第14話 虎の門病院保健室 ひとりではなにもできない

 京介は意識を取り戻した。

 消毒液のにおいが鼻粘膜をくすぐる。固く糊の利いたシーツの感触、マイ毛布ではない微妙な質感と重さ、マイ枕ではない微妙な固さ。

 心安らぐ静寂。

 保健室。

 おれは保健室にいる。

 ゆっくりと目を開ける。水晶体が白い天井に焦点を合わせた。

 そこへボブヘアの女性がぬっとのぞき込んできた。

「気づいたのね。よかった。だいぶうなされていたのよ」

 保健の先生は京介の前髪をかき上げ、額に手を置いた。

「もうだいじょうぶね」

 目尻にしわをこしらえ、微笑んだ。

 優しい笑顔に、京介は思わず安堵のため息を漏らした。

 壁かけ時計に目が留まる。14時35分。

「おれはいつからここにいるのだ」

「そんなに長くはない」

「だれがここまで運んできたのだ」

「それが、わからないのよ。わたしが気づいたときには、あなたはロビーの床にうつ伏せで倒れ、耳から血を流していたんだから」

 くるくる回転して遊べる黒いスツールに腰を下ろし、保健の先生は京介の手の甲に自分の手を乗せ、言った。

「内耳から出血するほど難しい話が苦手なの、常連さん?」

「おれが苦手なのではない。難しい話をする教師がまちがっているのだ。それだけだ」

「教師はどうまちがっているの?」

「授業をすること自体がまちがっている」

「でも、ここは学校よ。学校は勉強するところでしょう」

 たしかにそうだ。

 でも、そうじゃないんだ!

 枕元に文庫サイズの本が置いてあった。京介はぼんやりと手に取り、表紙の女の子を見つめ、ぱらぱらとめくった。

「その本はなに?」

「おそらく歴史の本だ」

 京介は保健の先生に表紙を向けた。

 先生はわずかに顔をしかめた。

「この本の人物は、全員高校生だ。だがまるで勉強していない。教師すら出てこない。ひたすら無意味なことをしゃべりつづけているだけだ。こいつらは、これで高校を卒業できるのか。かつてはこのような時代があったのか」

「そうよ」

「すばらしい時代だ。すばらしい世界だ」

「そのすばらしい世界を取り戻すためには、どうすればいいと思う?」

「わからない。おれはバカだ。なにも思いつかない」

「あなたはバカじゃない」

「いいや。おれはバカだ。思い知ったのだ。今日、教科書を持たず、教師に宣戦布告し、真正面から授業を浴びた。そして理解したのだ。やつらは賢い。教師は賢い。賢いだけでなく、IWGPベルトも持っている。どうすれば打ち勝てるというのだ。勝てるはずがない。ならばこれ以上耐えて、なんになる。結局、世界を変えることなどできないのだ。おれはバカなのだ。やつらの言うとおり」

 言うたびに惨めな気分になり、目の端から涙がこぼれた。急いで寝返りを打ち、保健の先生に背を向けた。

「これは汗だ!」

「聞いてもいないんだけど」

「放っておいてくれ。今日はここで寝て過ごす。放課後になったら起こすのだ」

「ひとつだけ言わせて」

「なんだ」

「あなたはバカじゃない。わたしは東京学芸大学教育学部養護教育教員養成課程を卒業後、慶應義塾大学大学院で政策・メディア研究科を修了しただけの落ちこぼれだけど、あなたがバカじゃないことはわかる。あなたはただ、IQから期待される力よりはるかに低い学業成績を示しているだけなの。そうなんでしょう、アンダーアチーバー京介くん」

 京介は目をこすり、振り向いた。

「なぜおれの通り名を知っているのだ」

「あなたはひとりじゃない。すでに気づいているはずよ。あなたはあの日、元港区長の武井雅昭氏と出会った。スパム営業の上原アリシャと出会った。IQを測定し、ラノベール?錠を過量に処方した医師がいた。カレーパンを与えたお父様が、SL広場のマダムSLがいた」

