第6話 登場すべきではなかったキャラその2 26歳OL

 午後7時25分、京介と上原アリシャは大手町パークビルディングに入り、上品に静まり返る地下1階を並んでこつこつ歩いた。タリーズコーヒーの看板が見えると、上原はやや怒ったようなハーフ顔で京介を見上げ、言った。

「なに飲む?」

「アイスカプチーノだ」

「さすがは岸田京介くん」

「なにがさすがなのだ。コーヒーを選んだだけだろう」

「ふたりぶん注文してくるから、席、取ってて。あの壁際の席、あそこで少し、話をしましょう」

 上原は店内へ顔を向け、きれいな横顔を京介に見せた。ハーフというだけあり、つんと尖った鼻は遺伝子レベルで日本人離れしている。

 なぜ名前を知っているのか。

「あ、そうだ」

 上原は突然スカートを押さえてしゃがんだ。ラインを読む女子ゴルファーのように中身が見えない体勢を維持しつつ、ハンドバッグからバナナの皮を取り出し、ポリッシュされた床にそっと置いた。お昼用バナナの成れの果てなのか、かなり黒ずんでいる。

「なにをやっているのだ」

「いいからいいから」

 上原は店内に入り、レジカウンターでオーダーした。京介はバナナの皮を慎重にまたぎ超え、店内に入った。そもそもスパム営業の女が自分になんの用があるのか。たずねる機会を失したものの、スーツを纏ったセクシーな後ろ姿を見て、まあいいかと思った。

 元区長よりはマシだろう。いずれにせよ。

 ハーフの指示どおり壁際の席に向かい、どさりとソファに腰を下ろす。腕組みをし、店内を見まわす。照明は上品に薄暗い。客は3人。中年丸の内サラリーパーソンが1組と、これ見よがしにマックブックを開きフリーで仕事してます感を周囲にエンゲージする意識高い系ノマドワーカー1匹のみだった。

 ふいに京介は文庫本を思い出し、リュックから引っぱり出した。テーブルに置き、表紙をじっと見つめる。雑な扱いをしたせいでページの角が折れ、たわみ、表紙はコーティングに傷がついていた。

「お待たせ」

 上原アリシャがトレイを手にあらわれた。テーブルに置き、隣に腰を下ろす。

「はい、アイスカプチーノ」

「いくらだ」

「いいのいいの。4100円だけど、気にしないで」

 上原はスマホをチェックしたあと、スプーンを取り、ストロベリークリームフラペチーノ®のクリーム部をすくい、つやつやした口を開け、慎重に招き入れた。

 正体不明の違和感を覚えつつ、京介はグラスを取り、生涯初のアイスカプチーノの泡をおそるおそるすすった。その効能はまさにコーヒーのそれだった。さらに優しい牛乳パワーによって、先ほどまでの病的な興奮状態が洗い流される心地がした。

 だが。

 京介は泡を見つめながら言った。

「コーヒー1杯4100円もするのはまちがっている」

「そのとおり。さすがね。さすがよ、岸田京介くん」

「なぜ先ほどからおれを持ち上げつづけているのだ」

「少し質問してもいい? あなたの適正を確かめたいの」

 京介はなんとなくうなずいた。

「10年前、タリーズコーヒーのアイスカプチーノは410円だった。なぜ10年のあいだに10倍も値上がりしたと思う?」

「わからない」

「日本経済が急成長を遂げたからよ。ではなぜ急成長を遂げたと思う?」

「わからない」

「全要素生産性が急上昇したからよ。なぜ急上昇したと思う?」

「わからない」

「日本の超高度教育政策が功を奏したからよ。なぜ超高度教育政策が日本経済に影響を及ぼしたと思う?」

「わからない」

「つまり、わからないのね、なにもかも」

 京介はうなずいた。

 上原はにっこりと笑い、言った。

「合格よ」

「なにに合格したのだ」

「あなたの適正はわかった。あなたはたしかに、世界を変える資格がある。すなわち、高校2年生にしてマクロ経済学のマの字も知らない、現在の超高学歴社会におけるスーパー〈劣等生〉。あるべき世界における、モテない冴えないなんの取り柄もない、ごくふつうの高校2年生」

