第163話 10階 哲学の森 わたしはいかに生きるべきか

「注意:世界それ自体は存在しない! 恐るべき帰結だ!」

 扉を開けるとそこは熱帯雨林だった。

 五月は当然、予測済みだった。だからビルのフロア全体が熱帯雨林であっても驚きはない。ただしあまりに突飛な予測だったので、その意味では当たってしまったことそれそのものに驚いた。鼻歌を飲み込み思わず「あっ」と声を上げ、その生物らしい反射反応はいつ以来だろうと新鮮に感じ、新鮮に感じている自分に驚いていることを予測したあと満を持して驚いた。

 正気を疑う予知は、ときどき起こる。しかり、現実はまったく論理的ではないのだ。そのたびに世の中は狂っている、クソだ、地球ごと滅びればいいのに、などと考える。逆に原因と結果のあまりに必然な予測が的中しても、そんなのわかりきっている、くだらない、世の中はクソだ、地球ごと滅びればいいのに、などと考えてしまうのだった。

 いちばん狂っているのは自分ですが。もちろん。

 そしてこの苦悩は、だれにも理解できない。

「♪トゥットゥルットゥー、テンテケテン」

 五月は現在、2つの意味でひとりぼっちだった。まず、本当にひとりだった。岸田京介の作戦どおり、五月は1階で正解の扉を予知した。予知能力で正解の扉を当てることなどできない、未来予知とはただ来たるべき未来を予知するだけの能力なのだと反論したが、できると京介は言った。なぜなら未来予知能力と未来改変能力が自分の中でごっちゃになっているからだ。バカなのかと五月はたずねた。そのとおりだと京介はうなずいた。力強く。

 それこそが、究極のラノベ。

 そんなわけで五月は「未来予知」で正解の扉を当てたあと、斥候としてひとり10階のフロアに放り込まれたのだった。

 未来予知能力者とはいえ16歳の女の子をひとり敵陣に放り込む〈主人公〉はどうなのか。どうもこうもない。ゲスな〈主人公〉は究極のラノベの必要条件だ。

「♪トゥットゥットゥー、トゥットゥットゥー、デゲデゲデゲデゲデン」

 じめじめした軟らかい土を踏み、五月は歩き出した。歩きながら天井を見上げる。密林の名に恥じない濃い緑が、「空」をほぼ覆い尽くしている。ほんのわずかな隙間から、太陽らしき光源が膨張し、強烈に輝いている。熱さはさほど感じなかった。空調が効いているからか、それとも親から虐待を受けてきたからか。

 五月は太陽に向かって歩いている。なぜ太陽へ向かって歩くのか? もちろんセルフ予知したからだ。五月はふと思った。あえて右や左に歩けば、未来予知という苦悩から解放されるのだろうか。だがあえて右や左に歩こうと考えるかもしくは行動するかした瞬間、それはすでに予知された行動となって五月の脳に確信をもってあらわれるのだった。もはや打つ手なし。♪トゥットゥットゥー、ジャジャジャジャジャジャジャーン。

 セルフ予知どおり立ち止まり、大木の幹に触れながら背後を振り返る。あまりに場ちがいな、真っ赤に塗られた防火扉が木々のあいだにのぞいている。扉には先ほどのメッセージが書かれたホワイトボードが引っかけられている。

 世界は存在しない。じつに喜ばしいことだ。

 デン、デンデン!

 オーケストラヒットを鼻歌で再現しつつ、再び太陽に向かって歩き出す。五月は奇妙な心地よさを覚えていた。見渡す限りの熱帯雨林は、ある意味なにもない空間と同じだ。道路のような方向性、可能性を示す記号が存在しないため、どちらへ向かっていいのかわからず、判断力は圧倒され、答えを出すのは不可能に思えてくる。せめて羅針盤があれば。北極星でも視認できれば。通常の人間であればそう願うだろう。五月は熱帯雨林の全方位性に身も心も委ねようとした。なにもわからない。一寸先は闇かもしれない。ヘビを踏んづけるかもしれない。クモに噛まれるかもしれない。ああ、なんてすばらしい感覚。♪トゥルットゥー。靴が湿気を吸い、黒く汚れはじめた。

