第58話 恋のキューピットは共産主義者

 フリードリヒはバナナの葉っぱを敷いてビーチにすわり、膝を抱え、さざ波の音を聞きながら、夕日の沈む海をぼんやりと眺めていた。

 来日して1年になる。ヨーロッパ一の経済大国ドイツに暮らし、人生の目的を見失いかけていた。ジャーナリストの天分があることはわかっていた。だがこうも世の中が平和では、活きる才能も活かせない。発展途上国の支援団体についていったこともあった。だがいまひとつガツンとこない。告発し甲斐がない。そこへあらわれたのが、現代日本において旧渋谷区に18世紀イギリスの田舎町を完全再現してしまった謎の資産家、一ツ橋氏だった。

 ルフトハンザで羽田に降り立ち、京急電鉄で品川に向かいながら、当時のフリードリヒは静かな興奮を覚えていた。日本は最も成功した社会主義国家だという。有能な官僚、従順な国民、なんとなく議院内閣制。戦後無理やり導入された西洋的な倫理、個人、法などの概念が、約1世紀の時を経て日本古来の「空」と入り交じり、得も言われぬ独特の社会をかたちづくっている。

 なにより共産主義が大手を振ってまかり通っている! すばらしい!

 だが。20年前の関東第一高校誕生と超高度教育政策の強力な推進により、日本は本格的に東西の価値観の融合を図ろうとしているのだとか。新・日本国の誕生だ。

 なにかが変わろうとしているときには必ず問題が起こるものだ。

 告発するぞ。なにを告発するかはさておき。

 その日は一ツ橋氏の指示どおり、帝国ホテルの帝国フロアにチェックインした。資本主義のにおいに息が詰まり、ぶらりと外へ出た。日比谷通りを南へ歩く。このまま向かえば関東第一高校のグリーンベルトにぶつかるはず。まずは敵情視察だ。

 女子高校生らしき3人組が正面からやってきた。関東で高校生といえば、関東第一高校の生徒以外にない。3人組の姿は、フリードリヒの知る日本の女子高校生ではなかった。1人は制服を着ていたが、ほかの2人は私服だった。フリードリヒは2つの意味でがっかりした。あのおそろいの制服こそが社会主義国家・日本の象徴のひとつだったのに。そしてかわいらしかったのに。すれちがいざま、背の高いひとりがフリードリヒにちらと目を向けた。かわいらしさは微塵もなかった。堂々と背筋を伸ばし、大人顔負けの自信と落ち着きをもって目をそらし、確固たるパーソナルスペースを纏いながらすれちがった。残りの2名もそうした。

 さらに歩くと、少し先に高校生カップルらしき男女がいた。なにやら口論をしている。

 フリードリヒは眉をひそめた。

 女子の髪毛は藤色だった。頭上にアホのような毛が2本、揺らめいている。

 男子はふつうのスクールシャツ姿だった。短めの黒髪は毛先があちこちに跳ね、前髪は深めに下ろされている。目つきの悪さを気にしているのだろうか。

 これといった理由はないが、どちらもすごくバカに見えた。

 いや。フリードリヒは思い直した。関東第一高校の生徒がバカなはずはない。あの髪色はおそらく、制服と同じ、選択の自由というやつなのだろう。中野信子が金髪のカツラを着けるようなものだ。頭がよすぎて、という。すると女子が大げさに肩を怒らせ、なにごとか怒鳴りつけた。その仕草は一見して「怒っているんだな」とわかる、つま先立ちで上体をやや前傾させ腕をピンと下方に伸ばす肩の怒らせ方だった。しかも怒鳴るたびに口から電磁波のようなものを飛び出させている。男子もやはり大げさに、腰を割り左脚をざっと後ろに引き、上体をやや後ろにそらしながら両手を突き出し、女子に手のひらを向けて手首を回転させる仕草を見せた。一見してなんらかの誤解を解こうと必死なんだなと思わせる仕草だった。

「誤解です誤解!」

「バカぁっ!!!!!!」

 千代田区内幸町一丁目に女子の叫び声が響き渡る。女子は両目をぎゅっと閉じることでカラスの足跡のように変化させたあと、ふわりと宙に浮き、後方まわし蹴りを男子に見舞った。1.3秒間ほどパンツが見えた。蹴りは男子の顔面を的確に捉える。男子は「へぶしっ!?」と明確に口にしたあと、白目を剥きながらへろへろと宙を舞った。

 どさり。

 女子はやはりわかりやすい動作で肩を怒らせながらパンパンと手を払い、藤色の髪毛を明らかに意識して揺らしながら振り向き、男子を残してずかずかと去っていった。

 足元で鼻血を垂れ流す男子を見下ろしながら、フリードリヒは考えた。

 なにこれ?

