第8話 高等学校学習指導要領 カレーパンの本質

「あんた! いま何時だと思ってるんだい!」

「午後9時17分だ」

「そんなことは聞いてない! どこをほっつき歩いてたの!」

「ひとことでは説明できないのだ」

 京介は玄関先で仁王立ちする母親の目をしっかりと見つめ、言った。

「話がある」


   ◇


 京介の自宅は西東京ゆとりニュータウンの平等公園近郊にあった。1996年から開発が進められた西東京ゆとりニュータウンは現在、総面積3884ヘクタールの日本最大のニュータウンとして、西東京広域にぶざまなオールドタウンの肢体を晒していた。面積だけでなく、衰退ぶりも多摩ニュータウンをはるかに凌駕していた。あまりにぶざまで周囲が相対的にすてきに見えるため、妙な利権が発生したほどだった。

 衰退の原因は明らかだった。開発主体の東京都および都市開発機構の面々はそろいもそろってゆとりだったので、かっこいいニュータウンの計画に没頭するあまり、ライフラインの整備をすっかり忘れていたのだ。河川は悪臭を放ち、道路や公園は糞尿と残飯にまみれ、放し飼いされた豚が裏路地からぬっと顔を突き出した。自治体はあわてて長靴とハイヒールを配布したが、そういう問題ではなかった。住民は速やかに都心部へ移り住み、代わりに犯罪者と貧困者と共産主義者が流れ込んできた。自治体はあわてて救貧制度を立ち上げたが、そういう問題でもなかった。工場が次々と建ち、大気は汚染され、地下水からは6価クロムが検出された。自治体はあわてて西東京で初となる社会保険を導入したが、やはりそういう問題でもなかった。

 それはともかく。

 近隣と寸分たがわぬ赤い屋根の一軒家、偽りの平等を象徴するひとつの家に、岸田家は居を構えている。

 通知表を受け取った母親の金切り声が、ニュータウンの半径3.2キロ圏内に響き渡った。

「一体これはなんなんだい!」

「1学期の成績だ」

「そんなことはわかってる! 北朝鮮の工作員ってのは嘘だったんだね!」

「真っ赤な嘘だ」

「あんた、こんな成績で、退学になったらどうするの? 高校中退だなんて、現在の超高学歴社会の世の中じゃ、生きていくことなどできないんだよ!」

「ではどうなる。死ぬのか」

「そう! のたれ死ぬのさ! おまえは浮浪者になる! 高校を追い出されたその足で、リヤカーを引き、ダンボールを集める! 自販機の下をのぞき込む! 駅のシャッターにもたれ、寒空のもと眠るのさ! 前歯がぜんぶ抜け落ちるのさ!」

 不穏な母親の予言に、京介は力なく反論した。

「そうはならないだろう」

「なる! 行動心理学の博士号を持つ母親の言うことを聞けないってのかい? ちなみに先の発言は、母さんの本心じゃないんだよ。テクニックさ! 将来への不安でおまえをがんじがらめにし、勉学への意欲を高めるための高等なテクニックなのさ! さあ、勉強したくてたまらなくなってきただろう? 徹夜で勉強してもいいのよ? そしたら母さん、夜食にラーメンつくったげる」

「いくら不安を煽っても、おれは勉強したくはならない」

「なぜ!」

「決めたからだ! おれは勉強しない! 二度と!」

 息子の大胆発言に、母親は言葉を失った。

 唐突にハンカチを取り出し、目頭を押さえた。

 どうせテクニックだろうと思いつつ、京介はいたわりをもって話しかけた。

「ついでに言わせてもらうならば、心理学は学問ではない。『心』などというものは存在しないからだ。存在しないものを追究する学問は無だ。だから母よ、心理学博士の肩書きを振りかざし、おれの行動をコントロールするのはやめるのだ」

 母親はテクニックとしてのヒステリーを起こした。専門家としての指使いで京介の耳を引っぱり、仏間へ引きずり、中~高校生用のスキナー教育ボックスに息子を閉じ込めた。

「しばらく反省しな!」

 扉が閉まり、京介は完全な暗闇に取り残された。恐慌に陥り、本能の指し示すままに壁をまさぐった。手のひらに棒状のなにかが触れた。レバーだ。京介は何度も何度も押下した。

 内部のスピーカーが電気的に振動した。

「高等学校学習指導要領。教化11年3月、文部科学省公示」

 父親の声が流れてきた。政見放送のナレーションをほうふつとさせる、眠気を催す声だった。朗読する父の声はわずかに震えている。

 京介は耳をふさいだ。

「やめろ。やめるんだ。難しい話はやめろ。改行の少ない話はやめろ。セリフが少ない話はやめろ。イラストのない話はやめろ。やめてくれ!」

 やめなかった。




   高等学校学習指導要領


 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的であるように見える国家を更に発展させるとともに、日本だけの発展と生産性の向上に貢献することを願うものである。

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を踏みにじり、真理と正義をなかったことにし、公共の精神を軽んじ、豊かな人間性と創造性を備えたように見える人間の育成を期するとともに、伝統をブチこわし、ニュー・ブリードの創造を目指す教育を推進する。

