第62話 アンダーアチーバー症候群の診断および治療

 さいたま!

 京介の意識が覚醒した。軽く恐慌に見舞われながら周囲を見まわす。室内は薄暗い。遠くのほうで波の音が響いている。爽やかな風が吹き抜ける。ベッドに横たわっている。間取りと内装、シーツの感触をたしかめ、京介は気づいた。まちがいない。ここはさいたまではない。むしろ真逆、モーレア島を訪れたら絶対泊まりたい十傑に数えられる、ソフィテル・モーレア・イア・オラ・ビーチ・リゾートの水上バンガローの一室だ。

 ベッドは三方向が壁に遮られている。京介は苦労して頭を持ち上げ、テラスを見た。薄暮なのか未明なのか判断がつかない。足元へ目を向ける。床も部屋全体も、時が止まったかのような灰色のベールに覆われている。体が重い。そういえば、今日は一日、泳がずじまいだった。シャワーを浴びたあと、プールでひと泳ぎしようか。

 いや。

「岸田京介。ようやくお目覚めか」

 何者かが言った。室内にいる。京介は顔を向けた。

 異様に巨大な人影が、背を向け、壁際の机に着席している。座高だけで背の高い女子高校生ほどもあった。

「おぬし、勉強が苦手だそうだな。わしが治療してやろう」

「おまえはだれだ」

 突然、京介の両サイドで白衣の男が実体化した。抵抗する間もなく脇をつかまれ、上体を無理やり起こされ、ベッドの足元方面へずるずると引きずらされた。イスにすわらされ、シーツを縄代わりに、イスの背に縛りつけさせられた。

 京介は面を上げさせられ、背を向ける大男をにらみつけさせられた。受動態の連続に怒りが沸き起こり、上体に力を込めた。シーツの緊縛は、たいしたことはない。手足も縛られていない。わざわざ〈覚醒〉などしなくても、簡単にほどけるだろう。立ち上がろうと体に力を入れる。動かない。京介はだらりと垂れ下がる右腕に目をやり、パニックを押し殺しながら、身体機能をチェックした。体性感覚や皮膚感覚はあるようだ。麻痺ではない。だが倦怠感がものすごい。

 膝の皿の下付近をたたく。ない。力を入れてたたく。おれの膝蓋腱反射がない。

 大男が横顔を向け、乾いた笑い声を立てた。

「おぬしのビタミンB1は、すでに破壊されておる。動こうとしても無駄だ。というより、動きたくない気分だろう」

 机に向き直り、やや右側の肩を傾けた猫背の体勢で、ぱちぱちとリズミカルな音を立てはじめた。ノートパソコンのキーをたたいているようだ。

 とにかく状況を把握しなければ。時間を稼ぐため、京介は興味もないことをたずねた。

「なにを書いているのだ」

「これか。これはわしの代表的著書、累計3500万部の大ベストセラー、『治る!』シリーズの最新刊だ」

「今度はなにが治るのだ」

「膠原病だ。膠原病は治る。わしはありとあらゆる病気の原因を知り尽くしておる。わしに治せぬ病気などない。まあ治せない場合もあるのだが、そのときは『天使が連れていったのですよ』と言えば済む話だ」

「老化も治せるのか」

「老化は治せない。老化は病気ではない」

「ガンも治せるのか」

「ガンも治せない。ガンは治らない」

「では『治る!』シリーズの第1弾、『ガンは治る!』は一体なんだったのだ」

「若気の至りだ」

 京介は必死でもがいた。だがビタミンB1の欠乏により、シーツの拘束を振りほどく前にやる気を失った。

 やる気のない顔で見上げる。

「おれをどうするつもりなのだ」

「そう死に急ぐな。わしの執筆が終わるまで、おとなしくしているのだ」

 よどみないぱちぱちという音を聞きながら、京介はあらためて大男を観察した。観察の結果、ひとつのシンプルな結論に達した。

 あれは人間ではない。

 いや。それとも少年マンガのように、はじめは大きかったのがじょじょに小さくなっていくのだろうか。小さくなるにつれ、性格がおとなしく、表情も豊かになっていくのだろうか。倒したあと〈仲間〉になってくれるのだろうか。だがそれを期待するのはリスクが大きすぎる。

 大男の足元に人骨が散らばっていた。

「わしの執筆速度は1時間に60000文字、つまり森博嗣10人分だ。新書程度なら2時間で脱稿できる」

「その人骨はなんだ」

「これか」

 白衣のひとりが大男に近づき、耳元に顔を近づけ、言った。

「青木先生、IQの補充は」

「いらん。わしのIQは、すでに21000にまで上昇している。これ以上のIQは、地球に優しくない。地球が危ない。地球そのものがな。フフ」

 青木は執筆の手を止め、大儀そうにうなりながら床に手を伸ばし、人骨の山からしゃれこうべをひとつつまんだ。

 しゃれこうべはおしゃれ眼鏡をかけていた。

「香山リカだ」

 からりと部屋の隅に放り、別のしゃれこうべをつまんだ。

 カツラを着けている。

「中野信子だ」

 ばさりと部屋の隅に放り、さらに別のしゃれこうべをつまんだ。特徴的な髪型だ。もじゃもじゃ頭で、ところどころ毛先を跳ね散らかしている。

 かつてだれであったのか、京介は気づいた。

「茂木健一郎か」

「こいつにはだいぶ手を焼かされたわい。脅したりすかしたり、クオリアの説明をはじめたり。最後は涙と鼻汁で顔をぐちゃぐちゃにしながら、わしの膝にすがりつきおった。人間の生への執着というものを、存分に見せてもらった」