 翌朝、帝国ホテルで遺憾の意を表しながらブレックファストをいただいたあと、一ツ橋氏の口添えで芸能界に潜入した。ちょっと危険な思想を持つ売れないガイジン芸人というギミックで売り出したが、まったく売れなかった。芸人仲間の言によると、いま最も売れているのは「アイソトープ」というコンビで、電気磁気法というリズムネタで大ブレイク、お茶の間を爆笑の渦に巻き込んでいるのだという(キメのセリフは「六フッ化!」)。そして当の本人たちは、なぜウケているのかまったくわからないとのことだった。

 ある日、居酒屋で一ツ橋氏とサシで飲みながら、来日時に目撃した奇妙な男女についてたずねた。

「ラノベだよ」

 ラノベとはなにか? 一ツ橋氏は岸田京介という高校2年生について語った。つまるところ、勉強がイヤで高校に反旗を翻した青少年のようだ。だがラノベはまたたく間に広がり、関東第一高校の2年生の約半分がラノベ化を果たした。なんというすさまじい革命ぶりだ。フリードリヒは活動家の血を騒がせながら、酔った頭で考えた。だが酔っていたので正常な判断ができず、しかも階級闘争という結論ありきの思考だったので、検討のすえ有能と無能の戦いという図式を頭の中ででっち上げた。一ツ橋氏はラノベが無能だとはひとことも言わなかったが、おそらく言わずもがなというやつだろう。現代日本において、無能が有能に反旗を翻したのだ。

 歴史が動こうとしている。

 芸能活動のかたわら、関東第一高校について秘密裏に調査を行った。芸人どうしの飲み会から地方の営業と、芋づる式に人脈をたどる。やがてひとりの議員にたどり着いた。やはりというべきか、ゴリゴリの共産党員だった。そしてラノベを知っていた。しんぶん赤旗でラノベを連載中らしい。フリードリヒはさっそく読ませてもらった。さしておもしろいとは思わなかった。この程度ならぼくでも書けると思わず言った。わたしでも書けると議員も言った。だれでも書ける、つまりそれは平等ということ。そうでしょう? ふたりはラノベについて熱く語った。この〈テンプレ〉なる思想はすばらしい。ラノベは現代における共産主義思想そのものである。

 そして議員から、格差の実体を聞いた。たしかに階級闘争は存在していた。関東の県のひとつ、さいたまと呼ばれる地で、無能階級がいまも貧困に苦しんでいるのだ。だが一般人はその実体を知らない。なぜか? 議員は興奮して叫んだ。なぜなら政府が情報を秘匿しているからだ! なぜ秘匿するのか? なぜなら政府だからだ! なるほど! フリードリヒは新自由主義のにおいでむせかえりそうになりながら居酒屋を出た。日本は超高度教育政策の強力な推進によって誤った道へ向かおうとしている! 小さな政府! 福祉と公共サービスの縮小! 規制緩和! 市場原理主義! 金持ちの優遇! 貧乏人に死を!

 そのあと電柱にゲロを吐いた。

 翌朝、二日酔いの頭を抱えながらさいたまへ向かい、恐るべき実体を目の当たりにした。

 そして1冊の本を書いた。


   ◇


 フリードリヒは夕日を横顔に受けながらビーチを歩いていた。ただでさえ重い足取りが、ビーチの砂にしょっちゅう革靴を取られる。立ち止まり、顔を上げ、これ以上ないほど黄昏れながら思った。

 いま、岸田京介はひとりぼっちだ。

 ラノベの使徒が、ひとりぼっち。

〈ヒロイン〉もなく、〈親友〉もなく。

 思想も党派も関係ないのだ。たとえファシストであろうと。

 友達を失うのはつらいこと。

 カール。

 気づけばフリードリヒは、犯人が現場に戻るがごとく、夜の空港に足を踏み入れていた。赤いセスナ機の前には、長テーブルと屋台のトラックがそのまま残っていた。カールが食い散らかした料理もそのまま残っていた。

 ふとなにかを蹴った。中国料理だろうかと足元に目を落とす。

 スマホだ。

 フリードリヒは急いで拾い上げ、周囲の様子を確認したあと、他人のスマホを華麗に操作し、アドレス帳を呼び出した。

「神」と登録された番号を見つけたので、なんとなくかけてみた。

「こちらスネーク。だれか応答してくれ」

 フリードリヒは仰天し、15センチほど飛び上がった。あまりにいい声だったからだ。

「なーんてな。どうだ、似ているだろう? 冗談はさておき、おれは神だ。このメッセージを聞いているということは、おれはいまスマホの電源を切っているか、電波の届かないところにいるはずだ。用のある者はピーという発信音のあとにメッセージを」

