第85話 貴子さんについてのしつこい描写 一晩の宿

 悪口ではない文字どおりの雌猫は、髪の一部と化した耳をピンと立て、切れ長の双眸で京介をにらみつけている。三毛だ。毛柄は京介から見て左側が黒で、右側がオレンジがかった茶色だった。汚れのせいか元々そういう柄なのか、口元の白も含めて全体的にくすんで見える。いわゆる白目は翡翠色だった。

 慧眼な読者はすでに気づいておられるだろうが、現在は夜なのでふつう上記のような詳細な観察はできない。そもそもルックスなどイラストを見れば一目瞭然なのだが、ラノベの〈主人公〉としては、美しい女性と出会ってしまったからには言葉を尽くして描写しなければならない。そんなわけで京介は、視力を超えた超感覚でさらにその美に迫った。

 顎は猫らしくほっそりとしている。口は小ぶりだが、〈桜色の唇〉ではない。ふつうに猫の口だ。髪色は顔の毛柄と同じ、黒、白、オレンジがかった茶色の3色セットだった。対戦直後の女子プロレスラーのようにもつれ、3色が入り交じっている。ヘアスタイルはいわゆるショートボブに分類されるが、もちろんそれだけで済ますつもりは京介にはない。いわゆる前髪はつくっておらず、5:5から6:4の比率でサイドに流している。後ろ髪は小ぶりな口のやや上あたり、正確に言うと口から3センチ下あたりで切りそろえられている。切りそろえたというよりも石器でざくりとむしったように見える。もちろんリンスもないのだろう、ばさばさに膨らんでいる。それでもある種の女性シンガーソングライターのようにかくあるべしと思えるのは、素材本来の美しさのためか。

 そろそろうんざりしてきただろう。だがまだ首から下の説明が残っている。上半身は白い丸首のシャツを着ている。首まわりはよれよれで、カルカンらしき茶色い汚れが付着している。シャツの上に厚手の黒いエプロンを着けている。サイズが合っていないせいか、痩せた体がさらに痩せて見える。胸はどうか? カップはわからない。エプロンのせいか男の子のようにフラットに見える。下はスキニーなジーンズを履いている。太腿は細いながらも女性らしく丸みを帯び、膝をやや内側に向けている。裸足のつま先は、京介から見て右が7度、左が21度傾いている。傾きのちがいは生活習慣によるものだろう。

 年のころは18、といったところか。

 なぜわかるのかはわからないが。

 描写はこのくらいで充分だろう。京介は話しかけるべく立ち上がった。

 いや、その前に。

 きれいだ、と思った。

 思ってから満を持して話しかけた。

「あなたは」

「貴ちゃーん」

 貴ちゃんと呼ばれた貴ちゃんが、切れ長の目をわずかに見開き、猫耳を後ろに向けた。小太り眼鏡の中年猫が、ブリキのコップを手に千鳥足で近づいてくる。

「もう1杯! あと1杯だけ!」

「康さん。あんたもう、来週のお給料ぶんまで飲んじまったでしょう。これ以上は」

「いいじゃねえかよう。やさしくしてくれよう」

 中年猫が貴ちゃんにがばりと抱きついた。貴ちゃんはびくりと上体を反らしたが、ラノベのように叫んだり罵ったり突き飛ばしたり後方まわし蹴りしたりすることもなく、優しく中年の抱擁を受け止めた。

 膝にすがりつき、泣き出した。

「なんでこうなっちまったんだよう。だれか教えてくれよう」

 肉球で優しく頭を撫でる。悲しげな眼差しで京介へ振り向き、言った。

「お店の中で話しましょう」


   ◇


 貴ちゃんの本名は貴子といった。年上の18歳であり、ラノベ的には「さん」づけで呼ばれるに値する落ち着きを備えているので、不本意ではあるが〈お約束〉に従い、これ以降「さん」づけで呼ばせていただく。

