第189話

 ――私を使って、この扉を開けなさい。


「あんな大見得を切ったのに、具体的な方法を考えていなかったとは……」

「…………」

「こんな所にまでやって来て、ちょっと行き当たりばったりが過ぎるような気がする」

「……ごめんなさい」


 フロイドに苦言を呈されて、アルフェは素直に謝った。

 ゲートルードに秘蹟の間の封印を解けと迫ったは良いものの、七百年も維持されてきた魔術が、そんな事で、はいそうですかと解けるはずがなかった。

 だが、ゲートルードには思うところが有ったようで、少し時間をくれとアルフェに申し出てきた。アルフェたちは廃都市内に拠点を造り、ゲートルードが都市の遺跡を調査するのを見守っている。今はそんな状況だ。

 しかし、自分が大聖堂の封印を開く鍵である事を、アルフェは確信していた。幼い頃から幽閉されていた自分。その自分を捕えようとやって来た、結界の事を調べて回る王国の魔術士。ライムント・ディヒラーが語った大聖堂の真実。回復した僅かな記憶。そういったもの全てを考え合わせて、アルフェはその結論に達したのだ。


「まあ、謝られる事のほどでも……。……ゲートルードは、貴女の言葉で何かを思いついたようだし」

「そうでしょう」


 得意げにふふんと笑ったアルフェに対し、そこで胸を張るのも違う気がすると、フロイドは首を傾げている。

 だが実際、ゲートルードは遺跡の調査に、これまでに無かった手応えを感じているようだ。それはアルフェの示唆があったからこそで、結果としては良かったのだとアルフェは思っていた。

 今のアルフェとフロイドも、こんな話をして遊んでいる訳では無い。彼らはゲートル―ドの指示を受けて、廃都の城壁外に出て、森の中を探索していた。


「で、その遺跡というのはまだなんですかね」

「博士によると、もうそろそろのはずです。着いたらそこでお昼にしましょう」

「手ぶらに見えるが……、現地調達?」

「もちろん」


 これまでのゲートルードの調査では、廃都市の周辺には、円で取り囲むように配置された古代の遺跡が見つかっていた。ゲートルードは、その遺跡群を含めて、領邦全体に巨大な魔法陣が形成されていると言う。

 その遺跡の術式を無力化し、封印の力を少しでも弱める事が、今回の二人の目的だ。


「俺たちは、魔術に関しては素人だ。どうやって無力化しろと?」

「私に考えがあります」


 歩きながら、アルフェは自信ありげにそう言ったが、フロイドは彼女に疑わしそうな視線を向けていた。

 朝に出発して、太陽が頂点にさしかかる前に、二人は目的の遺跡に到着した。既にアルフェは、道中で挑みかかってきた無謀な魔物を返り討ちにし、背中にそれを吊している。彼女がそれを捌いて調理する事について、最早フロイドは文句を言うのを諦めていた。


「はい、どうぞ」


 崩れた遺跡の前で、アルフェたちはまず腹ごしらえをする事にした。あっという間に火をおこし、ナイフで人間大のトカゲのような魔物の腹を裂き、肉を串に刺して焼いていく。串はその辺に落ちていた木の枝だ。

 無表情に、フロイドはアルフェが差し出した肉にかぶりついた。

 見た目はグロテスクであるが、美味い事は美味い。むしろ美味いからこそ、フロイドにとっては余計に釈然としない気分だ。塩がかかっているのはアルフェの自前だとしても、歩きながら摘んだのか、肉には香草まで振りかけてあって良い香りだ。魔物料理にかけては、確かにアルフェは第一人者だ。

