第38話 下手な料理の真実

 ピンポーン。

 ゼルコバテラス・ノース36階のワンルームに高級なチャイム音が鳴り響いた。

 ドアを開けると、レジ袋を提げた色葉が、やや息を切らしながら、「おまたせ」と顔をのぞかせた。

「春ちゃんは?」

「いない」

「上原さんとかいう人は?」

「いない」

「よし」

 色葉はウサギさんスリッパを履き、ぱたぱたとうれしそうに室内に侵入した。憧れの対面キッチンの対面する側に入り、黄色いエプロンを着け、腕まくりをし、収納をぐるりと見まわし、満足げに息をついた。

「ようやくふたりだけの生活に戻れたね。こう見えてわたし、いい奥さんになれると思うんだ」

 凄絶な笑みを浮かべて言った。

「家庭料理、たくさん食べさせてあげるからね。コンビニ弁当ばかりじゃ体を壊すよ」

「コンビニ弁当・イズ・マイ・ライフだ」

「それからいちおう、料理を食べたあとは、おいしくてもまずいふりをしてね。執行の事実を報告しなきゃならないから」

「ひとつ、いいか」

「なに?」

「国家権力に強制されなくても、おまえの料理は食べたいと思っていた」

「じつはね」

「なんだ」

「料理、はじめてなの」

「ではなぜ電車内ではあれほど得意げに語っていたのだ。べらべらべらべらと」

「あ、あなたがいけないんだからねっ! そ、そっちから、話すよう仕向けたから…………」

 突然のラノベ口調に京介は眉をひそめた。

「なーんてね。なかなか上手でしょ? 試しに聖書を読んでみたの。会話のネタくらいにはなるかなと思って」

「おまえは恥ずかしさを隠すためだけにおれを前科者にしたのか」

「ではまずは、家庭料理の定番、お味噌汁からいきます」

 色葉は鍋をコンロにかけ、いきなり白味噌を投入した。同じ量の赤味噌をパックから直接にゅるりと流し入れ、計量カップで水道水をざばっと入れ、強火でぐらぐらと煮立てはじめた。

 得も言われぬ香りが漂いはじめる。いまのところ味噌汁の香りではなかった。

「でも、〈下手な料理〉に一体なんの意味があるんだろう」

 鍋を無造作にかきまわしながら言う。

「聖書にもこれといった記述はなかった。料理は当然、おいしいほうがいいでしょ? ナンセンスよ」

「よそ見をするな」

 京介はグラスに口をつけ、コーヒー牛乳を含んだ。

「そんなの飲んでたら食べられなくなるよ」

「雪印コーヒー・イズ・マイ・ライフだ」

「さっきからなんなの、『イズ・マイ・ライフ』って」

「〈センスのない返し〉だ」

「ラノベね」

「そうだ」

「あなた自身は、うまい返しだと信じ切っているのよね」

「そういうことだ」

「あえてラノベを極めるのもいいかもね。もちろん、ふたりきりで」

 鍋が沸騰し、味噌汁が地獄のような泡を立てはじめた。色葉はるんるんとコンロの火を消し、水道水を投入して汁の温度を下げたあと、あらかじめザク切りしてあった豆腐とわかめと長ネギと油揚げと大根とニンジンとジャガイモをまな板から直接ブチ込んだ。

 おたまでかきまわしながら、色葉は顔を上げ、にこっと微笑んだ。

「もうすぐできるからね。野球中継でも見ながら待ってて」

 京介はそっと腰を浮かせ、活火山を想起させる鍋の中身を見た。

 これは一体。

 色葉はおたまで溶岩をすくい、口につけた。仕草だけはプロだった。

 考え込むように右斜め上を見ている。

「うまいのか」

「うーん」

「まずいのか」

「味噌汁って、味噌の汁ってことだよね? なにかが足りない気がするんだけど」

 はい、とおたまを差し出される。

「味見して?」

 恥ずかしながら京介は、味見未経験者だった。どうすればいいのか皆目わからない! とりあえずカウンター越しに不自然な体勢で顔を近づけ、にやつく頬を抑えつけながら、タコのように口を伸ばし、距離を微調整しながらおたまの味噌汁をすすった。

 脳がブラックアウトした。

「うぼぉぅっ!?」

 全身の筋肉が不随意かつ急激に収縮し、京介はカウンターに手をついたまま背骨を折る勢いでのけぞった。生命をかけた異物の排除が行われる。

「かはぁっ! かはぁっ! かはぁっ!」

 色葉が感心したように言った。

「ラノベが上手ね。ほんとにまずそうに見える」

「ぐはぁっ! ぐはぁっ! ぐはぁっ! とぅっ! とぅっ!」

「眼球が完全に裏返ってるよ。そんなにおいしかった?」

「もぴえっ!」

「ええと、おかずはなににしようかな。ありとあらゆる食材を用意してきたんだけど」

 気づけば京介は礼拝のような体勢でリビングダイニング中央にうずくまっていた。

 いますぐ懲役に行きたい!