 康と呼ばれた小太り眼鏡の中年猫に優しく声をかけ、貴子さんはどうにか抱擁を解いた。京介にうなずき、背を向け、屋外駐車場を抜け、居酒屋へ向かった。

 京介はエプロンの隙間からのぞく貴子さんのお尻を見た。小ぶりだが女性らしく丸みを帯びている。尻尾がバランスを取るように左右に揺れている。

「猫、か」

 目の端に色葉の顔がちらついた。

「視線の先がお尻に向けられたままなんだけど」

「お尻ではない。〈尻尾〉を見ているのだ」

「猫だから、尻尾くらいあるよね」

「そうではない。尻尾ではない。〈尻尾〉なのだ。それを意味するところはなにか、いまのところはわからない。ただ」

「ただ?」

「お尻に〈尻尾〉は必須だと思う。わりと本気で」

 屋内に入る。一斗缶が数個、ワイルドに炎を立ち上げている。循環が悪いためか、ところどころ冷えた空気がだまになっている。言うまでもなく不潔だった。もんじゃ焼きを思わせる吐瀉物が床のあちらこちらにへばりついている。毛玉も転がっていた。猫客が数名、ファイルキャビネットをテーブル代わりに、酒を飲み、カルカンを食している。酔い潰れたのか、隅に丸くなって寝ている猫もいた。

 貴子さんはカウンターの奥に入り、席を勧めた。全員が横並びに着くと、なにか飲みますかと言った。一行は丁重に辞退した。

 ユニクロのTシャツでカウンターを拭きながら言った。

「最後に外の人間と会ったのは、2年前、VR開発援助のコンサルタントが来たとき以来です。なにをしにユニクロオンラインへいらっしゃったのです」

「世界を変えるためだ」

 貴子さんは顔を上げ、京介を見た。

「あなたはいつも見ず知らずの相手に、そのような発言をなさるのですか?」

 もっともな問いかけに、一同はうつむいた。ノリが異なるようだ。

 春が身を乗り出し、貴子さんの背後でゆらゆら揺れる〈尻尾〉を指さした。

「その尻尾、ほんものかー」

「フェリスを見たことがないのですね、アンドロイドのお嬢様」

「おじょうさまだってー。うーん、いいひびきー」

 春は頬に手を当て、響きを味わうようにぐにょぐにょ横方向にもだえた。振幅を増していく春を見つめ、貴子さんは眉間のしわを深めた。そこへ京介が気合いを込めて叫んだので、びくりと毛を逆立てた。

「なぜ急に叫ばれたのです」

「ステータス画面を出そうとしたのだ。やり方を知っているなら教えてほしい」

 貴子さんは困ったように視線をさまよわせたあげく、比較的まともそうな色葉に落ち着かせた。

「やはり人間とは、行動様式が異なるようですね」

「すべての人間がわたしたちと同じだとは思わないでね」

「そちらの背の高い男性が先ほど、世界を変えるとおっしゃいました。わたしたちフェリスを援助しに、外の世界からいらっしゃったのですか」

「世界を変える旅の途中です。もしみなさんに援助が必要なら」

 貴子さんは遮って言った。

「その必要ありません」

「なぜです? 失礼ですが、少なくとも裕福には見えない」

「あなたもVR経済学者と同じですね」

 貴子さんは哀れむように色葉を見つめた。

「わたしたちフェリスは、ユニクロ様によくしていただいている。こうして生きていられるのも、すべてユニクロ様のおかげなのです」

「フェリス」

「猫族です」

「そしてユニクロ」

「ユニクロ『様』です。呼び捨てはいけません。ほら」

 貴子さんが色葉の頬を指した。

 色葉は指で触れた。芯のある突起物の感触があった。

「ニキビだらけになりたくはないでしょう」

「でも先ほど、眼鏡をかけた男性が、あなたにすがって泣いていましたよね。『どうしてこうなったんだ』と」

「それは」

「ぐにょーん」

 春がいつの間にか荒川の吸血ウナギのように伸張し、逆J字の体勢で3メートル上から貴子さんを見下ろしていた。

「なにをされているのでしょうか、アンドロイドのお嬢様」

「なにを、だとー。意味、あると思うかー」

「いいえ」

「もうヤだー」

 色葉がウナギを指し、京介に言った。

「話を進める前に、あれをどうにかしないと」

「いい手がある」

 京介は酒を注文した。貴子さんは奥へ向かった。

「あえて酔っ払うことでぐにゃぐにゃどうしが干渉し、逆にしゃんとするかもしれない」

「青少年に悪影響を与えるよ」

「春はアンドロイドだ。だから飲んでも構わない」

 貴子さんが瓶から酒を注ぎ、戻ってきた。京介にコップを渡す。

 京介は乾杯のようにコップを掲げた。

「飲むのだ」

 春の顔面が口を中心ににゅーっと伸び、真上からコップ内部に侵入した。同時にぐにょぐにょの顔面でトポロジカルにコップを包み込む。具体的にどういう状況かはアニメ版をチェックするよりほかないが、とにかくぐびぐびと喉を鳴らしている。

