第121話 忍者を警戒しながらの甘々な生活

 翌日。

 京介は春にあーんさせていた。

「あーんするのだ」

「あっ。またこぼした」

「春は、ぶきっちょさんなのだな」

「ごめんなさい」

 胸元に飛び散ったトマトソースを拭いてあげる。

「あのね、でもね、スープパスタ、あーんに向かないのね。本日の気づき」

「だがおいしかっただろう」

「うん」

 なぜ京介は朝食にトマトスープパスタをつくったのか? それ以前にいつどこで料理を覚えたのか? そしてなぜ春が人間の食べ物を食べているのか? だがそのような愚問は、甘々の生活を前にしてはもろくも崩れ去る。だからどうか考えないでほしい。

 京介が割り当てられた住居は、たとえばあの高慢ちきな資産家令嬢、一ツ橋色葉様が嬉々として用意するような、地上31階建ての高級レジデンスなどではなかった。バカバカしいほど広大な床面積、ガラス張りのシャワールーム、無駄以外のなにものでもないゲストルーム、そして世の奥様がむせび泣く対面キッチン。実際に住んでみればわかるが、たいしてよくもない。テンションが上がるのは最初の3日くらいだ。

 築17年、木造3階建て、その名もカーサつくばB。こぢんまりとした1LDKが心地よい。そして女の子との共同生活においては、せま苦しいアパートこそ正義。せまいゆえによく顔を合わせ、顔を合わせることで共同生活の意識が高まり、お互いの気持ちが通じやすくなる。一緒に乗り切ろうという気になる。なにを乗り切るかは人それぞれだが。

 ダイニングは控えめながら採光抜群、小さな白木のテーブルがまさに希望のように光り輝いている。6.1畳の洋室間、ひとつきりのトイレ、ひとつきりのバスルーム。

 ひとつきりの寝室。

 ベッドもひとつ。

 ひとつと言っても当然、たとえば一ツ橋色葉が嬉々として用意するようなシモンズのダブルクッションなどではない。1万円台で購入できる、ごくふつうの1人用ベッドだ。そのふつうさが心地よい。

 昨晩、京介はソファで寝ると言った。春もソファで寝ると言い張った。

 そしてふたりでソファで寝た。

 明かりが消えたリビングで、春は両のまなこをギンギンに開けていた。どくんどくんと飛び出しそうな心臓を胸に抱え、おのれを手籠めにし襲いかかる野獣・京介の登場を待ちわびる。京介は背にぴたりと体を寄せ、後ろから軽く抱きしめるような格好で目を閉じている。人間の体温、京介の体温。首筋に寝息を感じ、春はいても立ってもいられなくなった。もぞもぞと反転し、京介の力強い胸に顔をうずめる。実際に力強いのは春のほうだったが、そういう問題ではないのだ。背骨を折らない程度にぎゅっと抱き、全身のあらゆるところをこすりつけ、いっそひとりでやっちまうかと考えた瞬間、京介が目を開けた。

