第213話

 治癒術は万能に思えるが、それでは癒やせないものがある。


 治癒術の効力は、術者の力量に加えて、患者の持つ元々の回復力に依存する。治癒術が無くても、人間の傷は時間と共に癒えていく。有り体に言えば、治癒術はその力を魔力によって増進する事で、急激に傷を癒しているのだ。

 よって、例えば高齢の老人などは、元々の回復力が衰えているため、重傷の際に治癒術を使っても効果が薄い。治療の負荷に耐えきれず、そのまま死んでしまう事も多い。また、怪我を癒しても、体力まで回復させられる訳ではないので、大量に血を失ったりしていた場合、患者が元通りに動けるようになるまでは、それなりに時間がかかる。


 病気の中にも治癒が困難なものがある。まずは、身体の中に悪性の腫れ物ができてしまった場合だ。ここに治癒術をかけると、逆に腫れ物は成長し、より身体を蝕んでしまう事がある。

 もう一つは、先天または後天的に、体内の魔力循環に何らかの異常を抱えている場合。魔力と生命力は表裏一体なので、生まれつき魔力が乏しい人間などは、治癒術が非常にかかりにくい。これらの症例は、むしろ薬などを処方して、気長に治療した方が良い結果をもたらす事が多い。


 しかし、ここまでの事例については、高位の術によって覆せる場合がある。

 帝国でも数人しか遣い手の居ない最高位魔術なら、普通の治癒術が通用しない奇病を癒したり、既に欠損した身体の一部を、再び元のように生やしたりする事すら可能だという。


 それでも、治癒術ではどうあっても癒す事の出来ないもの。その代表例は、死だ。

 死だけは、どうにもならない。死者だけは、例え聖女エウラリアの力を以てしても、蘇らせる事は不可能だ。神聖教会の教義では、死は神に予定された絶対だと考える。一言で言えば、運命だと。

 運命に逆らってはならない。死はいつか、どのような貴人だろうと賎民だろうと、人である限りは、誰にも等しく訪れる。教会はそう言って、死に対する人々の諦めを求め、同時に慰めを与える。


 そう、誰でも、いつかは必ず死ぬのだ。それが人である限りは。


「……よし、熱は下がってきたみたいね」


 だが、普段からそんな事ばかりを考えて、人間は生きられない。

 ここに居る亜麻色の髪の娘もそうだ。帝都の大聖堂付きの治癒院で働くステラは、生きている限り、患者の事を諦めない。

 今も彼女は、昨夜――というよりも今朝方運ばれてきた怪我人を、一心に介護していた。

 内臓に負った刺し傷を高位魔術で塞ぎ、その後に来た発熱には、薬湯を飲ませる事で対処した。患者が夜明けに運ばれてきてから約二十時間。その間、ステラはずっと起きていた。外は、再び夜になっている。

 その甲斐あって、患者の容態は安定してきた。未だに意識は取り戻していないが、ここから容態が急変するという事はないだろう。それを確信して安心すると、ステラの身体にどっと疲労が襲ってきた。


「はあ……」


 単純な疲労というのも、治癒術では対処しにくいものの一つだ。ステラは凝り固まった首と肩を回しながら、治癒院の仮眠室に向かった。


「ふう……」


 ステラは昨日の夜勤だった。交代の時間はとっくに過ぎている。本来なら、今日は非番だったはずだ。ステラはうつ伏せにベッドに倒れ込むと、そのまま意識を失うように眠った。


「…………う……ん」


 次に彼女が目覚めたのは朝だった。いつの朝なのか、すぐには判然としない。ただ、朝を告げる大聖堂の鐘が、彼女の意識を強引に覚醒させたから、朝が来たと分かっただけだ。


「んん…………」


 ぼさぼさになった髪を掻きながら、ステラはすぐ、患者の様子を確認しなければと思った。

 この大聖堂付きの治癒院には、ステラの他にも治癒官は沢山いる。その人々に任せておけば良さそうなものだが、ステラのこれは、もはや職業病のようなものだ。これも、治癒術では治療が難しい。


「えっ……?」


 病室に入ったステラは、中に患者以外の人間が居るのを見て驚いた。


「あ、あなた、誰……ですか?」


 平民風の服を着た若い男が一人、患者が眠るベッドの横に立っている。男はステラに振り返ると、柔和な笑顔を見せた。


「どうも、僕は彼女の夫なんですが……、妻がここに運ばれたと聞きまして」

「あ、ああ、そうでしたか」


 それでステラの疑問は氷解した。患者の家族が、患者がここに運び込まれたことを聞きつけて、見舞いに来たのだ。そうとも知らずに取り乱してしまったことを恥ずかしく思い、ステラは少し顔を赤らめた。


「すみません、誰か居ると思わなかったから、驚いてしまって」

「いや、僕もここは初めてだったので、良く分からないまま入り込んでしまったんです。――この度は、妻が大変お世話になりました」

「いえいえ」


 それから、ステラは男に、患者の容態について説明した。通り魔に襲われて、全身を十数カ所も切りつけられていた事。中でも、腹の刺し傷が一番深かった事。それらの傷は塞がって、後は患者が目覚め、体力が回復すれば退院出来るであろう事などを。


「通り魔……?」


 男はつぶやいた。

 最近、夜の帝都には通り魔が頻繁に出没している。彼の妻も、それに襲われてしまったのだろう。衛兵には既に治癒院の方から通報してある。患者が目覚めたら、詳しい事情を聞く事になるはずだ。ステラがそう言うと、男は厳しい表情になった。