 しかし、美味いと言ったらアルフェは調子に乗る。だからフロイドは、無言で口を動かした。


「博士によると、この遺跡は封印の術式の中でも、比較的重要な役割を果たしているそうです」


 食事が済むと、改めてアルフェたちは遺跡の前に立った。その遺跡は、大陸中の別の場所に転がっているものと同じく、石造りで、あちこちに複雑な紋様が描かれていた。


「何でそれが分かる?」

「既に判明している古代の儀礼や風習を参考にすると、当時の建築様式や建物の配置には、ある法則性が見いだせるから……だそうです」

「まあ、あの男が理解しているんならそれで良いか。とにかく、これを無力化すれば、封印というのも少しは弱まる訳ですね」

「はい」


 頷きながら、アルフェはばきばきと両手を鳴らしている。どうやって無力化するのかと思っていたが、その仕草で、アルフェの心づもりを大方理解したフロイドだった。


「砂になるまで砕けば、きっと力を失います」


 ゲートルードはアルフェを都市外に送り出した時、非常に苦々しい顔をしていた。あれはきっと、あの男にとって非常に魅力的な遺跡が、アルフェによってどういう運命をたどるのかを、半ば予想していたからだ。


「まあ良いか」


 少しだけゲートルードに同情したフロイドだったが、彼も主人の手伝いをするべく、剣を抜いた。



「めどが付きました」


 ほとんど眠っていない顔で、ゲートルードは言った。

 アルフェによって破壊される遺跡が僅かでも少なくなるよう、ゲートルードは廃都市の調査に全力を尽くしたようだ。それでも、彼が封印の解除方法を見つけるまでは数日かかったのだが、数十年かけた彼の歴史研究の成果が、この数日で大きく進展した事を考えれば快挙だった。


「アルフェさんの言葉を受けて、あれから私も推測を重ねました。私は以前、王侯貴族に優れた魔力を有する者が多いと申しましたが、それはやはり、結界と関係が有ったようです」


 帝国ほど教会の力が強くない、東方諸王国やドニエステ王国では、結界に関する儀式のいくつかを教会と王家が共有している。つまり、結界の管理に王家が深く関わっている。各王家で実際に何が伝えられ、行われているかは、ゲートルードすら知り得ないほどに硬く秘匿されているが、彼は一つの考察を得た。


「この国に伝わる、建国のおとぎ話を知っていますね」


 急に何を言うのかと、アルフェたちは首を傾げた。しかし、オークであるグラム以外は、アルフェもフロイドもその話を知っていた。初代皇帝になった男が、神から結界を領地として与えられた話。演劇などでもよく上演される、建国の神話だ。


「皇帝はそのまま皇帝、神は教会権力を意味すると考えられます。かつてこの帝国で皇帝が健在だった頃は、皇帝にも結界に関する秘事は伝えられていたはず」


 だが、気の遠くなる月日と度重なる戦乱によって、いつしか帝国では教会のみが結界の秘蹟を伝えるようになった。


「誰もが王になれる訳では無い。ならば、王とは一体何だったのか。王の資格とは一体」


 ゲートルードは、まるで自らに語りかけるようにつぶやいている。その言葉は、どこか繋がりを欠いていた。だが、彼の結論はこうだ。


「古来、結界の封印に関わる力を持つ者こそが王であり、皇帝だった。その力こそ、貴女が“鍵”と表現したものです」


 量と質のどちらが問題になるのかは不明だが、結界の封印を解くためには、ある個人が持つ魔力を用いる事になる。恐らく、その“鍵”は誰にでも発現する訳では無い。

 血の力を利用したのか、各王家にそれが受け継がれる事が多い。王家はそうやって、結界の力を自らの権威に結びつけていたのだ。つまり、かつては王だったラトリア大公の直系であるアルフェが、結界の封印を解除する資格を有していても、何ら不思議は無い。


「……本当か?」


 フロイドは、よく理解できない、信じられないという表情をしている。


「どちらにしても、試してみれば良いのです」


 きっぱりとアルフェが言った。

 一行は再び秘蹟の間に移動した。ゲートルードはアルフェを部屋の中央に立たせ、石壁を手でなぞって、何かの用意をし始めた。ゲートルードとアルフェが作業をしている間、フロイドとグラムは手持ち無沙汰になった。