「ぷはー」

 突然うどんのようにちゅるりと伸び上がり、後頭部を天井にぶつけた。それから身長160センチほどに戻り、すとんとイスに尻を落とした。

「た、助かった」

「これで無意味なネタがひとつ減った。女将よ、1杯いくらだ」

「いくら?」

「ここは居酒屋なのだろう。あなたは酒を仕入れ、利益分を乗せ、客に販売している。いくらだ」

「ツケで結構です」

 色葉は軽く眉をひそめた。

「ならばツケよう。ときにおれたちは、猫の貧困を救いにやってきたのではない。無能階級労働者、つまり人間を探しに、ここユニクロオンラインにやってきたのだ。いまはその道中だ。人間はどこにいるのか、知っているなら教えてほしい」

「知っています」

「近くに住んでいるのか」

「いいえ。北のださいたま地区です。国道17号を北へ向かうと、アリオ上尾と呼ばれる紡績工場があります。煙を盛大に吐き出しているので、すぐに目につくでしょう。ださいたま民は、周辺の市営住宅にでも住んでいるのではないでしょうか」

「新たな情報ね」

 色葉が京介に言った。

「工場付近に行けば、無能階級に偶然ばったり出会えるはず」

「お役に立てたのなら幸いです。それでは仕事がありますので、これで」

 奥へ行きかけた貴子さんに京介が声をかけた。

「まだなにか質問がおありですか」

「いじめに遭う少年を見かけたのだが。常日頃からあのようないじめが横行しているのか」

「人間は猫をいじめるものでしょう?」

「いや、ちがう。現実ではあり得ない。おれたち人間は、猫をいじめない」

「あり得ますよ。それにださいたま民には、いじめるインセンティブがある」

「インセンティブとはなんだ」

「人間の高校生なのにご存じないのですね。猫でも知っている経済学用語なのに」

 京介は軽く気分を害した。それはともかく、貴子さんは明らかによそ者を追い払いたがっている。そのうちカルカン茶漬けでも勧められるにちがいない。

 色葉が質問を引き継いだ。

「いじめ手当がつくとか?」

「実際ださいたま民に聞いたことがないのでわかりませんが、そんなところでしょう。人間はお金のありなしで動くものですから」

「人間は、利他的に行動する場合もあるんですよ。正義や道徳心、自己犠牲の精神などによって」

「そうですか。わたしたちフェリスにとっては、どちらでもいいことですね。みなさん、カルカン茶漬けでもいかがですか?」

 京介が選択肢のひとつを選んだ。

「ここに一晩泊めてほしい」

「ダメです」

「金は払う」

「ユニクローネはお持ちですか?」

「あとで払う。これもツケだ」

「担保となるものはおありですか」

「担保とはなんだ」

「中学校へ戻られれば、そのへんに落ちていますよ」

「では取引だ。なにをすれば泊めてもらえる」

「そういうことでしたら、ここから南へ1日ほど歩いたところに不時着したヘリがあります。支援物資が入った木の大箱がありますので、それを持ってきてください」

「検討しよう。だがそれでは翌日になってしまう」

「よく気づかれましたね。そのとおりです。そしてヘリの周囲には、トラップが幾重にも張り巡らされている」

 色葉が割り込んで言った。

「わたしたち、やっとの思いでここまでたどり着いたんです。せめて一晩だけでも」

「同じ選択肢を何度選ばれても無駄です」

「せめて一晩」

「ダメです」

「せめて一晩」

「ダメです」

 赤ら顔の春がずいと片肘をつき、貴子さんを見上げて言った。

「お酒、もう1杯」

 貴子さんが奥へ向かったところで、一同は緊急作戦会議を開催した。

 色葉がささやいた。

「野宿は無理よ、ふつうに」

「〈VR〉ならば問題ないだろう」

「〈VR〉だからこそよ。モンスターがいないとは限らないのよ。とにかく泊まれるよう説得しなきゃ」

「どうやって説得するのだ」

 貴子さんが戻ってきた。カルカン茶漬けもしっかり用意されていた。

 おっさんのようにちびりとやる春を見下ろしたあと、京介に言った。

「丑三つ時には恐ろしい犬の化け物が出ます。はやめに宿を探されたほうがよろしいかと」

「ほらね」

 京介は咳払いし、言った。

「貴子さんよ。おれたちは、猫をいじめから救いたい」

「どうぞご自由になさってください」

「人間を嫌う気持ちはわかる。だがここユニクロオンラインの無能階級労働者たちも、同じくひどい目に遭っているのだ。安い賃金で1日17時間も労働し、ろくにものも食えず、豚小屋のようなところで眠っているのだ」

