第172話 ――

 色葉は300階にたどり着いた。

 孤独なエレベーターひとり旅のなか、はじめての感情と向き合っていた。複数の男性と自由な関係を持ちたいという気持ちがいまも渦巻いている。明らかに自分自身の感情ではなく、これまでのラノベ体験から感情を遠隔操作する教師があらわれても不思議ではないと思ったので、いちおう抵抗できているのだった。いまのところは。

 もちろん、相手はひとり。

 途中、なぜか287階に止まった。エレベーターに問いただすも、無言で扉を開くのみだった。半分ほど開くと、血まみれの中年男性がひとり、ゾンビのようになだれ込んできた。色葉は悲鳴を上げた。男は色葉に覆い被さり、結果的に押し倒した。

 どうにか這い出し、男の状態をさまざまなレベルで確認する。まず、死んではいない。気絶しているだけだ。そしていちばん低いレベルでの状態として、丁寧に八二分けされていたであろう残り少ない髪が乱れに乱れ、不織布のようにもつれていた。バーコードならぬQRコードだ。

 前歯が欠けた顔を見る。見覚えのある顔だった。ネウマ譜の真の旋律を現代に蘇らせた偉大なる音楽教師・鈴木だ。癒やしの定番と思い込んでいたグレゴリオ聖歌が、まさかあのようなノリノリの調子で歌われるものだったとは。蒙を啓かれたのは1回目の授業だけで、あとはひたすら退屈な合唱の練習がつづいた。

 エレベーターのドアが閉まる寸前、何者かが隙間に手を差し入れた。閉じ損なったドアがゆっくりと開く。カトリック教会のまわし者だろうかと目を向ける。男はやはり血まみれだった。だが明らかに、おのれの血ではない。肩で息をつき、反り身のナイフを手に、エレベーター内に一歩踏み入れる。フルプレートアーマーの左胸には、だれでも一度は目にしたことがあるであろう有名なロゴが刻印されていた。

「このたびは弊社――をご指名いただきまして誠にありがとうございます」

「指名していませんけど」

「弊社――のミッション、それはすべてのラノベが最大限のポテンシャルを発揮できる未来を創造すること。われわれはラノベの革新のため、より地球に優しい製品を開発し、多様で国際的な〈ハーレム〉の発展を促し、ラノベコミュニティ全体にポジティブな影響を与えつづける。それが弊社――!」

「実名は言わないほうが」

「この教師はぼくが倒しました」

「なんとなくわかりましたけど」

「感謝の言葉は結構です」

「あの」

「ということで、ぼくとお付き合いしていただけますか」

「いいえ」

「そうですか。まあ、ぼくはイケメンにして英語と中国語を自在に操る外資系企業に勤める25歳の年収800万ではありますが、人の心までは動かせない。それに〈ヒロイン〉はほかにもいます。春ちゃんもいいですね。上原アリシャもセクシーだ。ぼくは決して選り好みはしない。ただ、ライバルが多い。多すぎるのだ」

「競合他社ですか」

「やつらはなにもわかっていないのだ。弊社――の有する技術力、販売展開力、確固たるブランドイメージを。だってあの有名な――も愛用しているんですよ? ――が使っているのなら、みんな欲しがる。そうでしょう? みんなぼくを欲しがる! 大学へ営業に行ったときのこと、話します? すごかったんですよ、女子大生全員が憧れの眼差しで」

「――の製品はわたしもよく買いますし、――は素敵な方だと思います。でも」

「これは戦争なんだ! あんな腐れ日本企業の安月給営業どもに〈ヒロイン〉を取られてたまるか!」

 あとで――日本支社へクレームを入れようと考えながら、色葉は血まみれ営業越しにフロアをのぞき込んだ。おそらく数千万はつぎ込まれたであろう大聖堂風の内陣がパノラマ状に展開している。ルネサンス様式風の大祭壇には、5列3段の各間に聖体の秘跡や聖母崇敬、聖人崇敬が厳かに彫刻されている。異端ネタかなにかで戦うつもりだったのだろう。

 ここまで準備しておいて、よもや――に倒されるとは。

「一ツ橋色葉さん、ここで出会ったのもなにかの縁だ。ここはひとつ、弊社――とのエンドースメント契約を! そして一度でいい、ぼくとお食事を!」

「――は普段着は扱っていないんですよね」

「つくりますよ! パジャマだってつくる! ノースリーブのワンピースだって、麦藁帽子だって、向日葵だって、田舎のおばあちゃんだってつくりますよ! 2億ドルでどうです? ほら、小切手も用意してきました! だからぼくと、今週の金曜の夜、月島でもんじゃ焼きを食べてくれませんか!」