「なぜ知っているのだ」

「知っているからよ」

「先生は味方なのか」

 保健の先生はうなずいた。

「ならば、力を貸してほしい。おれのいないところで思わせぶりに『世界を変えるのよ』などと言うだけではなく、具体的な案を授けてくれ」

 悲しげに首を振り、言った。

「大人は、あなたの力にはなれない」

「なぜだ」

「〈大人〉だからよ」

「なぜ大人は力になれないのだ」

「とにかく、そう決まっているのよ。世界を変えることができるのは、17歳の男子高校生とその〈仲間〉たち。そう相場が決まっている」

 仲間。

「その仲間も、17歳の高校生限定なのか」

「ううん。〈仲間〉はもう少し、幅が広いの。ひとりくらいなら中学生を混ぜてもいいし、高校生ではない19歳がいてもいい。でも、やっぱり(主人公)は17歳ね」

 京介は上原アリシャのハーフ顔を思い出した。病的なまでに自分の年齢を気にしていたが、あれは個人的に抱えている問題ではなかったのか。

 かつてのすばらしい世界を知っていたのか。

 ほかの大人たちも。親父も。

 京介は言った。

「大人を味方につけた場合、どうなるのだ」

「世界は即刻、闇に包まれるでしょう。というか、なかったことになる。つまり〈打ち切り〉よ」

「打ち切りとはなんだ」

「ひとつ、忠告していい?」

「なんだ」

「目つきの悪さを前髪で隠すのよ」

「なぜだ。おれの目つきは悪くない」

「だとしても、ぜひ前髪で隠すべきよ」

「目つきの悪さを隠せば世界を変えられるのか」

「そうよ」

 保健の先生は身を乗り出し、力を込めて京介の手を握った。

「ひとりで背負い込むことはない。〈仲間〉とともに世界を変える、それは決して軟弱なことではない。それに、ひとりでは〈無駄な会話〉もできないし」

「無駄ならしなければいいだけではないか」

「とにかく、〈仲間〉は絶対に必要。そしてその〈仲間〉は、あなたが決める。ふつうはプロット段階でガチガチに決められているんだけど、あなたの場合はまだ決まっていないようだから。決めるとしたらいまのうちよ。さあ、考えてみて。どんな〈仲間〉が欲しい?」

「逆にどんな仲間ならいいのだ」

「これ以上は伝えられない。これ以上助言したら、わたしが〈仲間〉になってしまう」

 いまいちルールがつかめないのだが、とにかく仲間について考えてみた。すると考えごとをさせられそうになった脳がさっと頭蓋骨の隅っこに縮こまり、頭を抱えて震え出した。わからない、思いつかない、どうでもいい、と口にしかけ、その軟弱な答えに嫌気がさした。無理やり言葉を飲み込み、とにかく考えた。考えに考え抜いた。世界を変えるための、仲間。

 そのとき。

「世界を変えるのよ」

 耳元でささやく声を聞いた。女子の声だった。

 肩を貸し、ここまで運んできたのだ。そのか弱い腕で、おれの血と汗とゲロにまみれながら。教師ににらまれ、おのれの将来、おのれの推薦状を棒に振ることもいとわずに。

「あの女子は、仲間だろう」

「そうよ! 女子!」

 保健の先生が興奮して叫んだ。

「めぼしい子がいるのね? その女の子は、どんなルックスなの?」

「わからない。顔も知らないのだ」

「好都合よ! 顔はまあふつうに美人だとして、ヘアスタイルは? 髪色は? 服装は? 胸のカップは? 属性は? ブラコンの〈妹〉? ドイツ人の〈ハーフ〉? 謎の〈転校生〉? 報われない〈幼馴染み〉? やっぱり〈ツンデレ〉?」

「一体なにを言っているのだ。顔だけでなく性格も髪型も知らない」

「だからこそ、あなたが決めるのよ。そうすればその子は、あなたの妄想どおりの姿であらわれる! さあ、ここで決めて!」

 京介は保健の先生の正気を不安視しはじめた。

 だがここは先生のシマなので、とにかく答えた。

「髪色は、黒か茶か、せいぜい金だろう。それ以外はあり得ない」

「ふふ。意外と古風なのね」

「とりあえず妹ではない。それだけははっきりしている」

「いいのよ、〈妹〉でも。お兄ちゃんが好きで好きでたまらない〈妹〉。最高よね」

「ツンデレとはなんなのだ」

「ギャップ萌えよ」

 説明によってよけい混迷の度を深めたが、とにかく京介は「あの女子」について考えていた。考えてどうなるものでもないのだが、それでも考えた。

 結局、顔を見ることもかなわなかった。どんな子なのか。どんなルックスなのか。あの声、あのにおい、あの感触を思い出す。気になる。気になりすぎる。

 京介の脳内で4600のIQが火花を散らし、脳が焼け焦げるほどの衝撃が頭蓋骨を揺るがした。女子はこうあってほしいという理想がもやもやとかたちづくられ、やがてイメージが結晶した。

 ラノベをひっつかみ、表紙をにらみつける。

 そう、こういう女子だ。

 こういう女子が必要なのだ。

 理由もなく自分が大好きで、いつなんどきでも求めに応じ、服を脱ぎ、卑猥なポーズを取ってくれる、こういう女子。

 現実ではないと思っていた。

 だが。これが現実なら?

