第122話 なにも起こらない無味無臭の生活

 色葉と五月は無機質なキッチンに並んで立ち、完全栄養代替食品ソイレントを調合していた。

 割り当てられた住居は、つくば住宅地区の地下4階にあった。その名もエスポワールつくば。ここにないものはまさに希望そのものだった。京介と春(と忍者)が庶民的な間取りのアパートで温かな家庭を築いているころ、色葉と五月はなにもかもが機能的な住居で極限の合理的生活を送っていた。

 間取りに血のかよったところはひとつもない。白い壁、白い照明、文字どおりのシステムキッチン、デカルト座標を思わせる6.4畳の洋間。ところで住居における合理性とはなにか。たとえば代々木屋敷の応接間には、四方の壁に腰の高さの横木や幅木が巡らされている。それらはおしゃれだから壁にくっつけているわけではない。ヴィクトリア女王の時代には壁にイスを並べる習慣があり、背もたれや脚が当たって壁を傷める恐れがある。それを防ぐための当時の合理的な対策だった。でも現代では、壁にイスなど並べない。だったら腰高の横木などいらないのではないか。

 そのいらないを極限まで追及したのがこの住居だった。

 早乙女は色葉と五月を案内したあと、ソイレントのレシピを渡し、研究所へ戻った。

 ビタミンの錠剤をごりごり粉末状にするあいだ、ふたりはひとことも口を利かなかった。

 五月はエンドウマメのプロテイン80グラムをミキサーに入れたあと、ささやいた。

「この住居、怖いです」

「具体的には?」

「なにが怖いのかわからないのが怖いんです」

 電子レンジがピーピー控えめな音を立てた。

 色葉は水に溶いた米粉を取り出し、言った。

「つまり、未来の予測ができないから?」

「こんな気分は生まれてはじめてです。1分先のことすらわからないなんて、まるで人間ではなくなってしまったような」

「それがふつうの人間なんだけどね」

「なぜこのようなところで暮らさなければならないのでしょう」

「忍者が狙っているからよ。説明のあいだじゅう寝てたから知らないでしょうけど、忍者はわたしたちの過去を改変しようと隙をうかがっている。ここにいれば、わたしたちの過去に手を出せなくなる。『希望』のない空間だから、過去の栄光にしがみつくしかない。しがみついている限り、改変は難しい。さすがは未来学者ね」

「余裕の口ぶりですね」

「昔話に花を咲かせるのよ、『あのころはよかった』ってね」

「わたし、関係ありません。もともとラノベなどではなかった」

「ごめんね、五月ちゃん。わたしの悪口ならいくら言ってもいいから」

「代わりにラノベの悪口を言います。ラノベなど大嫌いです。ラノベはクソよ。死ねばいいのに」

「わたしとしては、愛憎入り混じりってところね」

 すべての材料をミキサーに入れ、スイッチを入れた。

「でも、隠れているだけでははじまらないでしょう」

「いずれ早乙女さんが、わたしたちの取るべき適切な未来を弾き出してくれる。それまでの辛抱ね」

「あの人がなにより怖いんですよ。だって、今日の午後には好きになるはずだったのに、いつまで経っても気持ちが動かない。それどころかどんどん嫌いになっていく。なぜなんでしょう」

「なぜなんだろうね」

 色葉はミキサーを持ち上げ、DIYソイレントを使い捨て容器にとろとろと流し込んだ。五月が必死な様子でしがみついて言った。

「せめてチョコレートを入れましょうよ」

「ダメ。レシピどおりにしないと、未来にどんな影響が及ぶかわからない」

「わたしはどんどん気が滅入っていくでしょう」

 五月が内装そのものの表情で言った。

 めいめいソイレントを手に、のろのろとダイニングテーブルに着いた。

「いただきます」

 ごくごく。

「ごちそうさまでした」

 1時間半後、早乙女がやってきた。

「調子はどうです? おやおや」

 五月の顔を見て言った。

「つらいのはわかります。色葉さんも、あともう少しの辛抱です」

 早乙女は例のアメリカンな紙袋を抱えていた。どさりとテーブルに置く。

 色葉が希望をもってたずねた。

「差し入れですか」

「ああ、これ? ちがいます。これは今日の夕飯の食材。今夜はすき焼きなんですよ。うちの研究室の連中とね」

 なぜか食材をテーブルに並べながらつづけた。

「この部屋、気が滅入るでしょう? もともとエスポワールつくばは、新卒のサラリーパーソン向けに開発された研修施設なんです。定年までの40年間、真の月給取りとして、へたな希望を抱かないよう、ここで訓練する。たとえばいまの仕事は天職じゃないとか、独立して一国一城の主になってやるぞとか。そういうのって、雇われた身になった反動としてはじめて生まれる発想じゃないですか。後ろ向きの発想、逃げの発想だ。一代で財を成す者は、はじめから前を向いている。雇われながらもしっかりと血肉にしている」

