第56話 強制セレブ受動態地獄 共産主義者との出会い

 そのころ京介は、ゴルフをしていた。

 タヒチ島からフェリーで30分、モーレア島の北東に位置するグリーンパールゴルフコースは、ポリネシア第2のゴルフコースとして2007年にオープンした。敷地面積165ヘクタール、全長650メートル、全18ホールのコースは、まるでこの説明のように無味乾燥な印象をはじめ京介に与えた。だがいまは、強制リゾートによって変わった。いや、変わらされた。せせこましい時間の感覚も、貧乏くさい「なにかしなければ」的脅迫観念も薄れ、バイザーをかぶり、ポロシャツに短パンという出で立ちで、まさにセレブリティの面持ちで、上手下手に一喜一憂することなく、自然と対話するかのように一打一打を楽しんでいた。

 楽しませられていた。

 リチウム等によって情動を調節させられながらも、リゾート初日は能動的に自己を保ちつづけていた。到着初日、タラップを降り、目隠しを外されると、からからに乾いた広大なアスファルトの上に立っていた。強烈な日差しに目も開けられない。瞳孔がまともになると、茅葺き屋根を思わせる正体不明の建物が見えた。スーパーマーケット様の建物は、どうやら空港のようだった。その奥の緑の丘には点在する家屋敷のようなものが見えた。

 歓迎および入国審査を終えると、京介は白衣の男に車へ押し込まれ、タヒチに行ったら絶対に泊まりたいホテル十傑に数えられるインターコンチネンタルタヒチリゾート&スパにチェックインさせられた。あてがわれた客室はポリネシアンの伝統家屋調で、天井扇が緩やかにまわり、窓はすべて木製のブラインドだった。テラスに出させられ、イスにすわらされ、ひたすら椰子の木を眺めさせられた。両脇には当たり前のように白衣の男が付き添い、使い捨て注射器と薬剤のボトルを手に京介を監視していた。

 夜になると、無理やりキャンプ場へ連れていかされた。現地スタッフや白人観光客が入り交じるなかテーブルに着かされ、子豚と野菜の蒸し焼きの実演を見させられ、雄々しいポリネシアダンスが披露されるなか強制的に料理を堪能させられた。

 翌日は無人島でエイと戯れさせられた。白衣の男はシュノーケルを付け、白衣のままサメのすぐ脇を悠々と泳いでいた。

 南国の熱風に1週間もさらされると、京介もさすがに覚悟を決めた。いくらCFPフランを貯めても、この楽園に1日外出券は存在しない。そういう趣旨が書かれた張り紙も見かけなかった。畳の大部屋もなければ、チンチロリンも、部屋を取り仕切る班長もいない。一発逆転のチャンスはどこにもないということだ。

 ここで15年。嗚呼。

 エメラルドグリーンに輝く海で水上スキーを楽しませられたあと、ジャン・リュックというコテコテの名前を持つフランス人男性と出会った。白衣の男が律儀に通訳してくれたところによると、カネがありすぎて自宅にゴルフコースをつくってしまった父親のひとり息子らしかった。ゴルフは好きかとたずねられ、京介はジュヌブパスプラと答えた。

 フェリーで30分、京介はモーレア島にたどり着かされた。

 クラブハウス前には白人の老若男女がたむろしていた。ジャン・リュックに紹介されるたび、京介は握手をし、アンシャンテと言った。言い方がツボに入ったのか、大柄な老人は大笑しながらごつごつした手で肩をたたき、2往復ほど親しげに会話を交わし、去っていった。金持ちらしく訓練された慎重な笑顔だった。サルに対しても同じ笑顔を浮かべるにちがいないと京介は思った。

