第30話 マンハッタン計画実習 男女式核爆弾製造法

 8、9コマ目のマンハッタン計画実習は、かつて第2六本木ヒルズと呼ばれた区立原子力研究所ヒルズで行われていた。水着を着た生徒42名が、屋上のスイミングプールのプールサイドに体育すわりし、プールを見下ろしている。プール中央の炉心からは淡い青紫色の光が発せられている。

 プールはプールでも、泳ぐと被爆するタイプのプールだった。

「てめえらいいか、よく聞け!」

 竹刀を肩に担いだ下半身タイツ姿の教師が叫んだ。東京大学大学院理学系研究科教授とプロレスラーを兼任する帝政ロシア魔界からの使者・ツァーリ小島だった。

「17世紀における『新しい科学』はな、アカデミズムの世界から生まれたんじゃねえんだ。マニュファクチャーは『手(manus)』で『つくる(facere)』に語源的意味を持つ。複式簿記を広めたのは商業数学あがりのパチョーリだ。精密な分析化学の基礎をつくったのは冶金技術者のビリングッチョだ。自然現象の定量的測定をはじめたのは一介の船乗りだ。そしてダヴィンチは言うまでもない。これら偉大な連中は、必要に応じ、大学でではなく実地で学び、科学を発展させてきたんだ。いわゆるゲルマン民族の大移動とローマ帝国の崩壊により、西ヨーロッパでは古代ギリシャの科学が失われた。そしてようやく12世紀、イスラームの文献の翻訳運動がはじまり、古代の学問、そして技術が復活した。だが大学は、古代の文献をスコラ的にこねくりまわすのみだった。工房で親方から受け継がれる技術をその知恵で発展させることもなく、手仕事を軽視し、バカにし、象牙の塔でお勉強に終始していた。技術者は現地語に翻訳された書を読み、蒙を啓き、それまで恐れるべきものであった自然に手を加えはじめた。それが行き過ぎたのが18世紀後期の工業化時代だ。工学系の大学がつくられたのは19世紀に入ってから。そこでようやくお勉強学問の世界が、在野の技術と手を組み、人間社会のさらなる発展に寄与したんだ。いいかてめえら、動かすのは頭だけじゃダメだ。手を動かせ。体と脳みそ、両方で汗をかくんだ。現在の日本にお勉強野郎はいらねえ。そして科学技術の最先端、純粋に物理学理論のみに基づいて発明されたのが、これからてめえらが学ぶ核兵器だ」

 ツァーリ小島はかがみ込み、足元のオリコンから金属のようなものを取り出した。

「濃縮ウランは全員に行き渡ったか? よし、今日はガンバレル型の原子爆弾を製造するからな。2人1組でタッグを組め。準備のできたチームからTNT火薬を取りに来い。いいか、物理学をまず、手で覚えるんだ。核兵器製造に失敗はつきものだ。だが失敗を恐れるな。何度でも失敗していい。核兵器の仕組みを理解できてこそのクリーンエネルギーだからな」

 サボるんじゃねえぞと言い残し、ツァーリはTNT火薬を取りに建物へ消えた。

 京介は半球状のウラン235をぼんやりともてあそびながら、適切な〈彼女〉の人数について考えていた。

 嫁は多いに越したことはない。

「どう思う」

 京介は当の嫁に意見をうかがった。

 隣に体育すわりする色葉は、当然のように青いスクール水着を着ている。だが青い〈スクール水着〉姿の色葉は、なにひとつとして当然ではなかった。断じて当然ではなかった! 賢明な読者諸君ならばすでに想像されていることだろう。〈水着〉は体の曲線にぴたりと寄り添い、その締めつけによってナイスな線をよりいっそう引き立たせている。そして地肌と青とのコントラストよ! 濡れた太ももが、その二の腕が、その鎖骨が、どんな太陽よりも明るくまぶしく光り輝いている!