「そして週末には、現実で羽振りよくイェンを使う」

「いろいろ知っているようだが」

「わたしたちの飼い主ですから」

 ニキビをいじっていた色葉が、ふと動きを止めた。

「貴子さんは、経済学がお好きなんですか」

「いい質問ですね。はい、経済学は好きです。ドラッガーもわりと好きです。わたしの飼い主はときおり衝動的に本屋へ赴き、経済学の入門書や自己啓発書を買ってはそのへんに積み上げるのが趣味なのです」

「あるあるね」

「クルーグマンにマンキュー、竹中平蔵も読みました」

「おねえさん、お酒」

 貴子さんは奥へ行った。なぜかタダ酒は飲み放題らしい。

 酒と山盛りの茶漬けを抱えて戻ってきた。

「経済学がお好きなのに、お金稼ぎには興味がないんですか」

「経済学はお金の学問ではありません。冷めないうちに茶漬けをどうぞ」

「経済学の知識を使って、フェリス全員の生活を豊かにするというのは? 興味はありませんか」

「言ったはずです。わたしたちはいまの生活に満足している」

 色葉はファイルキャビネットのテーブルでくだを巻く猫に話しかけた。

「お酒は1杯いくらです?」

「ツケだよツケ!」

 向き直って貴子さんに言う。

「あなたは仲間のフェリスに無料でお酒を振る舞っている。みなさん、お金がないからでは?」

 貴子さんは口ごもった。

「あなたがたには関係のないことです」

「あなたは自分の生活に満足しているかもしれない。でもほかのフェリスは困窮している。わたしの偏見で言っているのではなく、実際に、現実として、お金がないんでしょう? だからツケている。そういうことになりますよね? お金があれば、もっといい生活ができる。一緒に考えましょう。フェリスは必ず、貧困の罠から抜け出せる。方法は必ずあるはずです」

「方法、だと?」

 色葉は驚いて春を見た。

 春はシリーズはじまって以来の真剣な表情で色葉をにらみつけていた。

「言ったはずだ、援助で貧困はなくせない、と! たしかに開発途上国への援助は先進国の課題であり義務! 貧困、環境汚染、エイズなどの感染症、児童労働、紛争、テロなど、途上国は一国では解決できない多くの問題を抱えている! 同時に途上国はさまざまなエネルギー資源の宝庫であり、外国からの資源に多くを依存する日本にとっても対岸の火事ではない! だがろくな方策も考えず、先を見ず、むやみやたらとカネをばらまく、その姿勢をあたくしは問題だと言っているのだ!」

「飲み過ぎよ」

「本来の目的を忘れるな! あたくしたちの目的は、無能階級の実態を調査し格差の事実を世間に公表することなのだ!」

「そこへ一歩近づくためのサブクエストなのよ」

「酒だ! 酒、持ってこい!」

 貴子さんは今度は奥へ行かず、色葉をじっと見下ろしていた。

 春が猥歌を歌いはじめた。猫客も調子に乗って騒ぎはじめた。

「貴ちゃーん、お酌してくれや」

「じゃんじゃん持ってこい」

「いいけどあんたたち、いつ払ってくれるの?」

「ツケだよツケ!」

 色葉がハッと顔を上げた。

 急いで貴子さんに言う。

「春ちゃんのお酒の代金、ぜんぶ支払います。いいえ、みなさんのぶんも!」

 スツールから下り、バッグをかきまわし、財布を掲げた。

「ここにユニクローネがどっさり詰まっている! みなさんのこれまでのツケまで、わたしがぜんぶ支払います! どうです?」

 パブなら大歓声が巻き起こっているところだが、猫客はまったく反応しなかった。

「やっぱり! 貴子さん、お酒1杯はいくらです?」

「ツ、ツケで結構です」

「みなさんツケの意味を知らないのでは? 知らずに言っているのでは? でもあなたは知っている。居酒屋とは本来、酒を仕入れ、儲けを上乗せして客に売り、利益を稼ぐためのものだとも」

 春がカウンターにこぶしをたたき落とし、昭和の軍人のようになにごとか叫びかけた。色葉の見せ場なので京介は口を塞いだ。

「お金がないのは、困窮などではなく、そもそも働いていないからでは? 経済活動に参加していないからでは? 猫はなんのために〈VR〉に存在しているんですか? もしかして」

 色葉はどの会話の選択肢も選ばず、ひたすら貴子さんを見つめた。

 貴子さんは全員をにらみつけてから言った。

「ほかのお客様の迷惑です。2階へどうぞ」

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