第29話 暇人のスコラ学 男の娘候補と声優談義

 翌朝。

 激しいローター音を響かせ、新橋駅日比谷口のSL広場に攻撃ヘリがぬらりと出現した。天安門広場3分の1の広さを誇るSL広場で関東第一高校の2年生14万8000人とバス運転手が見上げるなか、ユーロコプター社製のEC655ティーガーは機首部の30ミリキャノン砲を無駄に動かしつつ、いまにもヘルファイアミサイルを発射しそうな剣呑な雰囲気を漂わせながら、ゆっくりと降下し、車輪を地に着けた。

 後席のキャノピーが開いた。搭乗する男は、朝日を浴び、髪の毛をはためかせ、ついにその姿をあらわした。

 さっそうと飛び降り、京介は右手を掲げて高校生に告げた。

「聞け! おれこそがラノベの使徒、モテない冴えないごくふつうの高校2年生、アンダーアチーバー京介である!」

 とくに反応はなかった。

「高校生よ。登校する前におれの話に耳を傾け、そしておのれの心に問いかけるのだ。教師を盲信し、師弟関係という血に縛られし者よ。それほど勉強して、なんになる。競争してなんになる。東大に入ってなんになる。パイロットよ、エンジンを切るのだ」

 前席にすわるパイロットが親指を立て、エンジンを切った。

「これで静かになった。ときにおまえら、ラノベは聞いたことがあるか。じつはおれもよく知らないのだが、ラノベとはすなわち、〈青春〉である。小学校、中学校と、勉強に明け暮れたおまえらには、〈青春〉のすばらしさがわからぬ。〈友情〉の熱さがわからぬ。〈彼女〉の柔らかさがわからぬ。悲しくはないのか。そのようなリアルで満足なのか。おまえらはただの生徒ではない。おまえらは等しく、〈同級生〉なのだ。〈クラスメイト〉なのだ。3年生はただの年上ではない。せーんぱいっ♪なのだ。1年生はただの年下ではない。こーうはいっ♪なのだ。いや、ちがうかもしれない。そうだ、〈妹〉だ。1年生は全員おれの〈妹〉」

 自分の教えに自分で混乱しながらも、京介は『不勉教』の教えを訴えつづけた。やがて宗教的恍惚に脳がナチュラルトリップ状態に移行し、4600のIQが目覚めた。半眼で言う。




   慈悲ふかき慈愛あまねく大塚明夫の御名において……


   告げよ、これぞ声優、唯一なる神、

   もろ人の依りたまわる大塚明夫ぞ。

   子もなく親もなく、

   ならぶ者なき御神ぞ。




「ということだ! いますぐ不勉教に入信するのだ!」

 バスがぷっぷっとクラクションを鳴らした。高校2年生は肩をすくめ、ぞろぞろとバスへ向かった。もちろん入信申込用紙をもらいに来る者はひとりもいなかった。

 京介は肩を落とし、上空5メートルで心配げにホバリングするOH-6カイユースを見上げた。ヘルメットをしっかりかぶった色葉がにこにこしながら手を振り、それからパイロットに着陸を指示した。

 ティーガーの5メートル先でランディングする卵形のヘリを見つめていると、背後から肩をつつかれた。

〈同級生〉と思しき男子生徒が、じっと京介を見上げていた。

 声変わりもしていないのか、女の子のような声で言う。

「ぼくはスコラ学の現代における意義に関心を持つ者だ。あなたと議論がしたい」

「いいだろう」

「神は実在するのか」

「する」

「ではあなたはその目で神を見、その理性で神を理解しているのか」

「している」

「もし神があなたの創造主であるならば、あなたよりも大きな存在でなければならない。だがあなたが理解し、あなたに内在する神は、あなたの理性の枠に囚われている。したがってあなたのほうが神よりも大きいということになる。つまりあなたは、神を理解していないことになる。よってあなたの神は、存在するとは言い切れない」

