第25話 なんだって?の特訓

 放課後。

 たいへん遺憾ながら、京介は代々木屋敷への招待を見送らせていただいた。

 なぜか?

 一体なぜなのか?

 関東第一高校エクスプレスがJR代々木色葉駅で停車すると、色葉はととっとホームに降り、アッシュブラウンの髪毛を揺らして振り返り、いつまで待っても降車しない京介を怪訝そうに見つめ、「どうしたの? 降りないの?」「両親は一晩じゅういないのよ」「御影石のお風呂を紹介したいんだけど」「新しい水着、見てほしいな」「お父様にお願いして、コナミスポーツクラブを買収したのよ」などと矢継ぎ早に誘った。京介はどう反応すればいいのかわからなかった。いや、わかってはいた。ただうなずき、ついていき、両親のいない代々木屋敷で、ふたりきりで、やるべきことをやるだけだ。だが京介は恐ろしかった。やるべきではないと思った。いずれはやる。だがいまではない。

 はやすぎる。はやすぎるのだ。

 なぜなら。

 ぼけっと突っ立っていると、電車のドアが閉まった。

 色葉は肩をすくめ、扉越しににこっと笑い、手を振り、「また明日」と口を動かした。


   ◇


 京介は下半身のある1点から放射状に広がる正体不明のエナジーに悶々としながら、自宅最寄りのゆとりヶ丘駅で降車した。時刻は20時。オワコンストリートをもやもやと徒歩で進む。途中で自転車を駐輪場から拾い忘れてきたことに気づいたが、めんどくさくなってそのまま進んだ。なにもかもがめんどくさかった。

 

 かつてのオシャンティーぶりを忍ばせる薄汚れた集合住宅が、夜の闇にいくつも立ち並んでいる。薄汚れたコンクリート塀の上に並び立つ薄汚れた緑の垣根。雑草まみれの薄汚れたガードパイプ。文字どおりのオワコンニュータウンの風情だ。ひったくりも多発していた。女性の宅配も横行していた。しばらく進むと、ワンチャンアベニューとの交差点に差しかかった。ちなみになぜ西東京ゆとりニュータウンは区画ではなく通りに名前がつく方式なのかというと、そっちのほうがアメリカっぽくてかっこいいと当時の東京都および都市開発機構の面々がゆとりをもって考えたからだった。

 それはともかく。

 このままでは空中爆発してしまいそうだ。

 お風呂場で爆発するのは、必至。

 一ツ橋色葉と今後、どう接していけばいいのか。

 幅員32メートルのワンチャンアベニューをストリート方面へ向かう。どこまで行っても薄汚れたマンションと緑とガードパイプだ。バスが京介を追い越し、騒音と汚らしい排気ガスをおすそわけした。ありがたいことにもやもやが晴れ、別種のもやもやが京介の肺を満たした。

 前方にセブンイレブンの明かりが見えた。さらに進むとタリーズバックスコーヒーがあった。セットバックした5階建て商用ビルの1階に、暗闇と身を隠すようにひっそりとたたずんでいる。街路樹の絶妙な配置によってどちら側から通り過ぎても気づかれない奇跡的にかわいそうな店舗だった。

「あ、京介くん」

 スーツ姿の上原アリシャが突然目の前に出現したので、京介はヘンな悲鳴を上げた。

「奇遇ね、こんなところで」

 真顔で京介を見上げる。奇遇と言ったわりにはとくに驚いていない様子だった。

 京介が言った。

「なぜこんな夜遅く、五反田のOLが西東京くんだりにいるのだ。おれを尾行していたのか」

「ううん。ただ〈偶然ばったり出会った〉だけ。珈琲でもどう?」

 まるで説明になっていないが出会ったのはまちがいないので、とりあえずタリーズバックスコーヒーに入店した。

 窓際のカウンターに並んですわり、右へ左へ流れていくヘッドライトをぼんやり見つめながら、ときおりアイスコーヒーを含み、年の離れた姉に対するように今日の出来事を語った。

「〈ヘタレ〉ね」

 突然の悪口に京介は気色ばんだ。

「あ、そうじゃない。そういう意味じゃないの。〈ヘタレ〉は悪口じゃない。むしろ勲章よ」

「かなりの悪口だろう」

「とにかく、誘いを断ったのは正解よ。さすがは京介くんね」

「なにがどう正解でさすがなのだ」

「たしかに、なにがどう正解なのかを得心しなければ、家には帰れないよね」

「なぜかはわからない。だが、はやすぎる。はやすぎるのだ!」

 京介はエナジーを放出すべくコーヒーを思いっきりすすった。

 上原は京介を弟のように見つめながら言った。

「その直感、やはりIQ4600は伊達ではないようね。そう、あなたが好きで好きでたまらない一ツ橋色葉さんの誘いを受けていれば、いまごろは〈お風呂〉に入っていたでしょう。〈水着〉も披露していたでしょう。ことによると、おっぱいも」

