第93話 インターネットのかしこいひとたち

 1時間後。

 京介はヘリの燃料タンクに背を預け、かっこよく腕を組み、スモッグに陰るユニクロださいたま第3工場を涙目でにらみつけていた。

 咳とめまいと鼻水が止まらなくなり、キャビン内に戻ってティッシュを要求した。そのようなすばらしい発明品はだれも持ち合わせていなかったので、代わりに色葉の万札で鼻をかんだ。

 公害の害とは無縁の春が、ノミのように跳躍しながら酒瓶を手にやってきた。

「来た。退社」

 京介は腕時計を見た。

「17時ジャストだ」

 アリオ上尾の南側ウェルカムゲートに突如出現した大量の無能階級労働者が、スモッグの奥からじょじょに姿をあらわす。縦隊は5車線の国道17号上尾道路に出ると、道路幅いっぱいに散開し、見る間に埋め尽くした。花火大会終了後を思わせる剣呑な密集だった。

 圧巻の定時退社。

 美佐子ちゃんによるとださいたまには確認できただけで26の工場があるという。それが本当ならば、150万人の無能階級の約6万人ほどが詰め込まれていることになる。列は途切れることなくつづく。恐るべき行軍は上尾道路を南下し、ヘリに近づいてくる。

「見て、あのファッション」

 ヘリの窓越しに見やりながら、色葉が言った。美佐子さんがぴょんと座席から飛び出し、色葉の隣で窓に鼻をくっつけた。

 ださいたまの無能階級労働者はひとりの例外もなく、よれよれのプリントTシャツにネルシャツを羽織り、サイズの合っていないケミカルウォッシュのジーンズを履いていた。だが多少のバリエーションは見受けられた。ある者はオプション的にバンダナを巻き、ある者は指ぬき手袋を装着している。中にはネルシャツのボタンを全閉めし、裾をズボンにたくし込んでいる者もいた。職場と家を往復するだけなのになにがそんなに必要なのかと思わざるを得ないぱんぱんに詰まったリュックサックを背負い、そのうえ紙のバッグまでぶら下げている者もいた。

 蛍光イエローのナイキを見て、色葉は思わず目をそらした。とても正視できない。

「なんてださい人たちなの」

「だささは不問に付すのだ。来るぞ」

 ださい行軍の先頭が、圧倒的なだささでヘリに接触した。両脇に分かれ、見る間にヘリを飲み込む。先頭から数列は当然、不審なヘリと一行に気づいている。後列に声をかけるも、工場からはいまだ労働者が吐き出されつづけているため止まることができない。

「止まれ! 止まれ!」

 なんだどうしたと声が上がる。疑問はほどなく解消される。全員の顔がヘリと京介へ向かう。

 行軍がようやく止まった。


   ◇


 無能階級労働者のひとりが、運悪く身長186センチの岸田京介の真正面に立つ事態となった。両手でリュックのベルトをつかみ、体を斜めに向けている。決して目を合わすまいと先祖にでも誓ったのか、やや顎を上げ、あさってのほうをひたすら見つめている。京介は振り返り、あさってのほうを見た。とくに目を引くものはなかった。

 京介は向き直って男を見下ろし、観察し、ひとことでは言いあらわせない複雑な思いに囚われた。あさってのほうへ向けられた目は、濁った鏡のように周囲の光景を反射している。その奥にあるであろう感情は、恐るべき意志の力のようなものでブロックされている。あさってのほうを見ているわけではなく、黒目がそちらを向いているだけだ。都合の悪いことは一切見まい、見なければそれは存在しないのだから、そう心に決めたかのようだ。

 京介はガントレットを装着した右手を握り、さっと持ち上げてみた。やはり視野で認識していたようで、男は反応した。だが防御行動を取る代わりに、その場を支点にくるりと背を向けた。なんという奇妙な反応。すなわちびくっと反応してしまえば、そこに京介が存在していることを認めてしまうからだろう。降伏のポーズのださいたまバージョン。