 だが嫁は多いに越したことはない。

「〈彼女〉の数より、信者獲得のほうが先だと思うけど」

 色葉が意見を言った。

「神はなんて?」

「休憩時間に電話したのだが、最低3人は必要なのだそうだ」

「なぜ?」

「わからない。途中でガチャ切りされた」

「また物真似させようとしたんでしょ」

「いずれは『だれか応答してくれ』と言わせてみせる。おれのささやかな目標だ」

「これは個人的な意見だけど」

「なんだ」

「うまく言葉にはできないんだけど、なんていうか」

「なんだ」

「ひとりでいいんじゃないかな、って」

 色葉は京介のウラン235を取り、自分のウラン235と重ね合わせた。

「わたし、思うの。男と女は、離ればなれになった半球どうしなんだ、って。意中のウランとウランが重なり合い、臨界質量に達し、するととてつもない力が生み出される。まるで原子爆弾のように」

「例えが悪いにもほどがあると思う」

 そのとき。核の構造などなにひとつ理解していないにもかかわらず、京介の破壊的な4600のIQが高速増殖炉のように反応した。中性子数過剰によって前頭葉がベータ崩壊しはじめた。

「男と女、か」

「どうしたの?」

「プールの様子を見てみるのだ。男女のペアはおれたちだけだろう」

 京介と色葉はとくにハブにされたわけではないが、スタート台の反対側にぽつんとすわっている。ふたりから見て右手のプールサイドには、女子22名がひさしの下で11組のペアをこしらえている。左手には男子22名ががっつり紫外線を浴びながらやはり11組のペアをこしらえている。

 京介が言った。

「なぜやつら生徒は、だれひとりとして男女でペアを組まないのだ。本当に賢いのならば、性別など気にしないはずだろう」

「なるほど。無意識の成せる技ね」

「やつらはやはり、異性というものに本能的に気づいているのだ。当然だ、人間はいずれ異性とペアを組み、子を授かり、家庭をつくらなければならないのだから」

「改宗のための妙案が浮かんだ?」

「ツァーリ小島の言うとおりだ。ただ説教をするだけではダメだ。体験しなければ理解できないのだ。何事も」

 京介はゆっくりと立ち上がった。中性子入りの薬入れを投げ上げながら、左側のプールサイドへ向かった。

 ひとりの男子生徒の前で仁王立ちし、言った。

「おまえのパートナーはだれだ」

「こいつだ」

 男子生徒は隣の男子生徒を指さした。

「男子と男子ではダメだ。おまえらは、女子をパートナーにしなければならない」

「きみはだれだ」

「おれはラノベの使徒、モテない冴えないごくふつうの高校2年生、アンダーアチーバー京介という」

「頭がおかしいのか」

「好きなだけ揶揄するがいい。だがおまえは、おれの提案の意味がわかっている。気づいているはずだ。胸の奥で」

「なんの話だかわからないが、ツァーリ先生の言いつけに従っているまでだ。男女混合はプロレスの精神に反すると」

「学校の授業とプロレスとはなんの関係もない。現におれは一ツ橋色葉とタッグを組んでいるが、とくにおとがめなしだ」

「それはそうだが。男子どうしでなにが悪い」

「おまえは本当は、女子と引き合うのを恐れているのだろう」

「引き合う? つまり電子と陽子のようにか」

「それは女子の名前か」

 男子生徒はパートナーを無遠慮に指さし、言った。

「たしかに、こいつとは普段から斥力が働いている。量子力学の解釈が根本的に異なっているんだ」

 言うとおり、ふたりは明らかに相性が悪そうだった。それどころか相手を見る目は憎しみに充ち満ちていた。たかが物理学の解釈で、人は人をこうまで憎めるものなのか。京介は思ったが、ままならない信者獲得活動にちょっと焦りを覚えていたので、細かなまちがいは不問に付すことにした。

