第70話 秘技・ゆとり召喚

「なにやってるの?」

 しばらく両手を天に掲げていると、色葉が肩越しにのぞき込んできて言った。著者近影を見、眉をひそめる。

「教科書に落書き? なぜこのタイミングで」

「黙って青木の著者近影を見つづけるのだ」

 色葉は言われたとおり落書きを見つづけた。そこにある青木は、もちろん青木ではない。鼻毛ボーボー、口髭ぽつぽつ、眉毛つながり、耳から鉛筆、頭に斧。だがよくよく見ると、青木の青木性がむしろ強調されているように思われた。高名な医師ではないひとりの人間としての青木のすべてが、小学生的な天才によって暴かれているように思われた。

 写真の中の青木が、穏やかな笑みを浮かべて色葉を見つめ返す。

 そのとき。

「ぷっ」

 色葉は紅茶を吹いた。

「よし」

 京介は両手を下ろした。教科書に飛び散った紅茶を見つめる色葉に言う。

「なぜいま紅茶を吹いたかわかるか」

「なぜって、つまり」

「つまり、なんだ」

「笑えるから」

「そのとおりだ」

 色葉は再び紅茶を吹いた。

「春」

 色葉の吹いた紅茶でびしょびしょになりながら、京介は床にうつ伏せる春に声をかけた。

「おまえも見るのだ」

 気絶していたはずの春がくるりと前転して起き上がった。

「なにをよ」

 色葉が口から紅茶をだらだらこぼしながら振り向き、机を指した。春はモデル歩きで歩み寄り、サイドの髪を払い、京介の肩越しにのぞき込んだ。

「んー」

 春はコーヒーを吹いた。

 信じられないといった面持ちで教科書に飛び散ったコーヒーを見つめ、色葉と目を見合わせる。

 京介が春に言った。

「なぜコーヒーを吹いたのだ」

「笑えるから」

 コーヒーと紅茶が同時に飛び散った。

 あえぎながら色葉が言う。

「信じられない。明らかに小学生レベルのくだらない落書きなのに、なぜこんなに笑えるんだろう。冷静になって見れば、こんな、落書き」

 色葉はがばりと口を開き、京介の後頭部に大量の紅茶をぶちまけた。

「ただひたすらに、バカバカしい。が」

 春は地獄の底から湧き出るようなえずきのあと、京介の横顔に大量のコーヒーを浴びせかけた。

 紅茶とコーヒーで皮膚がふやふやになった京介が振り向き、青木を指さした。

「次は本物を見るのだ」

 青木は思わずといった感じであとじさった。

「い、一体、なにをするつもりだ」

 色葉と春が同時に、口の端から液体をこぼしながらゆっくりと振り返った。

「ぶっ」

 色葉の口から紅茶があふれ出した。

「ぶぶっ」

 春の口からコーヒーのしぶきが飛び出した。

 青木は呆然とふたりを見下ろし、言った。

「な、なぜ、わしを見て紅茶やコーヒーを吹くのだ。意味はわからないが、とにかく不愉快だ」

「わたしにもわからない。でも、先生を見ると、思わず」

 色葉はテッポウウオのように紅茶を発射した。水流が青木の白衣をびちゃっと打ちつける。

「こうなってしまうんです」

 春はいつの間にか四つん這いでうずくまっていた。肩を小刻みに震わせながら止めどなくコーヒーを床に垂れ流している。

 青木は交互に目をやり、それからわれにかえったように頭を振り、言った。

「よ、よいか。わしは、おぬしらに笑われるようなことは、なにひとつやっておらん。そのいたずら書きのせいなのか。だがわしはそのいたずら書きのように、下唇に届くほど鼻毛を長く伸ばしてはおらん。眉毛もつながっておらん。もちろん耳から鉛筆を突き出してもおらん。よって、このいたずら書きによる顔はわしとは無関係であり、なんの意味もない。だいいち、わしは医者だ。偉いお医者様だ。尊敬されるべき」

 四つん這いで肩を震わせる春が苦労して顔を持ち上げ、絞り出すように言った。

「か、顔」

「顔がなんだ」

「うけて」

 ほとんど嘔吐反射のように大量のコーヒーを吐いた。

「わしの、顔」

 色葉にのっぴきならない変化が起きた。直立したまま白目を剥き、首から上をぷるぷると震わせはじめた。超自然的な何者かにコントロールセンターを乗っ取られかけているような感じだった。

 白目で言った。

「せ、先生」

「なんだ」

「先生」

「なんだ」

「ひとこと言わせて」

「なにをだ」

 黒目が復活した。

「クソキモいんですけど」

 青木は実際に打撃を食らったかのようによろめいた。

「な、なんだ、その話し方は」

「マジでキモいんですけど」

「なんだ、その表情は。なんだその制御不能な精神を抱えていそうな表情は。なんだその救いの手を求めながらもハリネズミのようにすべてを拒否するような表情は。なぜ突然、乱れた言葉を」