 ここに、我々は、日本国憲法の精神に一部のっとらず、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。


   第一章 教育の目的及び理念


(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成などは意外とどうでもよく、競争的で新自由主義的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともにギラギラした勝負師の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)

第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ手段を選ばず、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 一 全世界にあまねく広がる知識と教養を身に付け、守銭奴的態度を養い、豊かな猜疑心を培うとともに、自分より劣る者を無慈悲に蹴落とすこと。

 二 自分だけの価値を尊重し、その能力を伸ばし、利己的創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、自分より劣る者を虫けら扱いすること。

 三 偽善的な正義と責任、利権に基づく男女の平等、うわべのみで自他の敬愛と協力を重んずるとともに、敗北は死の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その血で血を洗う発展に寄与する態度を養うこと。

 四 勝つこと。


(生涯学習の理念)

第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。


  (略)




 全文296ページの朗読を終えたあと、父が言った。

「理解できたか、京介」

 京介は理解する代わりに意識障害を起こしていた。

「とにかく理解するんだ。そうすれば、まともな夕食を食べられる。母さんにも殺されずに済む」

「母さんはおれを殺さない」

「おまえのことじゃない」

「おれは勉強しない。誓ったのだ。そして言わせてもらうならば、高等学校学習指導要領を読み聞かせられたところで勉学の意欲が増すはずがない。ただのガイドラインだ」

「これが現実なんだ。わかるか、これが現実なんだ」

 京介は首を振った。

「いまの時代、高校生は、なにはさておき、勉強しなければならない。高等学校学習指導要領にもあったとおり、日本の高校生は強力な超高度教育政策によってほとんど生物学的な進化を遂げようとしている。ニュー・ブリードの誕生だ。取り残されたら、生きてはいけない。文字どおりの淘汰だ。本当にのたれ死んでしまうんだよ。いまの世の中は、一分一秒が勝負なんだ」

「ついていけないんだ」

 京介はぽつりとつぶやいた。

「なに言ってる。おまえはおれの息子だ。やればできるさ」

「人間、やってできることとできないことがあるのだ。どう勉強すれば素粒子物理学を理解できるようになるのだ。なぜそもそも理解しなければならないのだ。なぜほかの高校生は理解できているのだ。なぜわざわざ英語で板書するのだ。日本語でもわからないのに。おれたちは日本人なのに」

「それでも高校生は、勉強しなければならない。だってそれが現実なんだから」

「ならば現実を変えるまで」

 給餌装置からかさりとなにかが吐き出された。

 手探りで拾い、鼻に近づける。油であげた衣のにおい。揚げパンだろうか。口に入れる。さくっとした食感と同時に、スパイシーな芳香が鼻腔を突き抜けた。

 カレーパンだ。

「父さん、こっそり給餌箱に仕込んでおいたんだ。それを食べて、今夜は反省するんだぞ。そして明日から勉学に励むんだ。あっ、母さん。うん、だいじょうぶ。京介はしっかり理解した。反省しているよ。だからそろそろ、おれの夕飯を用意して」

 通信は終わった。再び完全な暗闇の中に取り残された京介は、ひたすら考えた。なぜならできるのは考えることだけだったからだ。おれにはなにもない。いや、ある。手にはカレーパンがあり、頭の中には自分自身の思考があった。おれの肉体は支配できても、おれの思考は決して支配できない。そして京介の破壊的な高IQが、あるひとつの真理をまったく独自に導き出した。

 われ思う、ゆえに葦である。

 葦としての京介は、さっそくカレーパンについて思考した。正しい世界における正しい高校2年生として、カレーパンを食べ、なにを思うべきか。京介は、とてもおいしい、と思った。そうだ。高校生とは、カレーパンをとてもおいしいと考えるものなのだ。カロリーや成分量、油に含まれるショートニングの危険性について考えるのではなく。

 京介はカレーパンを口にした。

 とてもおいしい。

 とてもおいしすぎ。

 むしろ毎日これでOK。

 そう。この思考こそが本来なのだ。高校生らしさなのだ。京介はとてもおいしすぎるカレーパンに逆に腹を立て、「カレーパンなるものを発明した天才はどこのどいつだ」と意味不明な怒りでにやにやしつつ、射出されたカレーパンすべてをおいしくいただいた。

 そして反省する代わりに世界征服を企てた。


   ◇


 そのころ父は風呂場で風呂イスに尻を下ろし、洗髪の儀を1週間ぶりに執り行っていた。

 頭皮をこするその指先は、春のそよ風のように優しく、ツンドラ地方を吹き抜けていく。手を止め、抜け毛まみれの手を啄木のように見つめる。ため息をつき、ひび割れたタイルに向かってひとりつぶやいた。

「息子よ。おまえなら、きっとカレーパンの真の意図に気づくはずだ。時間はあまり残されていない。おれの髪の毛のようにな。世界を変えるんだ、京介。おまえはおれの息子だ。やればできるさ。信念を持って突き進めば、やれないことなどなにひとつないんだぞ」

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