第166話 11階 同人ファランジュ

 上原が着替えやカット&ブリーチや恋のさや当てなどを楽しんでいるころ、先の階のフロアでは世界に名だたる空想社会学者・勅使河原が準備万端でスタンバイしていた。

 2時間ほどスタンバイしていた。

「ラノベどもはどこでなにをしているのだ」

 社会思想史に新たな一ページを刻む名著にして空前の大ベストセラー『今こそフーリエを読み直す』(関東第一高校出版会)の印税すべてを注ぎ込み完成させたこの空想ラノベ空間、その名も同人ファランジュは、シャルル・フーリエ大先生が大発見した情念引力の法則に支配されている。ここではお行儀のよろしい商業ラノベのルールは一切通用しない。商業ラノベ社会における〈主人公〉や〈ヒロイン〉、〈親友〉、または戦士や僧侶や魔法使いなどのアホな分業によって抑圧されたキャラクター情念はここに解放され、ラノベ男女は気の向くままにジョブをチェンジし、敵味方関係なく、原作完全無視でとっかえひっかえカップリングをこしらえ、〈BL〉や〈百合〉さえも自由に行われる。もちろんセックスも行われる。〈同人〉情念による気ままな性交渉のすえ、やがてすべてのキャラは渾然一体となり、最終的には農業を営む。ラノベの創造主は〈同人〉に飲み込まれ、あきれて筆を折ることになる。もしくは中途半端に〈同人〉に寄せて残念な結果に終わる。こういうの求めてたんじゃなかったのかよ? おまえらのせいで〈打ち切り〉になっちまったじゃねえか! まったくおまえらファンときたら!

 同人ファランジュはみんなの空想を糧に情念引力を拡大させ、このフロアのみならず、やがてバトルタワーヒルズ、果ては観客席全体をも包み込むだろう。総理と岸田京介のCPも近いうちにご覧いただけるはずだ。ラノベ、エロゲ、同人が入り交じり、ここに全員が全員の嫁となるのだ。これぞ空想社会学の力。

 と説明するはずの相手がいまだにやってこないのだった。

「そうだ、電話して聞いてみよう」

 勅使河原はポケットからスマホを取り出し、地下1階の第33校舎ヒルズ防災センターに電話した。

「はい、防災センターです」

「ラノベどもはどこにいる」

「お待ちください」

 2分ほど待たされた。

「勅使河原先生、ご報告いたします。岸田京介は現在、16階の幾何学フロアで霊長類最強の数学者、セルゲイ・ミハイロフ先生と史上最高の〈バトル〉を繰り広げています。やつの鎧、まるで歩く広告塔ですね。それはともかく、やつの弱点は数学だ。もしかしたら勝てるかもしれないですよ」

「ほかの連中は?」

「敏吾はあと一歩のところで18歳以上の男女によるエッチシーンをスキップされ、50階の映像学フロアに放り込まれた模様です。敏吾がわれわれのスパイであることは各先生方に伝えておりますから、〈バトル〉はなんとなく穏便に終わるでしょう」

 防災センターの男は熱のこもった口調でつづけた。

「どの〈ヒロイン〉とでもいい、やつはセックスを完遂しなければならないのだ。エロゲ学の長宗我部先生が命を賭し、やつをエロゲに改宗させたのだ。必ずや」

 勅使河原はスマホを構えたまま、はらはらと涙を落とした。防災センターの男はその様子をテレビで見たのか、精神科医のように声をかけた。

「お友達だったのですか?」

 涙を手の甲で振り払う。

「それ以上だ。報告をつづけろ」

「一ツ橋色葉は単身、300階の教頭先生フロアへ向かっています。エレベーターの自尊心をくすぐり、豚をおだてて木に登らせたのです! エレベーターにはあとできつく言っておきますので。未来予知能力者メイドの西野五月は、おサルと戦っています」

「橋本先生と?」

「ええ。おサル先生の哲学にかかれば、五月は予知能力を失い、まちがいなくふつうの女の子に戻るでしょう。少なくとも、あの長ーい話で引き留めることができる」

「未来予知なんて反則だからな。汚いんだよ、ラノベの連中は」

「それからそちらの1階下で火災が発生しております」

「えっ?」

「あ、また149階の踊り場で先生がタバコを吸ってる。階段はインチキ中世ヨーロッパ風だから換気できませんよってあれほど伝えたのに。階段に出るのが癖になっちゃってるんですかね。フロアで吸うように先生から言ってもらえますか」

