第107話 英雄の帰還

 そのころ京介は、白馬にまたがっていた。

 いわゆるシルクハットをかぶり、前の裾を大きくカットしたいわゆるフロックコートを着け、いわゆる乗馬ズボンに長靴を履いていた。1週間前に知り合ったばかりの愛馬と一体となった京介は、前方の緩やかな緑の丘を駆け上がった。京介には知るよしもなかったが、丘はかつて渋谷公園通りと呼ばれた坂道だった。

 緑の絨毯はどこまでもつづく。見渡すかぎりの大自然ならぬ、見渡すかぎりの大不自然。一ツ橋氏が計画的に買収し、建物を取り壊し、舗装を引っぺがし、排水の悪いところはパイプを設置し、芝生を張り、植樹し、小川を掘り、橋を渡し、キツネやシカを放った、かつての田舎者の聖地、渋谷。支配階級の気まぐれという点ではイギリス紳士と通ずるところもあったが、たぶん共感はしてくれないだろう。

「どう、どう」

 京介は内腿で馬の胴を挟み、手綱をつかんだまま上体を起こした。馬は嫌がるように首を揺すり、右側へ向け、45度ほど旋回し、止まった。いい子だと馬に話しかける。馬はぴょこんと立った耳を動かす。接すれば接するほど、この美しい生き物に愛着がわいてくる。猫もいい。犬もいい。だが馬はまた別の魅力がある。

 電話がかかってきたので、京介はスマホをポケットから取り出し、画面をタップした。

「よう」

「なんの用だ、神よ」

「とくに用はないよ。いま出先からかけている。調子はどうだ」

「絶好調だ。いまは不自然な大自然で、乗馬の訓練をしているところだ」

「好きにしろ。いまやおまえはラノベの王にもっとも近い男、もはや伝えるべき〈お約束〉もない。その調子で関東第一高校を打ち倒し、日本をラノベで埋め尽くすのだ。おまえ、テレビは見たか。いま関東はすごいことになっているぞ」

「ここにはテレビもない。ラジオもない。関東では一体なにが起きているのだ」

「かつての無能階級、おまえがさいたまで改宗した約150万人が、先に改宗済みの不勉教信者約11万人とともに、都内で思い思いのラノベを展開しているんだ。圧巻だぞ。9割9分は箸にも棒にもかからない1次落ちレベルだが、中には個性と才能がきらりと光る者もいる。そうだ、おまえ、特別審査員をやってみないか」

「関東第一高校は現在どうなっているのだ」

「高校? ああ、目も当てられない有様だよ。Fラン大学も真っ青だ。おまえのせいでな」

「おれのせいなのか」

「そうだ。おまえがやったのだ。おまえが日本の教育を根本からダメにしたのだ」

「なぜ非難するのだ」

「非難じゃない。嬉しいんだよ。ラノベの神としてはな」

 京介は罪の意識を振り払うように頭を振り、馬の胴を蹴った。馬は瞬時にギアを上げ、速歩でかつての代々木公園に侵入した。恐るべき速度で木々のあいだを駆け抜ける。激しい上下運動に通話どころではなくなったので、あわてて常歩に切り替えた。乗用車並みの扱いを受けた白馬は、横目で京介を見上げ、五体満足で下馬したきゃそれ相応の角砂糖を用意しなと伝えた。

 神が言った。

「まあ、とりあえずは自分のラノベに集中することだ。大団円まであと少し、そろそろ〈フラグ〉の回収も考えておけ」

「〈フラグ〉とはなんだ」

 なんとはなしに返すと、神は大塚明夫似の声で「はうっ!?」と絶句した。

「おい、冗談はよせよ」

「冗談ではない。ふつうにたずねている」

「なぜラノベの〈主人公〉が〈フラグ〉を知らないんだ。いまどき〈フラグ〉くらい、そのへんの一般人でも知っているぞ。つまり、あれだ。個性豊かな〈ヒロイン〉たちとの、心に残る数々の名シーンがあっただろう。思い出してみろ」

 京介は言われるままに数々の名シーンを思い出そうとしたが、頭に浮かぶのは個性豊かな教師たちの邪悪な哄笑ばかりだった。

「おまえはやはり半人前だ。任せてはおけん」

 神は前言を撤回した。

「いい機会だ。つくば編は、〈ラブコメ〉にしよう。おまえはかの地で〈ヒロイン〉ととっかえひっかえ付き合い、それぞれのよさを引き出しつつ、ときに〈難聴〉に悩まされながら、最終的にひとりの女の子を選ぶ。どうだ、楽しそうだろう」

