第2話 モテない冴えないごくふつうの高校2年生を目指して

 岸田京介は父・一朗と母・和子とのあいだに産まれた。京介は16年をつつがなく生きた。

 4月2日付で17歳になったとたん、京介の頭の中に奇妙な考えが浮かんだ。自分はごくふつうの高校2年生でなければならないのではないか。モテない冴えない、なんの取り柄もない、人付き合いが苦手な、教室では常に窓際のいちばん後ろの席にすわり頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めるような高校2年生でなければならないのではないか。

 京介は決して、モテない冴えないなんの取り柄もないどこにでもいるごくふつうの高校2年生ではなかった。身長は186センチ、ルックス・スタイルともに平均を大きく上まわり、体は程よく引きしまり、人付き合いも苦にしない。声は大きく堂々とし、しっかりと相手の目を見て話した。強い意志を持ち、たとえ女子や親友であっても、まちがいはまちがいだとはっきり口にした。

 だが。

 それではダメなのだ。なにがダメなのかはわからない。だが、そうでなければはじまらない。なにもはじまらないのだ。


   ◇


 翌日。京介はさっそく、奇妙な考えを実行に移した。52階大教室に入ると、いちばん後ろの窓際の席にすわる女子に理由を説明し、席を変わってもらった。どっかと腰を下ろし、頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めながら、生きる意味などを考えた。

 教壇側のドアが音もなく開いた。

「では本日より、幾何学IVの授業をはじめます。テキストの14ページを開いてください」

 京介はリュックからテキストを取り出した。B4判、上製、全6442ページの教科書『高校生からのリー群』(関東第一高校出版会)を机に乗せ、表紙を見つめた。

 表紙を開き、ページを繰りかけたところで、またしても奇妙な考えが浮かんだ。

 高校とは、勉強する場所ではないのではないか。

 京介はばたりとテキストを閉じた。机の隅に押しやり、頬杖をつき、再び窓の外を眺めた。

「そもそも『群』とはなにか。みなさん中学校ですでに習ったことと思いますが、いちおうおさらいしておきましょう。そこのあなた、答えてください」

 指名された男子生徒が立ち上がり、答えた。

「集合の要素が以下の性質を持つとき、それを群と定義できます:集合Gの積それ自体も集合の要素となっている場合。結合法則を満たす場合。単位元が存在する場合。単位元とはどんな要素を掛けても変わらない要素を言います。そして逆元が存在する場合」

「ウィキペディアですね?」

「ちがいます」

「では大きくすっ飛ばして、まず多様体の直観的な説明から。多様体とはなにか。たとえばあなたがたひとりひとりはいま、ここ関東第一高校の52階大教室に存在している。あなたはあなた自身や、隣の生徒との『距離』を確認できますか? もちろんできる。では高校の敷地外は? 確認できる。なぜなら実際に目で見、肌で感じられるから。では関東全域は? 行ったことのない秘境でも、電車やバスを乗り継げば、行って確認できないこともない。では地球全体は? 宇宙は?」

 教師は突然クククと笑った。

「10年前ならばこの例えも有効だったのですが! みなさん、窓の外を見てください。はるか先、墨田区押上一丁目の東京スカイツリー跡地に宇宙エレベーターが見えます。優秀なわが関東第一高校のOBが設計・開発した、週末の日帰り旅行も可能なかつてのSFの夢がここに実現している! あなたたち若者にはピンとこないでしょうがね。そう、いまや宇宙にでも、行こうと思えば行ける。確認できる。日本のテクノロジーは世界最強、もはやアメリカなど問題ではない。アメリカは衰退しました。ヨーロッパ諸国はすでに衰退していました。中国は勝手に自滅。アジア諸国はかつての時代のように日本を王とあがめている。そう、日本は世界の覇王となった。われわれ関東第一高校の超高度教育によって」

 言葉を止め、軽く咳払いした。

「話が逸れました。多様体とはなにか。あなた自身の観測、友人の観測、見ず知らずの人間が投稿するインスタグラムの写真、グーグルマップ、静止衛星が送る地球の一点、探査機が送る小惑星の画像などさまざまな『地図帳アトラス』を備えた、たしかに存在するが全体を把握することのできないこの広大な宇宙を多様体と呼ぶ。位相空間とはなんでしたっけ? あなた」

「距離つまり位相という構造が組み込まれた集合を位相空間と呼びます」

「ウィキペディアですね?」

「断じてちがいます」

「いいでしょう。ですが、わたしはあなたを褒めたりはしませんよ! その程度のことなど、現在の高校生なら理解していて当然だからです! では多様体の実際の定義から。存在する位相空間をM、自然数をnと」