「自然発火か」

「昨日、決起集会されたでしょ? 生ゴミはちゃんと捨てましたか?」

「覚えていない。かなり酔っていたから」

「発酵が進んだのか、だれかが火をつけたのか。あっ」

「どうした?」

「屈強な消防士が4名、センターへの入室を求めています! 入れないとまずいですよね。公務ですから」

「火災は誤報だと伝えろ」

「えっ、なんですか? あ、はい」

 電話の向こうでだれかに話しかけられたようだ。

「もしもし、勅使河原先生? 消防士がドアを蹴破って侵入してきました」

「そんな簡単に蹴破れるものなのか」

「全員イケメンです」

「だからなんだ」

「かなり剣呑な雰囲気が漂っています。ひとりの女性を巡り、屈強な男4名が言い争いを。いま、ひとりがわたしに押し殺した声で怒鳴りつけました。太い指でわたしの胸を小突きながら、上原アリシャはどこだ、と。かなりアメリカンな口調です」

 勅使河原は電話の向こうで怒鳴る消防士の声を聞いた。たしかにアメリカンだった。

「上原アリシャの居場所を教えるんだ。ここで、いますぐ!」

「火を消しに来たんじゃないのか」

 電話の向こうで、少年とも少女ともつかない声が言った。

「消防士のみなさん、ケンカはやめてください! とにかく京介さんの作戦どおり、侵入は成功だ! まずは各フロアの図面を確認しないと」

「よし、防災責任者。各フロアの図面を出すんだ。ここで、いますぐ!」

「こわいよー。全員190センチ以上だよー」

「持ちこたえるんだ」

「やめて。やめてください。あっ」

 電話が切れた。

 再び自慢の同人ファランジュに取り残された勅使河原は、しばらくスマホの画面を見つめていた。ほかに電話する当てもなかったので、脳の健康を保つためにあれこれ考えはじめた。

 陽一が1階に残ったのは作戦だったのか。たしかに図面を入手できれば、最短距離で300階へ進むことができる。そのためにだれかが火をつけ、消防士を呼び、防災センターのドアを蹴破らせたのだ。ラノベらしからぬ機転。

 そういえば。昨日の決起集会で、ほかの先生方が言っていたような気がする。明日は出番が来ないかもしれないので暇つぶしは絶対に必要だ、と。みんなでスプラトゥーン大会をやるとか言っていたな。自分は酔っ払って歩きまわりながら、商業主義を憎んでいるし科学技術が大嫌いなので Wii U は持っていないのだとだれかれ構わず叫びつづけていたような気がする。

 学校の先生がやることなのかな、これ。

 そのとき。

 赤い防火扉が音を立て、重々しく開いた。奥から姿を見せたのは、プラチナと金の鎧を纏ったまごうことなき〈エルフ〉だった。豊かに流れ落ちる蜂蜜色の髪が、凜とした顔の周囲を踊っている。抜き身の剣を手にまっすぐ近づいてくる。鎧のみならず剣の刀身にもヨネックスのロゴが彫り込まれている。

 勅使河原はほっとした表情で〈エルフ〉を見つめた。

「あなたがこの階の番人ですか」

「えっ? ああ、そう、そうだ」

 向こうはだいぶ気合いが入っているようだ。いろいろあって(というかなさすぎて)気合いが不十分な勅使河原は、急いで前口上を頭の中でまとめた。

「ようこそ、わが空想ラノベ空間、同人ファランジュへ! さて、情念引力の法則とはなにか? 情念引力の法則とは」

「この戦いは、負けるわけにはいかない」

 上原アリシャは押し殺した声でおっかぶせた。すばやい振り抜きと鋭く弾く攻撃的なショットを実現するナノシミター800を正面に構え、肩幅に足を開き、腰を落とし、左右に軽くステップした。

「わたしの魅力を余すことなく伝え、イケメン消防士をわが手に!」

「そのような不純な動機でわたしに勝てるとでも?」

「勝たなければならない。わたしはあと2ヶ月で27歳になる。勝たなければならないのよ!」

 仕方がない。〈エルフ〉にはこのフロアで、情念を解放してもらおう。

 おまえの運命もここまでだ。

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