「すごく効果がありそうですね。身をもって実感しています」

「いま、院生があなたたちの半年間に及ぶストーリーを解析しているところです。望ましいエンディングを設定し、これまでのあなたたちのキャラクターや全体を通底するテーマ、文体の統一感などから係数を導き出し、脇役たちとの社会的ネットワークを加味したうえで、その後の展開を予測し、妥当性を測り、構造的な関連性を見いだす。少し時間をください」

「わたしたち、修士論文のネタになるんですか」

「ついでですよ。社会未来学におけるラノベと〈フラグ〉の関係は、これまで突っ込んだ研究がなされてこなかった。みんなが社会常識として捉える〈フラグ〉の有用性や階層性、そして社会性などです。まあ、どこまでやれるかですね」

 早乙女がジャム入りドーナツを食いはじめた。最後のピースを口に入れ、ジャムでべとべとの指を舐め、満足げに息をついた。

 五月はずっと恨めしそうな半眼で見つめていた。

 色葉が早乙女に言った。

「あらためて確認させてください。導き出された結果どおりのセリフを言い、行動し、笑い、泣き、戦う。そうすれば真のハッピーエンドを迎えられるんですね?」

「そう。それまではここで、存在を消しておいてください」

 色葉は銀色のダストシュートを開け、使用済みの使い捨て容器を放り込もうとした。早乙女が声を上げ、それはゴミ箱ではなく気送管搬送システムだと告げた。手紙や検体をつくばじゅうに輸送する目的で開発・実用化されたものなので、ゴミを入れてはいけません。そしてちょうど後ろ手に隠し持っていたくず入れを差し出した。

 ゴミを入れながら色葉は言った。

「気になることがあるのですが、聞いてもよろしいですか」

「あなたの疑問はだいたい予測できていますが、どうぞ」

「さいたま編も、タヒチ編も、いえ、わたしと岸田京介がどのように出会うかすら、事前に予測していたんですよね」

「当然です。その程度の未来なら学部時代に予測していましたよ」

「なぜ止めなかったんですか」

「なぜ止める必要があると?」

 色葉は押し黙った。

「言いたいことはわかります。いや、予測済みだ。つまり、そもそも出会わなければ、ということですよね。でもあなたと岸田京介は、出会う必要があった。世界を変えるために」

「早乙女さんが、わたしたちの行動をつかさどっていたんでしょうか」

「ちがいます。ぼくは予測するだけ。まあ、たまには変数をいじって介入するときもありましたけどね。たとえば色葉さん、あなたはかつて、丸の内の大手町パークビルディング地下1階で、バナナの皮を踏んづけて壁に激突したことがあったはずです」

「あります」

「バナナの皮を置いたのは上原アリシャ。それによってあなたは初登場の機会を26歳OLに奪われた。あの日、上原アリシャにバナナの昼食を決断させたのはぼくです」

「もしタリーズバックスコーヒーで岸田京介と出会っていたら」

「そう。いまごろ世界は闇に覆われていたことでしょう。そして岸田京介の〈ヒロイン〉探しにおいて、14万8000分の1の確率であなたに引き合わせたのも、ぼくです。あれはちょっと強引すぎるきらいはありましたが、まあ、愛の力が引き合わせたということで」

「もしほかの〈メイン〉を選んでいたら」

「いまごろ世界は闇に覆われていたことでしょうね」

「次にわたしが口にするセリフがわかりますか」

「もちろん。後づけで言うならだれでも言えんじゃね?と言うつもりだった」

「だいたいそんなところです」

「それこそが、未来学第0法則。現在から見た過去における未来的事象の表現は、すべて後づけと呼ばれる」

「後づけですよね。じつは○○だったのだー、みたいな」

「××だから○○なのは当然だ。一般の方は、後づけ後づけとネガティブに言いますが、未来学でいうところの後づけは、意味合いが異なる。そして後づけは、拡張することで現在における未来も予測可能となる。後づけは未来学における基本かつ最も重要なツールなんです」