 口のまわりに白いひげを生やし、短パンからのぞく膝下が異常に長い中年が、白衣の男ふたりに話しかけた。おまえらもどうだと誘っている様子だったが、明らかに相手が断ることを前提としたコミュニケーションだった。白衣のひとりはゴルフは苦手だからとプレーを固辞し、キャディならできるかもしれない、というようなことをつぶやいた。もうひとりも空気を読んで断りの文句を入れたが、いつの間にか割って入ってきためんどくさい感じの進歩的イギリス女との会話の流れで、じつは中学時代アマチュアゴルフ選手権で優勝し、プロテストの2次試験に合格した実力の持ち主だと判明した。こうなるといまさら前言を撤回することもできず、フランス人たちはしかたなくサルに棒きれを持たせてやることにした。ゴルフ上級者の白衣は、京介、ジャン・リュック組に入った。そして迎えた第1ホール、オナーとして嫌々ティーグラウンドに入った白衣は、白衣を着たまま軽く素振りしたあと、いきなりバックティーからキャリーで270ヤードのロングドライブを決め、フランス人たちの度肝を抜いた。イギリス女はバイザーにサングラスをかっこよく着け、「ジャパニーズだってゴルフくらいできるのよ。当然じゃない。なにを驚いているのかしら!」といった進歩的な顔をしていた。

 アウトの9ホールを終えると、さも当然のようにバーベキューがはじまった。現地スタッフをさも当然のように働かせながら、白人たちとともにシャンパンで乾杯し、あつあつのソーセージをほおばった。

「健康に!」

 グラスをチンチンし、京介は最高級のシャンメリーを喉に流し込んだ。適度に遊び疲れた体に冷えた液体が優しく染み渡る。異文化交流のコツのようなものもつかみかけていた。対話とは、わかり合うためではない。意志を伝えるために行われるものなのだ。ちょっと意見を言い、対立もしてみた。新渡戸稲造について語ってもみた。サルを見る眼差しがほんの少し変わった。

 後半戦に向けスイングをチェックしていると、白衣が京介の腕をつかみ、言った。

「お薬の時間だ」


   ◇


 そんなわけで、京介はすっかりゴルフにハマらされていた。ビーチに並ぶ水上バンガローに一泊させられた翌日、スコア100切りを目標にコースに出た。白衣の男のひとりはゴルフバッグを抱え、もうひとりは点滴のバッグを掲げ、従順にあとをついてくる。

 目標があるのは望ましいことだ。

 第一打でいきなりどスライスし、林に打ち込んだ。3人いっせいにファーと叫んだ。

 深めのラフでボールを探していると、木々の向こうから訛りのある日本語が聞こえてきた。

「同志よ! こちらだ!」

 京介は声のしたほうへ顔を向けた。人間の姿は見えない。ただのOB区域が広がっている。京介はフェアウェイへ振り返った。白衣の男ふたりは、京介のプレーを待つあいだ、背を向け、スイングの練習をしていた。ゴルフ初心者の白衣がアドレスし、ゴルフ上級者の白衣が後ろから抱きつき、適切なバックスイングの方法を教えている。

 7番アイアンを手に、声のしたほうへそろそろと近づいた。

「右だ! 同志よ!」

 右に顔を向けたとたん、京介は仰天した。

 ブッシュに男が潜んでいた。藪から見上げる片目は、南国の熱気とは別の意味で異様な熱を帯びている。

 京介はブッシュの前にしゃがみ、言った。

「おまえはだれなのだ」

「ぼくはフリードリヒ! きみに話がある! あちらのOB区域で話をしよう!」

 京介は再びフェアウェイへ振り返った。上級者の白衣が初心者の白衣に、左足の壁のつくりかたを教えている。

「行こう!」

 いきなり藪から頭を突き出したので、京介は尻餅をつきかけた。フリードリヒと名乗る男は、髪をきっちりと七三に分け、暑苦しいウールのジャケットを身につけている。義憤に駆られたような表情も含め、リラックスしている部分はひとつもなかった。

