第79話 妹ではなくなる日

 林は翌日のさいたま出張に向け、ベッドの上でパッキングしていた。ユニクロの衣類にパスポート、パナソニックの髭剃りにさいたま用の変換アダプタ、携帯ウォッシュレット、醤油、うまみ調味料。ペヤングは現地で受け取る手はずとなっていた。刑法学者の木村先生から餞別として渡されたのりたまをしばらく見つめたあと、嘆息し、枕元に放った。ぼくの白飯にのりたまは必要ない。

 りんびょう先生の愛称でお茶の間でもおなじみの林たいらは、8歳のころ、慕っていた美しい姉を遺伝性のアセンション症で亡くし、医者と三つ編みと年上の女性に憎悪を抱くきっかけとなった。アセンション症は、概日リズム、いわゆる体内時計が乱れるだけでなく、次元上昇も伴う難病だった。来たるべきアセンションに備えるすべは現代医学にはなく、複素数的眠りに陥る姉を林はただ見守るしかなかった。やがて姉は5次元の睡眠サイクルに上昇し、そのまま息を引き取った。主治医は当時、アフリカトリパノソーマすなわちアフリカ睡眠病だと診断したが、のちにただアフリカトリパノソーマと言いたかっただけだったことが判明した。

 学校の成績は優等で、いやらしいことに本人もおのれの天才を自覚していた。あまりに優秀なため凡人の足引っぱりを危惧した当時10歳の林は、独自の方法で空気を読むことにした。凡人を観察し、凡人に習い、ベストセラー小説を片っ端から読みまくり、歌謡曲の歌詞に共感し、クラスメイトに恋をし、のちに一生の思い出となるであろう学校生活をあえて満喫した。

 空気を読んで公立の商業高校に入学し、翌日中退した。その翌日高等学校卒業程度認定試験に合格し、さらにその翌日、自転車で世界一周の旅に出た。林は自転車で世界一周の旅をするような人間をかねてから興味深いステレオタイプだと考え、なぜかはわからないが絶対に自転車で世界一周の旅をするような人間にはなりたくないと思っていた。そして自転車で世界一周の旅をするような人間を知るには、自転車で世界一周の旅をする以外に方法はない。ブログを立ち上げ、いかにも人生勉強中ですといった笑顔の写真を掲載し、道中の出来事をあることないこと綴った。記事が充実すると出版社に企画を持ち込んだ。ああなるほど、高校中退後、自転車で世界一周の旅をされたんですね。これは興味深い。担当編集者の言に、林は答えた。いえいえ、ぼくのは「世界一周」じゃありません。北半球しかまわっていないんです。ほら、旅程にナイーブな差別意識がにじみ出ているでしょう?

 自分探しのかたわら、ヨーロッパじゅうの大学に潜り込み、講義を聞いた。シュンペーターが好きというだけの理由でウィーン大学で法学の博士号を取得し、ハイエクがかっこいいというだけの理由で政治学の博士号も取得した。経済学博士? そんなものはトルコ国境で足止めを食っていたときにすでに取得済みだ。週末はドーバー海峡を渡り、ケインズの生家探しに精を出した。ついに無理やり突き止め、イギリス政府から国外退去命令を受けた。ユーラシア大陸を放浪するうちヨーロッパの経済学者のあいだで名が知られるようになった。もちろん悪い意味でだった。ブダペストの中央ヨーロッパ大学に潜入し、「差別の力」と題した講義を勝手に行ったりもした。歴史に残る名講義だったが、歴史に残る人間の悪でもあった。アーレントが聞いていたらみぞおちに膝蹴りをかましていたにちがいない。

 ユーロ圏を代表してドイツ政府から Ph.D.セットをお歳暮のように手渡され、頼むから出て行ってくれと言われた。人種差別だ! ということで満を持してアメリカ大陸に「亡命」し、チョムスキーに会おうとして大学教員に取り押さえられ、街頭に立っては超自由主義と夜警国家のすばらしさを市民に訴えかけ、ついにアメリカじゅうの倫理学者に銃を取らせることとなったのだった。

 平等は、追求すればするほど経済の停滞を招く。それが林の持論だった。自明の理であり、歴史が証明している。ならばこれからの新時代は、能動的意識的に弱者への差別を行い、毒をもって真の差別を制するべきなのだ。

 すでにそうなっているかもしれないが。


   ◇


 パッキングを終え、摂取したワクチンの一覧を確認し、腕時計を見た。午後6時20分。ブログでも更新するかと机に着き、ジョン・ハチソンのラップトップ量子コンピュータ『ドーナ』を立ち上げ、ラップに乗せた。