 フロアを守る敵、つまり教師は、そのうちあらわれるだろう。だが自分など倒してもなんの得にもならない。だいたい教師はどのようにしてラノベを倒すつもりなのか。鉈でも振り下ろすのか。連立微分方程式でも解かせるのか。そもそも自分は高校生ですらないのだ。未来予知だけが取り柄の、背ばかりひょろひょろ伸びた、女らしさのかけらもない、顔もたいしてかわいくない、しかもラノベを心の底から憎んでいる、16歳の中卒メイド。

 体性感覚を頼りに進むも、木の根や傾斜にしょっちゅう足を取られる。もちろん喜ばしいことだった。段差つながりでバリアフリーについて考え、現代文明人の弱さについて考えた。前を見て、一歩ずつ確かめながら進む。足が疲れた。予測とは異なる疲れのように思われた。熱帯雨林にそぐわない〈メイド服〉に腹を立てはじめた。スカートの裾が土まみれになっている。やけになってたくし上げた。

 五月は立ち止まった。大木の幹に手を添え、あらためて周囲を見まわす。

 だれもいない。だれも見ていない。

 しばらく逡巡したあと、バッグからカタログを取り出した。1階で京介に渡されたものだ。念のため周囲をきょろきょろしたあと、幹に寄りかかり、カタログの真ん中あたりをがばりと開いた。ぱらぱらめくり、ラノベ婦人服の項にたどり着く。さまざまなメーカーのラノベ衣装がずらずらと並んでいる。〈ビキニアーマー〉が並ぶページを見て、顔をしかめた。ラノベはしょせん性風俗産業だ。さらにめくる。正気を疑う衣装に紛れ、ふつうの衣服もちらほらあった。どれもしまむらの提供だった。素材も抜群のダメージ吸収力を誇る複合材料などではなく、ふつうの綿やポリエステルだった。〈ヒロイン〉だってオフの時間はある。いくら人気取りのためとはいえ、アーマーを着たまま寝るわけにはいかないだろう。

 良心的だ。しまむら。

 涼しげなベージュの7分丈が目に留まった。かわいいと思った。かわいいパンツを履いた自分の姿を想像した。それからだれも褒めてくれないのにかわいく着飾ってなんの意味があるのかと考えた。

 だれもいないじゃないか。

 世界は存在していないのだ。

 自分のために着よう。

 五月はスマホをポケットから取り出し、注文した。

 10分後、リュックを背負ったスーツ姿の男がマチェーテを振りまわしながらやってきた。

「このたびはしまむらをご利用いただきまして誠にありがとうございます! あの西野五月さんもお気に入り!ということで、ひとつよろしくお願いいたします!」

 名刺を受け取る。五月はふと気づいた。

「わたしの苗字、知っているんですか」

「もちろんです!」

「本邦初公開なのに」

「五月さんのことなら、ぼくはなんでも知っていますよ。個人的にはもっと知りたいな、なんてね! ははは!」

「はは」

 五月は名刺を見た。高田馬場店の店長らしい。そして完全にイケメンだった。

「ではさっそく、ご注文の品をお渡しします。いやー、ここ、熱いですね。なんでジャングルなのかって話ですよね。もう教師には遭遇されたんですか?」

 営業はリュックを下ろし、注文の品を取り出した。かさかさという薄葉紙の音に、五月はわずかにテンションを上げた。7分丈に、フレンチ袖のプリント柄Tシャツ、サンダル。もう何着か注文しておけばよかった。

 パンツもシャツもサイズぴったりだった。

「それからこちら、アリ用の靴下。持っていけってパートさんがやかましくてね」

 五月は根元のごつい大木の影から顔をのぞかせた。店長は無遠慮に振り返り、言った。

「着替え終わりました?」

「いえ、あの」

「持っていきましょうか?」

「ちょっと、待って」

「いいですよ」

 店長は命令どおり待った。

 用が済んだのならさっさと帰ればいいのに。五月は陰に引っ込み、大木に背を預けながら、目を閉じ、店長の未来を見た。入社2年目、有能、独身、彼女なし。今年の11月に女性と合コンで知り合い、翌年同棲。昇給を機に婚約。

