第5話 登場すべきではなかったキャラその1 元区長(65歳)

「岸田京介くん、こっちだ!」

 京介は声がしたほうへ顔を向けた。

 大手町ファーストスクエアのツインタワー前に、おしゃれな公開空地が広がっている。ちょっとした緑の庭園で、ライトアップされた夜の空間に丸の内サラリーパーソンの姿がぽつぽつとうかがえる。

 老齢の男性が植栽帯のベンチに腰を下ろしていた。京介に微笑みを向け、言った。

「あなたが探しているのは、この本でしょう」

 右手を掲げる。文庫サイズの本を持っている。

「ようやく出会えた。これで世界は救われる。ぼくも救われる。ようやく」

 男は感極まったようにつぶやきながら立ち上がった。植栽帯を無造作に踏み越え、ジャンプし、革靴の底をタンと鳴らして降り立った。

 京介は駅階段にちらりと目を向けたあと、言った。

「どちらさまなのだ」

 男は両手を差し伸べ、まっすぐ向かってきた。逃げる間もなく一気に距離を詰められる。強引に京介の手を取り、まるで選挙を1週間後に控えた政治家のようにがっしりと握手した。

「はじめまして、武井雅昭です。ぼくのことは、覚えているでしょう」

 京介は遺憾ながら首を振った。

「そうでした。きみの世代は、港区を知らない子供たちでしたね」

「ミナト区とはなんだ」

「かつて東京都には、そのような区が存在していたのです」

 京介は無理やり握手を振りほどき、ひとまず距離を取った。

 かなり失礼な行為にもかかわらず、武井は穏やかな笑みをくずさなかった。

「そしてぼくは、港区の区長だったんですよ!」

「ではなぜ千代田区にいるのだ」

「4期。ぼくは4期も勤めあげたんです。悪いこともしなかった。いいこともしなかった。つまり理想的な区の代表だった。そうでしょう? それなのにいまは、このざまだ! どうぞ笑ってやってください、このみじめなぼくの姿を!」

 京介はあらためてこのざまを見た。たしかに大丸有にはふさわしくないなりをしている。残り少ない髪はぼさぼさに乱れ、サイドや襟足は伸び放題だった。グレーのスーツを着ていたが継ぎ当てだらけで、スーツのスーツ性は完全に失われていた。

 武井は老人のわりに軽快な地団駄を踏み、いきなり叫びだした。

「なにもかも、原田の仕業なんだ! あいつめ! 許せない! 畜生!」

「原田とはだれだ」

「現区長だ! 関東第一高校特別区長だ! 諸悪の根源だよ!」

「大人の汚いやりかたで地位を奪われたのか」

「選挙に負けたんだ!」

「では実力だろう」

「ちがう。ちがうんだ、岸田京介くん。きみは、関東第一高校の生徒だ。そうだね?」

 京介はうなずいた。

「疑問に思ったことがあるだろう。何度もあるはずだ。なぜ関東には高校がひとつしか存在せず、しかも港区全域2037ヘクタールのすべてが高校の敷地であり得るのか、とね」

「疑問には思わない」

「なぜ?」

「物心ついたときから関東にはひとつしか高校が存在せず、2037ヘクタールのすべてが高校の敷地であり得っていたからだ。それを当たり前のこととして17年間生きてきたからだ」

「なるほど。さすがは岸田京介くん、当意即妙の答えだ。すばらしい。冴え渡る頭脳だ」

 なぜ4連続で褒められたのかはわからないが、怪しいおじさんということだけはしっかりと認識していた。

「とにかく、その文庫本を返してほしい」

「ん? ああ、これか」

 武井は脇の下に挟んだ文庫本を取り、表紙をしげしげと眺め、わずかに顔をしかめた。

「このようなラノベは、やはりまちがっていると言わざるを得ない。だがこのような世界になってしまった以上、背に腹は代えられないようだ」

 京介に渡した。京介自身もとくに必要だとは思っていなかったが、とにかくリュックにねじ込んだ。

 礼を言って去りかけると、武井は再び京介の手を取り、満面の笑顔を顔面に貼りつけ、なんらかの政治的意図が隠されていそうな情熱をもってがっしりと握り、言った。

「京介くん。ここで出会えたのも、なにかの縁です。そう思いませんか」

「縁ではないだろう。明らかに待ち構えていたふしがあった」

「なんでもいい。とにかく、この腐れきった世界を変えなければならない。ともに変えようではありませんか。ともに戦おうではありませんか。きみはこれから、17歳の高校2年生として、巨悪と戦うおつもりなんでしょう?」

「そんなおつもりはない」

「いやいや。きみはこれから、諸悪の根源である関東第一高校と戦う。そういう宿命を背負っているのだ! 高校の野望を打ち砕くのだ! 港区を取り戻すのだ! そしてぼくは区長の座を取り戻す!」