「なあグラム。ここには本当に、結界の力は残っていないのか? 魔物のお前から見た意見を聞かせてくれ」

「フロイド、私は魔物ではないと言っただろう」

「分かった分かった。オークのお前から見た意見を聞かせてくれ」

「お前たち人間の“結界”という奴が何なのか、私たちオークには分からない。だが、あれはとても嫌なものだ。ここには、その嫌な気配を感じない」

「……オークも、この下にあるものが何か、知らないんだな。……知らずに怯えてるって事か。知らずに結界の中で暮らす人間と、どっちがマシなのかな」

「この下に、何か埋まっているのか?」

「ああ」


 そんな風に、壁の脇で会話しているフロイドたちを一瞥してから、アルフェはゲートルードに話しかけた。


「私は、何をすれば良いですか?」

「何も必要ありません。貴女が正しい鍵ならば、封印の側で自動的に判別される。……ただ、やはりラトリアの鍵は、ここの鍵とは形が違う可能性が高い。その差をどうにか埋めるのが、私の魔術という事になるでしょうか」

「立っていればいいんですね」

「はい。……しかし、かなり魔力を吸われるかもしれません。常人ならば、抜け殻になるほどの魔力を」


 壁を向いていたゲートルードが、それでも良いのかと言いたげな目を向けてきた。

 アルフェはまた、キルケル大聖堂でライムント・ディヒラーに殺されたイエルク少年を思い出した。ベレンの力を受け継いだ子供だからこそ、ディヒラーはあの少年を偽の鍵として使用した。

 殺す必要があったのかと思う。だが、そうしなければ、封印を騙すほどの魔力は引き出せなかったのだろうか。


「構いません。やって下さい」


 アルフェが言うと、ゲートルードは頷いた。


「【――――】」


 準備を終えてゲートルードが紡ぎ出した呪文は、アルフェがこれまでに聞いた事の無い言語だった。――いや、違う。そう言えば一度、こんな言葉を聞いた気がする。あれはまだ、アルフェがベルダンに居た頃だった。

 それをどこで聞いたのかを、アルフェがはっきりと思い出す前に、術式が発動し始めた。

 四方の石壁が発光し、光はすぐに収まっていく。その後に現れたのは、執念を感じさせるほどに、壁面に細かく刻まれた紋様だ。

 ゲートルードの詠唱は続く。次にアルフェは、自分の中から力が抜けるのを感じた。


 ――魔力が……。でも、そんなにじゃない。


 ゲートルードは、まるで膨大な魔力が吸収されるような事を言っていたが、それは大げさな表現だったとアルフェは思った。確かに吸われているが、問題無く立っていられる範囲だ。

 吸われた魔力は、床に染み込んでいるような気がする。乾いた砂が水を飲み干すように、どこまでも際限無く。


「……ん」


 また、流れる魔力の量が増えた。

 これが長時間続くとしたら、やっぱり危ないのだろうか。アルフェは考えを変えたが、表情と態度には表さなかった。


「【―――――――】……」


 ゲートルードが詠唱を終えても、秘蹟の間の壁と床は脈動し続けていた。既に彼の手から術は離れ、この場所を中心とした巨大な装置が、ひとりでに時を刻み始めたかのようだ。

 アルフェの力を吸う事で、装置全体に魔力が行き渡っていく。


 そして、アルフェが少しの目眩を覚えた頃に、七百年の封印は解かれた。



 今まで彼らが床と見えていた場所に、ぽっかりと口が開いている。そこには先の見えない階段が、地下に向かってどこまでも続いていた。


「行きましょうか、博士」


 アルフェはゲートルードを手招きした。ゲートルードは、まるで意志を失ってしまったかのように、ふらふらと少女に従った。

 そして、アルフェが先頭に立って、四人は階段を歩き出した。

 階段は暗いが、それでも足元が見えるのは、魔力の光がぼんやりと照らしているからだ。左右の壁には、秘蹟の間以上に執拗な間隔で、古代の紋様が刻まれている。降りて、降りて、ひたすら降りると、階段はやがて、人工的に掘られた通路から、自然の洞窟を利用した空間へと変わった。