「そんなパートナーでは、おまえ自身の勉学に支障を来すだろう。おまえと同じ主義を持つパートナーとなら、末永く研究ができるというものだ」

「ああ、たしかに。あの、赤い眼鏡の女子、見えるかい? ぼくと同じ実証主義者なんだ」

「パートナーが女だろうと構わない。そうだろう。学問に男女を持ち込むのはまちがっている。おまえは性差別主義者なのか」

「断じてちがうよ」

「ならば行くがいい。おまえ自身のさらなる向上のために」

 男子全員が注目するなか、当該生徒は立ち上がり、ひどく気の進まない様子で、一歩ごとに京介へ振り返りながら歩を進めた。手と足が一緒に動いている。京介は一喝した。男子生徒は小走りにプールサイドを半周し、向こう岸にいる女子ゾーンに果敢に侵入した。22対の視線を浴びながらぎくしゃくと進み、赤い眼鏡の東堂杏のそばに立ち、意を決したように話しかけた。東堂はきれいな膝を抱えたまま見上げ、にっこりと笑い、うなずいた。パートナーの女子生徒に耳打ちし、男子側を指さした。女子生徒は突然「やーだー!」と叫んだ。やだと言ったわりにはイヤそうではなかった。パートナーの女子生徒は立ち上がり、つま先立ちでいそいそとプールサイドを半周し、男子ゾーンに侵入した。22対の意味ありげな視線を浴びながら、ひとりの男子生徒に話しかけた。男子生徒は「やれやれ、しょうがねえな」とでも言いたげな感じで顔をしかめつつ、うなずいた。ひくひくと波打つ頬を見るにつけ、まんざらでもない様子だった。

 男子と女子は次々とプールサイドを半周し、あるべき姿へとじょじょに収束していく。原子とはちがい、それは目に見え、しかも物理学より感動的な光景だった。生徒たちの笑顔と充足感がひとつまたひとつと花開いていく。男女は互いに顔を見合わせては、恥ずかしげに目をそらし、一見不可解な行動を取り、名をたずね、本籍をたずね、家柄をたずね、好きな色をたずねた。ウランの半球内にポロニウムを詰め、仲良くタンパーに固定した。細長い金属容器を手に、おしゃべりしながらTNTの到着を待った。

 ふたつの塊が臨界質量以上となるのは、もはや時間の問題。

 これでいい。京介はあるべき安定状態を満足げに見守り、愛する色葉の元へ向かった。

 京介の前に、黒光りする肉厚のなにかが立ちはだかった。

「グロロロロ。岸田京介」

 笑い声とも痰のからむ音とも取れない奇妙な効果音を発し、ツァーリ小島はいきなり竹刀で京介の肩を打ちつけた。劣化ウランで先端を強化した竹刀が、肩に重くのしかかる。

「おれは死神、世界の破壊者である」

「そろそろプロレス一本でいったらどうだ」

「てめえのようなバカがひとりでもいる限り、教師としての責務からは解放されないのだ」

 やけに和気藹々としたプールまわりに気づき、ツァーリ小島は「おっ?」と口をまるくした。

「な、なぜプール全体が男女混合デスマッチの様相を呈しているのだ。いつの間に」

「デスマッチではない。ラブマッチだ」

「そうか、てめえの仕業だな、岸田京介。しかし、ああも男女が核力によってくっついてしまっては、並大抵の反応では引きはがせない。グロロ、ではせめて、てめえをあの世に送り届けてやる」

「やってみろ。授業をしてみろ。いまの充実したおれに、授業をしても無駄だ」

「ではさっそく、このミニミニ原子炉からプルトニウム239をつくり出してみろ」

「いいだろう」

 京介は魔法瓶に似たミニミニ原子炉を受け取り、説明した。

「天然ウランには2つの同位元素が含まれる。ウラン238が重量の99.3%、ウラン235が0.7%だ。中性子を吸収し核分裂を起こす、つまりエネルギーを生み出すのは、ウラン核爆弾としても使われるウラン235だ。さて、このミニミニ原子炉では、5%ほどに濃縮されたウラン235を使用している。残りは役立たずのウラン238だ。原子炉内では熱中性子がうじゃうじゃしている。ウラン235だけでなく、ウラン238も中性子を吸収する。だがウラン238は核分裂は起こさない。そのままウラン239になるだけだ。だがウラン239は中性子の数が多すぎるのでベータ崩壊を起こし、陽子数93のネプツニウムに変化する。ネプツニウム239はさらにベータ崩壊し、プルトニウムになる。陽子数94、中性子数145、合わせて質量数239のプルトニウムのできあがりだ。以上だ」

 京介はミニミニ原子炉をツァーリの胸に押しつけた。

 ツァーリは絶句していた。

「て、てめえ、なぜすらすらと。さてはカンニングだな? 手のひら見せてみろ!」

「カンニングではない」

「じゃあなんだ?」

「〈チート〉だ」

「なっ!」

「ほう。おまえら教師は〈チート〉を知っているのか」

「そ、そんな都合のいい展開は許されねえ! 許されるものか!」

「いいや、許される。若者のあいだでは許されるのだ。〈チート〉を受け入れられないのは、ツァーリ、おまえが年寄りだからだ。若者の感性についてこれないからだ。だがこれが現実だ。なぜ勝てたのか、なぜそれを知っているのか。そんな理由など、どうでもいいことなのだ。むしろ理由を長々と説明すると、『めんどくせ』と思われ、逆に敬遠されるのだ」