 危機は去ったと判断したのか、その場を支点にくるりと正面を向けた。だが京介に対しては斜めの角度を維持している。

 鏡のような目の焦点が、ヘリ内部に向けられた。少なくとも京介にはそう感じられた。

 頬を持ち上げ、笑みのように見えなくもない不気味な表情を形づくり、言った。

「猫だ」

「猫?」

「猫、だと?」

 猫のワードはまたたく間に拡散した。

「見えないぞ」

「ヘリの奥にいるんだ」

「なぜ猫が、ださいたま地区に?」

「どうでもいい。おれたちは、猫をいじめなければならない」

「石、持ってるか」

「密集した状況での投擲は危険だ」

「棒で殴ろう」

「勢い余ってだれかの眼鏡を壊すかもしれない」

「では言葉だ。言葉を駆使していじめるんだ」

「くさい猫!」

 ひとりが叫んだ。やや逃げ腰で、ほかの無能階級を盾に、笑みのように見えなくもない表情を貼りつけて。その目はやはり、ただ鏡のように光景を反射する濁った1対のビー玉だった。

 すると男の頭上に、縦横50センチほどの手が出現した。手は親指を上向きに立て、男めがけて落下した。頭頂部に触れた瞬間、巨大な手が消えた。手を吸収した男は満足げに頬を持ち上げた。

 いいね!

 先陣を切った男に勇気づけられたのか、責任が分散すると考えたのか、ほかの無能階級も口々につづいた。

「くさい猫! バカ猫!」

 50センチ四方の手が次々と出現し、親指を上に向けたまま無能階級の頭に落下した。

 いいね!

 キャビン内では、美佐子ちゃんが切歯を剥き出し、犬のようなうなり声を上げていた。

 貴子さんは酒瓶ケースに内股ですわったまま、厳しい表情を保ちつづけている。

 春が酒くさい息を吐きながら色葉に話しかけた。

「あたくしのこと、見ても、全然おびえてない! 好みの問題ですかね」

「ちがう。春ちゃんはまごうことなきかわいい女の子よ」

「いやーん」

「わたしは?」

「もちろん貴子さんもです。居並ぶ女子の姿におびえないのは、見ていないからなのよ。あの鏡のような目を見て。まったく現実を直視していない者の目よ。〈ヒロイン〉に目を向けさせなければ」

「京介さんの作戦は、失敗に終わったということでしょうか」

「あ、言い忘れてた。いろは、おまえもかわいいぞ!」

「えー春ちゃんほどじゃないよー」

「そしてわたしほどでもない」

「ええ。貴子さんのほうがかわいいです」

「この中でいちばんわたしがかわいい」

 京介は女3人の奇妙な会話を眉をひそめて見つめていた。

 春が言った。

「そもそもなぜ、女、苦手?」

「全員が全員なのはおかしいよね。ださい服装と関係があるのかも。いわば呪いの装備みたいな」

 色葉は貴子さんの手に触れ、言った。

「貴子さん、『商売』をはじめましょう」

「わたしがいちばんかわいい」

「それはもういいですから。表に出て、売りまくるんです。作戦どおりに」

 猫耳にこしょこしょと耳打ちした。

「わかりました」

「行くべ!」

「おれがついている」

 京介は背中で貴子さんほか〈ヒロイン〉に語りかけた。

「危害は加えさせない。絶対に。ところで女どうし、だれがいちばんかわいいかで揉めるのはやめるのだ。全員がかわいいのだ、平等に。憲法に保障されているとおりに」

 貴子さんは座席を立ち、口噛み酒をひと瓶取った。後部扉のスロープを下り、姿を見せる。くさい猫を見た無能階級は、即座に反応するかと思いきや示し合わせたようにくるりと背を向けた。突然の事態が苦手らしい。

 貴子さんはかわいい自分の姿が描かれたラベル付きの瓶を差し出し、小首をかしげ、にこっと笑って言った。

「お酒はいかがですか? わたし自らが噛んでこしらえたんですよ」

 数人があさってを向いたまま笑い声を上げた。

「うわマジで猫だよ。くっせー」

 美佐子ちゃんが飛び出してきて叫んだ。

「なによ! 相変わらずださい格好しちゃって! あんたら全員童貞でしょ?」

 わりとひどいことを言った。

「子猫のくささも公害レベルw」

 いいね!

「思い込みだけでよく言えるよね! 実際嗅いでみてから判断すべき!」

「はい、クソリプいただきましたw」

 いいね!

「なぜシャツの裾をズボンにたくし込むのよ? 鏡見たことないの? その顔なんて、まるで」

 ブロック! ブロック! この沸き起こる感情ごとブロック!

「くさい猫はいますぐ死ねやwww」

 男らしい発言!

「どういう紆余曲折を経ればバンダナを巻いて外へ出ようと決心できるのよ?」

 ブロック!