 教師が教室の一点に目を留めた。

「岸田京介くん」

「なんだ」

 京介は頬杖をついて顔を横に向けたまま答えた。

「テキストも開かずになにをやっているのです」

「窓の外を眺めているのだ。しかもぼんやりと」

「なぜ授業中に窓の外を眺めているのです。しかもぼんやりと」

「授業が退屈だからだ」

「授業が、退屈?」

 教師は信じられないといった口ぶりで言った。

「幾何学が退屈なのですか」

「幾何学に限らず、すべての授業が退屈だ。より正確に言うならば、おれの心はなにかに囚われ、その結果として授業に身が入らず、退屈だと感じているのだ。おれの心はいまのところ、なにかに囚われているわけではない。だがいずれは、そんな自分になりたいと思っている。だからおれはぼんやりと、窓の外を眺めているのだ」

 気づけば生徒全員が振り返り、京介に目を向けていた。

 教師が言った。

「なぜ勉学に励もうとしないのです」

「17歳の高校2年生だからだ。それが答えだ」

 京介はがたりとイスを引き、立ち上がった。780対の視線に臆することなく、生徒ひとりひとりに目を向け、告げた。

「おまえら、疑問に思ったことはないのか。17歳の高校2年生であるにもかかわらず、なぜ日々勉学に励んでいるのかを。おまえら、なぜいちばん後ろの窓際の席にすわらないのだ。なぜぼんやりと窓の外を眺めないのだ。なぜ悟り切ったような表情で世の中ぜんぶわかってますみたいな斜に構えた態度を取らないのだ。そしてなぜ、6442ページの教科書をありのままに受け入れてしまうのだ。なぜ」

 京介は頭を振り、それから教壇へ向かって歩き出した。ちなみに大教室は床面積600坪、1辺だいたい45メートルの広さを誇るので、たどり着くまでにけっこうな時間を要した。

 ようやく教卓にたどり着く。無言で教師を見下ろしたあと、教壇に登り、教師の背後を通り抜け、ドアに向かって歩を進めた。やはり広すぎるのでけっこう時間がかかった。

 教師が京介の背中に声をかけた。

「どこへ行くのです」

「保健室だ。とくに疲れてはいないが、静養しなければならない」

「その態度。許されませんよ」

「許してほしいとは思わない」

 京介はドアを開けた。廊下へ一歩踏み出す。

 振り返り、いま一度教室を見た。

 生徒全員が京介を見ている。

 そして気づいた。

 世界はまちがっている。

 関東第一高校はまちがっている、と。

 だが。

 後ろ手でドアを閉め、廊下を歩きながら考える。

 ごくふつうの17歳の高校2年生に、一体なにができるというのか。

 いや、なにもできない。


   ◇


 そのころラノベ天上界では、ラノベの神が肘掛け椅子にすわり、南アフリカ産のデイリーワインを傾けながら、羊皮紙の束に目を通していた。ちなみに宮殿は間取りから構造からなにからなにまでエルサレム神殿そのまんまだったが、もちろんパクったのはヘロデ大王のほうだ。

「おい、こいつなんかどうだ」

 神は羊皮紙を1枚抜き出し、かたわらに立つ男に渡した。

 大天使ガブリエルは羊皮紙を受け取り、目を走らせた。安物の白ワインを手に、しばらく考えてから言った。

「岸田京介」

「そうだ」

「見た目がちょい、問題かなって」

「たしかにな。背が高く、少々男前すぎる。態度が堂々としすぎている。気力が充実しすぎている。性格が竹を割りすぎている。いまどきの〈主人公〉としては、不適格だ」

 神はブルゴーニュを手に立ち上がった。1本たった8000円(税抜)の安物をあおりながら、神殿を出、王の柱廊へ向かう。ガブリエルは1本380円(税抜)の真の安物ワインをすすりながらあとにつづいた。神は柱に手を触れ、エルサレムでいうところの下町を見下ろした。

 ガブリエルも真似して見下ろした。眼下はすべて雲に覆われているが、ふたりの目は保健室で静養する岸田京介の姿をはっきりと捉えていた。

 神が言った。

「だがおれは、あの直感が気に入ったんだ。ラノベにおける17歳の本質を、教わることなく自ら気づいた。相当な高IQなのだろう」

「じゃ、あの高校生ってことで?」

「いや、まだだ。とりあえずの仮採用、人間界でいうところの試用期間だな。さっそくおまえを岸田京介の元へ遣わす。神の意志を伝えるのだ。ラノベも忘れずに持っていけよ」

「御意」

 ガブリエルは一礼したあと、柱廊から一歩踏み出し、眼下の雲を見下ろした。

 だるそうに肩をまわし、翼を広げかけたところで、神が声をかけた。

「ちょっといいか」

 ガブリエルは振り返って言った。

「なんすか」

「おまえ、『御意』ってなんだ、『御意』って。おまえは〈天使〉だろう」

「はあ」

「もっと〈天使〉らしい言動を心がけろ」

「サーセン」

「それから少しは見た目も気にしろ。なんだその〈翼〉は。〈翼〉というものはな、飛べればいいというものではないんだ。もっと大きくてかっこいいやつに変えていけ」

「ウィッス」

 ゆとりめ。神はこっそり舌打ちをし、グラスに口をつけた。

「まあいい。行け」

「イエッサー」

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