第95話 大切なことはすべてセリフが教えてくれた

 敏吾は目を開けた。

「目が覚めたか」

 固いソファに横たわっている。頬にごわごわした合皮の感触がある。なじみのある感触で、社会常識的に横になってはいけないタイプのソファだった。起き上がろうと力を入れる。頭がずきりと痛んだ。ケガをしている。たしか殴られたはず。しばらく安静にしなければ。すると別方向から、これは〈VR〉なのだ、という思考がすべり込んできた。

 思い切って上体を起こした。

「なにか食べるか」

 アイパッチを着けた男が正面にすわっていた。

「刑法学者の木村先生」

「いちいち名前を口にしなくてもいいと何度も言っているだろう。わかりやすくアイパッチまで着けたのに、おまえらは出会うたびに名前と肩書きを口にする。まあいい。これで血を拭け」

 木村は銀色のペーパーナプキン差しからペーパーナプキンをごっそり引き抜き、敏吾に渡した。敏吾は受け取り、こめかみを拭った。ナプキンを見る。思ったよりたくさんの血がついていた。指先でまさぐり、やがて裂傷を発見した。リアルな血液と皮膚組織が指先に付着した。

「ここはどこです」

「心配ない。ここは安楽亭だ。安全は保証する。安楽亭の『安』は安全の『安』だからな。安心したか」

「いいえ」

「とりあえずハラミを4人前、頼んでおいた」

「本当ですか」

「いや、冗談だ」

 痩せた頬をにこりともさせず、木村は空の伝票差しをもてあそびはじめた。

 敏吾は大理石然としたテーブルを見た。中央にまるい金色の穴が開いていて、焦げのついた網が敷かれている。たしかに安楽亭のテーブルだった。まごうことなき安楽亭のテーブルだった。窓際のボックス席にいる。木村ははす向かいにすわっている。

 建物内を見まわす。同じような4人掛けのボックス席が10ほどある。中央入り口付近にレジカウンターがあった。

 客も店員もいない。焼肉屋らしからぬ静寂が支配的だった。

「ここはださいたま地区。おまえらが救おうとしている中卒の溜まり場だ」

「焼き肉は食べられないんですか」

「おまえは安楽亭で焼き肉を食べるのか」

 奇妙な問いかけに、敏吾はあらためて木村の顔を見た。ふいに気絶する前の記憶が蘇り、怒りが沸き上がってきた。

「なぜぼくを気絶させたんです」

「まずひとつは、7歳の少女に手を出しかけていたからだ」

「そうですか」

「もうひとつは、おまえに話があるからだ」

「なんですか」

「言っておくが、わたしは〈無駄な会話〉をするつもりはない。ひとつだけ言う。ユニクロに手を出すな。林にもだ。岸田京介に伝えろ。いますぐログアウトし、〈VR〉世界から身を引くのだ、と」

 木村は伝票差しをテーブルに置き、尻をスライドさせてボックスから抜け、立ち上がった。〈無駄な会話〉はしないの宣言どおりくるりと背を向けたので、敏吾はあわてて腰を浮かせ、問いかけた。

「なぜ〈VR〉を去らなければならないのですか。理由を教えてください」

「ラノベごときが手を出す問題ではないからだ」

「理由も伝えずに『ひとつだけ言う』は、充分ラノベの範疇ですよ。答えてください」

 木村は答えず、窓の外を眺めた。敏吾は変わり果てた木村の横顔を観察した。白髪化した髪をオールバックにし、うなじのあたりで結わえている。革のロングコートに革の手袋を着け、腿が膨らんだ時代錯誤の将官用乗馬ズボンに軍靴を履いている。腰にはホルスターに収まった拳銃がちらついている。

 キャラ変わりすぎじゃね?

 木村は唐突に振り向き、腰を下ろし、尻をスライドさせて窓際に寄った。手を組み、敏吾を正面から見据え、言った。

「おまえらのミッションが成功したとしよう。ユニクロオンラインを閉鎖に追い込み、中卒の連中を現実に引き戻し、その存在をもってして格差の実態を世間に訴える。それはいい。冒険の成果としては申し分ない。だがそのあとはどうなる」

「そのあと、ですか」

「現実社会に突然放り出された中卒の面倒はだれが見る? 民間にそんな義務はない。では政府か? 仕事は? 住居は? 最低限の生活の保障は? 公共事業を用意するから1年か2年待ってくれとでも言うのか? そして暴動、混乱。文字どおりの階級闘争は、経済活動にも影響を及ぼすだろう」

