第96話 チーズおじさんの怪

 翌日。

「商売繁盛しているかね」

 ステラタウンと呼ばれるユニクロださいたま第9工場付近の道路上でゴザを敷いて店開きしていると、口髭を生やした顔色の悪い男が突如出現した。なぜか虫取り網を持っている。

 京介は面を上げ、男の顔を見たとたん、ふいに悪い予感がした。

「酒を買いに来たのか。無能階級にしては年を取りすぎのようだが」

「酒? ああ、そうだな。じゃあ、1瓶もらおう」

 男はズボンの裾をまくり上げ、靴下の中から折りたたんだユニクローネ札を取り出し、ゴザに放った。

「ご祝儀だ。〈VR〉で酒の販売とは考えたようだが、はっきり言っておく。無駄だ。無駄なうえに無意味だ」

「おまえはだれなのだ」

 札を拾った色葉が顔を上げ、目を見開いた。

「もしかして、林先生ですか?」

「林?」

 京介が繰り返す。春が酒瓶をあおり、すっと目を細めた。

「りんびょう」

「りんびょう?」

「チーズおじさんだ!」

 美佐子ちゃんが顔を輝かせた。

「チーズちょうだい! チーズちょうだい!」

「よしよし。ほら、人間の食べ物だぞ。塩分たっぷりだぞ。どんどん食え」

 林はポケットからチーかまを取り出し、ゴザに放った。美佐子ちゃんは歓声を上げ、文字どおりかぶりついた。切歯でケーシングに穴を開け、爪でひっかいて破り、肉球で押しつぶし、中身をにゅるりと絞り出した。

 ぺちゃぺちゃと食べる美佐子ちゃんを、貴子さんは心配そうな表情で見守っていた。

 色葉が美佐子ちゃんを抱きかかえ、チーかまを奪い取った。

「返して!」

「人間の食べ物は食べちゃダメ」

「いいじゃない、〈VR〉なんだから!」

「そうそう。〈VR〉、〈VR〉。すべては架空の世界、夢物語だ。なにをしたって、どうせ人は死ぬ。猫もね」

 京介はあらためて林ことりんびょうことチーズおじさんに言った。

「はじめて見る顔だが、さまざまな呼び名を持つ教師よ。おまえは関東第一高校の新たな刺客として、おれたちを阻止するためにあらわれたのか」

「刺客? ああ、そうか。まあ、いちおうは、そうだな」

「むしろいままでどこでなにをしていたのだ」

 林はゴザにすわる面々をひとりずつ指さして言った。

「ラノベ、ラノベ、ラノベ、子猫、美猫。すばらしい。さすがは岸田京介だ。ぼくが10年も探して見つからなかった最高級の〈けもの〉を、1週間であっさり見つけたぞ。ラノベの〈主人公〉は間抜けのクズぞろいだが、このように美しい〈ヒロイン〉を引き寄せる特殊能力を持っている。ぼくの計画どおり、事は運んでいる。そこの美猫、名前は?」

「貴子です」

「いい名前だ」

「そうですか」

「それに、いい柄をしている」

「ありがとうございます」

「そうか、なぜ見つからなかったのかわかったぞ。きみは偶然酒の造り方を発見し、ずっと居酒屋で働いていたんだな? いじめられるために外に出ることもなく。だから見つからなかった」

「そのとおりですが、わたしになにか用がおありなのですか」

「ある。詳細はのちほど話す。とにかく一緒に来るんだ」

 林はゴザに侵入し、貴子さんの腕をつかんだ。

 京介が止めるよりはやく、一太郎が林の手首をつかみ、振り払った。

「なんだおまえは。ああ、そのネルシャツ、中卒か。どうした、小遣いでも欲しいのか」

 一太郎はにらみ上げた。

「中卒と呼ぶな」

「なぜだ。中卒は中卒だろう。事実を言っているまでだ。労働もせず、なにをぶらぶらしている」

 京介が答えた。

「こいつは仲買人のひとりだ」

「なるほど、雇用を創出したわけだ。そういう救い方もあるか。だがユニクロオンラインには、そもそも経済なんてものはないんだよ。そんな不安定な世界を、ぼくがつくらせるわけがない」

 林は話の途中でフェイント的に腕を伸ばし、貴子さんをつかんだ。京介が林を押し戻し、それから全員で盾になった。

「残念。まあ、おまえらラノベは、〈VR〉でよろしくやっていなさい。止めるつもりはない。むしろ推奨する。サーバーセンターに侵入して物理的に破壊するという選択肢は思いつかなかったのかな。わざわざログインして戦うなんて、ラノベはやっぱりバカだね」

「貴子さんになにをするつもりかは知らないが、立ち去るのだ」

「『立ち去るのだ』と言って立ち去るようなやつはそもそも敵とは呼ばないだろう。ラノベは本当に〈無駄な会話〉が好きなんだなあ。こういうときはなにも言わずに不意を突くものなのだが、ラノベの先人には敬意を払わなければならない。よし、いい機会だ。ぼくも〈無駄な会話〉をするぞ!」

