第71話 日本へ そしてさいたまへ

「やったな、京介。へへ」

 青木の下敷きになりながら、敏吾が弱々しく親指を立てた。

 しばらく〈親友〉の存在を忘れていた京介は重々しくうなずき、それから色葉と春に言った。

「ゆとりは消えたか」

「岸田京介。わたしはあなたの〈ヒロイン〉でよかった」

「あたくしも」

「一夫多妻状態については、いまは不問に付しましょう。日本に帰るのよ。そしてラノベをつづけましょう。わたしたちのオリジナルラノベで、世界を変えるのよ!」

「ラノベでいいのか」

「決してよくはないけど、ここタヒチではっきりと気づいた。あなたの言うとおり、関東第一高校はまちがっている。気づいた以上、見て見ぬふりはできない。頭はどんどん悪くなっていくでしょう。でもまちがいは正さなければならない!」

 春がぱちりとウインクし、言った。

「浦安の国防費、ぜんぶ京介にあ・げ・る」

 京介は深く嘆息し、顔を上げた。

「日本に帰ろう」

「イエッサー」

 ラノベの緊張感から解放され、京介はぐらりとよろめいた。床に這いつくばる瞬間、春が腕をつかみ、ぐいと引き上げ、おのれの肩にまわし、186センチの体躯を支えた。

「春。大きくなったな」

「セクシーやろ」

「言いそびれたのだが、おれは3リットルほど血を抜かれている。じつは立っているのもやっとの状態だったのだ」

「あとはわたしたちに任せて」

 鮮やかな赤と青の双眸でのぞき込む色葉に、京介は言った。

「任せるだけでなく、病院に行かなければならない。わりとまじめに」

「ダメ。もう医者は信用できないんだから」

「死にそうなのだ」

「わたし、あなたのおかげで大切なことを学んだ」

 色葉は胸に手を当て、京介をしっかりと見上げ、言った。

「ちょっとの病気やケガで病院に駆け込むのはまちがっているのよ」

「死にそうなのだ」

「人間には大自然と同じ、自浄作用が備わっている。体に感謝し、『ありがとう』を1万回繰り返せばいいのよ。そうすれば体が喜んで、免疫力がアップするの」

「死にそうなのだ」

「それに、なんといってもラノベだし。ね、春ちゃん」

「そ」

「本当に死にそうなのだ」

「死ぬとかいって、結局死なないのよね。だって死んだら終わりじゃない?」

「死んでもいいのだな」

「ほんと、ラノベっていいよね。『わりとてきとうですので』『厳しいツッコミはご容赦ください』って、おまえが言ったら終わりだろって感じじゃない? でもそれで許される。すばらしい世界よ」

「気絶する」

 宣言どおり気絶した。


   ◇


 深夜1時過ぎ。上原アリシャを乗せた一ツ橋家のリムジンが、都内を北へ進んでいた。永田町を出た車は都心環状線を外回りに進み、竹橋JCTから首都高速5号池袋線へ入った。

「どうなっても知りませんぜ」

 運転手が車内のスピーカー越しに言った。上原はリムジンのソファに小さくなってすわり、クッションを抱えていた。白を基調とした落ち着いた内装に包まれながら、バーカウンターに並ぶワイングラスをぼんやりと見つめる。車内はもちろんパーリー騒ぎもなく、クラブミュージックも流れていない。かすかな振動とエンジン音、タイヤの走行音が聞こえるのみだった。

 はるか先の運転席側を見やる。実際に見えるのは運転手の後頭部ではなく、42型のテレビ画面だった。

 上原は叫んだ。

「いまどこです?」

「あ、話すときはマイク使ってね。この車、長すぎるでしょ?」

 ソファを横移動し、上体をねじって振り向く。窓に通話システムが設置されている。液晶画面には深夜の高速道路が映し出されている。

 カラオケボックスを思い出しながら、画面下の「通話」と書かれたボタンを押した。

「もしもし」

「めんどくさいですよねー。でも文句は一ツ橋さんに言ってね」

「助手席にすわってもいいですか」

「ダメです。わたしの正体がばれてしまう」

「だれなんです」

「ただの運転手ですよ、ええ。一度世界を救った隠された英雄などではありません」

 意味ありげな発言は不問に付し、上原は自分の心配をはじめた。

「いま板橋本町から高速下りてるよ」

「あとどのくらいですか」

「10分もかからない。冷蔵庫の中のもの、好きに飲んでいいんですよ」

「ありがとうございます」

「それはそうとあんた、そんなおしゃれなカットソーなんか着て、さいたまへ侵入するつもり?」

「どういう意味です?」

「どこのメーカー?」

「GAPです」

「自殺行為だよ。自殺行為だ」

「さいたまは現在、どのような状況なのですか」

「リムジンの機密性のおかげで、ほとんどにおわないだろ。板橋区民をいまも苦しめる、さいたまのあのにおいを」

 上原は窓の外を見た。車は国道17号を進んでいる。

「このまままっすぐ行くと、隅田川を越える。その先は」

「その先は?」

「地獄だね。端的に言って」

 においに言及されたからか、車内の空気にうっすらと臭気が入り交じりはじめた。上原はおそるおそる嗅ぎ、悪臭と呼ばれるたぐいのにおいであることに気づいた。

「シャンパンでも引っかけといたほうがいいよ。正気を保ちたいならね」

 上原は引っかけることにした。正体不明の不安感を覚えながら、カウンターのグラスを取り、中腰で冷蔵庫に近づいた。

 1杯やると、運転手の思わせぶりな発言にむかっ腹が立ってきた。

「窓の外を見な」

 グラスの中身をがぶりとやり、窓越しに進行方向右手を見た。10階建ての分譲マンションらしき建物が、闇に紛れ、そびえ立っている。モダーンな街路景観を狙ったのだろう、歩道と車道のあいだの植樹帯には、等間隔にハナノキが植えられている。