 ゲートルードにとっては、そこにある全てが衝撃だった。壁の紋様一つ取ってみても、彼にとっては人生を費やす価値のある、歴史の宝だった。

 時間が許すなら、彼は永遠にここに留まって、この文字を読む事に全てを捧げただろう。しかし左右に気を取られながらも、彼が本当に見たいものは、先導するように彼の目の前を歩く、銀髪の少女の目線の先にあるのだ。だからこそ、ゲートルードは足を止めずに、少女に言われるままになっていた。


「む……」

「どうした、グラム」


 三番目を歩いていたフロイドは、自分の後ろでグラムが呻いたのを聞きつけて振り返った。グラムは、気分が悪そうに立ち止まっている。


「いや……何も無い」


 グラムはそう言って歩みを再開したが、彼の体調がおかしいのは、傍目から見ても明らかだった。

 階段は、どこまでも深く続いている。完全に直線だった訳ではなく、所々曲がりくねったりしながら。幅も場所によってまちまちだった。

 キルケル大聖堂の地下は、降りれば降りるほどに熱かった。しかしここの空気は、地上よりもむしろひんやりとしている。脇の壁にはたまに大きな亀裂があって、その奥から、水が怒濤のように流れる音が響いていた。


「アルフェ、少し待ってくれ」


 フロイドに切迫した声で呼びかけられて、アルフェは振り向いた。見ると、グラムが床に膝を突いて、フロイドがその肩に手を添えている。


「グラムがもう駄目だ」

「いや……私は大丈夫だ」

「どこが。強がるなよ」


 グラムは虚勢を張っているが、明らかに様子がおかしかった。灰色の肌に大量の汗が浮かび、苦しそうに顔を歪めている。


「何だこれは……。身体が、言う事を聞かない」

「……恐らく、結界の影響です」


 グラムの不調の原因を、ゲートルードはその言葉で説明した。

 だが、とフロイドは言った。


「ここの結界は無くなったんだろう?」

「それでも、完全には失われていなかったようです。……結界の中心が地下にあるなら、それは頷ける話です。地表への効力を失った後も、地下にはその力が届いていたと考えれば」

「どのみち、こいつはこれ以上進めない」


 人間と違って、この先にあるものに対し、魔物は敏感に反応する。だからこその結界だ。フロイドの言う通り、グラムはもう歩けそうになかった。


「黙れフロイド。アルフェ様が行かれるというのに、私がここで止まるなど――」

「フロイド」


 アルフェは、グラムのフロイドに対する抗議を遮った。


「はい」

「イコが気になります。魔物に襲われていないかどうか、心配です」

「……分かりました。上に戻ればいいですね?」

「そうです」


 フロイドは頷くと、行くぞグラムと声をかけた。


「俺一人じゃ心細い」

「何を言う、私はアルフェ様に――」

「いいから行くぞ」

「……くっ。アルフェ様……、申し訳ありません」


 心底無念そうなグラムに対して、アルフェは柔らかく微笑んだ。

 フロイドは、まだゲートルードに対して警戒の目を向けていたが、主人の命令を優先すると決めたようだ。心配する必要は無いと、アルフェは微笑みの中に、フロイドに向けたそんな意味も込めた。

 階段を降りるのは、アルフェとゲートルードだけになった。相変わらずアルフェが先に立ち、ゲートルードはその後ろを歩いている。

 そして更に延々と降りたところで、ようやく階段は途切れ、彼らは巨大な地下空間に出た。


「こ、ここは……」

「この先に、結界の正体があるはずです」


 その空間の床は濡れていた。壁面から地下水が染み出ているのだ。床の水は、緩やかに流れを作っている。その水が流れている先は、キルケルの地下で見たのと同じ深淵だった。遠くの天井からは、何本もの柱のような水が落ち、深淵に向かって吸い込まれていっている。

