第40話 熱力学第四法則 火、空気、水、土 そして恋

 翌日。

 京介はかつてひじり坂と呼ばれた急な坂に立ち、オープン間もない『小料理屋 はるいろ』を遺憾ながら見上げていた。

 関東第一高校のみんな。ぜったい来ちゃダメだよ。

 みんな死んじゃうよ!

 たべたらしぬで。

 昨日夜に執り行われた最終リハーサルは、惨憺たる大成功だった。京介は遺憾ながら思い出す。あれは料理ではない。断じて料理ではない。そして食べ物でもなかった。

 アンドロイドが嘔吐するなど。見てはいけないものを見てしまったような気がする。

 そして。あの心の底から楽しそうな笑顔はどうだろう。料理はともかくあの笑顔を思い出すだけで、京介の胸の内に暖かななにかが灯るのだった。

 そしてバランスを保つかのように、寒々しいセリフを吐きたくて仕方がなくなる。

「のわーっ! 指がーっ! 目にめり込んでるぅー!」

 指が目にめり込んだら失明するだろう。だがそういう問題ではないのだ。

 嘘なのだ。

 おもしろければなんでもいいのだ。

 決しておもしろくはないのだが。

 ラノベは不可思議なり。

 京介は聖坂沿いにずらりと並ぶ開店祝いの花輪をひととおり眺めた。贈り主は一ツ橋家、国土交通省、文部科学省、浦安の株式会社ジョン・ハチソン研究所、森ビル株式会社、森トラスト株式会社、鹿島建設株式会社、株式会社大林組、新橋メンへらクリニック、増上寺、徳川幕府(順不同)などだった。どれもが関東第一高校に対する遺憾の意のように見えた。

 のれんに引き戸、出窓風のメニューなど典型的な小料理屋のファサードをとくに意味もなくぼんやり見つめる。勾配約7度の坂に対して垂直に建っているのは典型的とは言いがたかったが京介の中ではすでに解決済みの問題だった。それからしゃがんで地面に手をつき、当該「建物」がまるごと地面から20センチ浮き上がっているさまを眺めた。原理はわからないし、決して自分の中で納得はできないだろうし、子供心も一切反応しなかった。ただただ気持ち悪かった。そして遺憾だった。

 京介のさまざまな遺憾の意をよそに、〈下手な料理〉の数々は次第に、関東第一高校の生徒たちのあいだでまわりくどい評判を呼びはじめることになる。

 長々と説明しよう。そろいもそろって優秀な関東第一高校の生徒たちは、そもそも〈昼休み〉や〈購買〉や〈焼きそばパン〉などでテンションを上げたりはしない。〈早弁〉などは史実の出来事でしかなかった。母のお手製弁当で満足だった。中には自ら開発した完全栄養機能食品ソイレントを持参する者もいた。食に喜びを見いだす豚のような者はひとりもいなかった。

 小腹が空いた? コンビニで買い食い? それは腹が減ったのではない。勉学に集中できていない証拠なのだ!

 昼休みは自由学習および資料収集のための時間だった。その時間、赤坂アレクサンドリア図書館ヒルズは、手ばやく昼食を終えた生徒でごった返す。文献に偏りがあるものの、高輪バベルの図書館ヒルズもかなりごった返す。麻布知恵の館ヒルズもごった返す。昼休みはまず、図書館がごった返す。

 本を借りたあとは当然、最寄りの校舎ヒルズへ向かう。だがそこに問題があった。関東第一高校の2037ヘクタールの広大な敷地において、各生徒の履修データや各校舎ヒルズ間の道程データなどに基づき、送迎バスの運行は完璧に制御されている。だがそれは授業中においてのみ有効だった。昼休みは自由時間、つまり生徒の行動はカオスに支配されている。全員がそれぞれの最寄りのヒルズへ向かう結果、あちらのヒルズはガラガラなのにこちらのヒルズはすし詰め状態、といった状況が起こった。生徒は学習し、カオスを避けるためあえて遠めのヒルズへ向かう。ほかの生徒も同様にあえて遠めのヒルズへ向かう。結果あえて遠めのヒルズがすし詰め状態となる奇妙な現象が生まれる。ある生徒はあえてあえるのをやめ、最寄りのヒルズへ向かう。またはあえてあえるのをやめるのをやめ、遠めのヒルズへ向かう。結果現在の昼休みは、大自然の女神も微笑む取り返しのつかないカオスが展開されていた。