 軽やかにブッシュを飛び出し、こっちへ来いと手を振った。たすき掛けした鞄を押さえながら、子鹿のようにOB区域に向かって駆け出す。京介は重い腰を上げ、一歩踏み出し、立ち止まり、みたびフェアウェイへ振り返った。だれかに命令されて動くのがおっくうでたまらなかった。どうしてこのおれが、他人に命令されなければならないのか! 注射してくれないかな、とさえ思った。中毒が出はじめたのか、薬の効果が消えかけるたびに、なにかよからぬ考え、たとえば国家は死滅すべきだとか、天皇制は転覆すべきだとか、消費税は廃止すべきだとか、そのような考えが頭に浮かんでしかたがないのだった。

 おれは勝った。勝ち組なのだ。

 消費税の10%や20%など。

 フリードリヒが叫んだ。

「きみは〈彼女〉と再会したくはないのか!」

 京介は振り向き、言った。

「〈彼女〉、だと?」

「そうだ! 〈彼女〉だ! 一ツ橋色葉は、いまもきみを愛している! 3週間のあいだきみとともに行動したのは、本当にサブリミナル催眠のせいだと思っているのか? さあ、〈彼女〉に会いに行こう!」

 色葉?

 なにそれおいしいの?

 京介の脳は主要な区域をまずおいしいかどうかでスキャンしたあと、まったく記憶にございませんと返した。だがなぜか京介の肉体は、ゾンビのように一歩、また一歩と、深いラフを踏み、OB杭を越え、フリードリヒの後を追っていた。

 やがてフリードリヒと肩を並べ、京介は走っていた。ゴルフ場はやがてモーレア島のワイルドな外観そのままのうっそうと茂る林になった。ラフはただの下生えとなり、OB区域はただの大自然になった。ゴルフ場が影もかたちもなくなると、フリードリヒは立ち止まった。くるりと京介へ振り向き、髭面でぎらぎらとにらみつけた。

 怒っている様子だった。

「岸田京介! ときにきみは、ゴルフ場でなにをやっている!」

「ゴルフだ」

「そういう意味ではない! 産業資本家の連中に混じって、きみのような労働者が、なにをやっているのかと聞いている!」

「おれは労働者ではない」

「薬で思い込まされているだけだ! きみは資本を有していない! 労働を対価に賃金を受け取り、余剰労働分を資本家に搾取される、それが労働者だ! プロレタリアートなのだ!」

「プロレタリアートの意味はわからないが、おれは生まれてこのかた、労働というものをしたことがない。だから労働者ではない。筋が通っているだろう」

「冗談を言うな! その年で働いたことがないだと? 貴族だとでも言いたいのか?」

「貴族でもない」

「ではきみは何者なのだ? ほかにどのような階級があるというのだ!」

「おれは17歳の高校2年生だ」

「高校2年生、だと?」

 フリードリヒは、わけがわからないといったふうに頭を振り、ふとなにかに思い当たったように京介に焦点を合わせ、言った。

「つまり、未来はきみの手の中に?」

「そういうことだ」

「そうか。なるほど。いまは科学万能の時代、21世紀だったな。少しかんちがいしていたようだ」

「どの時代にいるつもりだったのだ」

 フリードリヒはいきなり京介の両肩をつかんだ。

「だが、われわれの戦いはまだ終わっていない! とにかく、ぼくといっしょに帰国するのだ! きみはいますぐ、この忌まわしき南国の楽園タヒチから脱出しなければならない!」

「なぜだ」

「なぜ? きみは忘れてしまったのか、同志よ? 関東第一高校を倒し、世界を変えるという夢を、きみは忘れてしまったのか! みなが平等に〈テンプレ〉を共有し、同じ〈トラック〉に轢かれ、同じ〈属性〉を使いまわす、すばらしきラノベ共産主義社会の理想を! そうだ、この本を読んでくれ! きっと思い出すはずだ!」

