第24話 バカと利口と男と女 そして惑星ソラリスの海

 京介は浜松町二丁目にそびえ立つソラリス・ステーションヒルズ78階大教室で21コマ目の小アポクリフォス概論を受けながら、原因不明の頭痛と嘔吐感、倦怠感に苛まれていた。

 美人の資産家令嬢、一ツ橋色葉はいつあらわれるのか。

 はやく世界を変えたい。これでは身動きが取れない。

 京介はとある理由で覚えていなかったが、一ツ橋色葉と私有軍による「はじめての出会い」は、その後もありとあらゆるシチュエーションで繰り返されていた。京介はチンピラに絡まれる色葉を助けた。猫としてダンボールに捨てられている色葉を拾った。何者かによって爆破された中央線から必死の思いで脱出すると阿鼻叫喚と渦巻く炎を背景に近未来スーツを纏った男が立ちはだかりなぜか京介を殺そうとしたところへ突然空から剣を携えたひとりの少女があらわれ技名とともに剣を振るい謎の男を撃退しそのさまを這いつくばりながら信じられないといった面持ちで見つめる京介の前に立ち一度では覚えられない振り仮名つきの通り名を名乗る色葉と出会った。

 ときに出会いは最悪だった。

「なんでこんなやつと一緒に暮らさなきゃなんないんだよ!」

「それはこっちのセリフよ!」

 そしてそれらすべてを忘れていた。

 京介は漏斗状の大教室、7階吹き抜けの最上段から、扇状に展開する彼方の黒板を見下ろしていた。ちなみに思考力を持つ原形質状の海について学ぶ理由は、1回目の授業ですでに考えるのをやめていた。

 腕時計に目をやる。今日という日はすでに35時間が経過し、すでに今日という日ではなくなっていた。だが壁の時計は午後1時を指している。

 窓の外では、青い太陽が中天に輝き、都内を青く照らしていた。

 世界よ、目を覚ますのだ。SFに負けるな。

 教卓のすぐそばのハッチが音もなく開き、宇宙服を着た男がゆっくりと姿をあらわした。ソラリス学の世界的権威にしてなろう作家の迎瀬だ。

 迎瀬は教卓に立ち、もこもこと手をたたき、「静粛に」と言った。

「授業をはじめる前に、転校生を紹介します」

 教壇側のドアが音もなく開き、転校生が入ってきた。

 京介は身を乗り出し、見下ろした。転校生は女子だった。

 もしかして。

「本日からわが関東第一高校に転入した、一ツ橋色葉くんだ。では一ツ橋くん、挨拶して」

「関東第一高校から転入した、一ツ橋色葉。ただの人間だけでなく、森羅万象すべてに興味があります。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、精神科医を紹介します。以上」

「なんて独創的な自己紹介だ! こんな自己紹介がかつて存在しただろうか! 否! というわけでみなさん、一ツ橋くんはつまり、関東第一高校から関東第一高校へ転入してきた、というわけですね。すでに在籍していながらなぜ転校できるのか、疑問に思う者は?」

 だれも手を挙げなかった。

「わたしも疑問には思わない。ハヤカワの編集者を紹介してもらったからじゃないぞ。決してそのような、賄賂などに端を発する二重思考の産物ではないのだ。それにまじめな話、ここにいる一ツ橋色葉くんは、一ツ橋色葉くんではないかもしれないんだ」

 生徒ひとりひとりを見まわしながら、科学のふしぎを小学生に伝えるような口調で言った。

 さらになにかを言いかけたところで、転校生が教師を見上げ、言った。

「先生の小説、最高でした。大森望も大絶賛! 偏狭なSF観に社会性の完全な欠如、レムの再来と言っても過言ではないと思います」

 先生は宇宙服の上から頭をかいた。

「いやいや、あんなものはね。しょせん素人のお遊びだよ。諸先生方の傑作とは比ぶべくもない。だが停滞するSFというジャンルに一石を投じることができるのなら、出版する意味も、あるのかもしれないな! 最近のSFについては、言いたいことがなくもない。まず」

 最近のSFについて語り出す前に、転校生は片手を上げ、遮った。

「岸田京介くんの隣にすわってもよろしいですか」

「ん? ああ、そうだな。あいつの隣しか空いていないのであれば、いたしかたない。だが、バカをうつされないように気をつけるんだぞ。バカと利口は、決してわかり合えないんだ。ソラリスの海と人類のように」

 転校生は漏斗状の教室の急な階段を、一歩、また一歩と登る。かくして一ツ橋色葉は京介の隣にすとんと腰を下ろし、頬杖をつき、疲れたようにため息をついたのだった。

 京介も疲れていた。これ以上疲れると命に関わりそうなたぐいの疲れだった。横顔を見、懇願するように言った。

「転校生との出会いは、すばらしい出会いだと思う」

 色葉は正面を向いたまま言った。

「本当に転校生でいいのかな」

「転校生でいい。はやく出会わなければならない。そろそろ限界だ。さまざまな意味で」

「わかった」

 色葉はゆっくりと振り向き、赤と青の双眸で京介を見上げた。サイドの髪毛を揺らしつつわずかに小首をかしげ、まごうことなき桜色の唇を開いて言った。

「次はどうする?」

 京介の胸が揺れた。

「おれたちは、世界を変えなければならない。おれとおまえで、一致団結して。団結といってももちろん、ひとりの仲間としての団結だ。とくにこれといった思惑もなく、ふたりで団結する」