 フリードリヒは宇宙の真実を垣間見た気がしてなんとなく恐ろしくなり、留守電メッセージの途中でスマホを切った。

 さらに華麗にいじり倒し、ある電話番号を探し当てた。

 2回コールしたあと、一ツ橋色葉が出た。

「はい」

「ぼくはフリードリヒ! きみの彼氏、岸田京介くんのスマートフォンからかけている! 岸田京介くんは、覚えているだろう!」

 しばらく黙ったあと、表情のない声音で言った。

「わたしに彼氏はいません」

「だがきみのアドレス帳には、岸田京介の電話番号が登録されている! そうだな?」

「ええ、たしかに」

「なぜ赤の他人の電話番号が登録されている?」

「日銀総裁の電話番号も登録されていますが、彼氏ではありません」

「いいから聞くんだ! 岸田京介くんはいま、大変なことになっている!」

「なにがどう大変なのですか」

「やつらに捕まった! 関東第一高校の教師だ! 京介くんはここ、南国の楽園・タヒチで危機に瀕している! たったひとりで!」

「その名前は、聞き覚えがあります。でも」

「きみは催眠術になどかかっていない! 催眠にかかるずっと前から、岸田京介を気にかけていたのだ!」

「なぜ見ず知らずのあなたが、そのようなことを知っているのですか」

「ぼくはジャーナリストだ! 関東第一高校の闇に切り込むにあたり、きみたちの関係を調査させてもらったのだ! きみは高校入学当時、教化30年4月、新橋駅発の送迎バスに乗り、ルーティンどおりいちばん前の席にすわろうとしたところ、ある男子生徒に先を越されていることに気づいた! 来る日も来る日も先を越され、当時傲慢なコテコテの資産家令嬢だったきみは、『わたしの席を横取りするなんて、どこのどいつなのかしら? 絶対に許さないんだから!』と、父親に言いつけてその男子を滅ぼそうとした! ありとあらゆる個人情報を入手し、自宅を突き止め、少数精鋭の部隊を組織し、あとは命令するだけといったところで、きみはファイルに添付された生徒手帳用の写真に目が留まった! そのときだ、きみが岸田京介に恋をしたのは!」

「恋?」

「超高度教育でも、教育はあくまで教育! 教育は人間性まで変えはしない! そして同年代の男子に恋心を抱くのは、いたって正常なことなのだ! 時間の無駄でもない! ぼんやり頬杖をつく時間は、決して無駄ではないのだ! 勉学に支障をきたすからと押さえつけるのはまちがっている! だがきみは強引に押さえつけた! 成績が少しずつ落ちつづけただろう?」

「ええ。父にも指摘されました。気になっていることがあるのではないか、と」

「スパムメールによるサブリミナル催眠は、トリガーとなったにすぎない! むしろきみは望んで催眠術にかかった! きみは恋をしていたからだ! 好きだったのだ! そして岸田京介も」

「なんです?」

「岸田京介は当時、世界を変えるために〈ヒロイン〉を探していた! その条件は、美人で、資産家の令嬢で、髪色がアッシュブラウンの女子だった! つまりきみのことだ! 14万800分の1の奇跡! 岸田京介もきみが好きだったのだ! はじめから!」

 フリードリヒは叫びすぎで酸欠状態になり、いったん言葉を切った。呼吸を整えながら色葉の応答を待つ。色葉は無言だった。フリードリヒは頭をくらくらさせながら、懇願するように重ねて言った。それは理想の社会の実現のためか、もどかしすぎるふたりの若者にいらだちを募らせただけなのか、本人にもわからなかった。

「きみは資産家の令嬢だ! その財力があれば、なんだって可能だろう! 岸田京介を救うのだ! そしてともに世界を変えるのだ! いや、世界など、どうだっていい! ただ伝えるだけでいいのだ。好きだと」

「タヒチと言いましたか」

「そうだ! タヒチだ! ここにいるぞ! きみの彼氏はここにいる!」

「前向きに検討します」

 通話を終了したあと、フリードリヒはホーム画面を見て、思わず声を立てて笑った。岸田京介は、〈彼女〉の写真を壁紙に設定していた。なぜはじめから電話で話そうとしなかったのだろう。

 それが高校2年生、というやつか。

 背後に白衣の男ふたりが立っていた。いつからかはわからない。フリードリヒは振り返りもせず、観念したようにビーチに尻を下ろし、膝を抱え、頭を垂れた。

「近所から騒音についての苦情が来ている。〈端役〉は〈端役〉らしく、おとなしく袖に引っ込んでいるのだ」

 両脇を抱えられ、フリードリヒは静かに舞台裏へ連行されていった。

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