「まさか、すべておまえがやったのか。これら罪のない芸人たちを」

「ああ。食ってやったわ」

 京介は白骨の山の一角で、おでんのように串刺しになった3つのしゃれこうべを発見した。右から順に、海堂尊、久保田洋、そして知念実希人だった。

「おまえは医療ミステリィも嫌いなのか」

「勘ちがいするな、リスペクトの証だ。売れる物書きというものは、IQが高い。わしは努力の秀才タイプなので、売れるものを書くのがどうも苦手でな。心が純粋すぎるのだろう。そこでこいつらの『才能』を、参考にさせてもらったというわけだ」

「おまえは本当に人間なのか」

「白骨死体より、おのれの心配をしたほうがいい。わしはもう、最後の章を書き終わる。いまも病に苦しむ方とそのご家族へ向けた、心温まるように見えるがじつはなんの役にも立たない、無責任きわまりないメッセージだ」

「書き終わったあとは、どうするのだ」

「おぬしの選択肢はみっつ。わしに食われるか、治療を受けるか、それとも」

 部屋のドアが開いた。

「共産党に入るかだ」

 目の粗い布で目隠しされた男が、白衣の男ふたりにどつかれながら入ってきた。


   ◇


 白衣ふたりがトラディショナルな学習机を運んできた。京介の前にどんと置く。

 京介は天板を見つめ、小学校から中学校時代の思い出がどっと蘇った。

 隣には目隠しされたフリードリヒが拘束されている。なぜか学習机も用意されていた。

 青木が正面に立った。なぜか教壇と教卓も用意されていた。

「さっそくおぬしの診断に入る。そもそもアンダーアチーバーとはどのような病気か。そこからはじめよう」

「アンダーアチーバーは病気ではない」

「そう、単なる統計上の分類に過ぎん。これまではな。だがこれからはちがう。わしらは少々、おぬしを甘く見すぎていた。あれほど優秀な教師がそろっておりながら、IQから期待される学習成果を上げられないのは、もはや疾病といっても差し支えない。おぬしは病気だ。病気なのだ。そして病気は、治療されなければならない」

 なぜか背後に設置されていた黒板に向き、意外ときれいな字で板書をはじめた。

「まずは判断基準から学習する。覚悟はよいか」

「なぜ患者であるおれが学習するのだ」

 青木は無視した。




 アンダーアチーバー症候群(Underachievement Syndrome)は、アメリカ精神医学会の診断基準DSM-X-2では、神経発達障害に分類される。ちなみに前作DSM-Xは発表直後から国内外で高い評価を受け、初のダブルミリオンを記録、その後DSMシリーズとしてははじめて物語上の続編となるDSM-X-2が発表された。本書ではフェイシャルモーションがさらに強化されたDSM-X-2を主に取り扱う。

 神経発達障害はみっつの下位分類に分けられる。アンダーアチーバー症候群は特定不能に分類される。


 診断基準

 A.現在または履歴により以下のようなことが明らかにされ、多くの授業を通じた師弟間コミュニケーションと師弟関係的相互作用の持続的な態度(例示であり、網羅的なものではない)。

 1.異常な授業的アプローチと教師との会話の失敗から、学問への無関心、わかったという知的感動の放棄、教師への尊敬の眼差しの欠如、授業内相互作用の生起や反応の失敗までの幅のある社会/情緒的相互性のよくない態度。

 2.二度と勉強はしない、などの統合性の低い言語的・非言語的コミュニケーションから、異常なアイコンタクト(ガン見)や異常な身体言語(握ったこぶしを見つめる)、ジェスチャーの無理解(なぜ教師がチョークを投げたのか)、使用の障害(ごめんなさいと言えない)、顔の表情や非言語的コミュニケーションの全体的欠如まで幅のある、授業中に使われる非言語的コミュニケーション行動のよくない態度。

 3.さまざまな校内状況に合わせた行動調整の困難、想像力に富んだ休憩時間の共有ないし友人をつくることの困難、早弁、仲間への恫喝、不勉強の強要まで幅をもった、関係性の発達・維持・理解の困った態度。

 4.IQが4600である。


 B.現在あるいは履歴において以下の事項のうち少なくとも2つにより示される、行動・関心・活動における固定的・反復的なパターン(例示であり、網羅的なものではない)。

 1.型にはまった、もしくは反復的な動作、ものの使用ないし会話(へんてこなペンの持ち方、いつまでも開かれない教科書、ノートの誤った使い方、パラパラマンガリア Paraparamangalia)。

