第225話
この時代のこの帝国において、貴族の婚姻というものは、基本的にその家の当主同士の決めごとであった。貴族にとって、家名の存続と繁栄こそが第一である。そして婚姻は、家同士の結びつきを強め、血をより「高度」なものにしていくための大切な儀式。その婚姻の行方を決定するのが家長の役目になるのは、至極当然のことであろう。
最近は、この思想も建て前になりつつあると言う者もいる。「自由恋愛は平民の特権」と言われたのは昔だけで、貴族の子弟の結婚にも、当人同士の好き嫌いが入る余地が大きくなったと見なす者もいる。
しかし、それは近年の若者がつくり出した歪んだ風潮だ。やはり貴族の婚姻は、当主が責任を持たなければならない。神殿騎士団の重鎮であるディートリヒ・アイゼンシュタインは、そう言った意見の急先鋒にいる男であった。
「私は許可を出していない」
会議室で険悪な声を出したのは、神殿騎士団の現総長、カール・リンデンブルムである。
「確かに、以前から届けはあった。だが、パラディン同士が結婚するというのは前例の無いことだ。それに、パラディンが持つ影響力を考えれば、神殿騎士団に閨閥を生み出す恐れが大きい。それが私の意見だ」
総長は許可を出していない。しかし、騎士団の正式な許可が無くとも話を進めてしまえ。結婚した既成事実ができれば、総長としてもそれ以上の口出しはしないだろう。それがディートリヒ・アイゼンシュタインの考えのようだが、それは彼のような古式にこだわる男にしては、かなり強引なやり方だった。
「アイゼンシュタインに、お前が何か言ったのか?」
「違う」
この広い会議室にいるのは、たった三人だけだった。カールが問い詰めたのは、長い長方形のテーブルの、カールの対面に座っている男、パラディン筆頭のヴォルクス・ヴァイスハイトだ。
「私は何も言っていない」
「…………」
「そんな怖い顔をしないでくれ。本当さ。この件について、私は何も知らなかった」
「アイゼンシュタインは、シモン・フィールリンゲルを“婿にする”と言っているんだ。パラディン筆頭であるお前が、知らないわけがないだろう」
「本当だよ。私にとっても寝耳に水だった」
総長カールとパラディン筆頭のヴォルクスの仲があまりよろしくない――と言うより、カールがヴォルクスに対し、ある種の敵愾心を抱いているというのは、知る者は知っている事実だった。
それでもカールがヴォルクスを呼び出して、こうして対面で喋っているのは、ことが神殿騎士団にとってあまりにも重要だからだ。
それに加え、パラディン第七席のシモン・フィールリンゲルは、ヴォルクスの指揮力や剣の技量に心酔している若者だ。それが同じパラディンのロザリンデ・アイゼンシュタインと婚約すると言うからには、そこには自身の派閥拡大を考えた、ヴォルクスの何らかの狙いがある。カールの頭には、もしかしたらそんな考えがあったのかもしれない。
「シモンが変わった子なのは知っていたけど、まさかアイゼンシュタインに婿入りしたいと言い出すなんて……。自分の家は、いったいどうするつもりなのかな」
「……本当に知らなかったのか?」
「何度も言ってるじゃないか」
ヴォルクスが珍しく悩ましげな表情をしているのを見て、カールも首を傾げた。
確かに、裏でヴォルクスの意志が働いているにしては、今回のシモンの行動は妙な部分があった。なぜならば、カールとヴォルクスの両者が言っているように、シモンは今回、アイゼンシュタインに婿入りすることを宣言してきたのだ。
ディートリヒ・アイゼンシュタインには長女のロザリンデ以外に子がいない。ならば、女子であるロザリンデに婿を取らせるのが、家名存続のために必要だった。以前にシモンが申し入れ、カールがそれをはね除けた時には、シモンが申し込んだ婚約の形態は、ロザリンデのフィールリンゲル家への嫁入りだった。
そうなれば、跡継ぎのいなくなるディートリヒは、縁者から養子をとるなりしなければならない。それもあってか、前回のディートリヒは最終的には大人しく引き下がったのだ。
しかし今回、シモンは自分がアイゼンシュタインの婿になると申し出た。年の離れた妹がいるとは言え、シモン自身が、フィールリンゲル家の現当主なのにも関わらずに。
自分に近しいフィールリンゲル家を潰す覚悟をしてまで、ヴォルクスがアイゼンシュタインを自派閥に引き入れる必要があるだろうか。そういうことを考え合わせると、ヴォルクスの発言は真実であるように、カールにも思えてきた。
「……だが、ロザリンデ嬢はあの通りの娘だ。フィールリンゲル卿は、良く本人の同意を取り付けたものだ」
ふっと、さっきまでより幾らかは柔らかい言葉付きになり、カールは言った。ロザリンデが病的なほどの男嫌いである事は、騎士団員なら誰でも知っている。確かにと同意したのは、ヴォルクスだ。
「ロザリンデも、ついにシモンの熱意にほだされたのかな」
「フィールリンゲル卿は、以前からロザリンデ嬢の事を?」
「うん……。まあ、ね」
「そうか……。何というか、変わった趣味だ」
この二人がこれほど穏やかに話すなど、何年ぶりの事だったろうか。
肝心の、シモンとロザリンデの婚姻を騎士団が認めるかどうか、という問題については何の結論も出ていないのだが、ほんのひととき、会議室内には和やかな空気が流れた。
しかし、それを横合いから破った者がいる。
「馬鹿」
それは、この会議室にいた三人目の男、パラディン第三席のランディ・バックレイだ。彼は立ち会いとして――実質はカールの護衛として、この場に呼ばれていた。神殿騎士団総長とパラディン筆頭の二人は、彼らが中々浴びせられる機会の無い侮辱を耳にして、同時にランディのほうを見た。
「馬鹿」
ランディはもう一度繰り返して、騎士としての後輩である二人を眺め回した。
「本人の同意なんか、有るわけ無いだろうが」
カールもヴォルクスも色々な事に目端が利くが、こと色恋沙汰、ことシモンやロザリンデの個々の性格という事になると、自分のほうが詳しいという自信がランディには有った。
そんな彼に言わせれば、これはそんなに暢気な話題ではないのだ。家の関係や騎士団内の勢力図がどうこうという話を越えて、騎士団そのものの顔に、とんでもない泥を塗る可能性のある話なのだ。
問題は単純で、しかしもっと危険だった。
シモンとの婚約が現実のものとなった事を知った時、ロザリンデはどうするだろうか?