 京介はうっとうめいた。

「でも、あなたの言うとおり、いま〈お風呂〉に入るのははやすぎる。展開としてあまりにはやすぎるのよ。それに〈添い寝〉や〈着替え〉のみで済ませるだけの〈ヘタレ〉ぶりもまだ身につけていない。おそらく一ツ橋色葉の裸を見た瞬間、一直線に突き進んでしまうでしょうね」

「これ以上あおるのはやめてほしい」

「本来の目的を思い出して。あなたの目的は、関東第一高校の打倒および世界を変えること。でしょう?」

「目的は忘れていない。だが、これから会うたびにこのような葛藤をしなければならないのであれば、世界を変える代わりに下着を替えるだけの活動に陥ってしまう。一体どうすれば」

「策はある」

「なんだ」

「〈難聴〉よ」

「おれの聴覚は正常だ」

「そうじゃない。来たるべき展開を先延ばしにするため、都合のいいことだけ聞こえないふりをするのよ。だいじょうぶ、一ツ橋色葉はあなたが大好きなんだから、ちょっとくらい無視されても気にしない」

「失礼な行為だろう。それもかなり」

「それでこその〈主人公〉なのよ。ちょうどいい機会だから、ここで特訓しましょう」

 上原は腰を浮かせ、すっと体を寄せた。スカート越しの太腿が京介の脚に触れた。

「それで、目下のところ〈メイン〉の一ツ橋色葉さんは、どうやって教師の授業攻撃を防いだんだっけ?」

「耳を塞いだのだ。単純に」

「こんな感じで?」

 上原は身を乗り出し、ほっそりした手で耳を塞いだ。

「そして苦悶に身もだえするおれを、体で押さえつけたのだ。単純に」

「こう?」

 むにゅり。

「そうだ。それだ。いや、もう少し小さかったが」

「授業対策はバッチリってわけね。さあ、この状況で、あなたはどう反応する? ほらほら」

 むにゅむにゅ。

「気づかないふりをする。この感触に」

「そう。『こ、この状況を周囲に見られてはまずい。男として問題がある』などと説得力皆無の理由を頭に思い浮かべながらね。無視するほうが男としてどうよって話だけど、とにかく理由はなんでもいい」

 むにゅむにゅ。

 むにゅり。

「ひとつ、いいか」

「なに?」

「特訓以前に、なぜおれにむにゅりができるのだ。こともなげに」

「あなたが好きだから」

「え? なんだって?」

「そう、それよ! 筋がいいのね。あなたはやはり、〈主人公〉にふさわしい逸材よ」

 上原は突然耳から手を離し、むにゅりを終えた。常識的な距離に落ち着き、窓の外を眺めながら、なにごともなかったかのようにコールドブリュー珈琲を含んだ。

 京介も荒く息をつきながら、乱れた衣服を整え、窓の外を眺めてコーヒーをすすった。上原の教えどおり、26歳美人ハーフの感触を忘れようと努める。だが忘れたくても忘れられるものではない。だいたい忘れようと努めることになんの意味があるのか。京介は振り返り、店内を見まわした。ノマドワーカーと目が合った。おまえらは本当に、どこのコーヒーショップにも生息しているのだな。ノマドはともかく、ほかの客も含めて全員が、なぜか先ほどの狼藉にまったく気づいていない様子だった。まるで背景のように、コーヒーショップでコーヒーを飲む客としての振る舞いをつづけている。

 京介は奇妙な場のようなものに囚われているような気がした。その場では常識は通用せず、まるで伝統芸能のような厳密なパターンのみが繰り返される。

 ガブリエルと出会ったあとに見たビジョンが右から左へ駆け抜けていった。

 それから大塚明夫のセリフを思い出した。

 神のお約束。

 京介は向き直り、なんとはなしに言った。

「アリたんは、お約束なるものを知っているか」

 上原はちょっと大げさなくらいさっと振り向いた。やや目を細め、うかがうように京介を見る。

「どこでそれを?」

 京介は首を振った。

「街なかで偶然耳にしたのだ」

「まさか」

 上原が絶句した。

「なにがまさかだ」

「本当に、あなたは」

「なにが本当にあなたはなのだ」

 答える代わりに上原はコールドブリュー珈琲を置き、急いで上着を脱いだ。まぶしい白シャツ姿でなんの脈略もなくがばりと抱きついた。

「こういうのはどう? こっちのほうがより効果的」

 むにゅむにゅむにゅむにゅ。

「ああ」

「ダメ、我慢するのよ。ところでわたし、〈ヒロイン〉として、よくやってると思わない?」

「ああ」

「じゃ、正式に紹介してくれる? 神に」

「え? なんだって?」

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