「怠慢だ! 調べものがめんどくせえだけだろ!」

「そうだ。どちらも『めんどくせ』なのだ。めんどくせが与え、めんどくせが受け取る。てきとうなのだ。怠慢なのだ。志などない。だがそれが現実なのだ。悲しいことだが」

「許されねえ」

 ツァーリ小島は一歩近づいた。その恐るべき圧力にも、京介は引かなかった。ふたりは真正面からにらみ合った。両者ゆっくりと近づき、ついに額と額が合わさった。

 京介はプロレス本能の赴くままに行動した。相手を胸をぐいと押しのけ、右腕をおのれの左肩へ振り上げ、ツァーリの胸板に渾身の逆水平チョップを食らわせた。

 ツァーリは汗を飛び散らせながら、すかさずプロの逆水平チョップをお返しした。

 京介は胸を赤く腫らしながら、往年の小橋建太を思わせる鬼の形相で耐え、叫び、渾身の逆水平チョップ12連発をお見舞いした。

「シュー!」

 ツァーリはモンゴリアンチョップを京介の両肩にたたき落とした。

 モンゴリアンチョップはツァーリ小島の必殺技のひとつなので、京介はよろめき、片膝をついた。背後には各種放射線がゆったりと対流する死のプールがあった。あと一歩でも引けば、絶賛臨界中のプールに落下してしまうだろう。

 ツァーリは京介の髪をわしづかみにした。京介はツァーリの腕をしっかりとつかみ、安全かつ強引に起こされた。ツァーリは観客にアピールしたあと、京介を金網に振った。金網は京介の体重を受け、たわみ、ロープのように弾き返した。

 プールを背にしたツァーリが、ハカのように腰を落とし、両の手のひらを向けた。あのムーブはテレビで見たことがある。未完成版六ヶ所村ドライバーの体勢だ。

 ツァーリは京介を両の手のひらで受け止め、相手の勢いを利用して高々と持ち上げた。そのままプール側に反転し、ファイヤーマンズキャリーの体勢に移行し、そして次の瞬間、変形デスバレードライバーで京介の脳天を打ち砕く。

「ここがてめえの墓場だ!」

 そのとき。

 京介の目の端に、影が横切った。

 次の瞬間、影がツァーリの背中にドロップキックを見舞った。

「うおっ」

 ツァーリはよろめき、2歩ほどプールへ進んだ。ホールドする手が弱まる。つま先までピンと脚を伸ばしていた京介は、全世界のプロレスファンに心の中で謝りながら、もがき、脚を下ろし、振りほどき、着地した。六ヶ所村ドライバー、破れたり! その勢いでツァーリはさらに前のめりになり、足を滑らせ、青紫色に輝くプールに頭から突っ込んだ。

 京介はローリングで飛沫から逃れ、片膝をついたまま上空を見まわし、先ほどの影を探した。いた。影はなぜか跳躍一番、フェンスのてっぺんに着地し、なぜかそのままヒルズから飛び降りた。

 姿が消える瞬間、京介は長い黒髪が踊るさまを見た。

「あれは一体、だれなのだ」

 色葉が駆け寄ってきた。

「だいじょうぶ?」

「いまのを見たか」

「見た。女の子よ」

「ビルから飛び降りた」

「もしかして、ラノベ?」

 生徒全員が立ち上がり、カップル状態を保ちながら、それぞれ核兵器を手に、プールを見下ろしている。互いのパートナーとささやき合い、やがてひとりが京介を指さし、非難の声を上げた。なにに対する非難か。人類史上初の未完成版六ヶ所村ドライバー破りか。もちろんそうではなかった。ツァーリ小島を被爆させた事実か。そうでもなかった。

 生徒は授業の継続が不可能となったことを非難した。

 それを機に、全員が京介を非難しはじめた。

「授業終了まで30分以上も残っている!」

「ぼくらの貴重な時間をどうしてくれるんだ!」

「そうだ! 岸田京介、きみの言動にはもううんざりだ! なぜきみは執拗に、ぼくらの勉強を邪魔するんだ! 勉強をやめろと訴えるんだ!」

「黙るのだ!」

 京介は一喝した。静かになったところでスタート台に飛び乗り、片手を上げ、全員に告げる。

「ようやく理解した。やはりおまえらは、エリートなどではない。勉強のことしか頭にない、半端者の17歳なのだ。かつてある男子が、おれに言った。ぼくらは自主的に勉強しているのだ、洗脳状態ではないのだ、と。だがちがう。おまえらは洗脳状態と同じだ。これほどまでに近くにいながら、なぜ男女の真のすばらしさに気づかないのだ。パートナーをよく観察してみるのだ。そしてなにを感じたか、おれに言ってみるのだ!」

 京介の声が大きかったので、生徒は言われるまま、互いのパートナーにちらと目を向けた。

「そこのおまえ。おまえの目にはなにが見える」

 ぐいと指された男子が答えた。

「女性だ」

「では女性とはなんだ」

「定義にもよる。生物学的な性別についてをたずねているのか。それとも社会的なジェンダーについてか。それともポスト構造主義的なセクシュアリティについてか」

「二度とおれにそんな口を利くな」

「女子は女子だ」

「おまえ、腕が触れ合うほどの距離にいながら、なにも感じないのか。頭ではなく、ここで考えるのだ」

 ここでと言いながら、京介は自分の胸をこぶしでたたいた。アメリカのテレビドラマで覚えた仕草だった。

「お互いの手を取るのだ。それでなにも感じなければ、おれはもうなにも言わない。おまえらの勉強を二度と邪魔しないと誓う」

「自ら職員室へ行き、今回の授業の妨害についてすべてを話し、しかるべき罰を受けるか?」

「甘んじて受けよう」

「必殺技破りを新日本プロレスに謝罪するか?」

「社長に直々に謝罪しよう。会わせてくれればだが」

 ある男子生徒が、パートナーの〈水着〉をじっと見つめていた。見つめられたほうの女子は、ふいに体を抱き、恥ずかしげに身をよじらせた。隠されたことによって逆に、男子の目が見開かれ、やがて高校2年生の体の奥に眠るなにかが目覚めた。

 ような気がした。

 男子は意を決したように手を取った。女子は手を取られた。

 手を握りながら、互いに向き合う。

「どうだ」

 男子は夢から覚めたように瞬きし、スタート台に立つ京介を見上げた。

「どう、って。なにがだ」

「おまえはおれに、言葉で反論できるか」

「なにについてだ」

「よし」

 当該男女は手を取り合い、30秒ほど見つめ合った。放課後までそのまま取り合っていそうな勢いだったので、京介はスタート台から降り、そっと両者のあいだに割って入った。

「ほかのペアも、手を取るのだ」

「どうだった?」

 手を握った男子にほかの男子がささやいた。

「どう、って。なにもない。手を握っただけだ。なにがどうなるというんだ。ただ手を握っただけだ。握手と同じだ」

 仕切るのが好きそうな男子が全員を見まわし、声を上げた。

「よし、みんな、岸田京介の狼藉をここで終わらせるぞ! パートナーの手を握るんだ!」

 そうして22組の男女が手を取り、見つめ合った。やはりすべての男女がこのまま永遠に見つめていそうな雰囲気を濃密に醸し出していたので、京介は1組ずつ丁寧にあいだに割って入った。

「どうだ」

「どうでもないね!」

 男子が一斉に叫んだ。

 女子はややうつむきがちで立ち尽くしている。

 仕切り屋が言った。

「さあ、これでわかっただろう、岸田京介! ぼくらは、おまえの言うことなど永遠に聞かない! きみが勉強をしないのは自由だ! だがこれ以上ぼくらの邪魔をしないでくれ!」

 京介は色葉を見下ろした。

 心配げに見上げているだろうと勝手に思い込んでいたのだが、実際はたいして心配そうでもなかった。

「終わりだ」

「そうね」

 京介は色葉とともに、生徒たちに背を向け、茶色い壁の建物に向かった。背中を全員が見守っているはずだったがちらちら確認するのはかっこ悪いので振り返らなかった。

「待って!」

 女子が声をかけてきた。京介はほっとしながら立ち止まった。

 どうにか真顔を保ちながら振り向く。赤い眼鏡の東堂杏が、思いつめたような顔で近づいてくる。右手でパートナー男子の首根っこをつかみ、ざらざらの床を半ば引きずっていた。