 そして。唾液と胃酸をだらだらと床にこぼしながら生きることそれそのものに全身全霊を傾けていると、脳の右片隅にきらりとひらめくものがあった。

 だらだらさせながら面を上げる。

 いや、ちがう。

 ちがうぞ。

 この味噌汁はまずい。

 だが。

 なにかが胸の奥に。

 胸の奥に灯っているのだ、なにかが。

 この暖かな気持ちは、一体。

 ピンポーン。

 高級なチャイム音が鳴った。チャイムが鳴ったからには応対しなければならない。京介は無駄に長い廊下を這いつくばって進み、どうにか玄関にたどり着いた。

 ドアを開けると、米俵を担いだ春が、ひとつも息を切らすことなく、「おまたせ」と顔をのぞかせた。

「京介。おにぎり、好きか」

「なんでもいい。口直しをさせてほしい」

「中身、梅ちゃん」

「本当か」

「あたくし、思った。おにぎりをおにぎるために、あたくしは生まれてきたのだ、と」

「そのとおりだ」

「これがほんとのアイアン・シェフ。なんちて」

「すばらしい」

 おのれの生命を大地に繋ぎ止めるのに精いっぱいの京介は、機械相手に機械的に相づちを打ちつづけた。

「だれ? お客さん?」

 色葉がエプロンで手をぬぐいながら、奥様のように廊下に姿を見せた。

 春を視認するなり立ち止まり、すっと目を細めた。

「春ちゃん」

「おお、いろはか。先ほどは、いい運動をさせてもらったぞ」

「なぜここへ。都心の主要幹線道路は、わが一ツ橋家の特殊部隊によって完全に封鎖されていたはず」

「あたくしの加速、だれにも追いつけないのだ。はっはー」

 そのころ首都高江戸橋JCTでは、都心環状線、1号上野線、6号向島線が計8箇所に渡って分断されていた。下手くそが割ったうなぎパイのように切り離された高速道路は、18本の橋脚を押しつぶし、日本橋川に折り重なるように沈んでいた。

「まるでマイケル・ベイが通り過ぎたあとのようです!」

 噴煙を上げる現場を見下ろし、報道ヘリに乗ったレポーターがうれしそうに叫んだ。

 テレビレポーターのレポートだけに、事実はまったく異なる。通り過ぎたのはマイケル・ベイではなかった。現場では乗用車やトラックや装甲車両がひっくり返ったり真っ二つに分断されていたりしていたが、やはりマイケル・ベイの仕事ではなかった。付近の日本橋ダイヤビルディング(たったの18階建て)で、当時仕事をさぼって屋上でサンドイッチを食べながら黄昏れていたサラリーマンは、ひとりの黒髪の少女と特殊部隊による圧倒的クオリティの3次元バトルを目撃した。少女はソニック・ザ・ヘッジホッグのようにジャンクションを縦横無尽に駆けまわり、くるくる回転しながら道路から道路へと飛び移り、下手な鉄砲を数撃つ特殊部隊をあざ笑うかのようにアジアハイウェイと書かれた標識にキックしたあと都心環状線内回りを西に向かって猛スピードで逆走しあっという間に姿をくらました。

 そのあとジャンクションが崩壊した。

「悪いがあいつら、役に立たないぞ。まともな軍隊、組織し直せ」

 色葉は言い返せず、唇を噛んだ。ぷいと背を向け、包丁をタクトのように振りまわしながら京介をまたぎ越える。立ち止まって振り返り、しゃがみ、凄惨な笑みを浮かべてのぞき込んだ。

「メインディッシュはハンバーグだからね。楽しみに待ってて」

 ハンバーグの響きに、京介の意識が否応なしに覚醒する。おらハンバーグは大好きさ! 意志に反して肉体はハンバーグを求め、廊下を這い、リビングダイニングへ戻ろうとする。イヤだ。やめてくれ! 