「難しいことを言わなくても、たしかに存在しているのだ」

「証拠はあるのか」

「たまに電話をかけてくる」

「では神は、どのような声をしているのだ」

「いい声だ」

「いい声とは、どのような声だ」

「声優のような声だ」

「声優とはなにか」

「声優とは、かっこいいものだ」

「声の俳優か」

「そして最も憧れるべき職業である」

「それがあなたの神か」

「そしておまえの神でもある。おれとともに来い。ラノベになれば、死後天国で永遠に、思う存分勉強ができるのだぞ」

 男子生徒はしばらくうつむいたあと、京介を見上げて言った。

「ぼくにも神がいる。玄田哲章だ」

「だれだそれは」

「神だ」

「そんな神は聞いたことがない。いや! どこかで聞いたことがある。聞いたことがあるぞ。おまえ、それは偽りの神だ。遺憾ながら」

「だがいい声だ」

「いい声なのは認めよう」

「あなたにとっても、ぼくにとっても、神は『いい声』であるようだ。だが人間の言葉では、神の『いい声』を正確に表現できない。人間の理性では判断できないのだ。ゆえに、あなたの神は玄田哲章であるかもしれない」

「そうかもしれない」

「いい声であるならば、それでいいではありませんか」

「そのとおりだ」

 京介のスマホがポケットの中で震えた。電話に出るなり神が押し殺したような声で言った。

「おまえが改宗させられてどうする」 

「やつの理論は完璧だ」

「それからはっきりと言っておく。おれは玄田哲章ではない」

「大塚明夫でもないのだろう」

「ああ、そうだ。そうだよ。だが世の中には、まちがっていいまちがいとまちがってはいけないまちがいがある。だいたい大塚明夫と玄田哲章のどこが似ているんだ。おまえら、耳がいかれてるんじゃないのか?」

「お待たせー」

 色葉の声に、京介は顔を上げた。どんな声優にも負けない涼やかな声。タリーズバックスコーヒーのお持ち帰り用カップをふたつ持ち、小走りに近づいてくる。思わず顔がほころぶ。

「いい機会だ、しもべよ。大塚明夫と玄田哲章の明確なちがいを教えてやろう。まず玄田哲章の声質は、こ」

 京介は顔をほころばせたまま通話を終了させた。スマホをポケットにねじ込む。

「はい、ウインナーコーヒー」

「サンキューだ」

 容器を受け取り、さっそくキャップを親の仇のようにむしり取った。京介にとってお持ち帰り用カップのキャップは、高校教師とビニール傘の次にまちがった存在だった。キャップをつけたまま飲む者の気が知れない。地獄に墜ちるべきだと本気で思っていた。

 コーヒーをのぞくと、ウインナーが一本、黒い海にぷかぷかと浮かんでいた。

 京介は顔を上げ、色葉を見つめ、静かに言った。

「おれが頼んだのは、このウインナーコーヒーではないと思う」

「でも、上島タリーズバックスコーヒー珈琲のウインナーコーヒーはそれだけよ」

 不穏な店名に京介はカップを持ち上げ、ロゴに目をやった。タリーズ色の檻に閉じ込められたスタバ人魚は、さらに達筆の「上島」と「珈琲」に上下から押しつぶされ、しかもわずかに和テイストのアレンジが加えられていた。シアトル生まれの人魚はいまにも涙腺が決壊しそうな顔をしている。もちろん悪い意味でだ。

 京介はうつむき、言った。

「どこからツッコめばいいのか、おれにはわからなくなった」

「またコーヒーショップの経営統合が行われたようね」

 色葉はスコラ男子にちらっと目を向け、京介に言った。

「それで、何人改宗できたの?」

「マイナス1名だ」

「あっさり丸め込まれたのね」

「そういうことだ」

「よう、ご両人」

 そこへいがぐり頭の敏吾が、「やあやあ」といった感じで手を上げ、近づいてきた。

「おおっと。〈かのじよ〉と一緒だったか。邪魔したかな」

「おれは〈彼女〉ができたからといって、男どうしの友情を無碍にはしない。そういう男だ」

「きみはそういう男さ」

「そういう男なのだ」

「今日も教科書なしの手ぶらかい? まったくよくやるぜ」

「さっそくだが、おれの新興宗教『不勉教』の信者になってほしい。いまのところほかに当てがないのだ」

「いいぜ。親友の宗教となれば、スパゲッティ教でもなんでも入信してやるよ」

「ウインナーをおまえにやろう。これは神の肉体である」

「いただくぜ」

 生徒を満載した全長27メートル3連節の送迎バスが発進した。すぐさま次のバスがバス停に停止し、片側7箇所のドアを同時に開く。京介は腕時計を見た。まだ始業まで時間があるようだ。そもそも始業時間に間に合わせる必要があるのか。遅刻しても構わないのではないか。なぜなら不勉教信者は勉強しないことをモットーとしているからだ。京介はSLを眺め、コーヒーをすすりながら、信者2名にそう告げた。先ほど入信したばかりの1名は、わずかに表情を曇らせた。すでに洗脳済みの1名は、不安げな1名に対し「心配することはないのよ」「きっと神が救ってくださる」などと人生を狂わせかねない優しさで語りかけた。