〈会話〉をすると言っておきながら、林は虫取り網を振り上げ、貴子さんの頭にズボッとかぶせた。

「捕まえた!」

 とくに抵抗を見せない貴子さんを全員で救出した。

 京介は虫取り網の柄をつかみ、ぐいと引っ張った。

 林はパッと離した。それから買ったばかりの酒瓶をバットのように持ち、剣呑に振り上げた。

 京介はビクッとし、かばうように手を持ち上げた。

 林は瓶を下ろした。

「岸田京介。いまビクッとしただろう。恥ずかしい、恥ずかしい」

「ビクッとしていない」

「した。ビクッてした。一瞬」

「していない」

「した」

「していない」

「いやした」

「やめて」

 色葉が止めた。

「なぜ止めるんだ。〈無駄な会話〉の練習をさせてくれよ」

「林先生、なぜ貴子さんに固執するんです」

「いい質問だ。じゃあここでひとつ、〈バトル〉をしよう」

「答えになっていません」

「ならばこれはどうだ。ぼくにおっぱいを揉ませろ」

「頭だいじょうぶですか?」

「ああ、難しい! 〈無駄な会話〉は難しいなあ! これで本当にラノベが務まるのかなあ! ところで岸田京介、虫取り網を返してくれないか」

 京介は返した。

「ありがとう。では〈バトル〉だ! 行くぞ!」

 林は歪んだ性格を象徴するように口ひげをにやにやさせながら虫取り網を持ち上げ、「えい」と京介の兜に落とした。かちっという打撃音とも言えない打撃音が鳴った。

「ほら、次はおまえの番だ。〈技名〉を叫んで反撃しろ。かっこいい大剣だな。思いっきりぼくに振り上げろ。ただし『守るッ!』と叫ばなければならないよ。そうしたら、あっちの看板まで吹っ飛んでみせるから。ほら」

 京介はいちおう立ち上がったが、林の発する正体不明の気持ち悪さになにをどうしていいかわからず、ただ顔を歪めて見つめるのみだった。敵がどうこう以前に、一緒にいたくなかった。

「なんだ、反撃しないのか。じゃあぼくの勝ちでいいのか。どっちでもいいか。では横たわって苦痛にうめいていなさい。その隙にぼくは猫をいただく」

 貴子さんに顔を向け、天然本真珠のように見つめる。

「見れば見るほど美しい〈けもの〉だ。これはまちがいなく、まちがいないぞ。ところできみ、風俗店で働いたことはある?」

「なんの話でしょう」

「なんでもない。とにかくきみは、ぼくと一緒に〈お風呂〉に入るのだ」

 京介は止めようとあいだに割って入ったが、〈お風呂〉の3文字にコミュニケーションがあさっての方向へ飛んでいった。

 貴子さんが表情を険しくした。

「お風呂」

「もうぼくたち兄妹には、時間が残されていないのだ。姉弟になってからでは遅いのだ。いますぐ入ろう。〈お風呂〉に入ろう」

「もしかして、あなたは本当に、あの」

「そうだ。わたしがあの、チーズおじさんだ。フェリスの伝承は、もちろん知っているだろう」

 貴子さんは答えなかった。色葉が貴子さんの耳元にささやいた。

「どういうこと? どういう展開なの?」

 貴子さんは聞いていなかった。じっと林を見つめる。

「おいしいおいしい人間のごちそうを、猫たちにたくさん食わせてやれる。おまえの犠牲によって、ほかの猫たちを幸せにできるのだ」

「わたしが選ばれるなんて」

「心の準備もタオルの準備も必要ない。いますぐぼくとスーパー銭湯に行こう。さいたまといえば温泉施設。そうだ、今回は株式会社温泉道場が運営するさいたまでいちばんクールなスーパー銭湯、おふろ cafe utatane に行こう」

「おふろ cafe utatane」

 林は貴子さんの手首をつかんだ。

「わが〈妹〉が、バスタオル姿で待っている。いますぐ行こう、おふろ cafe へ!」

「やめるのだ」

「なんだ、まだいたのか。なにをやめろと言うのだね、アンダーアチーバー京介」

「その前に、〈お風呂〉とはなんだ。なぜ貴子さんが、おまえと一緒に〈お風呂〉に入らなければならないのだ」

「来たぞ、FAQタイムだ! 〈主人公〉がたずね、敵であるぼくが律儀に答える。みんなは読みやすいセリフで情報を得る。なんて単純な世の中だろう! ぼくが簡単に秘密をべらべらとしゃべるような浅はかな男に見えるか? 見えるだろうな。実際浅はかだからな。ああ、ラノベって本当に難しいなあ! ここは答えるべきなんだろうなあ! だがこればかりは、今度ばかりは、べらべらと秘密を漏らし、おまえらに阻止されるわけにはいかないのだ! ああ! みゆき! ああ! ああ!」

 京介は充分な距離を取りながらたずねた。

「みゆきとはだれなのだ」

「さすがは現役〈主人公〉の問いかけ、思わず〈妹〉の名前を漏らしてしまったようだ。だが、教えるものか。これ以上は教えるものか。絶対に教えるものか。おまえもな、たまには世界に頼らず、自分の頭で考えてみたらどうだ。わずかなヒントから類推し、リスクを負って行動を起こし、しっかり苦労したうえで、次の展開を見つける。それでこその冒険じゃないか。まあいいや。とにかくこの美猫はぼくがいただく」