 結局戻ってしまった京介は、しょうがないのでカウンターにしがみつき、火事場のクソ力で立ち上がった。スツールに尻を乗せ、身を乗り出し、コンロ脇の透明のボウルを見る。

 そこには牛挽き肉200g、タマネギ3分の1、卵1個、パン粉2分の1カップ、塩小さじ半分弱、コショウ・ナツメグ・牛乳少々が、本来ソースとして使用されるべき水・とんかつソース・ケチャップ同量と砂糖小さじ半分とともに渾然一体となり、たねと呼べなくもないぐちゃぐちゃのゲル状のなにかとして存在していた。

 これなに?

 色葉は無造作に手を突っ込み、適量をつかみ出し、こねはじめた。

「まずは強火で焼くのがコツ」

「するとどうなるのだ」

「あら不思議。外はこんがり、中はふんわり、色葉特製、おいしいハンバーグのできあがり」

「そうなのか」

 春はフローリングに正座し、おにぎりをひたすら握っていた。持参した特製の圧力鍋がかたわらに置かれている。圧力鍋(というよりオートクレーブ)は、浦安テクノロジーを誇示するようにものの5秒で米を炊いた。ぱかりとふたを開け、殺人的な蒸気をものともせずに両手を突っ込み、ごはんをつかみ、梅肉を入れ、おにぎった。

 京介は奇妙な事実に気がついた。ひたすら握っているにもかかわらず、おにぎりが増えていかない。はじめに握ったまるっこいにぎりめしが、春のかたわらにぽつんと置かれているだけだ。米俵はどんどん米を吐き出す。圧力鍋はどんどん炊き上げ、春はどんどん握った。

 増えていかない。

 米俵がただのゴザと化したころ、春が立ち上がり、言った。

「できた」

 全身を米粒だらけにし、京介に近づく。にいっと笑い、にぎりめしを差し出す。

「ほれ。あーん」

 あーん。

 ひとくち噛んだ次の瞬間、京介はフローリングに顔面をめり込ませていた。

 保険のきかない前歯4本をへし折る勢いで、おにぎりのかけらが地球の中心めがけて突き進んでいく。京介は決死の思いで吐き出し、鼻血にまみれた鼻に手をやりつつ、おにぎりの行方を見た。かけらは床をばきばきと割りながらゼルコバテラス・ノースのフロアを次々と貫通し、もちろん京介には視認できていないが27階でようやく止まった。

 米俵1俵ぶんのおにぎり、ですか。

「京介。おいしかったか」

 いや味以前の問題なんですがーっ!?

 春がきょろきょろした。

「いまなんか聞こえた」

「春ちゃん、3行前のは、〈センスのない返し〉って言うのよ」

「なぜわざわざああゆうことゆうの」

「わからないけど、きっと照れ隠しね」

「ゆわれてみれば、あたくし、いい気持ち」

「わたしの味噌汁のときは、この程度の寒さではなかったけどね」

「嫉妬か」

「し、嫉妬なんて、す、するわけないでしょっ!?」

「おまえ、ラノベうまいな」

 あのさ! 握るってそういう意味じゃないし!

「ほらまた来た」

 力の限り握ればいいってもんじゃないし!

「また来た。しつこいよね。笑わせようって頭しかないのよ。そのじつ、全然おもしろくないんだけどね」

「でも、うれしい」

 京介は必死で上体を持ち上げ、床に広がるおのれの鼻血を見つめた。

 震える手を胸に当てる。

 やはり、暖かい。

 そう。この暖かさだ。

 この暖かさが、おれに無理やりラノベをさせるのだ。

 寒いラノベを。

「おっ。いろは、フライパン、見ろ」

 春が言った。

「ハンバーグ、巨大化しているぞ」

「あ、本当だ。なぜだろう。挽き肉の問題かな」

「おまえ自身の問題ではーっ!?」

 …………いやおまえ自身の問題だろ。

「かぶった」

「寒々しさはほっといて、これ見て。ハンバーグがついに、フライパンから。ああ、あふれ出しそう」

「火、とめろ」

「とめた。あ、今度はしぼみはじめた」

「強火」

「すごい。どんどん大きくなっていく。おもしろいね、これ」

「おお。あふれ出したバーグが、カウンターを這い進みはじめた。そしてにょきにょきとカウンターを横断し、京介の後頭部に垂れ下がっている。あつあつのバーグが、いまにも落ちそう」