「まちがっているものはまちがっている。そうでしょう。ユニクロはまちがっている。無能階級も同様にまちがっています。オンライン上で働き、リアルで消費するなんて。そんなものは人生とは呼べない」

「いや、雇用は雇用だ。ユニクロは賢い。企業体として利益を上げながら、雇用を創出し、さらには〈VR〉テクノロジーによって格差問題をうまくオブラートに包んだ。ノーベル平和賞ものだ。まあ、大衆には受けは悪いだろうが」

「でも、人間扱いしていない。無能階級だって人間だ。選択の自由があるはずです」

「失職が人間の尊厳か? おまえ自身が働き口を失っても、同じことが言えるのか? まったく、ラノベの分際で、くだらん大義に目覚めおって。岸田京介がかつて叫んでいた『世界はまちがっている』は、もともと体勢への反逆というステートメント以上のものではなかった。そこへ無理やり目的を付与し、格差と貧困という問題を引っ張り出し、具体的に世界を変えようと活動している」

「ぼくらが問題をつくったわけじゃない。世界のほうから問題がやってきたんです。関東第一高校の超エリート教育は、格差を助長し、階級社会を後押ししている。ぼくらラノベは関東第一高校と戦っている。方策のひとつとして格差の是正が導き出されたのは理の当然だ」

「そんな小難しいものは無視すればよかったのだ。おまえらはラノベだ。ラノベはラノベらしく、現実から目をそらし、高校を舞台に、いつまでも寒々しいコントを繰り広げていればよかったのだ。〈料理〉を食い、胸に触り、〈着替え〉をのぞき、意味不明な〈部活動〉に終始していればよかったのだ。わめくだけなら子供でもできる。そうだろう。変化に対する責任も負えない者に、世界をどうこう言う資格はない」

 言葉に詰まり、敏吾は黙った。

「いまさら〈日常系〉には戻れませんよ」

「だったら宇宙人とでも戦っていればいい。ラノベに意味を見いだそうとするな。ただでさえ岸田京介は、旅の過程で、複雑かつ摩訶不思議な『現実』に気づき、その現実におけるおのれのありようを考え、混乱している。これ以上やつを学ばせるな」

「あいつは」

 敏吾は言いかけたセリフを飲み込み、考えた。

「たしかに、タヒチ後の京介は、ほんのわずかだが思慮深くなったかもしれない」

「やつは成長している。ラノベの〈主人公〉にあるまじき『成長』だ。さらに岸田京介はいま、ユニクロとの戦いにおいて、初歩的な経済の仕組みを実地で学ぶだけでなく、民主政の基礎、つまり表現の自由までも学ぼうとしている。格差の是正という具体的な案を持ち、世論に訴え、多数派の指示を得、策を実行に移す。これはもはや、ラノベではない。ちょっと背伸びしたライト文芸だ。お勉強の成果だ。だが所詮はライト。専門家や有識者は鼻で笑い、かつてのファンは『黙ってラノベやってりゃよかったのに』とガッカリする。だれも喜ばない中途半端な結末が、おまえら自身に待ち受けているのだ」