 いや、かつてはハナノキだったのだろう。

 高木も地被植物も、すべて枯れていた。雑草すらも。

 橋の欄干が見えた。

「ようこそ、さいたまへ」

 隅田川を越える。まだ板橋区のはずだ。建物の窓に明かりはない。いまのところひとつもない。深夜だから当然なのだが、心なしか闇が深くなったような気がした。

 リムジンは歩道橋の下をくぐった。広々とした交差点を直進する。

 上原は気づいた。信号が消えている。

「もしかして」

「ここは板橋区、東京都内だ。だがさいたまの悪臭のせいで、人が住める環境じゃなくなってしまった。『人』というのはつまり、あんたのような、まともな教育を受けた人間のことだけど」

 分譲マンションらしき建築途中のビルとすれちがう。永遠に完成することはないだろうと上原は直感した。何年前から打ち捨てられたのか。

「なぜマスコミはこの実体を伝えないの?」

「20年だ。関東第一高校が誕生して20年が経つ。20年は長い。そう、時はすべてを癒やし、忘れさせてくれるのさ。いまの状態がふつうなのだ、とね」

「でも、明らかにおかしい。こんな状況は、ひと目見ればおかしいと思う。おかしいと感じる。全員ではなくても、だれかが気づく。声を上げる。まちがっていると」

「そりゃ、いまのあんたの目が開かれているからさ。いろいろあったんだろ? 目が見えるってだけですべてが見えると思ったら大まちがいだ」

 リムジンは登り勾配のあと、死んだ街区を抜け、戸田橋に差しかかった。欄干の隙間からわずかに河川敷の緑が見えた。

 橋の途中で唐突に減速し、止まった。

 上原は通話システムに話しかけた。

「まださいたまじゃない」

「バカ言うな。巻き添えになってたまるかよ。ここで降りて、あとは徒歩で侵入してくれ」

「あなたは一度世界を救った隠された英雄なんでしょう?」

「よく覚えてたね。だがそれとこれとは別の話」

 後部座席のドアがぱかりと開いた。闇が侵入してくる。

 上原はパニックになりかけた。先に待ち受けているのは、明らかに人外魔境だ。なにが待ち受けているのかはわからないが、たとえば囚われのお姫様になって岸田京介に救出されたりとか、裸同然のアーマーを着て身長より長い剣を振りまわしたりとか、そういったラノベ展開はさいたまでは起こらないような気がする。木村の言ったとおり、ラノベのスケール感を軽々と超越している。

 打ち捨てられた人間たちがいる。

 関東第一高校の入試に落ちた、中卒の若者たちが。

 手に負える問題ではない。

 あり得ない臭気が上原の鼻腔を突き刺した。痛いと考えるより先に目から涙が吹き出した。臭気によって生存本能のようなものが目覚め、結果としてパニックが克服された。

「はやく降りてくれ」

「なんの、におい、なの」

「だから、荒川さ。シャンパン持ってくかい? 役に立つと思うぜ」

 よくわからないが言われるまま冷蔵庫から最高級のシャンパンを取り、胸に抱え、涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにしながら車を出た。

 ドアがバタンと閉じた。別れの挨拶も餞別もなく、リムジンは無慈悲にバックし、交差点で華麗に方向転換し、走り去った。

 臭気に脳を痺れさせながら、上原は酔っ払いのように歩き出した。本当に酔っ払ったほうがよさそうだ。さっそくシャンパンのミュズレを外し、コルクを親指で押さえ、瓶をまわした。炭酸の圧でゆっくりとコルクが持ち上がる。それにしてもなんというシュールな状況だろう。

 ポン。

 上原はシャンパンをラッパ飲みしながらさいたまへ向かった。なんとなく車道を歩くのがイヤなので歩道に渡った。涙目で深夜の荒川を見下ろす。一ツ橋氏は岸田京介と連絡を取れたのだろうか。さいたま編はすでにはじまっているのだろうか。

 そのとき。

「手を挙げろ!」

 上原は瓶をおろし、目を細めて先を見た。

「女! そこを動くな!」

 ライフルを構えた男たちが扇状に展開し、じりじりと距離を詰めてくる。

 上原はシャンパンをひとくちあおり、そのままハンズアップした。

 ライフル男のひとりが呼ばわった。

「その服は?」

「はい?」

「メーカーだ! メーカー名を言え! ユニクロか、それともしまむらか!」

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