「あるべき世界」

「そう。その世界では、だれもが勉強せず、遊び呆けている。男女はひたすら〈無駄な会話〉に終始し、うまい返しが思いつかないときは『…………』のみで済ます。1日10回も20回も肩をすくめたり眉をひそめたり苦笑したりする。なにかが爆発すれば『ドカーン』、剣が交われば『キンキンキン!』」

「つまり、この世界か」

 京介は本を取り、上原に表紙を向けた。

 上原は表紙を見、わずかに顔をしかめた。

「そう。その世界」

「ではどうやって世界を変えればいいのだ。具体的な方法は知っているのか」

「まあね」

「教えてくれ」

「その前に、もうひとつ質問」

「なんだ」

「わたし、かわいい?」

 京介は上原の問いを聞き返した。

「26歳はおばさんじゃない。だよね?」

「もちろんだ」

「みんな好きになってくれるよね? なんたって〈ハーフ〉だし」

「みんなとはだれのことだ」

「〈仲間〉に入れてくれる?」

「よくわからないが、いいだろう」

「よっしゃ」

 上原は鼻背に軽くしわを寄せるタイプの笑みを浮かべ、小さくガッツポーズした。自分へのご褒美とばかりに、大きく口を上げ、フラペチーノ®のクリームをるんるんと招き入れる。

 京介はフラペチーノ®の容器とロゴに目をやり、先ほどまで感じていた漠然とした不安が蘇った。

「店内を見て」

 上原はスプーンの先を店内に向け、言った。

「ここスターバックス大手町一号店の店内を見まわしても、だれひとり、世界がまちがっていることに気づいていない。あの丸の内サラリーパーソンも、意識高いノマドワーカーも。いまのところ気づいているのは、あなたとわたしだけ」

「前区長も気づいていたようだが」

「あの人は、まちがって出てきちゃっただけなの。ごめんね、残業が長引いちゃって」

「そうなのか」

 そのとき。

「京介?」

 高校生らしき女子の声が、店外から聞こえてきた。京介はハーフの頭越しに出入り口を見やった。聞き覚えのない声だ。見覚えがないであろう顔が不鮮明なガラス越しに見える。歩きながら手を振り、入り口を目指している。

 いや、あれは。

 たしか、同じ2年の。

 名前はたしか。

「奇遇ね、こんなところで偶然ばった」

 見覚えのない女子高校生はセリフを言い終えることなく、あらかじめ床に置かれていたなにかに足を取られた。右足のつま先を高々と天井に向け、両手を振りまわしながらつーっと廊下を滑っていった。

「あわわわわ」

 3秒後、突き当たりの壁にぶつかったと思われるどしんという音が聞こえた。

 上原は京介の髪をつかみ、無理やり自分に顔を向けさせた。

「元凶は関東第一高校よ」

「なぜバナナの皮を置いたのだ」

「なんのこと? とにかく、現在の超高度教育はまちがっている。ギリシャ語は習ってる?」

「当然だ。ギリシャ語は高校2年の必修科目だ」

「当然じゃなかったのよ、かつての高校ではね」

「つまり関東第一高校を倒せば、本来あるべき世界に変えられるのだな」

「ふたりで高校を倒すのよ。その前に、念のため通知表を見せてくれる?」

 京介は反射的に身を引いた。

「なぜだ」

「なぜ? なにがなぜなの? あなたとわたしの仲でしょ? わたしはただ、選ばれし者であるあなたのしるしを、この目で確かめておきたいと思っただけ。悲惨な成績を見て笑い転げようというわけじゃない。念のためよ。念のため」