 木村は再び尻をスライドさせてボックスから抜け、席を立った。

「とにかく、ラノベはラノベらしくしろ。〈バトル〉なら飽きるまで付き合ってやる」

 木村が背を向けたので、敏吾はあわてて腰を浮かせ、問いかけた。

「木村先生は、なぜぼくらの味方をするんですか」

「味方ではない」

「ラノベに寄せた格好をしているじゃないですか。なかなか渋いですよ」

 木村は横顔を見せ、言った。

「正直に話そうか。わたしは、おまえらにラノベをつづけてほしいと思っている。おまえらのラノベのほうがマシだからな。林のラノベに比べれば」

「りんびょう先生の、ラノベ?」

「そうだ。林は愛する〈妹〉のため、自らを、そして日本をまるごとラノベ化するつもりなのだ」

「どういうことですか。説明してください」

「説明するつもりはない」

「『説明するつもりはない』も、充分ラノベの範疇ですよ。説明してください」

 木村は横顔を向けたまま、しばらく窓の外を眺めた。おそらく腰を下ろして話しはじめるだろうと敏吾が思ったその瞬間、唐突に腰を下ろし、尻をスライドさせて窓際に寄った。

 それから木村は林の〈妹〉とその病気について語った。

「おっとり病?」

「せっかく省略したのにいちいちセリフにするな」

「仕方がないでしょう、ラノベなんですから」

「だいぶ説明が長くなってきている。質問があるなら手短に言え」

「〈妹〉さんの病気とラノベに、一体どういう関係があるんです」

「ラノベの人物は年を取らない。そうだな?」

「そうなんですか」

「なぜ年を取らないのか。ラノベ創世の時代、神が地と天を造られた日、人は死に至ることなく、年も取らなかった。ラノベ創世記の第3章は知っているか」

「いいえ。なんですか、そのラノベ創世記って」

「神の忠告に従わず、〈ヒロイン〉はヘビにそそのかされ、園の中央にある木の実を取って食べた。一緒にいた〈主人公〉にも与え、食べさせた。するとたちまち目が開かれ、ふたりは裸でいることに気づき、イチジクの葉で前垂れをこしらえた。『お、おまえ』『なに?』『胸、意外と大きいんだな』『バカぁっ!』。〈ヒロイン〉は〈主人公〉の頭をぽかすか殴りながら追いまわした。〈ヒロイン〉は木の根につまずき、〈主人公〉を押し倒すようにして倒れた。気づけばなぜか〈馬乗り〉の体勢で、〈主人公〉はなぜか〈ヒロイン〉の胸をわしづかみしている。ふたりはしばし見つめ合い、そして。『し、死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!』『うぎゃぁぁぁぁぁっ!』。神は約束を破ったことよりチープなラノベ展開に怒り、ふたりをエデンの園から追い出した。神は〈ヒロイン〉のためにエロい制服を造って着せ、いわく、『人はわれわれと同じく、善も悪も知るようになった。今度は服を脱いで、お風呂場で〈混浴〉するかもしれないぞ。いやはや』」

「ラノベは教わらなかった」

「人は裸であることに気づき、ゆえに〈ラッキースケベ〉を知った。そして〈混浴〉。だがラノベのエロは、決して満たされることはない。神の約束を守っていさえすれば、いいところで失神することもなく、〈湯気〉などで姑息に隠すことなく、あんなところからこんなところまで、〈混浴〉のすべてをお見せできた。あんなことやこんなことも的確に描写できた。全員大満足だ。さて、3章24節には、こうある。『神は登場人物を追い払い、エデンの園の東にケルビムと自転する剣の炎とを置き、お風呂場への道を看守らせることになった』。この自転する剣こそ、ラノベノミクス3種の神器のひとつ、大胆な〈混浴〉の剣」

「大胆な〈混浴〉の剣?」

「いちいち繰り返すな。だが重要なキーワードであることに変わりはない。大胆な〈混浴〉の剣は、最強の〈混浴〉を果たした者にのみ与えられる伝説の武器。手にした者はすべてのラノベの王になると伝えられている」

「伝説上の話でしょう。実在するはずがない」

「おまえらは関東第一高校で、ありとあらゆる学問分野を学んでいる。そうだな? だがラノベ学だけは教わらない。不思議に思ったことはないか」

「あります。みんなよく口にしていましたよ。赤坂アレクサンドリア図書館ヒルズにも、これといった文献もなかった」

「〈混浴〉の剣は実在する。しかも日本国内に」

「なぜ日本に」

「当然だ。日本はラノベの総本山」

「日本のどこに存在するんですか」

「話すつもりはない」

 尻をスライドさせようとする木村を押しとどめ、敏吾は質問を繰り返した。

「さいたまだ」

「さいたま?」

「クールとはもっともかけ離れたさいたまの地に、剣は眠っているのだ」

「りんびょう先生は、もちろん知っているんですよね」

「ああ、知っているだろう。〈混浴〉の剣を手に入れ、ラノベの王となり、年を取らなくなった〈妹〉とともに、永遠にラノベをつづける。王の力と遺伝経済学者としての知識によって、世界を文字どおりつくり替えるだろう。林のラノベは危険だ。〈妹〉しか出てこない、非常に偏りのあるラノベだ」

 敏吾はごくり、と喉を鳴らした。

「11歳以下の少女も、ひとりも?」

「11歳以下の少女はそもそもラノベではない。おまえは根本的にラノベを誤解している」

「だったら大胆な〈混浴〉の剣を、ぼくたちが先に手に入れなければ」

「そうだ。だいぶラノベらしい展開だろう。経済ゲームより、伝説の武具を奪い合うほうがずっといい」

「手に入れるためには、りんびょう先生より先に、神をも殺す〈混浴〉をすればいいんですね。京介と、色葉と、春ちゃんで」

「おまえらの〈ヒロイン〉の地味さはさておき、アピールすべき胸の大きさは揃っているようだ。意外と大きな胸に、ぺたんこ。だがそれだけでは足りない」

「だいぶ人でなしの会話ですよ」

「わかっている」

「大きい胸と小さい胸。それ以外にどんな胸があるというんです」

 木村はすばやく尻をスライドさせてボックスを抜け、立ち上がった。敏吾が問いかける間もなくくるりと背を向け、足早にレジカウンターへ向かう。本当に立ち去るつもりのようだ。敏吾はあわてて尻をスライドさせてボックスを抜け、立ち上がり、木村に駆け寄った。