「衛兵……そうですか」

「……ご心配されている事は、分かります」


 男の妻は、非常に恐ろしい目に遭ったに違いない。仮に身体の傷が治り、目を覚ましたとしても、襲われた時の事を思い出せというのは酷だろう。ステラは、男がそういう事を心配しているのだと考えたのだが、男は別の事をステラに聞いた。


「彼女はここに、どうやって運ばれてきたんですか?」

「あなたくらいの歳の男性が運んできました。道で奥様が倒れているのを見つけたそうです。応急処置がしてあったので、それで何とか奥様は助かりました」


 男に説明しながら、そう言えば、一番深い刺し傷以外は、初歩的な治癒術による応急手当が施してあったと、ステラは思い出した。実際、それが怪我人の生死を分けたのだ。


「男性は、名乗らずに去ってしまったんですけど……」


 もしかしたら、あの男が通り魔本人だったのだろうか。そう思いかけて、ステラはその考えを打ち消した。通り魔は応急処置をしないし、襲った人間を大聖堂まで担いで来たりもしない。何より、怪我人を運んできた男の目は澄んでいた。悪人ではないはずだ。


「分かりました」


 ステラはぴくりとたじろいだ。一瞬、分かりましたと言った女の夫の方が、昨夜の男よりも、余程目が濁っているように感じられたからだ。


「妻は、これで引き取らせて頂いてもいいですか?」

「え……、いえ、さっき説明した通りです。目が覚めて、体力を回復するまでは」

「妻は人見知りです。彼女もきっと、家で療養する事を望むと思うんですよ」

「でもそんな、傷は塞がっているように見えるでしょうが、まだ動かすのは危険なんです」

「別に、大丈夫ですよ」


 男はやけに頑なだ。頑なに、妻を即座に家に引き取りたいと申し出ている。だが、頑固さならステラも負けていない。


「大丈夫な訳無いでしょう――!?」

「…………」


 ステラに強い声でたしなめられると、男は無言になった。いつの間にか、その顔からは微笑みが消えている。


「な、何ですか」


 ステラは狼狽した。男は瞬きをしない目で、ステラをじっと見ている。得体の知れない感覚が、ステラの全身を支配した。

 ごくりと喉を鳴らして、ステラが一歩後ずさると、それを追うかのように、男も一歩、足を前に進めた。

 人を呼ばなければ。そう思ったステラだが、どうしてか喉が乾いて、声が出せない。ステラの背中が、病室の白塗りの壁にぶつかった。


「ステラさん」


 その時、病室の入り口側から声がして、男がはじかれたようにそちらを向いた。

 言い争いの声を聞きつけて、職員の誰かがやって来たのかとステラは思った。しかし、硬直から解放されたステラが、壁に貼り付いたまま首を動かし、男と同じ方向を見ると、そこに居たのは、彼女の予想もしていなかった人物だった。


「メ、メルヴィナさん……?」


 それは、最近ステラと親交ができた、黒髪の留学魔術士のメルヴィナだ。色々な縁があって、たまに会話するようになったのだが、彼女が治癒院の、こんな奥にまで入り込んできたのは初めてだ。

 メルヴィナは病室の入り口に立ち、ステラではなく、男のほうに視線を向けている。

 ステラの知るメルヴィナは、とても――率直に言ってしまえば病的なほどに、内気な性格の娘である。いつもはうつむき加減で、他人とほとんど目線を合わせようとしない。それなのに今は、しっかりと顔を上げて、むしろ男をにらみつけるようにしていた。


「たまたま通りかかったら、話し声が聞こえたものですから」


 その声も、心なしか、いつもよりはっきりとしている。


「お邪魔でしたでしょうか?」


 メルヴィナは、男に向けてそう言った、男がゆっくりと声を出した。


「…………いいえ。そうですか、そういう事なら仕方ありません」


 男は再び笑顔になっていたが、その時には、ステラには男の正体が分からなくなっていた。この男は、男自身が名乗ったように、本当に患者の夫なのだろうか。


「日を改めて、また見舞いに来ます」


 その言葉を残して、男は音も無く歩き去った。

 男が完全に去った後、ステラは自分の胸を押さえて、大きな息を吐いた。男から感じた、あの得体の知れない感覚は何だったのだろう。それにとらわれて、ステラは呼吸する事さえ忘れていた。


「……大丈夫ですか、ステラさん」

「は、はい、メルヴィナさん」

「……ご無事で、良かったです」


 メルヴィナは、いつも通りのか細い、か弱い喋り方に戻っている。だが、あの男と対峙していた一瞬、彼女は非常に心強く見えた。


「……良くない気配を引きずったものが、見えたので。……追ってきて良かった」


 メルヴィナの言っている事は、理解できない部分もある。だが、ステラにも、患者の夫を名乗ったあの男が、良くないものだったという事は何となく分かった。

 世の中には、妻に暴力を振るう夫も居るという。あれはそういう人間だろうか。それとも、患者の夫というのは全くの嘘で、あの男が通り魔本人だったりするのだろうか。

 あの男はまた来ると言った。何をしに来るのだろうか。この患者が通り魔に襲われた事について、衛兵には通報してある。だが、それでは不十分な気がする。ここは大聖堂付きの治癒院だ。上に報告して、神殿騎士団から人を寄越してもらうべきではないだろうか。


「メルヴィナさん、どうしましょう。あの男の人は――。それより、この患者さんが――」

「大丈夫です」


 うろたえているステラに、メルヴィナはまた、はっきりとした声で言った。

 神殿騎士団には知らせない方が良い。どういう根拠があるのか知らないが、メルヴィナはそう言った。


「ステラさんが心配する事はありません。……全て、私に任せて下さい」


 その時のメルヴィナの、かすかな微笑みと黒い瞳が、ステラの目にはやけに頼もしく、同時に少し恐ろしく映った。

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