「手を離すのだ」

「見れば見るほど美しい顔。その顔をビオレで洗顔しよう。その髪をメリットで洗髪しよう。そしてぼくとぼくの〈妹〉とともに、湯船に浸かる。そのとき」

 そのとき。

「おおい!」

 いがぐり頭の日焼けした高校生男子が鬼の形相で駆けてきた。

「京介! りんびょう先生をとめろ!」

「敏吾」

 京介はわかりやすく親友の名を口にした。敏吾は激走しながら手のひらを突き出し、黄色いIQ弾を放った。さらに基本4属性すべての攻撃魔法を放ち、京介に向けて回復魔法を放ち、ついでにベヒモスを召喚し、ぼくらの敵をやっつけてとヘリに命じた。

「ちっ」

 描写不可能な状況に、さすがの林も色を失い、貴子さんの腰から手を離した。

 すばやく肉球を握りしめ、言う。

「明日だ。明日の朝、迎えにいくぞ」

「朝からお風呂ですか」

「問題はない。おふろ cafe utatane は、朝10時から受付を開始しているんだ。タオルを用意して待っていろ。よもやチーズおじさんから逃げようとは思わない。そうだな?」

 貴子さんはうなずいた。

「みんなが幸せになるのなら」

「勇気ある女性だ」

「お風呂に入るだけですから」

「よし。忘れるな。チーズだ! ではさらば」

 林は絶賛攻撃中のベヒモスを見上げた。恐るべき爪の一閃を虫取り網で受け止め、死の角を跳躍で交わし、後方宙返りしたあと少し離れたところへ着地した。棒術使いのように虫取り網をくるくるまわし、本当はこんなことしたくないんだけどと言いたげなだらしない笑みを浮かべながら、「えい」と柄の先端を地面に突き下ろした。

 どうせなにも起きないだろうと一行は余裕を持って見守った。

 空気が爆発した。

 圧倒的な気圧差に、酒売りヒーローたちは露店もろとも吹き飛ばされた。京介は100メートル先のださいたま北区役所に頭から激突したが、鎧のおかげでダメージはなかった。色葉はホームズ宮原店に激突したが、ユニクロを重ね着していたおかげでダメージはなかった。アーマード春は一定の衝撃条件をクリアした際に発動するキックバック機構によって中空にとどまり、ダメージどころか懐を潤わせた。

 渦巻く気流が安定するとともに、へ、へ、へ、という気持ちの悪い笑い声がじょじょに薄れていく。土がばらばらと降り注ぐ。

 視界が開ける。言うまでもなく、林は消えていた。


   ◇


 真のリアルな反応としてはケヤキ並木も広告看板も吹っ飛んでいなければならないほどの衝撃だったが、ただの背景なので葉っぱひとつ落ちていなかった。ただし動かせるオブジェクトである路上に敷いたゴザだけはきれいにすっ飛んでいた。

 京介は鎧に感謝しようか迷いながら仲間ひとりひとりに駆け寄り、声をかけた。

「全員無事か」

 ベヒモスを含め全員無事だった。

「酒瓶以外はね」

 色葉が割れた一升瓶を地面から拾い、言った。

「よけいなところだけはリアルなんだから」

「せっかく造ったお酒が。わたしのかわいいラベルつきのお酒が」

 貴子さんがださいたま北区役所の敷地内へ駆けた。やはり猫だからか、従業員のみなさんの苦労については意識が向かないようだった。

 芝生や広場を歩きまわり、割れていない酒を拾い集める。色葉と春も加わった。

 敏吾が京介の腕をぽんとたたき、言った。

「ようやく出会えたな、親友よ。さっそくだがきみに話がある」

「その前にベヒモスを元の世界へ戻すのだ」

「戻したぜ」

「おまえはほかにどんな特技があるのだ。今後友情をつづけていくためにも、教えてほしい」

「ポルタリングができる」

「あんなものはおれにだってできる」

「意外とコツがいるんだぜ。おっ」

 敏吾の最大最凶の特殊能力が、ヘリの向こう側に身を潜める少女の気配を察知した。

「そこにいるのは、あのときの少女だろう? 奇遇つづきじゃないか」

 美佐子ちゃんが引きつった顔をのぞかせ、ヘリを見上げて命じた。

「あの人をあたしに近づけさせないで!」

 京介は敏吾の肩をつかみ、無理やり振り向かせた。

「あらためて聞くが、一体どこで油を売っていたのだ。〈偶然ばったり出会う〉にしては、かなり遅めの偶然ばったりではないか」

 敏吾はしばらく放心したような表情で京介を見つめていた。突然目の焦点が合い、京介の腕をつかみ、叫んだ。

「聞いてくれ!」

「聞いている。だいぶ前から」

「もう時間がない。きみたちはいますぐ〈混浴〉をしなければならないんだ!」

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