 ――の営業ともんじゃデートの約束をし、どうにか追っ払うことができた。――は最低だ。日本支社にクレームの電話を入れたあと、満を持してエレベーターとともに300階を目指す。


   ◇


 ポーン。

 エレベーターのドアがゆっくりと開く。

 いつにも増してゆっくり、かつ思わせぶりな開き方だった。もちろんなにかが待ち受けているからだろう。

 待ち受けていた300階は、漆黒の闇に包まれていた。というより漆黒の闇そのものだった。それ以外に表現できないほどの闇の深さだった。いまさら引き返すわけにもいかないしこの程度の演出は想定内だったので、色葉は一歩踏み出した。

 背後でドアが閉まる。エレベーターが下降し、合わせ目から漏れる光がすうっと消えた。

 足元に気をつけながら、慎重に進む。

 色葉の両側で、音もなく炎が上がった。小さな炎。蝋燭だ。

 道を指し示すように、炎は色葉の前方へ向かい、次々と燃え上がった。

 おそらく教頭先生は、ラスボスとして玉座かなにかに収まっているのだろう。関東第一高校入学以来、一度も目にしたことがない。そしてその正体は、身長4メートルで腰蓑を着けて棍棒を振りまわす一つ目の怪物などではなく、小さな15歳の女の子らしい。そして岸田京介に恋をしているらしい。

 教育とラノベの共存共栄。善と悪の均衡。どっちが善かはともかくとして、われわれが信じるところの究極のラノベ、すなわち完膚なきまでの駄作を目指すのであれば、教頭先生エンドも選択肢のうちのひとつではある。実際、悪くない。総理は『はぁ?』と言い、衆議院を大解散させるだろう。教頭先生エンドで駄作として終え、政府に手を引かせたとしても、その後のラノベ存続の保障はない。まずは教頭先生と対話をし、ラノベの権利をなんらかの形で確保する必要がある。われわれはともかく、信者たちの将来は守られなければならない。〈主人公〉を明け渡す意志がこちらにあると知れば、教頭先生は喜んで対話の席に着くだろう。多少無理な要求でも受け入れるだろう。たとえば中卒ラノベへの通信教育制度とか。

 こんなことを考えるラノベの〈ヒロイン〉が果たして存在しただろうか。

 否。

 そして教頭先生エンドを滞りなく迎えるにあたっては、教頭先生自身、いろいろと解決すべき問題がある。たとえば20年前に関東第一高校を設立したのであれば、当時の年齢はマイナス5歳だ。本人は気づいているのだろうか。それとも永遠の15歳を主張し因果の鎖を無理やり断ち切るつもりだろうか。

 京介の年上好きを知っているのだろうか。

 対話によって魅力を引き出してあげなければならない。つじつま合わせとともに。

 いい子でしょう、わたし。

 ところで日本において色葉のようにまっすぐのびのび育つと、まっすぐのびのび育ち損なった人たちからいろんな目に遭わされる。なぜ唐突にそんなことを言い出したのかというと、いつの間にか色葉の脳を中学時代の思い出が支配していたからだ。