 汚れたメイド服を一式、向こうの木立に放り投げた。

 それから啄木のようにおのれの手を見た。すでに16歳の手ではない。こき使われているわけではないが、それでも雑用仕事を2年近くこなしてきたのだ。

 ふと思った。色葉お嬢様みたいに命令するのは、どんな気分なのだろう。

 いまだけだ。いまだけ。

「あの」

「はい!」

 店長がさっと姿勢を正し、レディの状態に入った。

「カーディガン、追加でお願いしたいんですけど」

「ああ、そうですよね。女性に日焼けは大敵だ! カタログにはありませんけど、いくつか見繕って持ってきますので」

「あと帽子も」

「わかりました。なんならボーイフレンドもご用意しましょうか?」

「はい?」

「なんちゃって! いや、まじめな話ですけど、五月さんって、彼氏いないんですか?」

「いません。付き合ったこともありません」

 さらりとしたリアル告白に店長は沈黙した。

「いえ、あの、つまり、まだ16歳なので」

「ああ、そうだ、そうですよね。ただ、いてもおかしくないな、って思ったので。見た目的に。それに岸田京介さんの〈サブヒロイン〉だ。あれでしょう、恋愛禁止ってやつ。ラノベも大変ですよね。でもヘンな男に引っかかるよりはよっぽどいいかなあ。ほんと、世の中にはろくでもない男が大勢いますからね」

「社会的経験に乏しい16歳として、本音でたずねてもいいですか」

「なんでしょう」

「もっぱらお世辞ですよね」

「お世辞じゃないですよ。だってラノベって、厳格に見た目重視じゃないですか。かわいくない〈ヒロイン〉なんて、ラノベ史上ひとりでもいました?」

「なるほど」

「だからこそ、一ツ橋色葉さんはあなたに声をかけたんです。ただ未来予知能力を利用するためではなくね。もし五月さんの見た目が、その、あれだったら、色葉さんはその事実をおもんばかり、決して声をかけはしなかったでしょう」

「ラノベにお詳しいんですね」

「勉強会でたたき込まれましたからね。まあとにかく、ぼくらとしては、気を遣わなくていいから助かります。エステに行かれたわけじゃないですよね? ラノベエステ、いまものすごく流行っているみたいですからね。すでに何件か倒産してますけどね。でもまあ、ここだけの話、美人の条件は、肌と骨格だ。その点、五月さんは、ああ、なんて表現すればいいのかなあ! 言っちゃおうかなあ! でもぼくなんか相手にしてくれないだろうなあ!」

「と、とにかく、帽子とカーディガン、お願いします」

「ほかになにか御用はございますか?」

「おなかが、ちょっと」

「ぺこぺこなんですね? 塔のまわりに出店が並んでましたから、お好み焼きでも買ってきますね!」

「かき氷も」

「では!」

 いそいそとリュックを背負い、笑顔で3回ほどお辞儀をしたあと、マチェーテを振りまわしながら駆け出した。先の茂みからサルがぬらりとあらわれたので、店長は「うわっ」と驚き、大股を開いて飛び上がった。破けたスーツの尻を抑えながら滑稽に走り去る。おサルはなんだあいつといった風情を背中に醸しながら消えた先を見つめている。

 五月はくすりとわらった。それから件の店長が今年の11月に女性と合コンで知り合い翌年婦人服担当のコントローラーに配置転換され昇給したのをきっかけに女性と婚約する未来を思い出し、いつものむっつりフェイスに戻した。

 かわいいなんて、嘘。

 だれでもいい。この目を見て言ってみろ。

 そばかすだらけのこの顔を見て。このあかぎれだらけの惨めな手を握って。

 そうしたら、なにかが変わるかも。

 大木の根元の少し傾斜したあたりで、先ほどのおサルがじっと見上げていた。

 チンパンジーだ。ジャングルの住人のわりには妙に毛並みが整っている。五月は刺激しないよう、ゆっくりとした動作で大木から離れた。

 そのとき。

 ビジョンがF1めいた速度で左から右へ駆け抜けていった。

「2秒後、おサルが話しかけてくる」

 2秒後、おサルが言った。

「よう」

「関東第一高校の教師ね」

「話がはやくて助かるねえ。それはそうと、〈バトル〉は楽しんでいるかい?」

「哲学者ね」

「おいおい、そこまで先走るなって。いまからおれさまが説明するんだろうが。そしてみんなをビックリさせる。『ええっ、このチンパンが哲学者だって? そんなバカな!』みたいに」