 貴重な昼休みを、そのような間抜けなカオスで無駄にしていいわけがない。

 有志が手づくりの人工衛星を打ち上げ関東第一高校全体を定点観測し、比較的空いたヒルズを探すことで対処しようとした。だが全員が同じことをやりはじめたので結局別種のカオスが生まれただけだった。

 カオスはカオスゆえにカオスたり得る。関東第一高校の昼休み時間は、静かな環境で勉強ができるスペースが望まれていた。

 まさに隠れ家のような、ひっそりとした場所が。

 オープンしてすぐ、数人が『小料理屋 はるいろ』をおとずれ、テーブルに腰かけ、アラビア語の文献を開いた。漏れ聞こえてきた会話によると、三田クユンジクの丘ヒルズからふらりとやってきた生徒たちのようだった。

 そして関東第一高校の生徒は全員が全員、ただのガリ勉ではない社会常識も兼ね備えたエリートなので、小料理屋に入ったからには小料理を注文した。

 そして食べた。

 ちなみにおそろいの割烹着を着たふたりの女将は、愛らしいだけでなく、それぞれが特徴的な料理の腕と絶望的な料理観を備えていた。

 料理名原理主義者の色葉は、調理という概念が根本から抜け落ちていた。たとえば玉こんにゃくのピリ辛炒めは、玉こんにゃくと、ピリ辛と、炒めの奇妙な複合体だった。おくらのお浸しは、おくらがなにかの溶液に浸されていた。ホタテのバターソテーは、ホタテとバターをしのぐ大量のソテーが器に山盛りになっていた。

 春は料理における目的と手段を完全に取りちがえていた。たとえばカツオのタタキは、カツオをどれだけたたきのめすことができるかが味の決め手だと信じ切っていた。たたかれすぎて原子レベルに分解したカツオのタタキは、味の素のような粉末状で供された。じゃが明太子は、まずじゃがいもと明太子の遺伝子を掛け合わせ、冷害などにも強い新種の作物を創造するところからスタートした。

 それでも高校生たちは食べた。

 開店から3日後。京介は2階の居室へつづく奥の階段から店内の様子をこっそりのぞいていた。こぢんまりとした店内は満席状態だった。客の反応も上々だったが、身体的な反応はさまざまだった。ある高校生は、笑顔を貼りつけたままがくがくと首を震わせていた。口の端から緑色の泡を吹き出している者もいた。目から血を流している者もいた。重篤な感染症を併発している者もいた。背中から耳を生やしている者もいた。

 そして各自、暖かくなった胸に手を当て、理由を探ろうとしていた。

 もって3日だな。京介は遺憾ながら踏んだ。

 だが。京介の見込みは浅はかすぎた! 開店から1週間が経った現在、一度訪れた高校生はリピーター客として翌日以降もかよいつづけた。それどころか客は連日増えつづけ、常に満員御礼の札止め状態、ちょっとカウンター詰めてもらえますか状態だった。なぜやつらはヒルズで勉強しないのか? 行列をつくってまで入店しようとするのか? そしてなぜ、平然と〈下手な料理〉を食べつづけることができるのか? 答えはこうだ。物心ついたころから勉強に明け暮れた関東第一高校の高校生は、まともに食卓を囲んだこともない。知力の増加とともに味覚は衰え、不味がる味覚すら持ち合わせていなかったのだ。

 そこに勝機があったのだ!

 ひとりの生徒が友人らしき生徒に、ここで食べると勉学への意欲が増すのだ、と演繹的に言った。味はよくわからないが、とにかく栄養満点なのだろう。それが証拠に、食べると胸のあたりがぽかぽかと熱を帯び、元気がみなぎり、深夜3時のレポート執筆も苦にならない。そして勉強の合間に女将さんの美しい笑顔、あの鼻背に軽くしわを寄せるタイプの笑顔を思い出すと、ぽかぽかがさらに増加し、さらにレポート執筆が進むのだ。明日も会えると思うと、これまで以上に勉強が楽しくなるのだ。

 といった内容を論文にまとめ、友人に査読を申し込んだ。

 友人はひととおり読み終えたあと言った。

「ぽかぽかとはなんだ」

「熱だ」

「ではきみの仕事、つまり深夜3時のレポート執筆とぽかぽかは、熱力学的に等価だと、そう言いたいんだな」

「そうだ」

「だがそれだと、レポート執筆とともにぽかぽかは冷えていかなければならない。きみの論文には『それどころか暖かさを増した』とある。これでは法則に反する。きみは夜食を食べたのか」

「食べていない。生理的熱量とは関係ないんだ」

「別種のエネルギーだと?」

「そうだ。そしていまも、増加中なのさ」

 執筆者は胸に手を当て、ぱたぱたと忙しく働く色葉の後ろ姿をじっと見つめた。

 そこへ隣のテーブルの高校生が口を挟んできた。

「その意味ありげな視線はなんだ」

「こうやって熱を溜めるのさ」

「すると女将さんは、きみが熱を得たぶん、仕事を失わなければならないな」

 3人は同時に色葉へ顔を向け、意味ありげに見つめた。

「失われていないように見えるな」

「むしろ気づいてもいないな」

 3人は同時に顔を見合わせた。

 ぽかぽかエネルギーの発見者がふたりを交互に見、不機嫌に言った。

「きみらは見るな」

「なぜだ」

「エントロピーが増加する。いらいらするんだ。見るのはぼくだけでいい」

「そんなこと言われても」

「そうだ。減るものでもないだろう。実際、減っていないし」

「たしかにそうだが」

「それどころか、見ろよ、まるで太陽のように輝きを増していくじゃないか」

「まるで永久機関のようだ」

「いや、女将さんは永久機関以上だ」

 そこへ4人目の男子高校生があらわれ、興奮気味に言った。

「きみたち! 女将さんの秘密は、熱力学の分野では説明不可能だ!」

「なんだって?」

「ぼくは、ぽかぽかはまったく別種のエネルギーだと考えている。そこから新たな説を思いついた」

「どんな説だ」

「まあ、聞いてくれ。ぼくは先日、女将さんがぼくだけのためにこしらえたこんにゃく味噌おでんを食べながら、ぽかぽかが真空状態を通しても運ばれることを実験的に確かめた。ぽかぽかはおそらく、真空中に残存するごく微細な媒質、つまりエーテル中を伝わる波動ではないかと思うんだ」

「運動ではなくか?」

 そこへ5人目があらわれ、言った。

「ぼくはぽかぽかの伝播は、女将さんに含まれる『ぽかぽか素』の放射によるものだと思う」

「なんだそれは。その『ぽかぽか素』は、物質として存在するのか」

「存在しないとは言い切れない。そうだろう?」

 気の弱そうな6人目の男子高校生がおずおずと言った。

「ぼくは、きみたちの言うぽかぽかを受け入れられないんだ。女将さんと目が合うと、ぼくは反射的に目をそらし、うつむいたまま、なにもできなくなってしまう。あっ、また失礼な態度を取ってしまった。気を悪くしたかな。嫌われたかもしれないな。もう来ないほうがいいか。そう考え、すると胸の奥がひんやりとし、それ以来、勉強も手につかない」

「ぼくも最近、手につかない。いや、ぼくが受け取ったのはぽかぽかのほうなんだが、勉強の合間に、ぼーっと考え込んでしまう」

「同じぽかぽかが、媒質によって異なる作用を及ぼすのか」

「同じではないかもしれない。ぽかぽかとひんやりは、べつの物質なのかもしれないぞ」

「ぼくは見つめられると、じっとりと汗をかく」

「ぼくは逆だ。いつも喉がからからに渇いてしょうがない」

 そこへ7人目があらわれ、叫んだ。

「きみたち、『ぽかぽか素』や波動、運動で説明がつかない理由がわかったぞ! つまり女将さんの熱(ぽかぽか)・冷(ひんやり)・乾(喉からから)・湿(汗だらだら)は、それ以上は還元不可能な『質』とされるべきものなのだ! 四元素つまり火(耳まで真っ赤)・空気(気づかれない)・水(手のひらじっとり)・土(固まる)のいずれかとなるぼくら高校生は、性質の物化された媒体だと考えればすべての説明がつく!」