「でも、やっぱり納得がいかないんです。その、未来学そのものが」

「すわってください」

 色葉はすき焼き用の食材が並ぶテーブルに着いた。五月はテーブルに着かず、代わりに切なげにおなかを鳴らした。

 早乙女が向かいにすわり、指を組んだ。

「ぼくは未来に過度の干渉はしない。あなたたちがバッドエンドを迎えるとしてもね。これは未来学者としての倫理だ。そして本来の意味での未来とは、キャラクターであるあなたがたの、おもしろくしよう、ストーリーを進めよう、という努力によって切り開かれるものなのです。よく言うでしょう、未来はあなたの手の中に、と。ある意味では真実だ。だが、色葉さん、申し上げにくいのですが、あなたは少し、ラノベを舐めている」

「わかりません。舐めているんでしょうか」

「舐めています。あなたはさいたま編で〈混浴〉を断り、〈ヒロイン〉として積極的にこなさなければならない〈着替え〉や〈ラッキースケベ〉、〈馬乗り〉などの〈お約束〉を、岸田京介の誠実さを理由にことごとく回避してきた。あなたが京介くんの足を引っ張っている」

「ベストは尽くしたつもりです」

「すべてはハッピーエンドを迎えるため。あなたがた〈ヒロイン〉は、どれだけ理不尽でも、どれだけ無意味でも、どれだけエッチなお願いでも、喜んで引き受けなければならない」

「どれだけエッチでも」

「未来はあなたのパンツの中に。もちろんブラの中にもあります。そしてこの、スパッツの中にも」

 早乙女はちょうど後ろ手に隠し持っていたスパッツを色葉に見せた。

「ぼくの前で〈着替え〉ができますか?」

「できません」

「なぜです? 50~60年代の〈ヒロイン〉はだれでも、躊躇なく着替えをしましたよ? これからのラノベを背負って立つあなたがその調子では、ラノベの復権は夢のまた夢だ。あなたをここ、エスポワールつくばへ住まわせたのは、ただ忍者から守るためだけではない」

「だいたい予想はつきますが、なにをするつもりなんでしょう」

「あなたの〈ヒロイン〉力を上げるため、ここで特訓をする。隠れDカップを最大限に活かし、理性も人格も喪失した、記号的魅力のみの愛玩動物になる」

「人でなし!」

 五月がいきなり叫んだ。

「お嬢様は、そのようなラノベはいたしません!」

「しなければいけないのですよ、五月さん」

「だって、お嬢様は、そんな」

「色葉さんは一ツ橋家のご令嬢として生まれ、大切に大切に育てられてきた。そう、生まれたときからすでに、未来は決定されていたのだ。ラノベの〈ヒロイン〉になるために、一ツ橋色葉は生まれたのだ」

「まちがっています! そんなものは、人の生ではありません!」

「いいや、それこそが人の生、人生と呼ばれるものの正体なのですよ。これは使命、運命だ。選ばれし者は、使命を全うしなければならない。個人の考えは重要ではない」

 五月と早乙女のやり取りを他人事のように眺めながら、色葉はぼんやりと考えた。選ばれし者、か。そういえば昨日、京介とケンカした別れ際に、同じようなことを言った。偉そうな口ぶりで、なんじヒーローたれ、と。いざ自分が選ばれし者だと言われると、反抗的な気持ちが沸き起こってくる。わたしの人生はわたしが決める、と思わず叫びたくなる。なんて身勝手な女だろう。

 京介は早乙女をひと目見た瞬間から嫌っていた。あのときは、自分で言うのもなんだが単なる嫉妬だと思っていた。京介と早乙女、一体どちらが正しいのか。

 そして自分は、なぜ早乙女を頭から信頼していたのだろう。おやつをいただいたからか。学者だからか。いずれもちがう。

 そう。京介のためだ。

「やります」

 五月が振り返った。色葉の近未来はまるごとその顔に書いてあった。

「ダメです。ラノベなんてクソです! ラノベはクソよ! ひとりの人格ある女の子に、あんなことをさせるなんて」

「クソでもやらなければならない」

 早乙女が腕時計を見つめながら言った。

「3分後、一ツ橋色葉さんは〈お風呂〉に入る。バスルーム入場からきっかり7分24秒後、ぼくがシャワーシーンをのぞきます。風呂桶の用意を怠らないように。ぼくの頭へ適切にヒットできるまでは、何度もシャワーをやり直しますよ。いいですね?」

 色葉はうなずき、上着のボタンに手をかけた。

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