 春も直立して白目を剥いて震えていた。

 色葉が春に顔を寄せ、言った。

「青木の鼻毛ってさー、クソヤバいよね」

 春は白目のまま、わざとらしい笑い声を高々と上げた。

「うけるー」

「てかなんであんななれなれしく話しかけてくんの? なんなの? 好きなの? 明日話しかけてきたらわたし吐くよ? マジで吐くよ? みんなの前で吐いていい?」

「あたくしより脚、短いの」

「そうそう! 人間としてあり得なくない? 骨格が両生類的じゃない? 後ろ姿とか相当うけるよね。でさーなんか態度かんちがいしてるじゃん、医者なんだモテるんだ的な」

「えーモテるとかあり得なーい」

「いやそうなんだって! あの笑顔でわかるんだって! だからわたしに話しかけてくるんだって! 狙ってんだってこのDカップを。青木クソやべえし」

「まぢくせえ」

「だよね。おやぢってなんであんなにくさいの? ねーなんでくさいのー? もう顔とか整形しなくていいからさー、まずてめえの悪臭をどうにかしろって話!」

 電車内で耳にするといたたまれなくなるタイプの会話がつづく。

 青木が静かに言った。

「その話し方は、まるで」

「鼻とか超低いし。横から見ると頬骨に埋もれてるし。ねーなんで白人とああもちがうわけ? てかかわいそすぎ」

「まるで」

「あの青髭でよく出歩けるよねー」

「あたくしだったら自殺もん」

「でしょ? あそこまでキモかったら死ぬよねふつう。コンプレックスの蚤の市じゃん。絶対自殺するでしょ」

「やめてくれ」

 制御不能の精神を抱えた色葉がうつろな目で青木を見上げた。

 春もうつろに見上げた。

「やめるんだ。そういう目でわしを見るな。お願いだから」

「はぁ?」

「その『はぁ?』もやめてくれ」

「てか至近距離から話しかけるのやめてもらえます? 口臭で窒息しそうなんですけど?」

「その『なんですけど?』もやめてくれ。わしは、医師だ」

「うわ来た。医師とか言って肩書き振りかざしてるし。自分に自信なさすぎ」

「ゲロキモい」

「か、患者に向き合う、真剣な横顔が、すてきなのだ」

「はぁなに言ってんの? バカなの? 死ぬの?」

「その話し方は、まるで、まるで」

 しばらく汚い言葉遣いを見守っていた京介が、イスから立ち上がり、再び天に向かって両手を掲げた。

「まるで、まるで」

 青木があえぐように言った。

「ゆとりだ」

「そのとおりだ。さて、ゆとりの女子高校生2人組よ、そろそろフィニッシュホールドの時間だ。青木の魂をいまここに葬り去るのだ」

 ふたりはうつろな目のまま、おののく青木に詰め寄った。

「ハーゲ」

 ぶっ。

「短足ー」

 ぶぶっ。

「青髭ー」

 ぶぶぶぶぶぶっ。

「鼻低!」

 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶっ。

「きゃははははははははははははははははははははははははははははははははウケるw」

 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶっ!

「あぁっ!」

 青木はぐらりとよろめいた。消防車並みの水勢で紅茶とコーヒーを浴び、全身ずぶ濡れになりながら巨大な両手で顔面を覆った。

 女子高校生。

 女子高校生だ。

 あの恐るべき、ゆとり時代の。

 高校時代、わしを陰でくすくす笑っていた、あのゆとりの女子高校生。

 滅ぼしたはずではなかったのか。

 超高度教育によって。

 そもそも、なぜだ。

 なぜわしはずっと、女子に笑われつづけてきたのだ。

 被害妄想だ、と友人は言った。

 そうかもしれない。

 精神が生み出した、怪物。

 その後わしは医師となった。教頭に原宿でスカウトされ、関東第一高校に赴任した。

 わが校の女子は、わしを尊敬の眼差しで見上げてくれた。

 医者は、かっこいいから。

 そして、わし自身も。

 いや。そうではない。

 知っている。

 わしは本当は、知っているのだ。

 真実を。

 ずっと、物心ついたときから。

 イヤだ!

 ちがう!

 わしはかっこいいのだ!

 かっこいい医師なのだ!

 女子高校生にモテモテなのだ!

 関東第一高校の治世がつづく限り!

 だが、真実は。

 やめろ!

 その真実はやめろ!

 わしに真実はいらない! まやかしでいい!

