第9話 関東第一高校 新橋駅・環状2号線周辺地区

 翌日の日曜、午前5時30分。京介は恐るべきスキナー箱からプラスドライバー一本で脱出した。

 限界まで散瞳した目で見まわし、生まれたてのキリンのようによろめいた。何度か畳の上に転げたあと、どうにか起立し、寒々とした仏間に両足を踏ん張りながら体機能の回復を待った。

 もやのかかった視界が開ける。京介は顔を上げ、仏壇を見た。仏壇の上には遺族の写真が並んでいる。遺影のひとつに目が留まる。痛ましいほどに若々しい顔が、写真の奥から京介を見下ろしている。

 長い頭髪を左右の中央でまとめた特徴的なヘアスタイルをした少女が、眉間にしわを寄せ、ぷーっと頬を膨らませている。妹は当時、12歳だった。そしていまなお写真の中から、永久に年経ることのないふてくされ顔で、京介にがみがみと小言を言いつづけるのだ。

「まったくもう! お兄ちゃんのねぼすけ! 遅刻しても知らないんだから!」

「着替えの最中は入ってこないでって言ったでしょ!」

「きゃっ。ご、ごめん。お風呂に入ってたなんて、気づかなかった、から」

「またソースこぼしたあ。しょうがないんだから! ほら、拭いてあげるから、もっとこっちに寄って」

 ああ、ここに妹がいてくれたら。きっとおれの味方になってくれたはずだ。ふたりきりで朝食をともにできたら。どたばた漫才を繰り広げられたら。寝起きバトルを繰り広げられたら。

 どれだけか展開が楽になったことだろう。

 だが、妹はいない。妹に頼ることはできないのだ。

 京介は写真を見上げ、心の声で語りかけた。

 兄ちゃん、勉強しないからな。

 世界を変えてみせるからな。

 京介は大股で台所に向かった。それぞれの思惑で目を合わせようとしない両親をひととおりにらみつけたあと、朝食も採らず、リュックも持たず、手ぶらで家を出た。

 教化32年現在、高校生に土日祝日は存在しない。文字どおり365日、正月もクリスマスもイースターも過越の祭りもない。高校生にとっては、ただカレンダーの数字が赤くなっている日というだけにすぎない。

 高校生は勉強しなければならない。


   ◇


 新橋駅日比谷口のSL広場は、かつて中年サラリーマンの聖地だった。居酒屋や電気屋や消費者金融のビルが建ち並び、夜の街にいかがわしげなネオンを輝かせる。そして広場は、見渡すかぎり酔っ払いの波、波、波! 金曜の夜には14万8000人のサラリーマンが、頭にネクタイを巻き、スーツをはだけ、肩を組み、千鳥足で広場をのたくった。卑猥な歌声が、不明瞭な言語が、すえたにおいのする空気に充満する。ある者は大の字で寝そべり、ある者はすわり込み、ある者はある者と互いに吐瀉物をかけ合った。小便をかけ合った。トイレにたどり着けず、ブリーフ直に脱糞する者もいた。朝の広場はもはやトイレだった。防護服を着た清掃員が、火星に降り立った宇宙飛行士のように無人のSL広場を歩き、ゲロの海からネクタイを拾い上げた。

 ああ、なんと嘆かわしい! 「前後不覚のサラリーマン」は、バブル期から暗黒のゆとり時代までのいわゆる「失われた30年」と呼ばれた最大の象徴であり、同時にかつての港区衰退の最大の原因でもあった。

 だが。超高度教育政策の強力な推進によって実現した超高度経済成長のまっただなかである教化32年現在、SL広場にはサラリーマンの姿も突撃街頭インタビューの姿も一切見当たらない。居酒屋をはじめ金融業者、家電量販店はすべて撤退し、ゲロまみれだったSLはきれいに磨かれている。そして広場は、見渡すかぎり高校生の波、波、波! 新橋駅・環状2号線周辺地区でその希望に満ちた顔を輝かせるのは、関東第一高校の2年生14万8000人だった。