「いまさらおサル程度ではだれも驚かない」

「だよね。どの教師も魑魅魍魎ばっかだったからなあ。塾講師からキャラを学びすぎたのさ。まあいい。とにかく、おれさまは、このフロアを守る敵だ。これからおまえを倒すぞ!」

「死なない?」

「ラノベだぜ! 死にはしないさ! キキキッ!」

 おサルはナックルウォークの体制から激しいジャンプを繰り返した。

「ちなみになにをどうすれば勝ちなの」

「負けを認めたら、そのときは負けだ」

「まるで人生のように」

「そういうこと」

 五月はうなずいた。それから目を閉じ、うごめく無限の未来に意識を集中させた。

 負け戦はしない主義だ。

 それに。

 同年代の男の子がテレビで見ているかもしれないし。

 五月は雰囲気たっぷりに目を開き、言った。

「見えた」

「なにが見えたの?」

「いまからきっかり15分後、あなたはわたしの足元にひっくり返っているでしょう。盛大に泡を吹きながら」

「ならやってみろよ! その理念を現実のものとしてみろ!」

「その後、わたしは優しいしまむら店長とふたり、勝利の余韻に浸りながら仲良くかき氷を食べるでしょう」

「人間なんぞには負けねえぞ! おら!」

 おサルは長い腕を振った。

「そしてかき氷から8分後、わたしたちはいい雰囲気になる。見つめ合い、手を取り、そして」

「話聞いてる?」

 そのとき。

 五月の脳裏にエレベーター的なイメージが浮かび上がった。エレベーター内には男女がいる。男は女に馬乗りになり、なんだかよくわからないが思わず顔を背けたくなる激しい前後運動を繰り返している。

「ダメ」

 おのれの声が遠くから聞こえた。

「ダメ。ダメよ! お嬢様」

 脇腹をつつかれた。未来ビジョンはひび割れ、現実の光景が目に映し出された。

 おサルが見上げて言った。

「なあ、それってつらくない?」

「えっ?」

「未来がわかるってさ、呪いみたいなもんだよな。そんなんじゃ、まともな人生を送れるはずがねえ」

「なぜ知っているの」

「教師はよく言うだろ、『次までに予習してくるように』ってさ。あんたのことならなんでも知ってる。ちなみに好きだからとか、そんな理由でじゃないぜ。気になるのさ、ひとりの教育者としてな」