 日没間近の上空に、親指がぞくぞくと出現する。スモッグの奥で、共感の印を与えようと待ち構えている。

「においを周囲にまき散らすなよ猫カス。ビニール袋かぶっててめえのにおいで窒息死しろ。#猫カス #猫は死ね #反猫主義」

 ビニール袋! ウケるんですけど!

「猫は世のため人のため、いますぐ全滅すべき」

 そのとおり!

「あなたたちのせいで喘息になったんですよ? 反論するのは結構ですが、それについてはどうお考えですか?」

 猫ひどすぎ!

 美佐子ちゃんは反撃しようと口を開いた。だが言葉が出てこない。種族間対立とも呼べないあまりに低レベルな攻防だが、発言の内容ではないのだ。対話ですらない、ただひたすらの罵倒。ひたすらの全否定。

 ひとりが美佐子ちゃんを指さし、言った。

「こういう猫ガキとかマジ死んでくれと思うんだ。こういうガキが成長してくさい大人になる。子供のうちに抹殺すべきではないのか? #子猫嫌い #猫ガキは全員抹殺」

 いいね! ふつう面と向かって言えないよ! とても勇気があるんだ!

 男の頭にどかどかと親指が降り注ぐ。今日1日分の満足を手に入れたのか、明日はもっと勇気を振り絞るぞといった顔で後方に引き下がった。

 美佐子ちゃんはかくりとうなだれた。憎悪の嵐に体を震わせる。なぜここまで憎まれなければならないのか? あたしが一体なにをしたというのか?

 ヘリが押し殺した声で言った。

「メガトロン様」

「わかってる」

「男の怒りが頂点に達しそうです。いますぐご命令を」

「こらえろ。おまえ暴れると、軽くジェノサイドよ」

「あーあ。猫は集団自殺してくれないかなー」

「いるだけで空気が汚れるんだよなー」

 美佐子ちゃんがわっと泣き出し、京介に抱きついた。

 貴子さんは美佐子ちゃんに寄り添い、頭をなで、ださい人間など気にしないでと耳元でささやいた。色葉に美佐子ちゃんを預け、ささやいた。

「酒浸りにしてやります」

 それから毅然と無能階級へ語りかけた。

「みなさん、気が立っていらっしゃるようですね。お酒を飲んでリラックスしませんか?」

「くせーw」

「いいえ、猫はくさくありませんよ。実際に嗅がれたことがないのでしょう?」

「においは関係ねーんだよバーカw」

「でもずっとにおいについて言及されていたでしょう」

「クソリプ認定w」

「猫カスはいますぐここで死ねや。葬式くらいはあげてやるよwwwwwwwww」

 その草の生やしぶりに、京介の怒りが頂点に達した。伝説の大剣アービトラージを剣呑に鞘から引き抜く。刀身に刻まれた精緻な紋様は、精緻なだけでセンスのかけらもなかった。だがいまは、かっこ悪さなどどうでもいいのだ。ひとりくらい首をはねても文句は出ないだろう。空気的に。

「いいかげんにするのだ」

 力任せに剣を一閃した。ださいバンダナが驚き、とっさに身を引いた。

 京介は体を斜めに向けつづける手近な男をひとり捕まえて言った。

「数々の暴言は不問に付そう。黙って酒を買うのだ」

 男は鏡のような目をあさってのほうへ向けたまま、か細い声で答えた。

「お酒飲まない人なんで」

「なぜだ。おまえは労働者だろう。大酒を飲んでこその労働者だ」

 後方の無能階級から声が上がった。

「いつの時代の話w」

「いまおれに草を生やしたおまえ。言いたいことがあるなら、仲間の影に隠れず、堂々とおれの目を見て言うのだ」

 男は仲間を盾に、やはり決して目を合わせず、虚空を見つめたままつづけて叫んだ。

「昭和を引きずったバカな酒飲みの日雇いじじいとちがう! ぼくら世代には情報がある! 酒は麻薬と同じ、依存を引き起こすことを知っている!」

「すべてインターネット由来の情報だろう」

「はぁ? 情報は情報ですけど? 情報に優劣はないんですがw」

「もしもーし? 小学校出てますー?w」

「ほんと、いまの日本はこういうバカばっかり沸いて困るwww」

「エビデンスがあるんですよー。統計も読めないのに話題に入ってくるべきではありませんねw」

「アルコールの害はWHOも認める厳然たる事実である」

 京介は振り返り、色葉に目で訴えた。

 こいつら殺害していい?