 フリードリヒはたすき掛けした鞄を引っかきまわし、小さな赤い本を取り出した。病的とさえいえるテンションを維持したまま、京介の胸にぐいと押しつける。

「さあ! 読むのだ!」

 京介は文庫本を受け取った。真っ赤な表紙に目を落とす。タイトルは『共産フレンズ』。「革命ガール」と呼ばれる少女化された独裁者たちが集まる架空の動物園「ソビエト連邦」を舞台にした作品らしい。表紙に描かれたレーニンちゃんが、見えそうで見えないミニスカートの中身を強調する、無垢にして卑猥なポーズを取っている。このような格好を平気で取る娘は、いつ犯されても文句は言えないだろう。

 京介は表紙をめくった。見開きのカラーページでは、トロツキーちゃんとスターリンちゃんが主人公を巡り、かわいらしい八重歯を剥き出し、星を周囲に飛び散らせながらいがみ合っている。マイペースのマオちゃんが、そのかたわらでひとり豚の角煮をほおばっている。次のページでは、ぐりぐり眼鏡をかけた科学大好きのキムちゃんが、核弾頭を搭載したお手製の大陸間弾道ミサイルを新大陸方面へ向け、何事かを叫びながらびしっと指をさしていた。ほかの独裁者たちは1.5頭身化したうえになぜか動物の耳と尻尾を生やし、白目を剥いた驚愕の表情でガビガビ叫んでいた。

 ちなみに〈ヒロイン〉はもうひとり予定されていたが、あまりに性格がインモラルなためプロット段階で没になったらしい。そのあたりの裏情報は、設定に関する見苦しい言い訳と美人編集者へのヨイショが並ぶあとがきにさらりと記されている。

 なんだか懐かしい気分になり、京介は改行の目立つセリフまみれの本文に目を通し、ぱらぱらとめくった。昔はよく読んでいたなあ。正確に言うなら、よく読んでいたつもりでいたなあ、だ。キムちゃんは共産主義者ではないのに。きっとろくに調べずもせずに書いたんだろうなあ。いや、調べる時間的余裕もなかったんだろうなあ。締め切りが忙しいプロフェッショナルだからなあ。ああ、なにもかもが懐かしい。

 だが。

 京介は静かに閉じ、赤いラノベをフリードリヒの胸に押しつけた。

「この本はクソだ」

 フリードリヒは目玉を剥き出し、絶句した。

「なんということを!」

「たしかに、かつては正しいと信じていた。これがすべてだと思い込んでいた。これで世界を変えるのだという志を抱いていた。だがおれは、ここ南国の楽園タヒチにおける1週間にも及ぶ強制リゾートで、ついに悟ったのだ。世界は変えられない。世界とは、人の歴史とは、ありのままに流れるものなのだ。見てみるがいい、このありのままの自然を。これでいい。これでいいのだ。人はありのままの自然を受け入れるべきなのだ」

「ここはゴルフ場だ! どこがありのままの自然だ!」

「そして個人的には、自分さえよければそれでいいと思っている。これが正直な気持ちだ。おれは〈充実〉している。日々の〈リアル〉が〈充実〉しているのだ。おれはついに〈デビュー〉したのだ。〈デビュー〉さえすればこっちのものだ。いまやおれは多忙な身。〈デビュー〉できない無能に構っている暇はない。結局、〈デビュー〉できない者は、才能がなかったのだ。努力が足りなかったのだ。そう言わざるを得ない。残酷ではあるが」

「よもやラノベの使徒から、そのような言葉を聞くとは!」

 フリードリヒは真っ赤な顔をさらにどす黒く変色させ、完全に目玉を飛び出させながら叫んだ。

「目を覚ませ! きみは〈デビュー〉などしていない! まわりからちやほやされ、『出たら絶対買います!』などと言われ、いい気になっているだけだ! きみが立ち上がらなければ、一体だれが立ち上がるというのだ!」

「ほかのだれかが立ち上がるだろう」

「いいや! きみがいまここで立ち上がらなければ、関東第一高校は、ついにその野望を実現するぞ! 超高度教育によりエリート高校生を大量育成し、新たなる階級闘争を巻き起こそうとしているのだ! 歴史は繰り返す! 市民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ブルジョアジーとプロレタリアート、そして21世紀の日本における有能階級と無能階級! 人類は常に、圧制者と非圧制者が対立し、闘争を行ってきたのだ!」

「全員が有能だ。虐げられている者などどこにもいないだろう」

「いる!」

「どこにいるのだ」

「さいたまだ!」

 さいたま?

