第181話
アルフェたちが部屋を取った宿屋のルーツは、なんと七百年もの昔にさかのぼる。それは、既に失われたバルトムンクの結界が未だ健在の時代であり、今は廃都市になった旧バルトムンク首都のダルマキアに、この宿の本店は存在した。その時から高位貴族や他国の王族も利用していたという、由緒正しき店である。アルフェたちは知る由も無かったが、しばらく前には神殿騎士団パラディンのロザリンデ・アイゼンシュタインもこの店に宿泊していた。
そんな宿屋だからして、支配人も従業員も、ここで働く人間は皆、「格式」というものを何よりも重要視した。フロントに居る従業員には、入ってきた客の品が宿の格式にそぐわないと判断すれば、入店を拒否しても良いという権限が与えられているくらいだ。
アルフェたちを応対したのは、そのフロントマンの中でも熟練の男だった。十代前半から二十年以上もこの宿で働いてきた事で、彼は相手がどんな格好をしていても、即座にその素性を見破る眼力を手に入れた。
そのお眼鏡に適ったのだから、アルフェの服装がただの町娘にしか見えなくとも、フロイドが埃まみれの泥まみれ、一見すれば血に飢えた殺人鬼にしか見えなくとも、一旦認められた宿泊が、取り消されてしまうという事は無かった。
情報屋組合の長、歴史学者ゲートルードに会いに来た二人だが、そのゲートルードは留守だった。冒険者組合に居る情報屋組合の一般構成員に確かめると、マスターはたまにそんな事があると言っていた。歴史研究の史料を集めるため、たまに数日姿を消す事があるのだそうだ。
アルフェが聞きたい情報は、ゲートルード本人に聞かねば話にならない。だからアルフェたちは、ゲートルードの帰りを、この宿で待つ事にした。
だが――
「何だ、これは」
フロイドは、部屋の中央にこれ見よがしに置かれた衣装掛けを見て、腕を組んで唸った。
彼の部屋は、アルフェの部屋に付属している使用人のための副室だったが、その床にすらくるぶしまで埋まりそうな絨毯が敷き詰められている。
「これに着替えろってか?」
これを部屋に置いていったのは、きっとあのフロントに居た慇懃無礼な従業員の指示だろう。フロイドはまるで、ここには居ないその男に向かって文句を付けるように、その服を指さした。
その服は、フロイドが着用している、丈夫さと動きやすさのみを重視した代物よりは、数段上等な服だった。この前もノイマルクで兵の仮装をしたが、それよりもずっと金がかかっている。それこそまるで、八大諸侯の近衛騎士が着ていてもおかしくないような服で、フロイドは昔を思い出してしまった。
――一泊程度なら見逃すつもりだったが、長居するつもりであれば、さっさとこの服に着替えて、せめて身なりだけはこの宿に相応しく整えろ。
あの従業員にそんな風に命じられた気がして、フロイドは眉をひそめた。
「馬鹿か?」
夜会や舞踏会に出るんじゃ無いんだぞと言ってはみたが、この部屋に居るのは、やはりフロイド一人なのだ。彼の苦情は誰も聞いていない。
「――ふぅ」
しかし、フロイドは諦めて着替えるつもりになった。今の自分は、アルフェを正式な主君に仰ぐと決めた身だ。ならば確かに、主君に恥をかかせるような真似は慎むべきだと彼自身も思う。アルフェに野宿は控えろと諫言するなら、まずは彼から常識というものを見せなければならない。そんな意識も働いていた。
「お待ち下さい、お客様」
だが、フロイドが着替えようと服を手に取ったところで、例の従業員がいきなり入ってきた。ノックはしなくて良いのかとフロイドは思ったが、この従業員が客だと考えているのはアルフェだけで、フロイドは敬意を払うべき相手の中に含まれていないのだろう。
従業員は、フロイドが手にした服を、丁寧な動作で横取りした。
「お着替えになる前に」
そう言う彼の後ろから、メイドが二人付いて来ている。メイドはハサミや櫛が乗った台車を、手で押していた。
「まずは、御髪を整えていただきます」
「馬鹿か?」
フロイドがそう言うと、メイドたちはびくりと震え上がった。だが、従業員は怯まない。彼は胸を反り返らせて、「整えていただきます」ともう一度言った。
「……好きにしてくれ」
フロイドは折れた。従業員は勝ち誇った表情で、二人のメイドに指示を飛ばす。
フロイドは椅子に座らされ、髪を切り、無精髭を剃られた。さらにその後は洗髪だ。部屋に個別の洗面台に連れて行かれ、ゴシゴシとやられ、みるみると泡が立っていく。出しゃばった香りなどは付いていないが、きっとこれも上等な石けんなのだろう。フロイドは、されるがままになっていた。
「浴室に、お湯を張らせていただきました」
洗髪が済むと、例の従業員が言った。つまり、風呂にも入ってこいという事なのか。俺はこれでもきれい好きだ、そこまで汚くはしてないぞとフロイドは思ったが、その時には既に、彼は抗議する気力を失っていた。