「わたしは関東第一高校の生徒じゃない」

「でも若者だ。未来ある若者は、未来あるがゆえに、日本国民として、そして社会の成員として、社会が望むとおり『正しく』育たなければならない。はぁ? 正しいってなんです? あなたの正しさをわたしに押しつけないでほしいんですけど? 歪みかけた若者は、そんなふうに口走りがちだよね。でも、正しいことは正しいことだ。もし仮にいまのおまえが『正しい』のなら、なぜそんなに精神が不安定なのかな? いまの不安定さが『正しい』人間の姿? 救いの手を拒否し、他者を否定しつづけることが『正しい』こと? じゃあ社会ってなに? 他者の否定が『正しい』ことなら、人類はとっくに滅びていると思わない? おサルの惑星になっていると思わない? 民族、国家、領土間、部族間などの争いをつづけながら、人類がいまここまでたどり着けたのはなぜだと思う? あのー自分が正しいだなんてひとことも言っていないんですけど。ああそう。じゃあまちがっているんだ? まちがっているなら、正されなければならないね。人のこと正すとか言わないでください! 価値観は人それぞれです! いや価値観は価値観だ。正しさは異なる概念だよ。正しさとは絶対的なものだ。法も関係ない。全体主義とも関連しない。なにもわかっていない者は、『正義』についておいそれと口出しすべきじゃないよ。正しいものは正しい。それだけだ。それくらい正義は深いものなんだ。価値観なんて、ただおまえがそう思っている、ってだけの話だからね。あっそう、よかったね、ってなもんだ。正義に従うのは義務だ。みんな従わなかったら、どんな世の中になるか、想像つくよね? 現代的な自由は制約の上に成り立っている、これはおまえも理解できているはずだ。領土争いや戦争などは、ある意味では他者の否定だよね。でもそれじゃいけないということで、曲がりなりに努力し、国家とはなにか、社会とはなにかと考え、ここ50年でようやく、平和と呼べる世界が訪れた。平和ってすごいことだと思わない? あの野蛮な西洋人が、文明人ヅラをして、侵略戦争もふっかけずに我慢している。中国もしかりだ。結局、平和ボケなんだ。実存なんだ。いまが戦時だったら、って1日5分でも想像してみなよ。『なにをすべきか』? まず真っ先に生きるべきだよね。そんななかでもイラストを描いたり小説を書いたりする人がいる。だからこそ尊い。おまえの場合はただの逃げだ。現在の平和な時代、平和を享受するわれわれが個人として考えるべきことは、『なにをすべきか』ではなく、『なにをしているか』だ。なにをしているのかを考え、自覚しながら、それをする。生き方を模索し、生き方を模索している自分自身を自覚する。生き方が固まったら、あとはひたすらそれをつづけるだけだ。先進国は福祉国家の次のレベルに向かわなければならない。つまるところ、個の幸せ、国民ひとりひとりの幸せだね。みんなのパンは行き渡っている。パンを食べるだけでは物足りなくなる。だれかを攻撃したくなる。でも現代は平和すぎて他者を簡単にはぶちのめせない。あふれんばかりの情報でプロパガンダもままならない。他者をコントロールできない。じゃあなにをどうすべきか。個人はいまこそ、『卓越』の方向へ舵を切るべきなんだ。他者は関係ない。自分がいいと思えば、それでいいんだ。そしてそれは他者に押しつけるものではない。他者に押しつけられてもいけない。他人ありきの自分はダメだ。これはいわば心の戦争、精神の戦争だね。他人ありきの自分は、自分じゃない。自分では自分は自分だとか言いながら、おまえはそのじつ、憎み嫌っている他者の所有物になってしまっているんだ。評価を気にしちゃいけない。他者を評価してもいけない。そうしておのれを磨き、卓越し、いまだ正義を追求する途上にあるこの人間社会において、遊びも含めて真剣に生きるんだ。ゲームだって真剣にやるべきなんだよ。ゲームだけ真剣じゃダメなんだけどね。社会はときに、正しさを要請する。おまえはいらだつ。迷惑かけてないんだからいいだろ。法を犯していないんだからいいだろ。わたし『卓越』で忙しいんですけど? だがその要請は、おまえ自身の『卓越』とは別個の話なんだ。正しいことは正しい、だから成員として従う。なぜならそれが正義だから。おまえは逆に、お年寄りに席を譲らない若者にイラついたりもするよね。指図されるのはイヤだが指図したい、ってことだ。それってやっぱり、単なる価値観だよね。絶対的な『正義』ではない。それがおまえ自身の信じる『正しさ』なら、おまえだけが従えばいい話だ。他者が気になり、反抗し、ときに攻撃したくなるのは、おまえ自身の『卓越』に目が向けられていないからだ。おまえは正義のなんたるかを知らない。だから他人に『正しさ』を押しつける資格はない。口をつぐみ、おのれの人生を真剣に考えるんだ。おまえはお年寄りに席を譲る。譲らない他者がいても気にしない。正義には従う。正義でなければ断固拒否する。じゃあ正義ってなんだろう? わからないだろ? 道徳ってそういうことなんだ。半端者のおまえに、おれさまは正しく生きろと押しつける。おまえは反抗する。だがおれさまは揺るがない。なぜなら正しく生きることが正しいことだと信じているからだ。まあ、小難しいことは考えなくても、せっかく平和な世の中に生きているんだしさ。本気で個の幸せを追求できる、恵まれた時代に生きているんだ。好きなイラストを一生懸命描いて、『卓越』して、大人にガミガミ言われてもいちいち反抗せずハイそうですねって従えばいいんだ。イラストをやめろと言われたら? それもおまえが決めることだ。おまえ自身の戦争だ。だから」

「だれに向かって語っているの」

 遮るタイミングを失しつづけた五月がようやく長話を遮った。おサルは目の焦点を戻し、五月を見上げた。

 頭をかきかき言う。

「悪い悪い。ちょっと熱くなっちまったみたいだ。そうそう、未来ある若者といえば、あんたの未来予知能力だけど」

「はい」

「おれさまが治してやるよ。人間らしさを、ここで取り戻すんだ。な?」

「予知能力を、治す?」

 歯をむき出し、人間の笑顔のような表情でうなずいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます