第78話 世界一行きたくないVR

 くさいたま新都心合同庁舎2号館2階正面玄関から歩行者デッキに出たとたん、全員が示し合わせたように鼻をつまんだ。

 し尿のようなにおい、腐った玉ねぎ臭、腐った卵臭、腐ったキャベツ臭、腐った魚臭、刺激的な発酵臭、汗臭い臭、そして蒸れた靴下臭が渾然一体となり、全員の粘膜を苛みつづける。そんなわけで以後は全員、鼻をつまみながら行動していることをここでお断りしておく。もし両手を使っているような箇所があれば指摘してほしい。

 一同は警戒しながら合同庁舎1号館につながる連絡橋を歩いた。手すりに寄り、デッキ下の車道を見下ろす。車も人通りもない以外はふつうの道路だった。

 京介は顔を上げ、グーグルよろしく360度見まわした。ベージュやグレーのCGめいた無機質なビルが遠景を彩り、ケヤキなどの高木や角刈りにされたイヌツゲなどの低木が計画的に植えられている。銃を抱えて飛んだり跳ねたりするには絶好の立体空間だ。

「しっかり剪定されている」

 色葉が指摘した。京介はうなずいた。

「まちがいなく、ここは〈VR〉よ」

「銃を抱えて飛んだり跳ねたりするやつらがいてもよさそうだが」

「住民がいるにしても、この地区ではなさそうね。まあ、官公庁だし」

「では、よりくさいほうへ向かおう。まずは住民を探すのだ」

 2人の鼻が協議した結果、駅と反対方向、西側へ向かうことになった。

 そのとき。

「きょうすけー」

 もうひとつの鼻を持つ春が、ひとことでは言いあらわせないゆらぎ声で言った。

 京介と色葉は声のした方へ顔を向けた。

 歩行者デッキの屋根の上を、春がへろへろと仰向けに漂っている。声だけでなく、全身がこんにゃくのように波打っている。上下方向に伸びたり縮んだりしながら、きわめてゆっくりと上昇している。このままだと宇宙へ旅立ってしまうので、春は首から上をぐにゃりと折り曲げ、地上のアスファルトに頭のてっぺんを向けた。同時にぐにゃぐにゃの両腕で、平泳ぎのように宙をかく。ストローク1回でたっぷり45秒かかった。現在は∩のような格好になっている。

 無理な反転のため、勢い余った右脚があり得ない角度で開脚し、γのようになった。そのあと右脚が胴体に絡みついてζのようになった。

 京介はδを指して言った。

「あれはどういうことなのだ。ユニクロの仕業なのか」

「わからない。古典的な物理学では説明のつかない現象ね。ゆらいだり、もつれたり、重なり合ったり」

「量子コンピュータだけに」

「すべてをだじゃれで解決したくはないんだけど、もしかすると春ちゃんがアンドロイドだからかもしれない。機械が〈VR〉にログインなんて、前代未聞だし」

「おたすけー」

「いま助けてやる」

 手すりによじ登りかけたところで色葉に止められた。

「なぜ止めるのだ。まず手すりから跳躍し、虹色のリングを背景にしばし宙に静止したあと、春を空中キャッチし、お姫様のように抱きかかえたまま車道に片膝をついて着地するのだ。もちろん着地後は、足元のアスファルトはめくれ上がっている」

「そんなにかっこつけたいの?」

「女子はかっこいい男に憧れるものだろう」

「跳んだり跳ねたりされてもかっこいいとは思わないのよ。上原さんが言ったでしょう、ユニクロオンラインはリアルなんだ、って。脚を折ってからじゃ遅い」

 というわけでふたりは常識的に階段で地上に降りた。デッキ下の枝線を南西に進み、とりあえず春の真下にたどり着いた。

 春は逆さまの状態で京介を見下ろした。涙目鼻水で手を差し伸べると、ぐにょーんと体が伸びた。

 次にその反動でおなかを中心にぐにゅーんと縮まった。

 描写不可能な動作をしばらく繰り返したのち、努力の甲斐あってか、ようやく頭が地上に設置した。

 そのままアスファルトに潜り込んだ。

「こういうバグを見たことがある」

「わらうな」

 ベルトでつなぐことにした。


   ◇


 縁日の風船と化した春を連れ、とにもかくにも一行は悪臭に導かれるまま県道215号を西に進み、中山道との交差点、すなわち八幡通り交差点を直進した。

 じょじょに真のくさいたまがその顔をのぞかせる。

 駅前の街区はさすが中心街と唸らされるところもあり、超高層マンション・シティタワーくさいたま新都心などは、憧れの東京都様に匹敵する立派な建築物だった。だが、そこはやはりくさいたま。オシャンティーを装うのは中心部から徒歩5分圏内が限界だったようだ。計画性があっさり姿を消した現在の町並みは、背の低い商業ビルや昭和の色濃い店舗が支配的だった。生活臭漂う安アパート、聞いたこともない地元のレンタルショップ、隠れた名店であってほしいと願うばかりの地元のイタリア料理屋、100年前の家屋敷にコンクリート塀、排ガスまみれのみすぼらしい街路樹、汚い歩道、汚い縁石、汚いガードパイプ、汚い電線。

 人通りはまったくなかった。

「どこにいるんだろう」

「おれたち都民とは価値観が異なっているのかもしれない。より汚い方へ行こう」

 果敢に一方通行の路地へ入った。そこには求めていたくさいたまの光景があった。空地に町工場、風雨に浸食されたブロック塀、もつれ合う電線、汚すぎて店名が読めないテント看板を掲げた居酒屋や中華料理屋などが出現した。道路は曲線を描きはじめ、行く者の方向感覚を狂わせる。かつては農道だったであろう舗装道路は、畝もひび割れもほったらかしで、リアルな雑草が顔をのぞかせている。マンホールの蓋が外れ、乾かした海藻のようなものが周囲を彩っていた。女性をデリバリーしたいときに便利な電話番号が書かれた電信柱の足元に、1人前のもんじゃ焼きが広がっていた。

 あちこちに服が落ちていた。

 みすぼらしい公園を左手に、一車線の道を歩く。公園の中央には、スウェットがなにかの供養のように盛られていた。

 緑色のネットフェンスにブラジャーが引っかかっている。

 京介は色葉に春を預け、下生えを踏みフェンスに近づき、ブラジャーを取った。

 道路に戻り、ブラをためつすがめつする。ワイヤレスのようだ。色は水色。よいしょとひっくり返し、タグを見た。ユニクロのロゴがあった。サイズはLだ。バスト86センチから92センチの女性がかつて身につけていたものだろうか。

 ふたつのふくらみをしげしげと見つめていると、色葉にひったくられた。

 人工的な小川が行く手にあらわれた。臭気は想像を絶していた。コンクリートの側面の汚れ具合から、かつての水位よりだいぶ低い。京介は川辺の雑草に埋もれた布のようなものを発見した。洗濯したまま放っておかれたTシャツのように見えた。あれもユニクロか。さらに虫取り網とバケツ、スニーカーが片方転がっていた。川を正面にしゃがみ、凝縮されたヘドロを見下ろしながら、なぜここまでリアルにさいたまを再現するのだろうかと思った。

 京介は足元の雑草をつかんでみた。

 何度も何度もつかんだ。

「なにやってるの?」

 色葉が肩越しにのぞき込んで言った。

「つかめない。潰そうとしても潰れない。それ以前に感触がない」

「これまで動かせたのは、ユニクロの洋服だけね」

「きょうすけー」

「春よ、みだりに伸び縮みせず、なるべくじっとしているのだ」

「ふえー」

 色葉が言った。

「無能階級労働者プレイヤーはどこにいるんだろう」

「17時間労働の真っ最中なのだろう。おそらく」

「でも完全に無人ってところが引っかかるのよね。たしか〈VR〉って、まずノンプレイヤーキャラクターがあらわれて、世界観の説明をして、最初に行くべき場所を教えてくれるんだよね。ゲームは詳しくないけど」

 京介は立ち上がり、答える代わりに空を見上げた。

「見られているのかもしれない」

「だれに?」

「管理者だ。ユニクロにとって、おれたちは招かれざる客。NPCどころか能力値すら決められないのは、管理者がコントロールしているからではないか」

「まったくゲームにならないね」

「そういうことだ」


   ◇


 そのころ都内某所の地下C階では、扇状に展開するLGの16Kモニター32面に見下ろされ、メカニカルなオフィスチェアと一体化した天然ドレッドヘアの男が邪悪な笑みを浮かべていた。

 トラックボールを操作し、ウインドウのひとつをアクティブにする。

「見ている。見ているぞ、岸田京介。くっくっく」

 それからスマホを取り、若干気乗りのしない様子で電話をかけた。

「山野辺です。お世話になっております。岸田京介以下クソラノベ一行ですが、先生の予想どおり、ユニクロオンラインにログインいたしました」

「剣を振りまわし、飛んだり跳ねたりしているか?」

「いえいえ。やつの能力値はオール1に設定済みです。ナイフを持ち上げることすらできない。階段を踏み外しただけで死亡だ。スペですよスペ!」

「専門用語はやめろ」

「失礼しました」

「やつにはしばらく〈VR〉を楽しんでもらわなければならない。さいたまゴブリン数百体を相手に無双し、強さに酔いしれてもらわなければならない」

「ですから何度も申し上げているように、そういったモンスター類はすべて削除済みなんです。ユニクロ様のご指示で、すべてをリアルさいたまにつくりかえたので」

 受話口から舌打ちが聞こえた。

「ぼくも管理者とはいえ、好き勝手にいじれないんですよ。忖度してください」

「だが能力値はオール1に設定済みなのだろう?」

「それは、まあ、その」

「まあいい。とにかく、わたしがログインするまでは、やつにストーリーを展開させるな」

「クエストのことですか?」

「どっちでもいい。やつにはわたしが用意した、一本道のストーリーを歩んでもらわなければならない」

「オープンワールドで一本道は難しいかもしれませんよ」

 社会性に欠けるのか、相手は挨拶も脈略もなく電話を切った。

 別の意味で社会性に欠けるユニクロオンライン管理者・山野辺は、とくに気分を害することもなく、スマホをデスクに置き、オフィスチェアに大きくもたれ、邪悪な笑みを浮かべながらモニターを見上げた。

 数日前、関東第一高校の主幹教諭・林は、岸田京介以下クソラノベが近々ユニクロオンラインにログインするだろうと言った。さいたまにおける労働階級の実態を調査し、窮状を訴え、世論を動かすためらしい。労働者は全員中卒、つまり関東第一高校が格差問題に直接的に関与していたことになる。入試で落としたのは関東第一高校だからだ。これほどの中卒を生み出す関東第一高校は悪だ、エリート教育の弊害だ、まちがっている、世界を変えなければならない、という流れを期待しているわけだ。

 ラノベの分際で、めんどくさい問題に頭を突っ込んだものだ。

 だが読者のみんな。本当に関東第一高校はまちがっているのかな?

 エリート教育はまちがっているのかな?

 モニターのひとつで、スペランカー岸田京介がなにもないところで転び、足をくじいていた。惨めにうずくまり、一ツ橋色葉の介護を受けている。山野辺は手をたたいて喜んだ。

「くっくっく。まあ、関東第一高校の問題は、ぼくにとってはどうでもいいことだ。とにかくおまえらは、なにもできないままゲームオーバーを迎える。もちろん労働者にも出会えない。なぜだかわかるか? ぼくがオンラインの神だからだ! 運よく紡績工場を見つけたとしても、おまえらは中に入れない。なぜだかわかるか? 〈フラグ〉が立っていないからだ。そして岸田京介、ぼくはおまえが個人的に嫌いだ。なぜだかわかるか? ぼくのアリたんを奪ったからだ! 職務を果たしつつ、〈VR〉死を迎えるそのときまで、たっぷりと嫌がらせをさせてもらうぞ!」

 人差し指を立てた右手を持ち上げ、ッターン!とエンターキーをたたいた。

「これより〈ゲーム〉を開始する!」

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