「春。ここでおまえに手を出せば、おれはラノベではなくなってしまう」

「で、でも、もう、我慢できないよ。ほら、ここ」

「我慢するのだ。そしておれの頬をこぶしで殴るのだ。次の場面に移るために」

 ドガッ。

 あーん。


   ◇


 春がひとり夜のあーんをした翌日。朝のあーんでトマトスープパスタを楽しく平らげたあと、これまた楽しくシンクの前に並び、仲良く皿を洗った。だが楽しいのもいまのうち、洗い物という名のすてきなひとときが、やがて家計費節約という名の苦行と化すのだ。えーもう今日疲れたから出前でいいじゃん。そんなお金どこにあるのよ。じゃあいいよコンビニで。コンビニは高いって何度も言ってんじゃないのバカ。なに帰りにふらっと弁当買ってくんのよ。いいだろおれの小遣いなんだから。あんたが酒やめればいい話じゃない。あんたの稼ぎが悪いからあたくしが毎日スーパー駆けまわってんじゃないの。なに洗い物ほっといてテレビ見てんのよ。なんで毎回おかず残すの? あたくしの料理ってそんなにまずい? ねーこんな狭いアパートじゃ子育てとかできないよ? それにこのへん治安よくないって言うしさー。ねーあたくしの話ちゃんと聞いてる? それより聞いてよ、ここの3階のさー、○○さんっているじゃない? この前もゴミ出しでさー、生ゴミは金曜日だって言ってるのに毎っ回守らないんだよねー。あたくし行って注意したんだけどさー、逆ギレされちゃって。あんたからも注意してよ。まったく、ルールが守れないなら集合住宅に住むなっつーの。なに寝てんのよ。てかなんであたくしが毎朝5時に起きてあんたの弁当つくらなきゃならないのよ。そのくせ小遣い月2万円は少ないとかぶーぶー言ってさ。あんたが酒やめればいいのよ。あたくしは家計を守ってるんだよ? なんで文句言われなきゃならないのよ。ねー次のボーナスってどうなの? ちゃんと出るよね? そのつもりでいるんだからね? もう二度と仕事辞めたいとか言い出さないでね?

 まだ上記のような苦行ではないのでふたりは楽しく皿などを洗いながら、本日の予定をぺちゃくちゃと話し合った。つくば観光も悪くないだろう、と京介が提案した。ただし未来を予測できると抜かす白衣のちょんまげ野郎と、目の色が左右異なる性格の悪い女に出くわさなければの話だ。

 シンクにこびりついた茶色い焦げを見つめ、京介がつぶやいた。

「色葉」

「ん?」

「なにが『ん?』だ」

「いま、いろはとつぶやいた」

「つぶやいてなどいない」

 春は「あ、そ」と言い、無理やり笑いかけた。

 いまのは〈伏線〉だろうかと考えながら、おずおずと肩を寄せる。

「あたくし、心の準備、できてる。逃げよう。そして一からやり直すの」

「いずれは浦安へ亡命しよう。だがその前に、わが信者にちゃんと伝えるべきだ」

「学校、戻れと?」

「納得できないだろうが」

「もちろんやで」

 京介は突然、洗い桶に顔面を突っ込む勢いでうなだれた。

「おれは一体、いままでなにをやってきたのだ。ラノベの使徒、だと? 客観的に見れば、勉強が嫌いな17歳の高校生がやり場のないフラストレーションを爆発させて世界を混乱に陥れただけではないか。そしてその締めは、関東第二高校の設立だ。一体どういうハッピーエンドなのだ。実質ラノベは敗北しているではないか」

「あたくしと出会えた」

「これも神の試練なのか。それとも」

「京介、ほんとのバカなら、だれもついていかない。ラノベの教えに可能性を感じ、だから、ついてきた。信者も、あたくしも、色葉も」

 京介はすすぎたての皿を乱暴に置いた。その音に春はぎょっとして身をすくませた。

「やめるのだ。そのワードはNGだ。今度そいつに言及するときは、名前の代わりにジャムあんパンと言うのだ」

「いつか、話してくれる? あんパンとなにがあったか」

「いずれ話すときが来るだろう。ああ、だが、やはり、なにもかもがどうでもいいと感じる。未来はおれを必要としていない。世界などどうでもいい。どうなっても構わない」

「京介、変わった」

「そうだ。おれは変わった。いまのおれは、気合いを込めて叫びながら走りまわる代わりに、黄色いエプロンを着けてオムライスをつくる優しい男なのだ。この甘々の生活をつづけよう。お互い年を取ることなく、永遠に」

「でも、みんなに飽きられたら?」

「〈打ち切り〉になっても構わずつづけるのだ。人気などクソでも食らえだ」

「あたくしたちが飽きたら?」

「そのときは温泉に行く。それが夫婦というものだ」

 京介は6.1畳の洋間に顔を向け、言った。

「そうだろう、忍者よ」

 忍者は返事をしなかった。

 京介はレイピアを抜きかけた春を制した。

「でも、だれか、いるんやろ」

「いるとは言っていない」

「言ったようなものじゃん」

「いや。おれが勝手に思い込んでいるだけだ」

「はあ?」

「忍者はどこにいるのか。もしかしたら洋間でお茶をすすりながら朝の情報番組を見ているかもしれない。もしかしたらいないかもしれない。じつはトイレに潜んでいるかもしれない。ベッドに寝転んでマンガを読んでいるかもしれない。可能性は無限大だ」