「区長の座は区民が決めることだ」

「ぼくは、港区のことならなんでも知っています。つまり、ぼくはきみのメンター、師匠になる資格があるということですね。あなたに知恵を授ける〈仲間〉ですよ! ぼくらは互いに背を預け、ともに戦う。きみはその若さと情熱で、ぼくは汚らしい大人の政治手腕で。ではさっそく、通知表を拝見」

 武井は老人とは思えないすばやさでリュックに手をかけた。京介は急いで振りほどき、その流れで武井の肩を押した。

 若者に突き飛ばされた武井は、わずかによろめいたあと、信じられないといった表情で京介を見上げた。

「なにをするんです!」

「こっちのセリフだ」

「ちがう! きみの惨めな成績を見てあざ笑おうというつもりじゃないんです! きみが本当に神に選ばれし勇者なのか、そのしるしを確かめたいんだ!」

「断る」

「なぜです」

「通知表は赤の他人に見せるものではないからだ」

「ひどい成績、それが選ばれし者の証なんだ。学業優等では、世界を変えようというモチベーションにつながらない。そうでしょう? だって、いまの自分に満足しているはずだから」

 夜の大手町一丁目で、高校2年生と元区長はしばらく押し問答を繰り返した。やがて双方の体勢がプロレスの様相を呈してきた。腰を落とし、互いに向き合い、じりじりと円を描くように間合いをはかる。武井は熱に浮かされたような表情で、京介のリュックから目を離そうとしない。

 そのとき。

 スーツ姿の女性がふたりのあいだをかつかつと横切った。

 と同時に、いきなり京介の腕を取り、ぐいと引き寄せた。

「来て!」

 京介はわけがわからないまま、恐るべき力で3メートルほど引きずられた。

「どちらさまなのだ」

 女性は繊細な指先を持ち上げ、手品のように虚空から名刺を取り出し、差し出した。

「こういう者よ」

 京介はどうにか名刺を受け取った。暗闇のなか、斜めによろめきながら名刺に顔を近づけて読んだ。




   株式会社電通スパムクリエイティブ スパコミデザイン部 上原アリシャ




「そういうことよ」

「どういうことなのだ」

「わたしの名前は上原アリシャ。芸名ではない。本名よ。ポーランド人のハーフなの。〈ハーフ〉よ。すごいでしょう。〈ハーフ〉なら完璧よね。そう思わない?」

「なにに対しての完璧なのだ」

「とにかく、落ち着ける場所に行きましょう。あなたに伝えたいことがある」

 京介は武井を思い出し、なんとなく振り返った。5メートルほど離れたところに、対戦相手を失った武井がぼんやりと立ち尽くしている。自分の名前や生年月日も答えられないような状態から突如覚醒し、一歩踏み出し、手を差し伸べ、叫んだ。

「京介くん! どこへ行くつもりだ!」

「上原アリシャに聞いてくれ」

「答えなくていいのよ。あの人はそもそも、この場に登場するべきではなかったんだから。まず出会うべき〈仲間〉は、このわたしだったのよ」

「ふざけるな!」

 声が聞こえたのか、武井が叫んだ。

「おい! そこのOL! 〈ハーフ〉だからっていい気になるなよ、26歳のくせに!」

「あなたこそただの政治家じゃないの。〈仲間〉が政治家だなんて、聞いたことがない」

「だれが26歳なんかに萌えるか!」

「政治をメインテーマにするなんて、そんなの絶対に許さない」

 京介にはふたりのやりとりの意味するところがまるで理解できなかった。

「上原アリシャよ。どこへ行くつもりなのだ」

「とりあえずコーヒーでもどう?」

 武井が突然金切り声で叫んだ。

「ぼくは〈魔法〉が使えるんだぞ!」

 京介は思わず立ち止まり、振り返った。

「本当か」

「嘘だ!」

「なぜ平気で嘘をつくのだ」

「政治家だからだ!」

「行きましょう。相手にしないで」

 上原アリシャは通り向かいにそびえ立つ大手町パークビルディングを指さし、かつかつと歩道を歩き出した。京介はリュックを背負い直し、後を追った。

 武井がゾンビめいた歩調で手を差し伸べ、よろよろと追いかけてきた。

「なぜ? なぜぼくでは〈仲間〉になれないのだ? このスーツがよくないのか。雰囲気の問題か。そうだな、たしかに師匠らしくないかもしれないな。じゃあローブを着よう。フードを目深にかぶって、杖をついて、ミステリアスな雰囲気で、きみの前に再登場します。だから、今回の登場は、なかったことにしてくれませんか! お願いだ! ぼくを〈仲間〉に入れてくれ!」

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