「もちろんね」

「その前に、ひとついいか」

「なに?」

「なぜ左右の瞳の色がちがうのだ」

「わからない。もともとはこうではなかった。標準的な日本人と同じ、両目ともわずかに茶色みがかった黒だった。そう、あれは昨日の夕方のこと。自宅の寝室でメールをチェックしていると、男子高校生と思しき生徒手帳用の写真が突然、画面いっぱいに広がった。わたしはイスの上で思わずのけぞり、『なんだこいつ』と口走った。すると画面が突如、赤と青に激しくぴかぴ~かしはじめた。気づくとわたしはラグの上に横たわっていた。よだれを垂れ流し、おそらく白目も剥いていたでしょう。気絶していたのは5分ほどだった。立ち上がり、あらためて男子高校生の画像を見た。するとどうでしょう、胸の奥がもやもやとうずき、いてもたってもいられなくなった。どうしよう、どうしよう、と部屋をうろうろしながら、ひとまず服を脱ぎ、パジャマに着替えた。ふと股間に違和感を覚えた。パンツをのぞくと、とある異変が起きていた。どういう異変かわかる? ああいう異変よ。わたしは自分を抑えきれなくなった。寝室の明かりを絞り、ベッドにころり横になった。クマさんのぬいぐるみを抱き締めつつ体をくの字に曲げ、ちょっと乱暴に。『京介くん、京介くんっ。ああん』。あとはご想像にお任せする」

 イスから立ち上がれないタイプの下半身になった京介が言った。

「それで瞳が信号機になったのか」

「フラッシュだけにね」

「いまも催眠状態なのか」

「うん」

「では、いまもおれが好きなのか」

「好き。だってかっこいいから」

 京介は天板を見つめ、言った。

「おれの心はいま、言葉にできない悲しみに充ち満ちている」

 色葉は京介の手を取った。

「たしかに、いまのわたしは本来の一ツ橋色葉ではない。一ツ橋色葉の姿をしただけの、海の怪物かもしれない。あなたを好きでいられるのは3週間だけ。期限を過ぎれば、なにごともなかったようにあなたの元を去ってゆくでしょう。でも、ようは、3週間で成果を上げればいいのよ。そうすれば素に戻ったわたしも、あなたを見直し、好きとは言わないまでも、ひとりの友達として付き合っていけるかもしれない」

「本当に催眠状態なのか」

「物事を客観的にとらえようと努めているだけ。それが証拠に、ほら」

 体半分ほどすっと寄せ、瞳をうるうる潤ませながら京介を見上げた。

 京介は思わず上体を引いた。

「どうしたの? 一緒に教科書を見るだけよ。忘れてきたんでしょ?」

 色葉はバッグから、重量10.5キロ、B3判、上製、二段組み7000ページ超のテキスト『日本人のための小アポクリフォス入門』(関東第一高校出版会)を取り出し、机に広げた。

「そんなに離れてたら教科書が見えないよ」

 自然な動作ですっと体を寄せる。肩が触れ合い、体温とともに電気信号のようなものが衣服越しに伝わってきた。

 京介を見上げ、にこっと笑った。

「なぜ及び腰なの? もっと近くに来てよ」

「これ以上どうやって近づけばいいのだ」

 だが色葉は近づいた。ゼロ距離からマイナス距離へ。脇腹が触れ、お尻が触れ、太ももが触れ、ついには脚どうしが絡み合った。そしてすべてをゆだねるように、京介の肩にちょこんと頭をもたせかけた。アッシュブラウンの髪が頬をくすぐった。思わず鼻を近づけ、京介は麗しき髪の香りを嗅いだ。