 アルフェはゲートルードを伴って、深淵の際に向かい歩を進めた。ここまで平静を維持していたアルフェだったが、この下に眠るものを想像して、彼女の胸も少しだけ騒いだ。


 ――……ああ、そうか。


 淵をのぞき込むと、その瞬間にアルフェは一つの確信を得た。七百年前にバルトムンクの結界が消失した理由が、彼女には理解できたのだ。

 ゲートルードが、アルフェの横でがくりと膝を突き、四つん這いになる。冷たい水に服が濡れる事も、彼は意識していないようだ。


「この空間は、一体……」


 ゲートルードの問いに、アルフェは答えた。


「この、闇の淵の底に、途方も無い力を持った獣が眠っているそうです」

「獣……、獣とは……」


 ゲートルードが呻く。

 太古の巨獣。深淵の魔物。その存在に、誰か名前を付けた者はあったのだろうか。


 ――ある。


 教会が、人々が、この獣の事をその名前で呼んでいる。


「神と呼ぶのが、相応しいのでしょうか」

「神?」


 ゲートルードは、まるで魂そのものが、そこに向かって引かれているかのように、淵に身体を乗り出している。


「この存在を恐れて、魔物は大聖堂の周りに近付けない。それこそが結界です。人間は、それを神の恩寵だと言っている」

「あ、ああ…………」


 ゲートルードは顔を覆う。彼の喉の奥から、何かが壊れたような声が響いた。

 アルフェは、崩れたゲートルードの横にしゃがみ込み、囁いた。慰めているような、唆しているような、そんな甘い声で。ゲートルードの壊れた何か、恐らくは信仰と呼ぶものの代わりに、彼の心に忍び込むように。


「博士、これが、あなたが知りたかった歴史の真実です」

「神が……? こんな…………、これが?」

「……可哀そうに。本当は、あなたも神を信じていたのですね、博士。でも、ご覧の通りです」

「う……」

「神など、居ません。この世のどこにも」


 この地の結界が失われた理由。それは、至極単純な事だった。

 ここには、キルケルの地下に満ちていたような、あの圧倒的な生命力を感じない。それはなぜか。答えは一つである。この深淵の底にいる巨獣は、既に死んでいるのだ。

 何百年も前に死骸になったというのに、今なおグラムを怯えさせた気配を放っている。確かにこれは、人間よりも遥かに強大なのかもしれない。しかし、それだけだ。やはりここに居たのは、単なる大きな獣であって、神では無い。それどころか、ディヒラーが言っていた悠久の存在ですら無い。

 寿命が来れば死ぬ、人間と同じ生き物だ。


「そんな、事が……」

「居ないのです、博士」


 聞き分けの無い子供に言い聞かせる母のように、アルフェは繰り返した。どこからかまた、ディヒラーが彼女を嘲る声がする。


 ――お前はこんな老人の心に付け込んで、残酷な事をしようとしているのか。


 ――いいえ、私はただ、自分の目的に適うように行動しているだけです。


 ――それが残酷だというのだ。お前はやはり、儂と同じだ。あの剣士を臣下に取り込んだのは、単なる芝居の結果に過ぎない。友の苦難を見過ごせないというのも、所詮は上っ面のきれい事だ。そんな事を言いながら、お前は結局、己の事しか考えていない。お前は人間の真似事をしているだけだ。お前はそういう生き物なのだ。


 ――それが、どうしたというのです。


 ――いや、儂は嬉しいのだ。お前はやはり、儂と同じだ。


 当然、そこにはディヒラーなど居ない。葛藤しているのは、他ならぬアルフェ自身の心だ。だが、彼女はそれに耳を貸さず、ゲートルードの肩を、優しく包み込むように抱いた。


「大丈夫です」


 聞く者の耳に甘く溶けるような声が、地下の大空洞にかすかに響く。アルフェに抱かれたゲートルードは、震えながら泣き始めた。


「大丈夫ですよ、博士」


 これで、ゲートルードは完全に折れた。この男は今後も、自分の要求を聞かざるを得なくなるだろう。これは、この旅の大きな成果だ。

 そんな利己的で、自己中心的な事を考えながらも、アルフェはほっとしていた。

 フロイドとグラムが、途中で引き返してくれたのは良かった。

 彼らはこんな事をしている自分を見たら、きっと軽蔑するだろうからと。

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