「さいたまだ! 関東第一高校の生徒は、なぜそろいもそろって有能だと思う? 教師が有能だからか? いや! 名選手が必ずしも名監督になれるわけではない! 高校入学時、やつらはいわゆる入学試験なるものを志望者へ強制し、未来ある中学生を有能階級と無能階級に選別したのだ!」

「それが入試というものだろう」

「たしかにそうだ! だが関東にはほかに高校はない! そうだろう? 私立はおろか、通信制すらないのだ! 試験に落ちた中学生は、一体どうなったと思う? 中卒だ! 恐るべきことだ! 人並みの能力があるにもかかわらず、エリートではないというだけの理由で無能のレッテルを貼られ、まるでブタのように、さいたまへ追いやられた! さいたまの窮状は目を覆わんばかりだ! 彩の国はいまや肥溜め、世界最大のスラムと化している! ぼくはこの目で見てきた! ぼくは告発する! 本を書き、岩波書店から出版する!」

「どういう窮状なのだ」

「本を買え!」

 そのとき。

 がさりと枝葉の揺れる音が聞こえた。ブタかヤギか、それともさいたまか。だが野性の動物は、あのように器用に枝葉をかき分けたりはしない!

 フリードリヒは音がしたほうへ顔を向け、目を剥いて叫んだ。

「見つかったか!」

 がさり、がさり。音は明らかに意志を持っている。こちらをうかがいながら、少しずつ、だが確実に近づいてくる。草木のあいだからちらちらと、白い光が反射した。

 フリードリヒは京介の腕をつかんだ。

「なぜやつらにここがわかったのだ!」

「おまえが叫びつづけているからだ」

「走れ!」

 ふたりは同時に走り出した。次の瞬間、追っ手らしき人物が声を上げた。

「あそこにいるぞ!」

 どれだけ活力がみなぎっているのか、フリードリヒは走りながら、変わらぬテンションで話しかけてくる。

「ぼくを信じてくれ! ぼくは味方だ! というより、ぼくらは同じ志を抱く同志なのだ! 関東第一高校の独占教育を打ち倒し、社会主義高校革命を経て、高度の共産主義ラノベ高校社会を実現するのだ!」

 京介は始終よろめき、つまずき、10歳近く年上のフリードリヒに着いていくだけでやっとだった。バカンスがたたったのだろう。だいたいにして、なぜ逃げているのか。追われなければならないのか。久々の運動で、なにかが蘇りつつあった。走る理由はともかく、走っているからには、木の根に足を引っかけて転ぶわけにはいかない。森を走って転ぶのは女だ。京介は太腿をたたき、活を入れた。転ぶやつは〈妹〉だぞ。転んだら最後、「あっ! お兄ちゃん!」と叫ばなければならない。