「頭、だいじょうぶか」

「そしてもしかすると、そもそも屋内にはいないのかもしれない」

 京介は春の手を取り、洋間へ向かった。

 忍者はいなかった。

 ひんやりとした夏場のこたつに入り、京介はテレビをつけた。お茶請けの饅頭を春にあーんさせ、じっと見つめた。春は唇を器用に波打たせ、おいしいことを伝えるために手のひらを頬にあてた。京介は残りの半分を自分の口に入れた。

「そもそも論、ゆっていい?」

「なんだ」

「忍者とはなにか」

 京介は朝の情報番組を見ながら言った。

「春よ。詳しくは言えないが、忍者は実在し、おれに用がある。関東第一高校の新たな刺客であり、自在に過去を改変できる過去学の教師だ。まだ会ったことがないので本当に過去を変えられるのかはわからない。だが本当であるならば、やつはいずれ、おれたちの過去半年をまるごと改変するはずだ。そうすればおれたちは、そもそも出会わなかったことになる」

「じゃ、それを、例の未来学者に予測させれば?」

「おれはあいつが嫌いだ」

「ゆってる場合じゃないよ」

「おれは人見知りはしない。見た目で人を判断もしない。なにかが引っかかったのだ。あいつをひと目見た瞬間に」

「つくば、脱出する?」

「近いうちに試してみよう。だがおそらく、いまの時点でつくばから離れるのは不可能だ」

「展開的にか」

「おれたちはしばらく、ここで甘々な生活を送らなければならない。しかもふつうの甘さではダメだ。舌が痺れるほどの激甘な生活を送る。おれと、おまえと、そして忍者とで」

「はあ?」

「忍者を、ここにいるものと思って生活するのだ。だが、いいか。忍者というものは、いると思えばいないものだ。それが忍びだからだ。だからとにかく思い込みで判断するのだ。いてほしい場所、いそうな場所。やつがどこに潜んでいるかは、おれたちが決める」

「わかったような、わからないような」

「春。おまえが好きだ。とにかく好きだ。そのきょとんとした顔、たまらなくかわいい」

「もう。京介ったら」

 京介が春の鼻をちょんと触れた。どちらともなく腰を浮かせ、顔を近づける。唇と唇が重なり合う瞬間、京介はクローゼットに顔を向けた。

「そして忍者よ、おまえも愛している」

「あのさあ。忍者タイム、時間帯決めてやらない?」

 春が白目を剥いて言った。


   ◇


「ふうむ」

 飯塚はそのころ、カーサつくばBのバスルームにいた。息筒をくわえて昨日の残り湯に沈み、口伝の流体力学的方法で深くゆっくり息を吸ったあと、盗聴用の防水スマホを耳から離し、感心したように喉の奥でうなった。

「岸田京介、やはりあなどれぬ男よ。偏執病的妄想の術、あれは敵の忍者をあぶり出す秘伝中の秘伝ではないか。ほかの教師が勝てぬのも当然」

 ぶくぶくとつづける。

「それにしても拙者、岸田京介の本命がわからぬようになってしまった。本当に一ツ橋色葉と仲たがいしたのか。本当に春を選んだのか。本当に春エンドで突き進むのか。気になる。気になりすぎる。だが、まあよい。結局おぬしらは、拙者の手により、そもそも出会わなかったことになってしまうのだ。せいぜい甘い生活を堪能するがよい。ラノベ史上最悪のバッドエンドを迎えさせてやるぞ。その名もぼっちエンド」

 しゃべりすぎて呼吸がつづかなくなり、飯塚はざばりと浮かび上がった。バスマットで足を拭き、音もなく玄関から出た。

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