第19話 彼女とはなにか そして必ず出さなければならないシュレディンガーの猫(と親友)

 放課後。

 京介はかつて赤坂1丁目と呼ばれたかつてアーク森ビルと呼ばれた第6校舎ヒルズ21階大教室で、窓際の席にすわり、マイクロソフト・サーフェスをにらみつけていた。

 あのあと予想に反し、徳川戦隊はきっちりお使いを果たし、1時間ほどで五反田から戻ってきた。芝公園の広大な芝生で大の字になってうとうとしているところ、家茂ブルーが音もなくあらわれ、もの言わずマイクロソフト・サーフェスを差し出した。道中なにがあったのかは知らないが、家茂の穏やかな表情から、明らかに人として成長していることがうかがえた。

 放課後ということで、大教室は無人だった。だが勉強大好きな生徒どもはあっさり帰宅するはずもなく、おそらく赤坂アレクサンドリア図書館ヒルズでアラビア語の文献でも漁っているのだろうと思われる。教師の声、ノートを走るペンの音、グループディスカッションのやり取りなどが、亡霊のようにときおり眼前に蘇る。

 窓からは夕日が差し込んでいた。

 京介はいつしか頬杖をつき、念願の夕日を顔面に浴びながらぼんやりと窓の外を見つめていた。

「京介くん」

 びくりと首を持ち上げ、声がしたほうへ顔を向けた。

 930坪の大教室にはどのような女子もいなかった。

 幻聴か。京介はサーフェスの画面に向き直り、ため息をついた。

 エクセルのシート1には、京介の妄想条件を加味した集計結果が表示されている。シート2には当該女子の生徒手帳用写真が簡単なマクロによって表示されている。

 表示されているはずだった。

 まだ一度も目にしていないのでわからない。

 京介はマウスを操作し、シート2のタブにポインタを寄せた。

 あの女子。

 いや、そんなわけはない。

 統計があの女子をピンポイントに導き出すはずがない。

 とにかく、ここにあるのが、おれのはじめての仲間。

 おれのヒロインだ。

 京介の人差し指は左クリックを拒みつづける。一体なにを迷っているのだろう。美人ではない資産家令嬢がドバーンと出現するのを恐れているのか? たしかにいまここで美人ではない資産家令嬢を目の当たりにしてしまえば、おそらく自分の中のなにかが3つほど崩壊してしまうだろう。

 人差し指に力を込める。

 ただ。名前は素敵だった。

 その名前は。

 きみの名は。

「おい、きみ」

 タブをクリックしかけたそのとき。何者かが机に手を突き、話しかけてきた。

「きみ、非常にまずいことになっているぜ」

 昭和を思わせる特徴的な語り口に、京介は顔を上げ、男を見た。

 坊主頭に日焼けした顔。何本もしわが刻まれた猫の額。京介にとって親友と呼べる唯一の存在だった。

 名前は敏吾。

 以上だった。

 京介はサーフェスに目を戻し、不機嫌に言った。

「まずいとはなんのことだ」

「聞いたぜ。きみは先ごろ、第11校舎ヒルズで、実地のアポなし突撃アンケート調査を行ったらしいじゃないか」

「そこで腎臓をひとつ失ったのだ。それがどうした」

「全校の女子たちが警戒しはじめているんだ」

「女子はなにを警戒しているのだ」

「さあ、わからん。16コマ目のドイツ近代法史のディスカッション、おかしなぐあいでさ。女子が全員、部屋の隅に固まって、女だけのグループで討論をはじめたんだ。いくら教師が注意しても、男と話したがらない。そうこうしているうちに、なにやらひそひそとささやきはじめた。ちらとぼくの顔を見て、くすくすと笑いはじめた。見たのはぼくじゃなかったかもしれない。正確にはわからない。するとショートヘアの女子が、まるで国の代表みたいに、毅然と男グループに近づいてきた。いや、正確には、ぼくに近づいてきた。そして言った。『京介くんって、友達?』。あれ以来、すごく引っかかってね。一体どういう意味だったんだろう」