 ノックの音がした。

「お、お兄ちゃん」

 わずかにドアが開き、妹のみゆきが顔をのぞかせた。か細い声で言う。

「お風呂、湧いたよ」

「よし。ひとっ風呂浴びよう。もちろんわかるね、この意味」

「う、うん」

 みゆきはどもりながらうなずき、おずおずと部屋に入ってきた。ユニクロの部屋着を着ている。

 林は量子コンピュータを閉じて乱暴に机に置き、立ち上がり、愛する妹の元に駆け寄った。ある種のいたわりをもって妹の肩を抱き、左手を取り、手首をのぞき込んだ。

「ろ、6時23分」

 林は自分の腕時計を見た。

「ぼくの時計は6時21分だ」

 みゆきがくすんと鼻を鳴らした。林の目に涙が浮かんだ。

 亡くなった姉と同様、妹も遺伝性の疾患に苦しんでいる。STRS、俗に『おっとり病』と呼ばれる難病だった。周囲の人間すべてが電車に乗っているように見えるため、相対的に速く歳を取ってしまうのだ。

 林が20代のころ、まだ発症する前、妹は15歳だった。林はある日、妹の誕生日がやけに速くやってくることに気づいた。

 現在、林は34歳9ヶ月、妹のみゆきは34歳7ヶ月だった。見かけも肉体年齢も20歳前後だったので、別にいいじゃないかと言う者もいた。だが、まったくよくないのだ。見た目の問題ではないのだ! 年齢の問題なのだ!

 もしこのまま病状が悪化すれば。

 妹は相対的に姉になってしまう。

 それだけではない。実感を伴わない量子力学的現象の連続に抗体が過剰反応することで、GRS(俗に言う『まがり病』)を併発する恐れがある。するとどうなるか。妹はさまざまな曲がり角に来てしまう! 肌は曲がり、腰も曲がり、相対的にも一般的にも妹ではなくなってしまう!

 部屋の空気がお風呂どころではなくなった。ここ最近はいつもそうだ。

 林は無理やり笑みを浮かべ、冗談めかして言った。

「よし。じゃあ、ぼくの時計を2分進めよう。これでおあいこだ」

「と、時計を進めても、年を取ったことには、ならない」

「お兄ちゃんが必ず助けてやる。治療法を見つけてやる」

 林は本棚に駆け寄り、本を手に戻った。

「ほら、青木先生の『おっとり病は治る!』(関東第一高校出版会)だよ」

「その本はクソよ」

 みゆきはわりときっぱり言った。

「青木は金儲けしか頭にない医者の風上にも置けない偽善者よ」

「そんなことを言うもんじゃない。まあ言い得て妙だけどね。でも、青木先生の執筆速度は、すごいんだぞ。森博嗣25人分のぼくにはかなわないが」

「わ、わたし、なにをやっても、治らない。だから、治らなくてもいい」

「なぜだ」

「実害がないから」

 兄に心配をかけまいと気丈に振る舞っているのだ。

「お兄ちゃん、必ずさいたまで、おまえの病気を治してやる。今回は絶対だ。なんせラノベの〈主人公〉のご登場だからな。岸田京介は必ず、〈主人公〉の特殊能力によって、究極の美猫を見つける。美しい〈けもの〉を、ぼくたちに与えてくれる」

「ラノベと治療と、どういう関係があるの」

 林は〈妹〉の目線の高さまで腰を落とし、肩に手を置き、言った。

「この前説明したじゃないか。いいかい、ぼくたちは、ラノベになるんだ。ふたりでラノベになる。そうすれば、おまえの病気は必ず治る」

 みゆきはうつむき、いやいやと首を振った。

「なぜイヤなんだ」

「イヤだから」

「気持ちはわかる。ラノベはクソだ。9割9分9厘9毛がクソだ。でも、ラノベにもいろいろあるんだ。なんでもそうだけど、結局、クソになるかどうかは本人たち次第なんだよ。おもしろいラノベ、これは決して語義矛盾なんかじゃない。努力と才能次第で、おもしろくもなり得るんだ」

「職を失うよ」

「構うもんか。兄ちゃん、教鞭の代わりにグレートアックスを振るうぞ! 遺伝子工学技術を駆使していっぱい異形のモンスターを現実に誕生させ、そのうえでぼくはおまえを守りつづける。そして次のシーンで添い寝する。おまえは目を覚まし、そして」

「うぼぉっ、でしょ」

「神の〈お約束〉に従えばね。だが計画どおりラノベの王になった暁には、ぼくたちがすなわちラノベだ。わかるかい? ぼくたちが〈お約束〉を創造する立場になれるんだ。たとえば、1巻に必ず一度は足の親指を舐めるシーンを入れること、とか」

「お兄ちゃんはそれでいいの」

「ああ、ぼくは、永遠の17歳になるんだ。そしておまえは永遠の15歳になる! ラノベにこんな活用法があったなんてなあ! 神に感謝だよ、文字どおり」

 みゆきは目に涙を浮かべて兄を見上げた。

「ラノベ以外に方法はないの?」

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