 色葉は首を振った。

「目を開かせるのよ。あの細い目を、文字どおりね。そして真正面から、この現実を見せつける」

 小ぶりなおのれの鼻を指した。

 京介は向き直り、嬉々として草を生やしつづけるネルシャツ軍団を見た。悲しいことだ。情報を絶対と信じ、ネットでたくさん仕入れ、専門的な用語を駆使し、権威が伝える統計をさも自分の手柄であるかのように嬉々として拡散する、それを賢い行為だと信じ切っているのだ。権威がなぜ権威たり得るのかと疑問を抱き、考えるための地頭を鍛えることもせず。無能階級はやはり、現代社会における遺伝的に劣る者たちなのかもしれない。搾取されてしかるべきなのかもしれない。関東第一高校が入学を拒否したのも無理はない。不採用とした企業の判断も納得だ。このような、相手の目を見ることすらできず、安全地帯でしか発言できない者たちに、重要な仕事はなにひとつ任せられない。できることは、せめて消費で社会に貢献するだけ。悲しいことだが。

 教育は大事だ。

 京介はアービトラージで首チョンパする代わりに、貴子さんの肩を抱き、ぐいと引き寄せた。意外と骨太だったが、京介の力強さに抵抗することなく、軽く弓なりになりながら京介にぴたりと寄り添った。

 突然のことになにごとかと京介を見上げる。

 無能階級もハッと息を飲んだ。やはり視野で見ているのだ。

 京介は貴子さんの体温を感じながら、もつれた髪に鼻を近づけ、耳のにおいを嗅いだ。

 夏の太陽のにおいがした。

「なぜ唐突ににおいを嗅がれたのですか」

「猫はくさくなどないからだ」

 目の前であさってのほうを向きつづける無能階級に言った。

「この光景を見るのだ。目を開けとは言わない、視野ででもいいからそのまま見ているのだ。貴子さんはかわいいだろう。なんといういいにおいだ。なんという柔らかさだ。これぞ女の子」

 どの口からも草は飛び出てこない。

「この人自らが噛み噛みし、心を込めて造った酒が、いまなら1瓶たったの45ユニクローネだ。男なら、愛らしい貴子さんの造った酒を飲みたい。おれはこれから、貴子さんにキスする」

「ダメです」

「ではやめる。とにかく、酒だ」

 ひとりが斜め上を見上げながら若干うろたえたように言った。

「こ、こいつはくさい猫だ。くさい猫が造った酒など、死んでも飲めない」

 いいね!がひとつ、上空から落ちてきた。

 京介は剣を振り、いいね!をたたき落とした。

「どこを向いてしゃべっているのだ。こっちを向け。おれを見ろ」

 京介はネルシャツをつかみ、無理やり正面を向かせた。

 顔だけはあさってのほうを堅持している。

「なぜそこまでかたくなに目をそらしつづけるのだ。貴子さんを見ろ。貴子さんのどこがくさいのだ、インターネット男よ。どこで『猫はくさい』情報を仕入れたかは知らないが、なぜたしかめもせず、そこまで情報を盲信できるのだ。いいね!がもらえるからか。気持ちよくなるためなら嘘でもなんでもとにかくみんなが共感することをおまえは口走るのか。そんなに欲しいのなら、おれが特別のいいね!をやろう」

 京介は男のバンダナをむしり取った。

「やめてください」

「面と向かって言ってみろ。先ほどの罵倒を、その濁った鏡のような目で貴子さんの顔を真正面から見据え、ハッシュタグ付きで猫カス死ねと言ってみろ。草を生やしてみろ。それもできないおまえらは、無だ。無能階級だ! 生きる価値などない!」

 男は心底イヤそうに顔を歪めた。いまここで起きていることのすべてをその顔面で否定していた。イヤそうな顔をすれば、お母さんが助けてくれる。実際いままで助けてくれた。きっと社会のみんなも助けてくれるにちがいない。イヤそうな顔をすれば、「イヤだ」と言わず、ノーリスクで、イヤなことから逃れられるのだ。たしかにこれまでは、逃れられた。逃れて逃れて、いまここにいる。