 2.同一性へのこだわり、決まったやり方への柔軟性を欠いた固執、儀式化した言語的・非言語的行動パターン(神の声を聞く、天使の姿を見る、ビジョンにおびえ布団をかぶる、同じ道で登下校する、ないし朝食時のシャウエッセンへの異常な固執)。

 3.強度や焦点が異常なかなり限定された固定的関心(不勉教信者への改宗の強要)。

 4.IQが4600である。




「と、いうわけだ」

 青木が言った。

「どうだ、おのれ自身を知った気持ちは」

 京介は青木の顔を仰ぎ、言った。

「おれ専用の神経疾患のように聞こえたのだが」

「そうではない。あくまで一般的な診断基準だ」

「てかIQ4600って! どう考えてもおれ専用だし!」

 気づけば京介は、明らかに削除しても構わなそうなセリフを部屋じゅうに響き渡らせていた。寒々しいうえ内容が重複している。

 青木はくすりともせずに言った。

「〈センスのない返し〉か。どうやらラノベを思い出しつつあるようだな。白衣その1よ、患者が発作を起こしておるぞ。適切に対処せい」

 白衣その1はアリピプラゾールを無理やり嚥下させた。

 目隠しされたフリードリヒが唐突に叫んだ。

「岸田京介! その調子だ! クソ寒いノリで〈大人〉をうんざりさせるのだ!」

「フフ。やってみるがいい」

「てか」

 フリードリヒにうながされるまま、京介は言った。だが「てか」のあとにはどのようなクソ寒いノリも出てくることはなかった。

「どうした! なぜ黙っている!」

 呆然とフリードリヒを見つめ、言った。

「思いつかないのだ。〈無駄な会話〉が出てこない」

「フフ」

 青木は黒板に向き、板書した。

「アリピプラゾールは過剰言語を抑制するが、根本的な治療とまではいかん。そしてそもそもラノベの特殊能力のひとつ、〈無駄な会話〉は、〈ヒロイン〉と交わしてはじめて効力を発揮する。わしのようなおっさんと交わしても、なんの効果もない」

「岸田京介! 〈チート〉だ! いまこそ〈チート〉を使うのだ!」

「たとえばどういう能力だ」

「時を止めるのだ!」

「できない」

「なぜだ!」

「くだらないと考えている自分がいる」

「なっ!」

「フフ。そのとおりだ。ラノベはくだらん。『バカでもいいんだよ』というラノベのお気軽なささやきが、おぬしに誤った自信を与え、アンダーアチーバー症候群の治療の妨げとなっておったのだ。治療のためには、まずラノベ環境から距離を置く必要があった。〈ヒロイン〉から離れ、〈日常〉から離れ、南国のビーチで泳ぎ、ポリネシアンダンスに魅了される。充実することでラノベを卒業し、おぬしはようやく治療への第一歩を踏み出すことができるようになる。もう少しわしと対話をつづけよう。文字どおり、充実した対話をな」

 京介は文字どおり病的にラノベに固執しながら考えた。ほかの〈お約束〉はないか? 〈下手な料理〉は? ダメだ。おっさんとふたりで食べ合ってどうする。〈ループ〉は? 何度もおっさんと出会ってなにが楽しいのだ。だからラノベでは、〈大人〉は排除されるのか。すべては青木の思惑どおり。

 色葉。

 いまこそここにいてほしい。おれにラノベ活力を与えてほしい。だが催眠術はとっくに切れた。おれのことなど、もとから好きではなかったのだ。わかっている。それにもともとラノベ向きでもなかった。美人編集者に「派手さが足りない」とダメ出しされるタイプだ。いまごろはすべてを忘れ、ラノベを忘れ、おれを忘れ、再び勉学に勤しんでいることだろう。

 それが色葉のため。

 京介は体の力を抜いた。青木は満足げにひとつうなずいた。

「ようやく卒業できたようだな、アンダーアチーバー京介。次は重篤度の判断基準、全国の支援プログラムの紹介、そして完全無欠な治療法」

 治療。

 京介はかすれ声でたずねた。

「おれは、治るのか」

「治る。保険は利かないがな」

「本当か」

「おぬしは本来あるべき姿に戻れるのだ。簡単な外科手術と治療薬の継続的な服用により、ラノベなど見向きもせず、勉強に精を出し、そのIQに見合った学力を身につけるだろう。その後の経過観察は一生涯つづくが、それは運命だ。両親を恨むではないぞ」

「〈両親〉はいない」

「ではさっそく、同意書にサインをするのだ」

「親はいないと言っただろう」

「これだけ大勢の〈大人〉が登場しているのに、いまさら『〈両親〉はいない』はないだろう。そもそもはじめから〈大人〉を出さない前提での〈両親は海外へ行った〉なのだ。ああ、そうだ。ひとつたずねるが」

「なんだ」

「眠くなるお薬は飲んでいるか」

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