 高校生男子たちの後頭部を高みから半眼で見下ろす。

 高校生よ。〈彼女〉はいいぞ。

 3週間の命ではあるが、それはともかく。

 幸せな二人三脚状態で右半身を甘くぴりぴりさせながら、京介はノートを取る色葉の横顔を見、ささやいた。

「ところでいやらしい話、一ツ橋家はどのくらい金を持っているのだ」

「『渋谷区』って知ってる?」

「いや、知らない」

「そういうことよ」

「どういうことなのだ」

「『四国』って知ってる?」

「四国なら知っている。USJや富士急ハイランドをしのぐ、日本最大級のテーマパークだ」

「そういうことなの」

「よくわからないが、さっそくパトロネスとして、その財力をおれのためにフル活用してもらいたい。ただスキンシップをするだけではなく」

「イエッサー」

「金があれば怖いものなしだ。世の中は金がすべてだ。金ですべてを解決できるのだ。おれは知っている。おれは真実を知っているぞ」

「お金がすべてなのよね」

「そうそう」

「そうそう」

「岸田京介!」

 漏斗状の教室の最下部から教師が叫んだ。音速の叫び声とともにチョークがものすごい勢いで上昇し、京介の額を的確に打ちつけた。

 チョークだけに当然、たいしたダメージではなかった。にもかかわらず京介は、わざとらしく上半身をのけぞらせ、「ぐはあっ!」とわざわざ声に出してうめいた。

 なぜか。

〈彼女〉ができたからだ。

 心の余裕がちがうのだ。

 教師は宇宙服の中でもこもこと体を揺らしながら怒鳴った。

「授業中だぞ! 貴様、海より生まれいでし真白きアフロディテとなにを話している?」

「私語だ」

「私語は慎め!」

「いいや、おれは慎まない。おれはついに、〈仲間〉を手に入れたのだ。だからつまり、これからのおれは、これまでのおれではないのだ!」

「乏しい語彙だな」

「教師よ、覚悟するがいい。これからのおれは、勉強しないだけでは済まされないぞ。勉強をせず、しかもおまえらを打ち砕く!」

 色葉は鼻背に軽くしわを寄せるタイプの笑みでにこっとし、ぱちぱちぱちと拍手した。

 生徒全員が振り返り、ふたりを見上げていた。

 教師は宇宙服の上からヘルメットの具合を直したあと、言った。

「なるほど。職員室で噂には聞いていたが、聞きしに勝るとはこのことだな。貴様にはやはり、特別な授業が必要なようだ。いつものように!」

「やるがいい。やってみるがいい」

「ではわたしの代表的著書、『日本人のための小アポクリフォス入門』(関東第一高校出版会)の2063ページを開け。ソラリスの海を理解する上で最も重要な、『対象物』と名づけられた現象について講義しよう。貴様だけに!」

 それから思い出したように「カラカラカラ」と笑った。

「覚悟しろ」




   迎瀬先生の 役に立たないソラリス学


 カラカラカラ! 岸田京介くん、一昼夜のうちにソラリスの海が創り出す形態のうち、比較的恒常的に繰り返される形態の数はおよそ300種類なんだ。わけても、わたしが『対象物』と名づけた現象は、それに類似したものがないという




 突然、授業が聞こえなくなった。

 どういうことだ?

 両耳にひんやりと、かつ絹のように繊細な感触があった。京介は振り向き、繊細ななにかの正体を見た。するとどうだろう、色葉が身を乗り出し、おのが手のひらで、京介の両耳をふさいでいるではないか!

 これが、〈仲間〉というやつか。

 むにゅ。

 身もだえする京介を、色葉が体で押さえつけた。

 むにゅ。

 15分ほど講義がつづいたあと、迎瀬が得意げに叫んだ。

「と、いうわけだ! どうだ、岸田京介。ソラリスの海を完璧に理解できただろう。カラカラ!」

 京介は色葉ヘッドホンをゆっくりとはずし、力強くうなずいた。

「最高だったぞ。少なくとも3つの意味で!」

「なっ? き、貴様、なぜ」

 そのとき。

 教室のスピーカーから、キンコンカンとチャイムが鳴り響いた。京介はスピーカーを見上げ、首をかしげ、やがてその意味するところに気がついた。授業が終わったのだ。耐えたのだ。嘔吐もせず、喀血もせず、保健室に転がり込むこともなく。

 迎瀬が自動人形のようにハッチの奥へ消えた。

 色葉が7000ページ超のテキストをバッグにしまい、立ち上がった。

「さあ、次のヒルズへ行きましょう。次の授業は、ええと」

 京介は聞いていなかった。握りしめたこぶしを見つめ、感動的に放心していた。

 色葉はアッシュブラウンの髪毛をサイドに垂らし、のぞき込んで言った。

「どうかした?」

 京介は弾かれたように色葉の手を取り、握りしめた。

「ありがとう」

「お安い御用よ」

 色葉は手を取られたまま、やや上目遣いで、やや頬を染め、やや怒ったように見つめている。京介はあらためて、その完璧な容姿を見つめた。長い睫毛、ポケモンを思わせる赤と青の双眸、小ぶりな鼻、そしてまごうことなき桜色の唇。本当に桜色の唇なのだ。描写を放棄し紋切り型に逃げたわけではなく、桜色の唇だから桜色の唇なのだ。

 色葉が桜色の唇を開いて言った。

「だいじょうぶ?」

 京介はうなずいた。

「次の授業も頼む。先ほどのやつを、先ほどの感じで」

「心配しないで。履修科目はすべてあなたと同じにしたから。それより、岸田京介」

「なんだ」

「放課後は一緒に帰りましょう。代々木屋敷へ招待したいの。それに今日は、都合がいい」

「なぜ都合がいいのだ」

「両親が両方とも出かけているの。明日の昼過ぎまでは確実に帰ってこない」

「なぜ都合がいいのだ」

 京介はもう一度聞いた。

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