 3人はSLを眺めながら、コーヒーを飲み、ひとりは御神体をぱりっとかじった。

「あなたたちは、なぜそんなに親密なのだ?」

 親密な3人が同時に振り返る。スコラ男子がわけがわからないといったふうに見まわし、それから京介に言った。

「あなたたちは、血のつながった家族なのか」

「ちがう。この男は〈親友〉だ。そしてこの女子は、おれの〈彼女〉である」

 色葉の肩を抱き、ぐいと引き寄せる。

「どうだ、うらやましいだろう」

「う、うらやましくなんかないぞ!」

 スコラ男子はどこか必死さをうかがわせる声音で叫んだ。その意味するところを、京介は理解していた。しすぎるほどに理解していた。

 京介はニヤリと口の端をゆがめ、言った。

「ほう。ではおまえは、男を所望なのか」

「ちがう!」

「おまえは女の子なのか」

「ぼ、ぼくは男だっ!」

 頬を赤く染めて叫ぶ。が、叫べば叫ぶほど、というやつだ。見よ、この男子の美貌を。きめの細かな、しみひとつない乳白色の肌を。長いまつげに、困ったように眉間にしわを寄せる細い眉を。短めに整えられた髪は毛先も柔らかく踊り、思わずくしゃっとしたくなる。そのうえでちゅっとして、ぎゅっとしたくなる。「ダメだよ。ぼく、男だよ」すらりとした体はなるほど男のそれだったが、それでいて曲線は柔らかく、後ろ姿などは女の子といっても過言ではない。

 京介は幻視した。その制服を無理やり脱がせ、フリルのついたブラウスを着せ、スカートに着圧ソックスを履かせるのだ。頬を染め、もじもじと内股で恥じる。「男なのに。こんな格好で、恥ずかしい」

 いやがるこいつのスカートをめくって。

 それで。

 はっ?

「どうしたんだい、ぼけっとして」

 京介は真顔で〈親友〉に振り返り、うなずいた。

「〈妄想〉をしていたのだ。これも〈お約束〉のひとつ」

「使徒もなにかと大変だな」

「ああ。心安まる暇もない」

 最後の送迎バスが怒りのクラクションを鳴らした。閑散としたSL広場を、3人は並んで歩き出した。

「ところで敏吾よ。θ組の優香とはどうなったのだ」

「ダメだった。一度、彼女の家で抹茶をいただいたんだがね。茶室で『空』の概念について話し合いながら、その完璧な和服姿、きれいなうなじにほつれた毛を見て、なんだか大人びているなと思った。いや、正直、退屈だったよ。ぼくには合わないようだ」

「それも経験だ」

「優香ちゃんは3人姉妹の長女でね。いちばん下の子が、これまたかわいいんだ。ひとことで言えば、大人びていない。まったく大人びていないんだ。ぼくの〈かのじよ〉にぴったりだと直感したね」

「妹は何歳なのだ」

「11歳だ。小学5年生なんだぜ。すばらしいとは思わないか」

 京介は少し離れて歩くことにした。

「ぼくは女じゃない!」

 スコラ男子がリュックを抱え、駆け抜けざまに言った。

「あなたの神など信じないっ! あなたの神はまちがっている!」

「布教はうまくいかないようね」

 色葉が言った。

「まだはじまったばかりだ。これも経験。『経験』の意味がわかるか」

「なに?」

「〈レベルアップ〉だ」

「会話ってこんなに難しかったっけ」

 残りわずかとなった高校2年生が次々とバスに吸い込まれ、SL広場はほぼ無人と化した。教師の犬たる運転手が、「はやく乗らないと先生に言いつけるぜ」と叫んだ。

 少し離れたところに、中年の女性がひとり、ぽつんと立っていた。冊子のようなものを胸の前に持ち、穏やかな表情を浮かべている。かたわらには縦長のラックが置いてあり、やはり冊子のようなものが段々に並べられている。「神の王国」という国境なき世界政府の確立を支持するタイプの信者のようだ。

 かねてからあの布教方法に疑問を抱いていた京介は、女性に近づき、手にした冊子をのぞいた。

 冊子は例のアレではなかった。表紙には大きなヒラギノフォントで「ヒロインが足りない」とだけ書かれていた。

〈ヒロイン〉が足りない?

 目が合う。女性は穏やかにうなずいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます