第26話 契約 そしてお約束の地へ

 結果的にもやもやを増量させた京介は、小爆発を繰り返しながらどうにか自宅へ戻った。

 玄関前に母親が仁王立ちしていた。

「いま何時だと思ってるんだい!」

「午後10時38分だ」

「そういう意味じゃない! こんな遅くまで、どこをほっつき歩いてたんだい?」

「どこをほっつき歩こうがおれの自由だ」

「勉強! 勉強! 勉強! いいかい、人生はイス取りゲームなんだ! イスは有限なんだよ! 全員がイスにすわれるなら、それはすわっていないのと同じこと! ゆえに人は人を蹴落とし、そのイスの価値を創出する! いまの社会がいまの社会である以上、苛烈な生存競争は決してなくならない。なくならないのさ!」

 京介は頭に血が上り、叫び返した。

「ときにゆとりは必要だろう!」

「ゆとり? ゆとりだって? いまゆとりと言ったのかい? キョーキョキョキョ!」

 京介はぎょっとした。

「ちがう! 勉強しすぎて精神を病んだ東大生の逸話を聞いたことがあるだろう? あれは嘘さ! 労働階級向けの嘘なんだ! 『だからおれは勉強しなかったんだんだよね。病まなくてよかったよほんと。人生、ゆとりをもって生きなきゃね』。そうして負け組は、世界の真実を知らず、なにも成さず、社会に貢献もせず、単なる消費マシーンとして搾取されつづけ、その惨めな生涯を終えるのさ!」

 居間の父がテレビの音量を上げた。

 そのとき。

 京介の耳に神の声が蘇った。

「なんだ、おまえの家には〈両親〉がいるのか」

 そうだ、と京介は気づいた。〈両親〉などいらない。おれはこの親を選んで産まれてきたわけじゃない。そうだ、家族とは、自らが築き上げるものなのだ。血のつながりなどに意味はないのだ。血に囚われず、自らが望む社会を一から築き上げるのだ。

 京介はわれ知らず叫んでいた。

「こんな家、もうたくさんだ。おれには支援者がいるのだ。もはや扶養される必然性はない!」

「必然性なんて気安く口にするあんたなんかうちの子じゃないよ!」

「出て行ってやる!」

「出て行け! そしてしばらくしたら戻っておいで! 母さん、いつまでも待っているからね!」


   ◇


 京介は着の身着のまま、財布すら持たず、生家を飛び出した。裏に駐めた自転車を力任せに引きずり、玄関前でまたがり、どこへ向かうでもなく、感情の赴くままに漕いで漕いで漕ぎまくった。その形相に、日本版サブプライム・モーゲージ債の話題で盛り上がる小学生女子が振り返った。市内全スーパーの食料品価格統計を交換し合っている主婦が振り返った。

 気づけば8番街と54丁目の角にある公衆電話ボックスの前にいた。

 中に入ると、とたんに電話が鳴り出した。

「人間ってのはおもしろいよな」

「そのくだりは昨日聞いた。だからもう、人間がおもしろい生き物であることは承知している」

 アドリブが苦手なのか、神は若干口ごもった。

「なぜ戻ってきた、ん? この前はよくも、神の電話をガチャ切りしてくれたな」

「おまえは本当に神なのか」

「そうだ」

「では地獄とはどんなところなのだ」

「教えてやろう。地獄のどん底には一本の木が生えている。ザックームと呼ばれる妖怪の木だ。地獄へ墜ちた者は、わたしがしつらえたその木の実を腹いっぱい食わされる。もぎたて新鮮の果実は甘くみずみずしく、たっぷりと酵素を含み、ひとくち食えば生命力が体じゅうを駆け巡る。そこへ今度は、じっくりことこと煮えたぎるコーンポタージュをマグカップで飲まされる」

「よさそうなところじゃないか」

「地獄へ墜ちた者は、食堂でお茶碗を持って並ばされる。香りのいい檜のおひつには、ふっくら炊きたてのごはんが湯気を立てている。おばちゃんに椀を渡すと、なんとも豪快に大盛りでよそってくれる。今日のおかずはなんだろう。ああ、鮭の塩引きか。さぞごはんが進むだろう。香の物が数品に、あつあつのわかめと豆腐の味噌汁。亡者どもはテーブルに着き、おいしくいただく」

「よさそうなところじゃないか」

「いいや、これぞ地獄だ。いまの描写でよだれが垂れそうになったり、スマホで『ごはん おいしい』などと検索したい衝動に駆られたりした諸君は、少しだけ食のあり方について考えてみることだ。食への行き過ぎた関心は破滅への第一歩なんだぞ」

 声がいいだけに妙な説得力がある。おいしいものを好きなだけ食べる、そこにはたしかに、「人間だもの」では済まされない気配が漂っている。食べて、眠る。豚も同じことをする。

「では天国はどんなところなのだ」

「天国はすばらしいところだぞ。ストックオプションがもらえるんだ」

「もっと万人にもわかりやすいウリはないのか」

「天国は天国だ。天国とは人間たちの理想の世界。6世紀のやつらなら、寝台にすわらせ美女をはべらせ美少年にお酌させるだけで喜んでもらえた。だが21世紀の情報化社会では、そうはいかない。多様なニーズに対応したスマート天国が望まれている。顧客の要求なら1個でも注文に応じるカスタマイズ性を必要とするんだ。天上界でもな」

「高校生向けの天国はどのようなところなのだ」

「そこはまるでボストンのような街並みだ。歴史ある建造物とアカデミックな空気に包まれ、おまえらは憧れのアメリカ大学生活を満喫できる。ハーバード、MIT、ボストンカレッジ。好きな大学へ入り放題だ。キャンパスは自然に囲まれ、都心からも離れ、気を散らすものはひとつもない。寮は全室個室だ。図書館にはアラベラという名の魔女がいてな、13歳で、産まれてからほとんど図書館を出たことがないんだ」

「美人魔女なのか」

「いいや。だが論文に必要な文献を的確に探し出してくれる」

 地獄のほうがよさそうだな。京介はふつうに思った。天国に行けたら行けたで、高校生はさらに勉強しなければならないらしい。

 死んだあとのキャリアプランとは、これ一体。

 そのとき。

 京介は圧倒的にひらめいた。圧倒的すぎて眼球がふたつとも飛び出しかけたほどだった。

「そうだ。それは!」

「よく気がついた」

「帰依した者だけが、最後の審判ののち、理想的な環境で、思う存分勉強できるのだ! そして天国へ行くには、現世で勉強してはならない! 現世では、高校生は高校生らしくしなければならないのだ! 高校生らしく!」

「その高校生らしさを〈青春〉という。恋に遊びに、クラブ活動。たまに文化祭」

「〈青春〉を謳歌しなければならない! 勉強する暇もないほどに!」

「いいぞ。さしあたっては、その作戦で行こう。おれの使徒となり、高校生たちに〈お約束〉を伝えるのだ」

「いいだろう」

「これで契約は成立だ。ところで今日はどんな一日だった?」

 神は突然、アメリカにおける夕食時の父親みたいに話を振ってきた。

「〈彼女〉ができた」

「本当か。そいつはすばらしい。心から祝福するよ」

 いい声で称えられ、京介は思わず頭をかいた。

「授業中に教科書を見せてもらった」

「おお、なんというトラディショナルな〈お約束〉だ。うらやましいやつだな、こいつ。このこの」

「ふとした拍子に胸が触れた」

「おい、いきなり〈ラッキースケベ〉もか。おまえ、なかなかやるじゃないか」

「それも〈お約束〉か」

「神の〈お約束〉ってのは、すばらしいものだろう。ん?」

 京介はうなずいた。

「おれは、ほかの高校生たちにも、神の教えを、〈お約束〉を、知ってほしいと思っている。神の教えはすばらしい。勉強など、キャリアなど、年収など、〈お約束〉の前では無に等しい。この世は〈お約束〉がすべてなのだ」

「そういうことだ。関東第一高校は、それをなによりも恐れている。生徒が目覚め、〈青春〉を謳歌するのをな」

「おれは生涯をかけ、〈お約束〉を伝えよう。未来ある高校生たちのために」

「よし。では信仰における基本中の基本、聖書の精読および暗記に取りかかれ」

「結構だ」

「バカを言うな。おまえは使徒だろう。今週中に必ず、ラノベ律法とラノベ新約聖書とラノベコーランをすべて読破してもらう」

「断る」

「心配するな。1冊あたり、たかだか280ページだ。難しい漢字にはすべて振り仮名をふってある。文中にイラストが10枚ほど挿入されている。会話ばかりだからマンガ感覚でさくさく読める。極めつけは、あの表紙だ。あの表紙を見れば、本を読む習慣のないおまえも思わず手に取り、ページを繰りたくなる。おれが請け合おう」

「善処しよう」

「ああ、そうそう。この電話ボックスは、明日の午後に取り壊しが予定されている」

「では今後どうやって連絡を取ればいいのだ」

「スマホを買えよ、〈彼女〉におねだりしてな。ではさっそく、〈お約束〉の基本を授ける。ほんとは聖書にぜんぶ書いてあるんだが、どうもイヤな予感がするんでな」

「あとで必ず読もう。いまは口頭で頼む」

 神授は1時間にも及んだ。

 そうして京介は〈お約束〉を知った。

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