 ハンバーグの先端を後頭部に感じ、京介は本能的にローリングでエスケープした。

「愛ね。それほどまでに食べてほしいという」

「おまえ、料理、下手だな。感心したぞ」

「なんだか楽しくなってきたね。こうなったら春ちゃん、〈下手な料理〉バトルよ。より〈主人公〉を苛んだ方が勝ち」

 やめて。

「俄然ファイト、沸いてきた。あたくし、もっと下手よ」

 お願いやめて。

「春ちゃん、次はどんな〈下手な料理〉を?」

「よくぞ聞いてくれた。この鍋を見よ! ババーン。これぞ闇鍋を超える、名づけて阿頼耶識鍋。闇鍋、もう古いと思うの。それで、これ」

「形而上学的に『闇』なのね」

「そゆこと」

 京介のポケット内でスマホが震えた。リビング中央に這い進みながらスマホを取り出し、追いかけてくるハンバーグの気配におびえつつ、画面をタップした。

 上原アリシャからだった。

「もしもし」

「わたし! いまコンゴ民主共和国にいるんだけど!」

「なぜコンゴ民主共和国にいるのだ」

「コウモリ!」

「コウモリがどうしたのだ」

「食べてほしくて!」

 足の先にからみつくハンバーグを振りほどき、右耳から左耳へスマホを持ち替え、言った。

「なぜだ」

「フルーツコウモリって、おいしそうな名前じゃない? パッションフルーツみたいな!」

「ならばパッションフルーツでいいだろう。なぜわざわざコウモリを」

「負けられないのよ!」

 上原アリシャは突然感情的に叫んだ。

「そんじょそこらの〈下手な料理〉で高校2年生の女の子に勝てるはずがない! そうでしょう? ほんとは料理は大の得意で、当初の予定ではポーランドの郷土料理を食べてもらうつもりだったんだけどあまりにおいしすぎる! それでなにを食べさせればいいのかわからなくなって考えに考えたあげく、気づけば有給を消化してエチオピア経由でコンゴ民主共和国にたどり着いていたの! あ、現地ガイドのムンケベさんが来た。これから鉱山に入るからね! 無事を祈ってて! 帰国したらいっぱいチンパンジー料理を食べさせてあげる! じゃあね! 愛してる!」

 電話が切れた。

 てか最後チンパンジー料理に変わってたし!

 郷土料理食べたかったし!

 もはや何度目かわからない〈寒々しい返し〉を元気よく発射した。だが決して、おもしろいおれをアピールしたいわけではないのだ。言わざるを得ないのだ。実際チンパンジーを食べていないにもかかわらず京介の胸には3つめの炎が宿り、26歳〈ハーフ〉の色香でこちょこちょとくすぐりつづけている。

 この暖かさがそうさせるのだ。

 寒いラノベを。

 そういう原理だったのだ。

 色葉と春が悪夢のような笑顔でのぞき込んできた。

「ほれ、鍋ですよ。待ってて、たまごちゃん、溶いてあげる」

 こつこつ。ぱかん。

「あ、ひよこちゃん」

「というよりバロットね。グロいけどおいしいのよ」

 京介の全身が震えはじめた。

「ヒヨコはわたしが食べさせてあげる」

「いや。あたくしが」

「ふたりで食べさせましょうよ」

「よろしい。では、いっせーのーせ」

「あーん」

「あーん」

 つづけてハンバーグがあーんと言い、おのれの体を京介の口にねじ込みはじめた。

 京介は失神した。


   ◇


 トイレにこもって40分後、神から電話がかかってきた。

「楽しくやっているようだな」

 決して楽しくはないし一瞬光のようなものが見えたのだと告げ、それから胸の奥に宿る正体不明の暖かさについて自分なりの言葉で伝えた。

「よし。準備は整ったようだ」

「なんの準備だ」

「料理といえば〈喫茶店〉だろう。おまえは近々、〈喫茶店〉を開かなければならない」

「なぜだ」

「だがおまえの〈ヒロイン〉たちは、意外と古風なようだ。では小料理屋はどうだ。その程度のバリエーションなら許してやる」

「小料理屋を開けば世界を変えられるのか」

「まちがいない。おれを信じろ」

「結局女の子と楽しく遊ぶだけで終わるような気がする」

 神は突然、大塚明夫似のいい声で哄笑した。

「神の御業は不可思議なり、だ。だが今度ばかりは期待していいぞ。これで世界は変わる! 読者諸君よ、待たせたな!」

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