 京介はお母さんがカットしてくれたような髪をつかみ、貴子さんの脇のあたりに無理やり鼻を近づけた。

「嗅ぐのだ!」

 男はくん、と嗅いだ。

 そして。

「ファッ?」

 インターネットしか見えていなさそうな細い目が、眼鏡の奥でわずかに見開かれた。

 顔を上げ、視野ではなく正面から、貴子さんを見つめた。

「あ…………あ…………」

「どうした?」

「だいじょうぶか?」

「い、いや。なんでもない。だいじょうぶだ」

 薬指でメガネを持ち上げ答えた。

「やはりくさいんだな? くさいんだろう。猫はくさいものだ」

「あ、ああ。くさい。猫はくさいな。やっぱり」

 男はさらに嗅いだ。脇の下から平らな胸へ、なにかに取り憑かれたかのように突き進む。

 貴子さんは男の頬を2回張った。

 男が顔を背けよろめいたその瞬間、京介は鏡のような目にある種の感情が光るのを見た。

 人間らしさ。

 いや、動物らしさか。

 男はすぐにわれにかえった。目を鏡のように反射させ、自分自身は余裕の笑みだと思っているであろう笑みを浮かべた。

「猫なんか嗅いでだいじょうぶか。喘息の発作が出るぞ」

 ふつうに心配げな声が聞こえてきた。

 男は仲間に振り返り、呼びかけた。

「聞いてくれ。ぼくらはこいつらのせいで、大幅に予定を遅らせている。ぼくらはユニクロ様の指示どおり、広告道路で帰宅の途につき、各種広告を堪能しなければならない。そしてみすぼらしい市営住宅で帰宅し、豚小屋で空腹を抱えて横になりながら、週末の消費を夢見なければならないのだ」

「遅れたのはぼくらのせいじゃない!」

「そうだ! 責任はやつらにある!」

「それはそうだが、責任を取らせたところで遅れは取り戻せないだろう」

「だが心は晴れる! ぼくは負けなかったのだ、と!」

「とにかく、この混乱の責任は、ぼくらにもあると思うんだ。猫酒を1瓶、買おうと思う」

 ざわ。

「だが、きみのユニクローネが減る」

「仕方がない。これが大人の対応というものだ。そうだろう?」

 1万を越えるいいね!が立てつづけに降り注ぎ、男は地面にめり込みかけた。

 そのあと男は自作小説の宣伝をした。

 大人の対応を見せた男は、金では買えない価値のようなものを顔面に貼りつけ、ユニクローネを渡し、酒瓶を受け取った。受け取る瞬間、貴子さんの肉球が触れた。男はさっと引っ込めた。小学生のようにうつむく。

「お買い上げありがとうございます」

 貴子さんは男の顔をいたずらっぽくのぞき込み、にこっと笑いかけた。うつむく男の手を取り、ぎゅっと握手した。

「またいらしてくださいね。そしたらまた、わたしが売ってあげます」

 男は小さく2回うなずいた。それから怒ったように貴子さんの手をはがし、引っ込めた。

 京介は色葉と春に呼びかけた。

「1名様お買い上げだ。おまえらもどんどん酒を売るのだ」

 色葉と春が顔を出すと、ネルシャツの人だかりが小学生のようにうつむいた。

 京介が大声で呼ばわった。

「ほかにも酒が欲しい者はいるか。恥ずかしがることはない。この女どもは、ただの売り子だ。金を払えば、堂々と『酒を受け取れる』のだ。おれの言う意味がわかるか」

 ひとりが手を上げた。ぼくも責任を取るべきだなどと仲間に言い訳がましく説明したあと、前へ進み出て、色葉にユニクローネ札を差し出した。色葉は酒瓶を渡した。しっかりと手を触れ合わせながら。

 それから鼻背に軽くしわを寄せるタイプの笑みを浮かべ、ぎゅっと握手した。

「毎日ここで販売しているからね。いつでも来てね」

「は、はい」

 男は握手した手を見つめ、それから抱き枕のように酒瓶を抱きかかえた。

「そういう作戦だったのか。クソ!」

 都内某所で山野辺がつぶやいた。

「酒じゃない。酒だけじゃなかった。岸田京介は、握手と笑顔も売るつもりだったんだ。われわれが唯一、広告で提案していない『商品』を」

 ぽつぽつと酒が売れていく。小学生のようにうつむくそれぞれの顔に、これまで抑圧されてきたなにかが蘇る。少なくとも山野辺にはそう見えた。

「性欲のはけ口が必要だったんだ」

 山野辺は関係者に電話をかけた。

 NPCデリバリーエルフ(デリエル)という画期的な提案はあっさり却下された。

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