第126話 それぞれの忍び

 これでいい。

 京介はバスルームの浴槽に立ち、目を閉じてシャワーヘッドに顔を向け、強烈な水流を顔面にブチ当てていた。

 忍者をラノベに引き込み、〈バトル〉に持ち込むためには、こうするよりほかなかったのだ。やつとて人間、人間には感情というものがある。

 だれにも言えないのがつらいところだ。風呂から上がり、全裸でリビングに仁王立ちするいまの京介は、その精神性において、まさに現在の忍びそのものだった。楠正成ならこの苦悩をわかってくれるだろうか。

 春よ。すまない。


   ◇


「♪ちょ、こ、れいと、でぃすこ。ちょ、こ、れいと、でぃすこ」

 春はアパート3階から投身したあと、つくば公園通りの遊歩道を北へ歩きながら、パフュームの名曲の数々を地声で完全再現していた。強引な歩車分離を実現するジェットコースターめいた頭上の車道では、スターリングエンジンを搭載した日産ジェントリが、尻からサトウキビを突き出して滑走している。

「♪ちょ、こ、れいと、でぃすこ!」

 ダックスフントを連れたつくば民男女がすれちがい、微笑ましげに振り返った。あの子、なにかいいことがあったにちがいない。そうよ、きっと恋をしているのだわ。わんわん。ふふ、そうね、レオくん。そのとおりよ。

「ややっ」

 見覚えのある姿を視界が捉え、立ち止まった。手でひさしをつくり、視界をズームさせる。こちらへ向かってくる。色葉だと気づいた春は、即座にパフュームをやめ、即座に落ち込み、失恋による心の痛みを抱え、色のない唇をわななかせ、頬をひくつかせ、目には涙を、鼻からは鼻水を垂らした。

 色葉は指先が地面に着くのではないかと思われるほどがっくり肩を落とし、顔面の上半分を前髪で隠し、黒い人魂のようなものを数個オプションのように浮かべ、足を引きずりながら近づいてきた。落ち込みぶりについては色葉のほうが一枚も二枚も上手なようだった。

 本当に落ち込んでいるからだろう。

 それとも?

 1メートル半まで接近した。どちらともなく立ち止まる。

 色葉はゾンビのように顔を上げた。春もそうした。

「は、は」

「い、い」

 どちらともなく駆け寄り、抱擁した。

「春ちゃーん」

「いろはー」

 ふたりは抱き合い、しばらくその場で泣き合った。


   ◇


 二の宮公園のベンチに並んですわり、金色の巻きグソを逆さまにしたような奇妙なオブジェクトを見上げながら、春は事情を聞いた。

「それでね、風呂桶がね、どうしても、頭にクリーンヒットしなくて」

 しゃくり上げながら色葉がつづける。

「何度も何度も、シャワーを浴びた。わたし、悔しくて」

 その悔しさがラノベ選手としてのふがいなさに由来するものなのか、尊厳を踏みにじられた17歳の女子高校生としての心の叫びなのか、春には判断がつきかねた。

 ただし、ひとつだけわかることがあった。

「その学者」

「うん」

「おまえの裸、見たかっただけでは」

「そうよ」

 妙に冷静な返事に、春は思わず二度見した。色葉の顔をのぞき込む。相変わらず涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。ちらと赤いほうの目を春に向けた。瞳の中には理性がしっかりと腰を据えているように見えた。

 見えただけかもしれない。

 春は念のため鼻涙管を調節し、涙と鼻水でさらに顔をぐちゃぐちゃにした。

「は、春ちゃんは、なにがあったの」

「京介が、京介がね」

「京介が、どうしたの」

「ショックが大きすぎるためこれ以上はつづけられない。ふえーん」

「びえーん」

 顔面ぐちゃぐちゃのふたりは同時に正面を向き、意外と落ち着いた表情で巻きグソを見上げた。万年桜や万年イチョウ、そしてクソの遠景にそびえるとんがり帽子の時計塔のすべてが、こちらをじっと見つめているような気がした。

 実際見つめていた。

 実際見つめられていることを知っていた。

 実際見つめられていることを知っていることを知っていた。


   ◇


 早乙女は白いダイニングテーブルに視線を落とし、周期的に振動するスマホを見つめていた。おかしい。このタイミングで電話がかかってくるはずがない。その未来はまちがっている。