 その中でただひとり、顔が希望に輝いていない者がいた。

 高校2年生の波をかきわけ、広場を中央に向かって突き進む。その先にはSLが鎮座ましましている。ちなみに旧SL広場は教化12年に第5次広場事業と称して大拡張が行われていた。駅前から日比谷通り以東の400平方メートルの街区にごちゃごちゃと立ち並ぶみすぼらしい業務ビルや店舗、小規模な作業場や倉庫、住宅、公共公益施設などの建物をすべてブチ壊し、天安門広場3分の1ほどの空間を新たに駅前広場としてしつらえた。なぜそのような拡張をしたのかは言うまでもないだろう。登校数14万8000人はハワイ州の人口とほぼ同じだからだ。

 京介はSLの前に立ち、かっこいい車体を見上げた。その後景には、かつてLABI新橋と呼ばれた建築物がいじめられっ子のようにぽつんと屹立している。現在、ビルの壁面は掲示板として利用されていた。

 京介はSLとしばし魂の会話を交わした。

「元ミナト区長の言うとおりだ。たしかによく考えてみれば、区全体を高校にするのはまちがっている」

「どっちもどっちよねえ」

 SLが答えた。声音は女神アテーナーを思わせたが、場所柄か口調は水商売を思わせた。

「かつてのサラリーマン、そりゃひどかったんだから。いま、わたしは幸せ。こうして毎日、夢と希望に満ちあふれた高校2年生の顔を見ることができるんだもの」

「おれの顔は夢と希望に満ちあふれていない」

「ご愁傷様」

「そして二度と勉強しない。妹に誓ったのだ」

「亡くなられた〈妹〉さんね。お気の毒に。でも、あなたの直感は正しい。教科書を持たずに授業へ臨み、教師と真正面から向き合い、なおかつ勉強しない。決意を態度で示せば、必ず賛同者があらわれる。そう考えたのよね?」

「そのとおりだ」

「さすがね。さすがよ、岸田京介くん」

「あまり褒めないでほしい。褒められると疑念を抱いてしまうタイプなのだ」

「ノブレス・オブリージュって言うじゃない? 勇者に褒め殺しはつきものなの。責任と言っても過言じゃないんだから。〈主人公〉として、いまから慣れておかないとね。わたしの忠告、聞きたい?」

「頼む」

「あなたはこれからしばらく、ひとりで暗い小径を歩むことになる。味方はだれもいない。女の子もしばらく出てこないでしょう。イカレた口調の〈親友〉も、胸躍る〈転校生〉も、なぜか絶大な権力を持つ〈生徒会長〉も。そこにはただ、退屈で専門的で難しい授業が展開するのみ。でも、あきらめないで。あなたは耐えなければならない。なぜなら理由もなく、または〈幼馴染み〉などのてきとうな理由で、安易に女の子を出すのはまちがっているからよ。冒頭1ページ目から『京介くーん』だなんて、ありがたみもなにもない。そうでしょう? 〈出会い〉とはもっと、みんなが考えるよりもっと、大切なものなの。出会いがすべてといっても過言ではないのよ。本来は、もっと紙幅を割き、〈出会い〉の課程を丁寧に描くべきなのよ」

「後半なにを言っているのかわからないが、おれの頭の中はいま、不安に充ち満ちている。教科書なしで、1日でも耐え切ることができるだろうか、と」

「なにを弱気なことを。あなたはただ、耐えるだけではない。そうでしょう? 堂々と授業に立ち向かい、あなたの決意を教師たちに宣言しておやりなさい。あなたはいま、ひとりきり。でもいずれ必ず、あなたの決意を知り、あなたと志をともにする〈仲間〉があらわれる。かなり先のことだけど、それまでは耐えるのよ。耐えた者だけが勝利を、女の子をつかむことができるんだからね。『ようやく出会えた』というありがたみがちがうんだからね」

 やはり後半なにを言っているのかわからなかったが、京介はとりあえずうなずいた。SLに決然と背を向け、3両連節の送迎バスに向かって駆け出した。

 SLは背中を見守り、タバコの煙を煙突から吹き出し、つぶやいた。

「世界を変えるのよ、アンダーアチーバー京介。あなたならできる。きっとできるんだからね」

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