 

 巨躯はついにバランスを崩し、青木は片膝を突いた。

「驚いただろう」

 青木は顔を上げた。

「岸田、京介」

「これぞ秘技・ゆとり召喚。おれはおまえをひとりの人間として観察し、おまえの弱点、すなわち容姿コンプレックスに気づいた。だからこそ猛勉強し、医者になったのだ、と。そこでおれは、ラノベの〈ヒロイン〉を超越する、かつての恐るべき女子高校生を呼び覚ましたというわけだ。これがおれのオリジナルフィニッシュホールド」

「お、おぬしは、それでいいのか。こんな章の終わらせ方でいいのか。これはもはや、ラノベではない! リアル現実だ! ラノベなら、かっこよく〈技名〉を叫び、わしを殴って勝利すべきだ。そうだろう? そして、ああ、あのふたりは! ラノベの〈ヒロイン〉は、奴隷のように従順でなければならないのではないのか? どのようなセクハラにも耐える人格の欠如、それが〈ヒロイン〉の本質ではないのか? みんな引いているぞ? おまえはみんなの夢を奪ったのだぞ?」

「おれには譲れない一線がある。それはラノベにおける〈ヒロイン〉の扱い。女の子に夢を見るのはいいだろう。だが〈ヒロイン〉は〈ヒロイン〉である以前に、人格を持つひとりの人間なのだ。現実を見ろとは言わない。ラノベを卒業しろとは言わない。だが人気を取る、ただそれだけのために、〈ヒロイン〉を意のままに操り、卑猥なポーズを取らせ、胸を触られてもものも言わせないような扱いをする『やつら』に、せめておぞましさを感じてほしい」

「〈主人公〉がそんなことでいいのか。また〈打ち切り〉になってもいいのか」

「おれはもう、〈打ち切り〉は恐れない」

 色葉を抱き寄せる。

「そう、おれのラノベの〈ヒロイン〉には、たしかな人格があるのだ。笑い、泣き、怒り、ときに優しく、ときに先のようなひどい言動を見せる。だが、それこそが人間ではないか」

「まぢ名言」

 色葉が京介を見上げ、にこっと笑って言った。

 京介は空いたサイドに春を抱いた。

「おれには〈彼女〉がいる。いまはかなり言葉が汚いが、30分経てば元に戻る」

「あークソ腹減ったー」

「日本に帰ればもうひとりいる。そしておれは、この一夫多妻状態を不自然だと感じている。不自然であることをしっかり認識しながら、だがおれは、ラノベをつづけよう。この世界を変えるまで。それはそうと、うらやましいか。うらやましいだろう。おおいにうらやましがるがいい」

「か、彼女くらい、わしにもおる」

「くたびれはてた妻だろう」

「ちがう! わしは、わしは、わし自身の魅力で、女子生徒にモテモテだったのだ!」

「まだ幻想にしがみついているのか」

「ちがう! それが証拠に、わしのもとには連日、女子生徒たちが押し寄せる。休み時間に職員室でレポートの採点をしていると、背後から『せーんせっ☆』と声をかけられる。『おっ?』と振り向けば、そこには2年θ組の東堂杏が、まぶしいスクールシャツ姿で、涼やかな香りを漂わせ、にっこりとわしを見下ろしているではないか。東堂は非常に優秀なうえに見目もよく、ちょっと時代遅れの赤縁の眼鏡も、むしろ整った顔立ちに絶妙なアクセントを与えている。『先生、ここ、どうしてもわからなくて』と、ある種の信頼関係がなければあり得ないような距離感で身を乗り出し、肩を触れ合わせながら机に教科書を乗せ、はっきり言って好きでなければ絶対にあり得ない、感情を内に秘めた眼差しで、10センチほどの距離で、わしをじっと見つめるのだ!」

「枕営業だ」

「がっ!」

 青木は刺されたように目を見開いた。

「おまえは利用されていただけだ。東堂杏は計算高い女で有名、推薦状が欲しいだけだったのだ。東堂だけではない。たいていの女子はそうだ。おまえはずっと、なにをかんちがいしつづけてきたのだ。どれだけ幻想を抱きづつけてきたのだ。そもそも受験競争を強いたのはおまえたちではないか。生徒全員を賢くしたのはおまえたちではないか。勝利が絶対、狡猾に立ち振るまうよう仕向けたのはおまえたちではないか」

「ぐっ…………!」

「〈長すぎる3点リーダー〉で若者に寄せているつもりか。見苦しい真似はよすのだ」

 京介はたくさんしゃべったことで宗教的恍惚が久々に高まり、手を上げ、半眼で幻視しながら告げた。

「よいか、教師よ。10代を恐れよ。10代の目は、常におまえたちを見ているぞ。おまえたちの外見を見ているぞ。板書をするおまえたちの背中を見ながら、もの言わずとも考えているのだ。『あいつフケすげえな』『スーツ一着しか持ってねえのかよ』『しゃべりかたホモっぽくね?』『足短くね?』『体臭ヤバくね?』などなど。女子は考えるだに恐ろしい。そしてこの、ゆとり時代の〈大人〉への反抗心、これこそがラノベの原点、ワナビへと通ずる道だったのだ。おれはみなのワナビを呼び覚まし、世界を正しい道、ラノベの道に導こう。色葉、仕上げだ」

「w」

 どう、と地が跳ねた。

 紅茶とコーヒーにまみれた草地に、青木がうつ伏せで倒れていた。

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