第111話 過去の改変 前節はなかったことになりました

「いい奥さんになる、だと? ふん」

 忍者装束を纏った男が東京ドームの天井に立ち、おにぎりピクニックの様子を苦々しげに見下ろしていた。

「予言のつもりか、素人が。そういうのを『にわか』と言うのだ。まあいい。どれ、挨拶代わりに、プロフェッショナルのちがいを見せつけてやるとするか。もっともその『挨拶』も、一生気づくことはないのだが。ふはは」

 飯塚は唐突に印を結び、目を閉じ、過去に精神を集中させた。暗い柿色の装束をだいたい30秒ほど風になびかせたあと、かっと目を開き、忍刀を抜き、ドームの天井にあぐらをかいた。懐から巻物を取り出し、紐を解き、くるくると広げ、文鎮を置いて固定し、忍刀に忍ばせた忍万年筆を引っぱり出した。そして一説には森博嗣30人分とも40人分とも言われる執筆速度で、あっという間に原稿用紙換算枚数240枚程度を書き上げた。

 ものの40秒で推敲したあと、巻物を巻き、紐で閉じ、立ち上がった。関東第一高校出版局の方角へ向き、口にくわえて印を結ぶ。

 そのあとスマホでメールした。

 関東第一高校出版局からよこされた小間使いが、決死の表情でドームの屋根を這い進んでくる。担当編集者Nは小僧を平手打ちしたあと、言った。いいか、飯塚先生の原稿を受け取り、持ち帰る、それがおまえの役目だ。というより使命だ。これがどれだけ重要な仕事かわかってるな? 先生は、なぜか高いところがお好きだ。だからおまえに頼むのだ。ビルから落ちて死んだりした場合は、死にましたと報告するんだぞ。おまえの代わりなどいくらでもいるんだからな。

 行け。

 小間使いがようやく頂上にたどり着いた。無理もないが高さのあまりがくがくと全身を震わせている。

 飯塚は小僧に原稿を渡し、平手打ちしたあと、紛失したらおまえを煙突掃除人に変えてやるからなと釘を刺した。

 道中いろいろあったが、小間使いはどうにか関東第一高校出版局に戻ることができた。

 30分後、1冊の本が全国の書店に配布された。タイトルは『奥様の品格』(関東第一高校出版会)。本は瞬く間に3000万部のベストセラーとなり、権威が伝えたからということで新たな認識が社会全体に広まり、みるみるうちに合意を形成した。そして新たな社会通念そのものが、当事者本人たちの過去に影響を及ぼす。

 みんなと同じことを考えないと社会で生きていくことはできない。なので本人自身も、権威が名指しで指摘した新たな事実を信じ込んだ。わたしはせっかくこしらえたおいしいお弁当を忘れてくる間抜けです。おれはせっかくこしらえた弁当を忘れてくる〈彼女〉に失望の色を隠せない。くすくす。

 ということは、そもそも公園ピクニックなど楽しんでいなかったのではないか。そうだ、そうにちがいない。

 おれたちは公園ピクニックを楽しんでなどいない。

 そんなわけで1時間前に起こったはずの過去はすべて改変され、結果一ツ橋色葉は将来、品格のない奥様になることが決定した。


   ◇


 そのころ馬上の京介は、執拗に鳴り響くどんなクラクションにも負けない切実さで、おなかをぎゅるぎゅると鳴らしていた。

「腹が減った」

「ごめん」

「せっかくこしらえた弁当を忘れてくるとは。おまえはいい奥様にはなれない」

「なるつもりないもん、奥様」

 色葉はコンビニを探してきょろきょろした。

「必要なときにかぎって見つからないのよね。ピザでも取りましょう」

 最後の手段とばかりにふいっと指笛を吹いた。

「子供もそうやって育てるつもりなのか」

「だから奥様になるつもりはないんだってば」

 相乗りする五月がくすくす笑いながら言った。

「忘れてきたのはもっけの幸い」

 色葉はむっとして返した。

「なぜ?」

「お嬢様は、ラノベの〈ヒロイン〉だからです。〈ヒロイン〉中の〈ヒロイン〉だからです」

「わたし、料理は得意なんだけど」

 五月はハハハと笑った。

 本郷三丁目交差点を直進する。大小さまざまの雑然としたビルの森に、赤いのぼりが見えた。

 京介が指さし、言った。

「飯屋が見える。あそこで飯を食おう」

 京介の言う「飯屋」が近づいてくる。色葉は目を向け、眉をひそめた。

「茶屋に見えるよ。しかも江戸の時代の」

 比較的新しめのビルに挟まれた鼻クソのような土地に、小ぶりな入母屋造の建物がひっそりとたたずんでいた。店先には緋毛氈ひもうせんを敷いた縁台が1脚、設置されている。完全に歩道にはみ出しているが、道行く人々はとくに気にする様子もなく避けて通っている。

 江戸がコンセプトのコーヒーチェーン店かなにかだろうか。

 到着し、馬から下りる。

 馬を路駐しているところへ、着物姿の娘が給仕に出てきて言った。

「たけと申します。なにをお召し上がりになりますか?」


   ◇


 そのころ飯塚は東京大学医学部教育研究棟の屋上のいちばん高いところに立ち、おかしそうに喉を鳴らしていた。岸田京介は菜飯に漬物を乗せてがつがつとかき込み、一ツ橋色葉は味噌田楽をそろそろと口に入れている。もうひとりの食いしん坊はすでに食い終わっており、現在は京介の獲物を虎視眈々と狙っている最中だった。

「おお、そうだ。おぬしらラノベは、〈両親〉が嫌いだそうだな。どれ、拙者が殺してやろう。ひょっこり登場されては困るだろうからな。ふはははは!」

 哄笑したあと、飯塚は目を閉じ、過去に集中した。

「む。岸田京介の母親はペアレンツだったか。ではわざわざ消す必要もなかろう。では父親だ。ギャンブル狂いのヤクザ者ではない、真面目なサラリーマン研究者。高い月給を取り、一家3人を立派に養っておる。風体は冴えないが、これぞ男よ。だがラノベにおいては、ただの邪魔者よのう」

 飯塚はあぐらをかき、巻物を広げ、水渇丸をおやつ代わりに食べながら執筆した。

 タイトルは『こんなダメ親が子どもの将来を破壊する』だった。美人編集者にあっさり変えられてしまいそうな微妙なタイトルだったが、重要なのは言うまでもなく、中身だ。こうして岸田京介の父親は会社を辞め退職金をつぎ込み喫茶店を開くというベタベタのサラリーマンあるあるを冒し、波瀾万丈な人生を送ったあげく官憲のご厄介になり、服役から3ヶ月後、シャツで首を吊っているところを発見され、人騒がせな人生を自ら終える運びとなった。

 京介は飯を食いながら、生前の父親に思いを馳せていた。あのトラウマは一生消えることはないだろう。

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