「血を見るぞ、絶対に」
立ち上がり、テーブルに身を乗り出して、ランディは断言した。
◇
そして意外や、ロザリンデ本人が婚約のことを知ったのは、カールやヴォルクスたちがそれを知り、帝都で発行されている新聞にその記事が載ってから、さらに遅れての話だった。
ロザリンデは今、自信の麾下を率いて、トリール伯レティシアの警護を任されている。先代のヨハンナから、わずか十三歳で伯の座を引き継いだレティシアは、その心細さもあって、今やロザリンデを姉のように慕っていた。
そんなレティシアが、ロザリンデを帝都近郊での船遊びに誘った。
「最近、ずっと暑いし。帝都は人が多すぎて、目眩がしそうになるから。選帝会議はまだまだ先だし……。だからあの、ロザリィも一緒にど――、いかがですか?」
もじもじと手をすりあわせて、上目遣いでそう言った少女の提案を、ロザリンデが拒否することなどできただろうか。彼女たちは少し足を延ばし、馬車を一日走らせて、帝都の西にあるトリール伯の別荘地にまでやって来ていたのだ。
小川に小舟を浮かべ、森の中を散策し、時にはスケッチなどをして、二人は優雅に遊んだ。二人に付いてきていたのは、レティシアの侍女が一人と、御者を兼ねたロザリンデの麾下が一人だけである。静養の途中、ロザリンデの顔は始終微笑みに満ちていた。
それが僅かでも崩れたのは、ある一瞬のみだった。
運悪く、貴族の別荘を狙う空き巣集団が、ロザリンデたちが泊まっているところに現れたのだ。
運悪くというのは、もちろん空き巣集団にとっての話である。夜中に訪れた彼らは、瞬く間にロザリンデによって征圧された。彼らの頭部と胴体が、ロザリンデの純白のハルバードによって今生の別れを告げる羽目にならなかったのは、レティシアに凄惨な光景を見せてはならないという常識的な考えが彼女にもあったからだ。
「素敵! やっぱりロザリィは格好良い!」
あとは、寝間着姿のレティシアにそう言って抱きつかれた事で、ロザリンデの上機嫌が絶頂に達したからというのも、理由の一つではある。
もう一日くらいは良いでしょうとレティシアに引き留められ、彼女たちの滞在は思ったよりも長くなった。この時のロザリンデの心にあった憂いは、自分には既に将来を約束し合った運命の人がいるのに、レティシアが自分に本気になってしまったらどうしようということだけだった。
そのロザリンデが帝都に帰還した時、何か街が騒然としている気がした。レティシアと別れて自邸に戻る最中にも、ロザリンデは時々、自分にいつもとは違う視線が刺さるのを感じた。
「特報! 特報!」
最近帝都でにわかに増えた新聞売りが、下品な声で叫んでいる。民衆は、新聞売りの手からこぞって新聞を求めようとしていた。
「シモン様が、私以外の人と結婚してしまわれるなんて……」
「まだそうと決まった訳じゃないわ。婚約なんて、実際に結婚まで行くほうが珍しいんだし。あと、誰が“私以外”よ、厚かましい」
顔を寄せ合って新聞を読む娘二人の口から、そういう会話が漏れ聞こえた。
シモンというのが誰の事なのか、ロザリンデにはどうしても心当たりがなかったし、特に興味もなかったが、誰かが婚約したことが、娘たちを嘆かせているという事だけは理解できた。馬上のロザリンデが娘たちの顔を見ていると、ロザリンデに気付いた娘たちは、あっと声を上げ、そそくさとその場を立ち去った。
「……?」
何が、とははっきりと言えないが、妙な空気だ。怪訝な表情を浮かべながらも、ロザリンデは自邸にたどり着いた。
「ただいま戻りました」
この言葉に応えるのは使用人だけだ。この屋敷は、彼女の唯一の肉親である父親が住む、アイゼンシュタインの本邸とは違う。
楽しい旅でも、身体に疲れが残っている。ロザリンデは持ち物を侍女に預け、部屋で休むために階段を上がろうとした。
「……? どうしたのですか?」
持ち物を預けられた侍女が、ロザリンデと眼を合わせようとしない。その侍女は青い顔をうつむけており、とても気まずそうな表情をしている。そう言えば、彼女だけでなく、他の侍女も様子がおかしい。
無言の侍女を置いて、ロザリンデは階段を上がった。自室の扉を開くまで、ロザリンデがその臭いに気付かなかったのは、彼女の心が浮かれていたからか、それともやはり、どんなに嫌悪していたとしても、「彼」が彼女の、唯一の肉親であるからか。
「ようやく帰ってきたか。今まで、どこで何をしていた」
ロザリンデの身体と表情が、そこでびしりと固まった。
ロザリンデの部屋の中で、部屋の主に無断で立っていた男は、ディートリヒ・アイゼンシュタイン、即ちロザリンデの実父だった。
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