畑に青空の破片がばらばらと落ちた。

 人間の足がのぞいていた。

 京介は足を見上げ、ちょっと巨大すぎるような気がした。だがライ麦畑はテーブルから遠く離れており、農園には足の大きさを測る基準となる建物などが一切ないので、スケール感がまったくつかめなかった。

 巨大であろう足が穴の奥に引っ込み、またもや重機的な効果音および振動とともに穴の裂け目をがしがしと蹴りつけ、広げはじめた。

 ややあって、見覚えのある入道頭がぬっと穴からのぞいた。逆さまの顔が京介を見つめ、にたあっと笑った。

 顔が消えたあと、巨体が天井から飛び降り、大地を揺るがした。

 前転で衝撃を吸収しライ麦をなぎ倒したあと、むっくりと起き上がった。白衣の土を払い、首から提げた聴診器を調節した。製薬会社の営業の死体を腰蓑のようにぶら下げている。

 京介は腰を浮かせつつ、ウサノフに言った。

「兄も医者なのか」

「やつは心理学者にして代替医療の世界的名医だ。自分自身と対話し自己治癒力を目覚めさせる催眠療法によって、これまで数万人のガン患者を完治させてきた。もちろん保険は利かない」

「またおれを治療するつもりなのか」

「わからん。だが勝ち目はない。それだけは確かだ」

「ならば逃げるまで」

「おっと」

 ウサノフが京介の肩をつかんだ。強引にテーブルにすわらせる。

「おれはまだ、おまえの答えを聞いていない」

「なんの話だ」

「おまえはおれに負けたんだぞ。負けたやつに塔を登る資格はない」

「では勉強しよう。〈バトル〉が終わったあとで、必ず」

「本当か? おれの目を見て言え」

 青木兄がジャガイモを蹴散らしながらずんずん向かってくる。すでに表情もうかがえる距離で、最悪なことに浮かんでいるのは憤怒の感情だった。体長は10メートルを超えている。

「弟の仇じゃあ!」

 京介はウサノフの目を見て言った。

「勉強しよう」

「信じていいんだな?」

「勉強する」

「本当だな? ちょくちょく進捗を確認するぞ? 毎週小テストを自宅に送るぞ? もし嘘をつけば、どうなるかわかるな? この様子は全世界に生中継されている。約束を破るやつは、最低だ。一生だれからも信用してもらえなくなる」

「勉強する。まずは1日30分、夕食の前に」

「わかった」

 ウサノフは手を離し、ぽんと胸をたたいた。

「おまえの勝ちだ」

 世界中が歓喜に沸いた。

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