「その女子はなぜ、おれとおまえの交友関係を知りたがったのだ」

「知らんよ。だが、ぼくはそのとき、いい気分だったね。ああ、すごくいい気分だった! と同時に、きみを呪い殺してやりたくなった。あんな複雑な気分ははじめてだった。そこでだ。親友であるきみに、たってのお願いがあるんだがね」

「なんだ」

「この論文を読んでほしい」

 敏吾は後ろ手に隠し持っていたクリアファイルを差し出した。

「提出する前に査読してくれないか。論点に穴はないか。焦点はぼやけていないか。数式は正しいか」

 京介は論文を受け取り、クリアファイルから抜き出した。

 表紙に目を落とす。タイトルは「マッチング理論――親友という外部性の考察」だった。

「課題か」

「いや、学校に提出する論文じゃない」

「ではだれに出すのだ」

「θ組の優香さんさ」

「共同研究か」

「ある意味ではね。だが、内容によっては採用されないかもしれない。採用されなかったら、ぼかあ、死んでしまうかもしれない」

 病気なのかな。京介は住職の言葉をふと思い出し、見よう見まねで言ってみた。

「おまえは、気が散っているだけなのだ」

「なんのことだい」

「〈彼女〉を欲しているのだ」

「なんだあ、その、〈かのじよ〉ってのは?」

 京介は論文の表紙を見つめながら言った。

「わからない」

 なんとはなしに論文を開き、めくった。とたんに目眩を覚えた。英語の序文が、目次が、本文が、数式が、グラフが、参考文献一覧が、財団への謝辞が、意味を成さない記号の羅列となり、焦点を合わせるそばから横滑りし、分解し、ラジウムのように崩壊していく。

 京介は論文を突き返した。

「おれに依頼するのはおかどちがいだ」

「そうか。きみは関東第一高校きっての学業不振高校生だったな。IQは推定4600なのに、なんでだろうね。学園七不思議ってやつだな」

「おまえは、θ組の優香が気になるのか」

「ほかのどんな女子よりもね」

「なぜだ」

「小さいから」

「小さいことがいいことなのか」

「それを研究した成果が、その論文だ。経済学と行動学の幸せな結婚だぜ」

「ただ話せばいいだろう。おれと話すように」

「だが、ぼくの心の波動関数はあまりにも重なり合っている。そうだ、『シュレディンガーの猫』は知っているかい?」

「やめろ!」

 京介は叫んだ。

「『シュレディンガーの猫』を二度とおれの前で持ち出すな。理由も聞くな! まったく、猫も杓子もシュレディンガー、シュレディンガーだ。猫だけにか。猫だけになのか。おまえはそれで賢くなったつもりでいるのか。賢いと思われていると思っているのか。いいや、むしろバカだと思われているのだ。おまえは世間にバカを晒しているのだ。世間は気づいているぞ。おまえの無知に気づいているのだ」

「きみは理解できているのかい?」

 京介は敏吾の胸ぐらをつかみ、ぐいと引き寄せた。

「猫は生きている! 話は終わりだ!」

「わかったよ」

 敏吾は両手を挙げ、降参といったように手のひらを向けた。

「暴力はやめたまえよ、きみ」

「量子力学をありがたがる世の中などうんざりだ。おれは、目で見たものを信じる。においを、肌で感じた感触を信じる。おれはおれのやりかたで〈仲間〉をつくる。〈彼女〉をつくる。つくってみせる」

「きみは、きみのやりかたで、〈かのじよ〉をつくればいいさ」

「そうする」

「そうしたまえ。ときに、それはどんなやりかたなんだい? もしきみがきみのやりかたで〈かのじよ〉をひとりでも見つけられたなら、ぼくはきみに師事するよ。きみの主張どおり、勉強はやめだ。こちらのほうが大切だという、そんな気がするからね」

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