「断る」

「ちょうだい」

 上原はいきなり腕を伸ばし、反対側に置かれたリュックを京介越しにつかんだ。京介は急いで上原の腕を取り、リュックから手を引きはがそうとした。どういう執念なのか、柔らかな手はとてつもない握力でリュックのふたを握ったまま、スッポンのように食いついて離れない。上原はもう一方の手の伸ばし、京介の手首をつかみ、ぎりぎりとねじり上げはじめた。京介は防御に集中できない。なぜならスーツの奥に眠る豊かなハーフ胸が、ずっとおのれのみぞおちから脇腹付近にかけて密着しているからだ。最終的に上原は、酒癖の悪いキス魔のOLよろしく京介に覆い被さり、ほぼ完全に押し倒していた。

 ノマドワーカーがマックブックから顔を上げ、意識が高そうな濁った目で狼藉の様子を見つめていた。

「わかった」

 上原はついに手を離し、上体を起こし、降参といった感じで両手を掲げた。まとめ髪のほつれ具合はすでに社会人失格の様相だった。京介の股間付近にまたがる体勢は営業以外の職業適正を示唆している。

「あなたが嫌がる理由はよくわかっている。わたしはたしかに、26歳。今年の10月で27歳になる」

「26歳だから嫌がっているわけではないのだ」

「でも、特殊能力『スパム広告』は、あなたのサポートに最適よ。そう思わない?」

「スパムは能力ではなく犯罪だ」

「いいえ。スパムは必ず役に立つ。あなたの冒険の役に立つ。いいじゃないの、ひとりくらい〈大人〉が混じってたって。そんなに〈大人〉がイヤなの? 〈ハーフ〉でもダメ? そうか、〈美人すぎる叔母〉ならいいのか。でもわたしと京介くんとのあいだに血縁関係はない。いいえ、言わなければだれもわからないはず。そうよ、描写しなければいいのよ! だれがなんと言おうと、わたしは〈叔母〉よ! 〈叔母〉で〈ハーフ〉なのよ!」

「だれに対して怒っているのだ」

 急にしょんぼりと肩を落とした。ちなみにまだ股間の上にまたがっている。

「そっか。あなたもほんとは、おばさんじゃイヤだと思ってるんだ。だよね。みんなそう。ごめんね、気を遣わせちゃって」

 はーあ、とため息をつき、膝立ちでソファの上をなまめかしく後退し、京介からちょっと離れた位置に腰を下ろした。

 フラペチーノ®をスプーンでつつきはじめた。

 あまりに寂しげな横顔に、京介は言葉を選びながら話しかけた。

「その葛藤の意味するところはなにひとつわからないが、たしかに世界はまちがっていると思う。あなたのおかげで確信に至った」

 上原は顔を上げ、京介を見つめた。

「ほんと?」

「そしておれは、自分が高IQであるにもかかわらず病的なまでに勉強が苦手な、関東ナンバーワンのスーパー劣等生であることも理解した。たしかにおれは、選ばれし者であるかもしれない」

「じゃあ、正式に〈仲間〉にしてくれる?」

「追って連絡しよう。採用の可否は後日だ」

「〈メイン〉で?」

「メインとはなんのことだ」

「絶対に後悔はさせない。わたし、〈水着〉だって似合うし。サービス精神旺盛だし。〈ハーフ〉の〈入浴〉シーン、見たいと思うでしょ?」

 閉店の旨を店員に告げられ、京介は首をひねったまま上原と並んでタリーズコーヒーを出た。上原はなんとはなしに店舗へ振り返り、あっと声を上げた。

 京介も振り向いた。

 2つの店名が奇妙に融合したタリーズバックスコーヒーのロゴが、もの言わず京介を見下ろしていた。スタバ人魚はまるで囚人のように、タリーズ由来の茶色とモスグリーンの縦縞の奥に閉じ込められている。鉄格子をつかみ、悲しげに眉を下げ、京介に訴えかける。

「ああ! こんな企業合併はまちがっている。お願い、京介くん、世界を変えて。そしてわたしをスタバの、フラペチーノ®の海に戻してちょうだい!」

「狂った世界の象徴ね」

「ただの企業合併だろう」

「そうだ。言い忘れていたことが」

「なんだ」

「わたし、〈エルフ〉なの」

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