 教頭先生の特殊能力かなにかだろうか。

 抵抗しなければ。

 聞き覚えのある、明らかに情緒不安定な女子の声が脳内に浮かび上がった。

「あーあ、なんであたし平井って苗字なんやろ」

 取り巻きに囲まれ、聞こえよがしに言う。

「平井さん、かわいそすぎです。いっつもあれとペア組まされて」

「替わってくれー。マジやだ」

 あれは中学1年の1学期のこと。

「そうだ、こういうのどう? 次の体育で」

 こそこそ話のあとの大爆笑。

「お金で友達も買えるんやでー!」

「マジで払う可能性あるよ」

「そだ、今日の放課後、みんなで帰ろ? お屋敷まで送迎して、パパに仲いいとこ見せつけるの」

「んで背中には『金持ちビッチ』の張り紙ね」

「かわいそうだよー泣いちゃうかも」

「なんでよ? 親友やん。パートタイムだがね」

 爆笑。

「はーお金持ちっていいよねー。将来の心配もないし」

「いまもめっちゃ平然としてるし」

「心の余裕がちがうんです!」

「オトナよねー」

「てかさー、なんで明らかに嫌われてるのわかってるのに、ちょいちょい笑顔で話しかけてくんの? おかしくない?」

「あの授業態度もヤバいよね。笑いすぎて集中できない」

「ここは日本。アメリカじゃないっての。わかってる?」

「かてきょつけたらええやんなー? 学校好きなの?」

「あれな。その、人間関係を育むってやつ」

「いらんわー。マジいらんわー」

 次の授業までの選択肢。立ち上がり、トイレに行く。本を読む。寝たふりをする。もしくはこのまま平然と前を向いている。なにか行動を起こせば、話のネタを与えてしまう。行動しなくてもネタを与えてしまう。もちろん、本を読んでも頭に入らないだろう。気にしないふりをしても、しっかり気になっているのだ。ではどうすればいいのか。死ねばいいのか。ふつうの子なら、こんな状況に耐えられるものではない。

 わたしはふつうではない。

 庶民とはちがう。まったくちがう。

 わたしは耐えられる。

 なぜならお金持ちだからだ。

 わたしはわが家の庭先以上の、さまざまな世界を知っている。逃げる先の選択肢を無数に持ち合わせている。この中学校がイヤだとひとこと言えば、どこでも好きな学校に転校できる。むしろ中学校そのものをゴミクズのように消し飛ばすこともできる。でもすぐにはイヤとは言わない。なぜならそのように教えを受けてきたからだ。貧乏人も人間である。決して平等ではない、だが人間である。人間として尊重すべきである。どのようなクズであっても。

 わたしは現実というものを直視している。現実を数多く見てきたのだ。日本の政・官・財、ギリシャのエーゲ海、セネガルの人々、ニュージーランドの飛べない鳥、タイの昆虫料理。コロンビアの都市再生。あのケーブルカーから見下ろすスラム街。元気で陽気な人々。ラテンのりが意外なほどしっくりきた。下手くそなダンスも披露した。父はひとり娘を連れ、ふざけ半分に世界を飛びまわった。内面も磨かなければならないということで、アニメコレクションから富野由悠季作品を総ざらいさせられた。なぜわざわざ二本足のロボットで戦うのかは、最後の最後まで理解できなかった。父は迷っていた。娘にどんな教育を与えればいいのかわからないというのが父の本音らしかった。はじめての子であり、四国を目に入れても痛くないほど愛している。だがどう育てるべきかがわからない。とにかく、経験がすべてとは言わないが、見ないよりは見たほうがいいだろうということだ。もちろんガンダムも。

 結局のところ、いじめは勉学に支障を来した。学校側は何度も転校をほのめかした。うちじゃなくても構わないでしょ? ここにも嫉妬があった。父娘は気にしないふりをしつづけた。だが「気にしない」という心の動きは、感情のまま泣き叫ぶよりもたちが悪い。こうして性格が歪み、かたくなになっていくんだろうなと色葉はぼんやり思った。庶民はみな金持ちに嫉妬するものだ、貧乏人はバカの集まりなのだ、と。だがどこへ行こうと、わたしは変わらない。変えられない。

 変えられないはずだった。

 そう、庶民はわたしの人生を変えた。お父様の人生も変えた。一家そろって関東に越してきた理由。

 渋谷をまるごと自宅にした理由。

 父は日本国に復讐したのだ。

 色葉は父の涙を見た。その日から父は、永久に変わってしまったかのように見えた。どこか自暴自棄になった。マクロスシリーズに手を出しはじめた。

 お父様に潰されなくてよかったね、平井さん。

 自動的に顔がほてり、悲しくもないのに涙がにじみ出た。あのときのあれは、二度と思い出したくない。だがご主人様のご意向に反し、長期記憶はじわじわと浮かび上がり、現在の感情を支配しはじめる。思わず頭蓋骨をぱかりと開けて脳を取り出し、バスタブでざぶざぶゆすぎたくなる、みんなを悩ませるあの黒歴史。あの記憶は一生消えない。それにいまとなっては、このどす黒い部分も気に入りはじめているのだ。これが成長というやつなのだろう。社会を知るということなのだろう。

 いじめは決してなくならない。

 だがいじめはダメだ。

 そのとき。

 足元がパッと輝いた。光は色葉の前方へ這い進み、やがて枝分かれし、系統樹めいた光の道をかたちづくった。

「ようこそ、教頭先生のフロアへ」

 少年の声。

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