「そもそもなぜつくばなのだ」

「それはこれから決める。だが〈ラブコメ〉をするには、〈ヒロイン〉が足りない」

「色葉が代々木屋敷の〈メイド〉さんを引き入れると言っていた」

「いいぞ。これで4人だ。あとひとりは、だれにしようか。ああ、そうだ。いい子がいたぞ」

「〈ラブコメ〉は構わないが、あまり人の人生をコントロールしないでほしい」

「神なんだから仕方ないだろう。それからあとで1次選考通過作品を送るからな。暇なときに目を通せ。じゃあな」

 神は通話を終わらせた。

 白馬はいつの間にか速度を落とし、てくてくと森を進んでいた。かかとで馬の横腹を蹴る。やがて森が開け、不自然に流れる美しい小川に突き当たった。

 そして小川の向こう、柵を越えた一角には、赤い屋根と白壁のチャーミングな代々木屋敷が建っていた。京介は思わず満足のため息を漏らした。色とりどりの木々や花々に囲まれ、陰からそっとのぞき込む乙女のように、その愛らしい姿を見せている。京介には恥じらう乙女のように見えていたが、一部の人間にとっては悪の中枢以外のなにものでもなかった。

 あの美しい屋敷と庭園を目にするたび、京介は思う。つくば編とは異なる、もうひとつの未来。手を伸ばせばすぐそこにあるのだ。つまり、このまま〈ヒロイン〉たちと、穏やかに一生を過ごせたら。この1週間は、かつてないほどに平和だった。〈バトル〉的なつかの間の平和ではなく、ようやく安住の地を見つけたという、絶対不変の心の平穏だった。「やっぱりわが家がいちばん」と思わず口走りたくなる、そこで幕が引いてしまうたぐいの心の満足感だった。この1週間は、ラノベを忘れ、〈無駄な会話〉もせず、もちろん〈バトル〉もせず、〈下手な料理〉も〈混浴〉も〈ラッキースケベ〉もなく、〈曲がり角〉で色葉とぶつかって中身が入れ替わったりもせず、とにかく文字どおり静かな時を過ごしていたのだ。もちろん高校にもかよっていない。

 一ツ橋氏の財力をもってすれば、全員の扶養など造作もないだろう。3世代どころか未来永劫養うことだってできるはずだ。だが、それでいいのだろうかとも思う。それをして人間の生と呼べるのだろうか。目的もなく、危険もなく、ラノベもなく。10年、20年と〈日常〉をつづけ、仲良く年を取り、やがて土に帰る。なにをしようと、ノーベル平和賞を受賞しようと、死ねば同じ。林が言ったとおり、人は平等なのだ。

 人生は壮大な暇つぶしだ。

「はっ!」

 京介は鞭を入れ、代々木屋敷に別れを告げる。全速力で渋谷の大自然を駆け、かつての明治神宮を越え、かつての新宿を越え、勢い余って東京都庁にたどり着いた。

 白馬の王子の突然の出現に、道行くサラリーマンがぎょっと立ち止まった。京介の顔を認めると、さらに重ねてぎょっとした。

「き、岸田京介」

 声を上げて指をさす者がそこここにあらわれた。そして「岸田京介だ!」と言った。京介は眉をひそめた。外国人観光客がスマホを持ち上げ、京介の勇姿を映像に収めた。黄色い観光バスがゆっくりと交差点を左折する。乗客が窓に張りつき、かなり興奮しながら京介に手を振った。

 詳細はのちほど説明するが、京介はいまやお茶の間の人気者だった。

 京介は馬上から東京都庁第1本庁舎を見上げ、ふいにアイデアがひらめいた。乗馬をラノベの必須科目としよう。ラノベの〈主人公〉たる者、馬のひとつも操れなくては格好がつかない。ここで「てかラノベで乗馬とか必須じゃないし!」と思わず口走った読者諸君は、いまからでも遅くはない、来たるべき新たなラノベにひれ伏し、慈悲を乞い、心を入れ替え、喝采をもって迎え入れるのだ!

 そう。未来はすでに決定されている。この岸田京介こそが、いずれすべてのラノベを統べる王となるのだ!

 昨日まではそうだった!

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