 おれはなにを求む?

「決まったのね?」

 京介は力強くうなずいた。

「おれの仲間となる女子は、この表紙のように、美人でなければならない」

「そうよ!」

「必ず美人でなければならない。あり得ないほど美人でなければならない。なぜならおれに選ばれるからには、選ばれるに値する特筆すべき長所が必要だからだ。そして女子の長所といえば、ただひとつ。ルックスだ」

「根拠なき自信と女性をひとりの人格として見なさないその態度、クズを通り越してゲスね! でも、それでいいの! そのままつづけて! 属性は?」

「資産家の令嬢でなければならない」

「すばらしい! ちなみになぜ資産家令嬢の〈テンプレ〉を選択したの?」

「そのテンプレの意味はわからないが、関東第一高校を倒すのであれば、莫大な資金が必要となるだろう。だから資産家を選んだのだ」

「そこは冷静だったのね」

「そして、髪色はアッシュブラウンでなければならない。必ず」

「いいんじゃない? 〈絵師〉が困惑しそうだけど」

「頼むから専門用語はやめてほしい。とにかく、その女子はアッシュブラウンでなければならないのだ。ちなみにこれは完全におれの好みだ。要約すると、おれの〈仲間〉は、女子で、美人で、資産家の令嬢で、髪色がアッシュブラウンだ。以上だ」

「なぜそういう子がいいなーと思ったの?」

「それは」

「それは?」

「つまり」

「つまり?」

 つまり。


   ◇


 そのころラノベ天上界では、神がチリ産デイリーワインを傾けながら、保健室の様子を苦々しげに見下ろしていた。

「おい。あいつ、ようやく〈ヒロイン〉に気づいたぞ。なぜラノベをちゃんと読もうとしないのだ。読めばすべてが書いてあるというのに。なぜぱらぱらとめくり、ところどころをつまみ読みし、表紙や文中イラストを眺めるだけなのだ」

「活字が苦手なんすよ」

 ガブリエルが言った。

「てか〈大人〉たち、ちょっと出しゃばりすぎじゃないすかね」

「一線を越えかけたら、おれが〈海外〉へ飛ばす。それより岸田京介だ。なんの取り柄もないのは結構だが、頭が悪すぎるのも困りものだな」

「でもあいつ、IQ4600っすよ。バカじゃないっすよ。なんで勉強、あんなに苦手なんすかね?」

「アンダーアチーバー、それこそが岸田京介を選んだ理由だ。普段はバカだがIQは高い。つまりやつは、〈主人公〉としてなんでもありってことなんだよ。秘められし能力が途中で開花しても、IQを理由にできる。『なんでいきなり覚醒するんだよ』『いやいや、もともとIQ高いんで』とな。いちいち説明を考える手間が省けるだろう」

「そっすね」

「IQなら納得しやすい。みんなIQは大好きだからな」

「ところであの女子、だれっすかね。授業のたびに京介を助ける、あの女の子っすよ」

「おれも気になっていたところだ。柔らかさの中に凜とした気品を兼ね備えるあの女子は、おれの計画にはなかった。前港区長の武井雅昭、スパム営業の上原アリシャと同じ、ただの〈端役〉だったはずだ」

「神のご意志、伝えに行きます?」

「いや、いい。放っておけ。それよりガブリエル、そろそろラノベをはじめようじゃないか。やつの向かっている第11校舎ヒルズに、あらかじめ〈ヒロイン〉を何名か忍ばせておいたんだよ。どれもゴリゴリのテンプレ〈ヒロイン〉だ」

「爆乳と貧乳、どっちを選びますかね?」

「下品な言い方はよせよ。ま、本命と出会う前のウォーミングアップってところだ。今後延々とつづくラノベ展開に慣れてもらわなければならないからな」

「手間がかかる〈主人公〉っすね。ほかの〈主人公〉なら、冒頭の3行目で添い寝してるのに」

「結果と原因にこだわる性格なのだろう。こうなったらこちらも忍耐だ。それより岸田京介と直接話す必要がある。スマホと電話帳を持ってこい」

「了解っす」

 ガブリエルが姿を消したあと、神はチリ産ワインを飲み干し、忌々しげに言った。

「目上に『了解』って言うな。ゆとりが」

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