「言いたいことはわかった」

「わかってくれたか」

「わたしのパートナーもね。でしょ?」

 東堂は借りてきた猫のように男子をつるし上げ、言った。男子はうなずいた。

「す、すべての知識を総動員しても、言葉にできないんだ。言葉にできなかった。だから、だから」

「なぜ頭で考えようとするのだ。ここだ、ここで感じるのだ」

 再び胸をこぶしでたたいた。

「その恥ずかしいジェスチャーはやめてくれないか」

「いいだろう」

「お、おまえを破滅させたいのはやまやまなんだが」

「なんだ」

「東堂さんに嫌われるから」

「もう尻に敷かれているのか。いい調子だ」

 京介は21組がたむろするプールサイドへ戻った。そしてひとりひとりの顔を見た。まちがいない。すべての目が、言葉にできないなにかを宿していた。ひとりの男子が近づき、京介にたずねた。次はなにをすればいいのか。女の子の手を取り見つめ合った次は、なにをすればいいのか? わかりかけているのだが、わからない。なぜわからないのかもわからない。

 勉強しかしてこなかったからかもしれない。


   ◇


 最終的に、男子24名、女子18名の計42名が不勉教に改宗した。全員ではないところがリアルだろう。人間はそうそう自分を変えられるものではないのだ。元ヤンキーの熱血教師にちょっと怒鳴られただけで更生するならそもそも教師など必要ない。

 32万8000分の42。

 道のりは長い。

 だが。

 はじめの一歩を踏み出した。この事実はだれにも覆せない。


   ◇


 全員が更衣室に消えたプールで、京介と色葉は淡い青紫色の光を見下ろしながら、勝利の余韻に浸っていた。

 京介が口を開いた。

「男女間技術においても、象牙の塔の学問ではなく、手仕事こそが重要なのだな」

「手仕事はさせないほうがいいと思うけどね」

 それからラノベ由来の〈無駄な会話〉を長々とつづけた。

 授業終了のチャイムがたしなめるように鳴った。

「神はお喜びだ。次の授業に向かうぞ。さらなる改宗のために」

「小島先生はどうするの? プールに沈みっぱなしなんだけど」

「あの教師なら問題はない」

「なぜ?」

「プロレスラーだからだ」

 そのとき。

 青紫色に輝く水面が波打ち、ざばりと持ち上がった。

 ツァーリ小島の頭半分が水面下からのぞく。赤銅色に焼けた肌はきれいに被爆していた。

「グロロロロ。岸田京介の言うとおりだ。プロレスラーは超人だ。これしきのシーベルト、屁でもないわ」

「もちろんだ」

「どのような打撃にも耐え、放射線すら跳ね返し、そして立ち向かい、勝利する。それがプロレスラーなのだ」

「そのとおりだ」

「ふたりとも、妙にわかりあえてない?」

「当然だ。なぜならプロレスは最強の格闘技だからだ」

「だったらいいけど」

「この授業はてめえの勝ちだ、岸田京介。つかの間の勝利を味わうがいい。だが、教師ひとりを打ち負かしたところで、新たな先生が赴任するだけ。おまえらに勝ち目はないのだ」

「ならばその教師も打ち倒すまで」

「岸田京介、てめえはまだ気づいていないのか」

「なにをだ」

「てめえの〈彼女〉、一ツ橋色葉の最大の弱点をだ」

「色葉の弱点とはなんだ」

 ぶくぶくと泡を立て、ツァーリ小島の頭が沈んでいく。

「答えるのだ。弱点とはなんなのだ」

「グロロ」

 京介はプールサイドに手をつき、ツァーリの頭頂部に話しかけた。

「教えてくれ、ツァーリよ。いやさ、小島一成よ。おまえとは、この一戦でわかり合えた気がする。おまえは本当は、正義の教師なのだ。一連の悪行は、ギミックなのだろう? おれは世界を、関東第一高校を変えなければならない。だから教えてくれ。色葉の弱点を!」

 頭頂部が消えかけたその瞬間、小島はぶくぶくと言った。

「地味」

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