「待ってください!」

 コートに手をかけた、その瞬間。

 敏吾はコートの奥からのぞくルガーの銃口を見た。

 顔を上げ、静かにたずねる。

「撃つつもりはないんでしょう」

「これだけセリフで説明したのだ。いくらなんでもしゃべりすぎだ。あとは実地で気づけ」

「殺生ですよ。だったらはじめからセリフで説明しなければよかったんだ。そもそもぼくの前にあらわれなければよかったんだ。あらわれたからには説明責任を果たしてください」

 木村はコートをかっこよくひるがえし、背を向けた。

「木村先生!」

「〈けもの〉だ」

「〈けもの〉?」

「おまえはおうむ返しせずにはいられないのか。まあいい。そもそもなぜ〈VR〉に猫がいるのか、疑問に思ったことはないか?」

「無能階級にいじめさせ、偽りの優越感を与えるためです」

「そうだ。だが、ユニクロの立場になって考えてみろ。いじめと消費意欲にはなんの因果関係もない。なぜわざわざ中卒どもに猫いじめをさせる必要がある」

 敏吾は気づいた。

「そうか。りんびょう先生の提案だ」

「そもそもユニクロオンラインに猫など必要ない。林は最後のキーパーツ、直立する〈けもの〉と〈VR〉で〈混浴〉するために、専門家としていじめの効用をでっち上げたのだ」

「すべては〈妹〉さんのため」

「それがやつの真の目的だったのだ。長い長い説明だったな。ついでに説明すると、〈混浴〉は、すべての〈ヒロイン〉の同意のもとに行われなければならない。林が〈混浴〉に足る美しい〈けもの〉をどう手に入れるのかは知らない。とにかくおまえらは一刻もはやく、美しい〈けもの〉を見つけ、林より先に〈混浴〉をし、大胆な〈混浴〉の剣を手に入れなければならない」

「こうしちゃいられない」

 敏吾は木村の脇を駆け抜け、出入り口のドアに手をかけた。出て行きかけたところで、振り向き、木村に頭を下げた。

「説明ありがとうございました」

「礼には及ばない。そして頭を下げたのなら、いちいちセリフにする必要もない」

「本当に感謝しているってことですよ。ときに、京介たちはどこにいるのかなあ」

「それに関しては本当に説明の必要はない。ばったり出会うのはラノベの得意技だろう。てきとうにうろつけ」

「なるほど」

「さあ、行け。わたしはしばらく安楽亭に残る。やるべきことがあるのだ」

「木村先生」

「なんだ」

「ラノベが好きになりかけているんじゃありませんか」

 木村は答えず、もとのテーブルに向かい、尻をスライドさせて窓際の席に着いた。とことん敏吾を無視するように、メニューを眺め、伝票差しをもてあそび、グリルのスイッチをいじった。

 ぽつりと言った。

「ラノベはクソだ」

「ええ。そうですね」

「資源の無駄遣いだ。どうせ読まないのなら、イラストだけ売ればいい話だろう。なぜわざわざ小説のように見える文字列を280ページも用意する必要があるのだ」

「わかっています。わかっていますよ」

「唐突だがわたしは、新たな公立高校の設置を考えている。だがこの話はさいたまのあとだ。さあ、行け」

「失礼します」

「失礼しまーす」

 敏吾が飛び出していったすぐあと、黒エプロンを着けた女の子NPC店員が虚空からあらわれ、グリルのスイッチを入れた。わざわざ床に膝をつき、端末を構え、ご注文をうかがった。

「ご注文はお決まりですかー?」

 木村は眉間にしわを寄せ、メニューをひととおりめくった。顔を上げ、うなずく。

「とりあえず生をひとつだ。上ロースと上カルビを1人前ずつ」

「上ロースと、上カルビを、おひとりさまずつですねー」

「それから、チャプチュというものを頼んでみよう」

「そういうのないんですよー」

「塩キャベツを頼む」

「少々お待ちくださーい」

 10分後。人間火力発電所と化した木村は、焼肉屋でやるべきことをやった。

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