 機能性重視どころか機能性しかないシステムキッチンでは、〈メイド〉さんが流しに立ち、キッチンペーパーでしいたけの汚れを拭っていた。

「しいたけを半分に切ったあとは、ネギを切ってください。白菜のザク切りは、そのあとだ。順番をまちがえないように」

「はい」

「本当に、一ツ橋色葉さんの居場所を知らないのですか?」

「脱走も、予測済みだったのでは」

「黙って下ごしらえをするんだ」

 五月は小さく鼻をすすった。しいたけの尻尾を落とし、傘を半分に切り、ネギに取りかかる。

 早乙女はイラついていた。とばっちりを受けている五月はもちろん、早乙女自身もおのれの感情に気づいている。ただし気にかけているのは、イラつきの濃度のほうだった。事前に予測したとおり、つかず離れず、適度なイラつきをここで見せなければならない。本気で五月に八つ当たりをしているわけではないのだ。〈メイド〉さんには気の毒だが、説明すればその時点で未来が変わってしまう。正しい未来のため、ここでしっかり負の感情を受け取ってもらわなければならない。

 もちろん早乙女は、一ツ橋色葉の脱走の理由を知っていた。予測もしていた。居場所も知っていた。いまごろは二の宮公園で巻きグソを見上げながら涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしているはずだ。そして居場所を知っていることを知られていることも知っていた。

 スマホの振動がやんだ。

 電話のタイミングがはやまったのは、スパッツ生着替えを強要しすぎたせいかもしれない。少しばかりスパッツすぎたのかもしれない。

 だがスパッツはいい。

 なぜならスパッツだから。

 五月が白菜をみちみちと切りながら言った。

「本当にここで、すき焼きを食べるつもりですか」

「もちろん。うちの研究室の連中は、まじめくんが多い。研究に没頭するのもいいが、社会性も同じく重要ですからね。ぼくらはおいしいすき焼きを囲んで、親睦を深める。あなたと色葉さんはもちろん、ソイレントで乾杯してもらいます」

「お嬢様は、お戻りになられないでしょう。でも、それでいい。こんなところにいるくらいなら、いっそのこと」

「世界が闇に包まれてもいいと?」

「もう充分包まれています! あのシャワーのくだり、忘れられるはずがない!」

「真のラノベの〈ヒロイン〉へと至る道は、決して平坦ではないんです。いずれは五月さん、あなたにも〈馬乗り〉になっていただきます。そしてぼくはあなたの青い果実のような胸に手を伸ばし、スパッツ」

 五月がいきなり振り向いた。包丁を両手で持ち、胸のあたりに構えている。

「わたしに指一本でも触れたら、こぶしがあなたの下顎骨を粉砕するでしょう!」

「下ごしらえをつづけてください。あなたの下ごしらえの精度に、世界の命運がかかっている。あなたは下ごしらえのために、ここつくばの地へやってきたのだ」

 スマホが再び震え出した。今度はタイミングばっちりだ。予測どおり五月が感情的に包丁を向け、早乙女の下顎骨に言及したきっかり9秒後。

 早乙女は色葉のグーパンで痣になった目に触れ、桶に潰されて骨折した小指を見つめ、それからスマホをタップした。

 M2の柴田くんからだった。

「早乙女先生! 大変なことが」

「どうした」

「外国人院生の様子がおかしくなって。すみません、言い方が差別的なのはわかっていますが、そう言わなければ未来が変わってしまうので」

「きみが排外主義者でないことはぼくがいちばんよく知っている。それで?」

「それだけ言えば充分でしょう。先生ならすでに織り込み済みのはずだ!」

「カラテを習いはじめた」

「そう、そのとおりです!」

「すぐ行く」

 早乙女は通話を終了させた。五月に目を向け、わずかに驚いた。

 幼さを残す顔にうっすらと笑みをたたえている。

「いってらっしゃませ、早乙女様」

「なにかを企んでいますね?」

「いえいえ。わたしの企みなど早乙女さんの手にかかればあっさりと覆されることでしょう」

「考えている暇はないな」

「そのとおりです。せっかく予測した未来が変わってしまいますからね。急いで出られたほうがよろしいですよ」

「すぐ戻る。レシピどおり、すき焼きの下ごしらえをするんだ。そのあと〈馬乗り〉の訓練だ」

「青い果実のような胸に触れられるのが待ちきれません!」

 そうして五月は、おのれの真意をひた隠しにし、精いっぱいの笑顔で早乙女を見送った。

 キッチンに戻り、まな板に乗ったえのき茸の束を見下ろす。

 うっすらと笑みを浮かべたまま、包丁を振り上げ、石づきを一刀両断した。

 木箱に入った最高級松阪牛を手に取り、封を切った。

 プライパンをコンロにかけ、点火した。

 やってやる。

 お嬢様のため。

 そして、わたし自身のおなかの虫のために。

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