「なるほど!」

 そんなわけで、熱力学からアリストテレス自然学まで先祖返りした高校生たちは、議論そのものによって〈下手な料理〉の価値を創出した。小料理屋はいまやサロンと化していた。京介自慢のプロレスラーのサイン色紙は遺憾ながら取り外され、代わりに壁一面に黒板が設置された。見る間に数式やグラフで埋め尽くされ、熱のこもった議論が繰り広げられる。高校生はいま、それぞれの胸の奥に灯った暖かさの正体を学術的に探ろうとしている。

 だが。証明などできないのだ。

 色葉が自慢のポテサラを生徒に差し出し、カウンター越しに爽健美茶をお酌しながら、さりげなく『不勉教』について切り出した。「教」と名がつくものの決して怪しい新興宗教団体などではなく、単なる『小料理屋 はるいろ メンバーズクラブ』である。割引もクーポンもなければファストパスのように優先的に入店できるわけでもない。でもこの入信申込書に顔写真つきで氏名年齢住所電話番号などの必要事項を記入し2箇所に実印を押してくれたら、わたしはあなたのことをずっと覚えていられるし、ちょっとした特別料理も振る舞ってあげられるし、なによりわたし、すごくうれしい。

 にこっ。

 店内の客全員に入信申込書が配られ、全員が判を押した。おそらく閉店までには100名を越えるラノベ信者が誕生していることだろう。

 神から電話がかかってきた。出るやいなや、ドヤ顔ならぬドヤ声で言った。

「どうだ!」

「おみそれした」

「これで生徒数千人は改宗できるだろう。これが〈下手な料理〉の力だ。これが神の業なのだ」

「結果オーライという話もあるが」

「さみしいこと言うなよ。だが信者数千人程度で満足するおれやおまえではない。そうだな? 関東第一高校には、32万8000人の生徒がいる」

「さらなる奥の手があるのか」

「もちろんだ。これに比べれば、〈下手な料理〉など無に等しい」

「ならばはじめからそれをやるべきだろう」

 神は無視して言った。

「おまえはラノベ聖書も読まず、おれを大塚某とかんちがいしつづけ、あろうことか26歳の〈大人〉を〈ヒロイン〉に選んだ。おまえはおれの使徒史上最低と言わざるを得ない。通常であれば即刻〈打ち切り〉となるところだが、おれはおまえが気に入りはじめているんだ。出来の悪い使徒ほどかわいいものだ」

「では『こちらスネーク』と言ってみてくれ」

「黙らっしゃい。いいからおれの言葉に耳を傾けるのだ」

「次はなにをすればいいのだ」

 神は放送事故のように5秒ほど黙り込んだあと、言った。

「胸を揉め」

「自分の胸をか」

「おい、気持ちの悪いことを言うなよ。わかっているはずだ。おまえはみんなの前で、一ツ橋色葉の胸を揉む。不勉教信者になれば、好きなときに好きなだけ女の子の胸を揉めるようになるのだ。そう伝えろ。それでばっちり、一網打尽だ」

 スマホを構えたまま、京介はこっそり店内をのぞいた。色葉と春は今朝荒川から釣り上げたばかりの全長3メートルの巨大吸血ウナギと文字どおり格闘していた。

「首押さえた! 春ちゃん、はやくそのネイルガンを!」

 ドドドドド。

 京介は向き直り、壁に寄りかかりながら答えた。

「神よ。おれは胸は揉まない」

「なぜだ」

「人としてまちがっているからだ」

「世界を変えられなくてもいいのか。ん?」

「たとえ世界全体を敵にまわしたとしても、おれは自分の都合で〈彼女〉の胸を揉んだりはしない。まちがいはまちがいなのだ」

「なるほどな。〈セカイ系〉というわけか」

「なんだそれは」

「少し古い〈お約束〉だ。だから今回、採用を見送った」

「そうか」

「いいから揉めよ。ほんとはおまえだって揉みたいんだろう?」

「揉みたくない」

「ではほんのちょっと、お触りするだけでいい。それなら問題ないだろう」

「お触りもしない」

「岸田京介! 聞き分けのないことを言うな!」

 どう考えても大塚明夫にしか聞こえない声で叫んだ。

「一ツ橋色葉の胸を揉め! 揉むんだ! さあ!」

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