 そう。まるでラノベのように。

「ラノベを味方につければ百人力だ! ラノベと共産主義は相性ばっちり! ラノベは一億総無能化の最終兵器なのだ!」

「神の教えを悪く言うのはよすのだ」

「なぜだ! 褒めているだろう!」

「バカにされているようにしか聞こえないのだ」

 京介は後ろを振り返った。追っ手の姿は見えない。フリードリヒに声をかけ、手近な茂みに飛び込んだ。

 やや遅れて、フリードリヒがスライディングで飛び込んできた。

 京介は息を切らしながらささやいた。

「参考までに聞くが、どうやって島から脱出するのだ」

「セスナを用意してある! 真っ赤でかっこいいぞ!」

「空港はどっちだ」

「ゴルフ場の方角だ! いま走ってきた、まさにその方角だ!」

 京介はみあげた自制を発揮し、静かにたずねた。

「ではなぜわざわざ反対方向に走らせたのだ」

「闇雲に走らせたわけではないぞ! ふぬけなままのきみを連れ帰っても無意味! 何者かに追われれば、きみはきっとラノベに目覚める! そう思ったからだ!」

 京介は周囲をうかがい、注意深く耳をそばだてた。追っ手の気配はない。ひとつ息をつき、体機能をチェックし、それからおのれの思考について思考した。フリードリヒの言うとおりだった。なにが〈充実〉だ、と考える自分に気がついた。なにがリゾートだ。暇つぶしをかっこよく言い替えただけじゃないか。リア充爆発しろ。

 フリードリヒに向き合い、言った。

「たしかに、僭越ながらおれは気づいた。おれは神の使徒、ラノベの最後の守護者、アンダーアチーバー京介なのだ。おれはIQから期待される力よりはるかに低い学業成績を示す者」

「よかった!」

「そういえば最近、大塚明夫と話していない」

「大塚とはだれのことだ!」

「おれの神だ」

 スマホをポケットから取り出し、アドレス帳を呼び出す。

 やはり圏外だった。

「神と話すのはあとだ! まずは叫ぶのだ、あの決めゼリフを! 『世界はまちがっている』と!」

「叫びたいのはやまやまだが、まだ薬が効いているようなのだ」

 フリードリヒは京介の頬を平手打ちした。

「これでどうだ!」

 こうして京介は、ラノベの使徒として完全に目覚めた。なぜ平手打ち一発で各イオンの細胞膜移動における代謝回転が正常に戻ったのかは定かではない。だがそれが証拠に、京介ははっきりと、ひとつのセリフを頭に思い浮かべていた。あのセリフを。

 フリードリヒがうかがうように京介の顔をのぞき込み、言った。

「いま『親父にもぶたれたことないのに!』という返しを口にしかけただろう!」

 京介は驚いてフリードリヒを見つめ、頬を押さえながらうなずいた。

「そのとおりだ」

「これではっきりしたな! きみは〈リア充〉などではない! なぜなら〈リア充〉は、頬を張られたあとまちがってもガンダムのセリフを引用したりなどしないからだ! きみは勝ち組ではない! むしろどちらかといえば負け組なのだ!」

「おれは負け組だ」

「そうだ! Sprecht mir nach! リピートアフタミー! おれは負け組にしてラノベの使徒、岸田京介だ!」

「おれはラノベの使徒だ」

「世界を変えなければならない!」

「世界を変えなければならない」

「叫ぶのだ! 『おれは共産主義者だ』と!」

「おれは」

 京介が共産主義者宣言をしかけたそのとき。

「あそこにいるぞ!」

 驚くほど大きながさり、という音が、半径5メートル圏内から聞こえてきた。白くちらつく光ではなく実態を持った白衣の男が、片手に注射器、片手に7番アイアンを持ち、下生えを踏み踏み大股で近づいてくる。背後からばきっという音が聞こえ、京介とフリードリヒは振り返った。もうひとりの白衣が、背中に原子吸光分析装置を背負い、ずんずん近づいてくる。手にしているのはユーティリティウェッジなので、こちらがゴルフ初心者のほうだろう。いずれにせよ、挟み撃ちにあってしまったようだ。

 一体なぜ見つかってしまったのか!

 ひとりがじりじりと距離を詰めながら、子供に言い聞かせるような口調で言った。

「岸田京介。安心しろ。ただのモニタリングだ」

「危害は加えない。ただ、おまえの体内に残留するリチウムの濃度を調べたいだけなのだ」

「走れ!」

 フリードリヒは茂みから飛び出し、みたび駆け出した。京介はみたび後を追った。

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