「分かった分かった」
そう言いながら、フロイドは贅沢の極みである個室用の風呂場に入る。彼は無造作に上着を脱ぎ捨てた。
「…………いや、ちょっと待て」
しかし彼も流石に、腕まくりをしたメイドが、たわしを持って脱衣所に入って来たので、下を脱ごうとしていた手を止めた。
「それくらいは自分でやれる」
そう言っても、年増の方のメイドは、客に対する笑みを崩さないままフロイドに近付いた。若い方のメイドはまだ見習いだったのか、半裸の男から少し目を逸らし、耳を赤くしている。そして、その後ろの方から例の従業員が入ってきて、有無を言わさぬ声でメイドたちに「やれ」と告げた。
◇
「くふっ」
今後の打ち合わせを行うために自分の部屋に現れたフロイドを見て、アルフェの口から奇妙な音が漏れた。
しかし、彼女は相変わらずの鉄面皮のままだ。美しい事は美しいが、どこか冷たさを感じさせる感情の見えない顔で、アルフェは部屋に備え付けの高級そうな椅子に座っている。自分の前に立ったフロイドに対して、滔々と淀みなく、彼女は指示を出した。
「ゲートルード博士が不在の間、それ以外の方向からも情報収集を行います。やはり、町に傭兵が増えた理由も気になりますから。まずは冒険者組合や商店を回って、聞き込みをしましょう。それから、川を往還する商船から話を聞いて、帝国諸領の状況も把握したいです」
彼女が町娘の服装のままなのは、例の従業員も、アルフェには召し替えを求めなかったという事なのだろう。どうして俺が駄目で、この娘は許されるのか。フロイドはアルフェの指示を聞きながら、そんな事を思い浮かべた。
「思ったのですが、あの傭兵たちは、ここの領主が呼び寄せているのではないでしょうか。あれほど多くを集められるのは、それ以外に考えられません。領主のゲオ・バルトムンクの情報も、何らかの形で得たいですね」
「了解しました」
「――うふっ」
フロイドが返事をすると、アルフェの口からまたもや、さっきのような音が漏れた。フロイドはむっとした顔で、主君に向かって抗議した。
「何です」
「いえ、何も」
「言いたい事があるなら、はっきり仰ればいい」
「何もありませんよ」
それからしばらく、沈黙が流れた。フロイドは不機嫌な顔のままで、アルフェは無表情を崩していなかったが、やがてアルフェの肩がぷるぷると小刻みに震え始めた。
「だから――」
「ちょっと待ってください」
言いたい事があるなら言え。むしろ、笑いたければ笑ってくれ。宿の従業員らによって、服装髪型を隙無く整えられたフロイドがそう言おうとすると、アルフェは唐突にうつむいて、手で彼の台詞を制止した。
「…………………………」
要求通りフロイドが待つと、アルフェはうつむいたまま沈黙した。彼女は何かを堪えている風だったが、その肩の震えは徐々に大きくなっていく。
「…………………………くふっ」
うつむいたせいで表情は見えなくなったが、アルフェが必死に耐えている様子が、彼女がもじもじとすりあわせている膝などから伝わってくる。しびれを切らしたフロイドは、口を開いた。
「もう良いか?」
「――あはっ」
そして、ついに耐えきれなくなったらしい。アルフェの口から、はっきり笑いと取れる声が響いた。うつむいたまま両手で胸を押さえ、あはははと、彼女はとても可笑しそうに笑った。
「そんなに、可笑しいですか?」
フロイドは聞いたが、その顔はもう不機嫌そうでは無かった。彼女の笑い方が珍しく屈託の無いものだったので、彼まで毒気を抜かれてしまったせいだろうか。
「うふふ――、もう止めて……喋らないで! 何ですかその格好!」
「宿の奴らに着せられました」
「あはははは!」
フロイドの格好のどこかに、それか、フロイドがそんな格好をしているというところに、彼女の笑いのツボに触れる何かがあったのだろう。顔を上げ、声を出して笑うアルフェは、まるで普通の年頃の娘のようだった。
「とても似合っていますよ。まるで、テオドールさんみたいです」
笑いの波が収まると、アルフェは目尻を指で拭い、そんな言葉でフロイドの服装を褒めた。テオドールというのはこの前に耳にしたが、一体どういう男だったのだろうかとフロイドは思った。
「本当に。そうしていると、立派な騎士に見えます」
「お褒めに預かり光栄です、とでも言えば良いのか?」
やはりこの宿に泊まるのは間違いだったかもしれない。そう思いつつ、フロイドは早口に言った。
「まあ、笑えるだろうが数日は辛抱してもらいます。宿を出る時、この服を脱いであの従業員の顔に叩き付けてやるのが楽しみだ」
「いいえ」
「ん?」
アルフェが首を横に振った意味が理解できず、フロイドは彼女を見た。アルフェの顔にはまだ笑みが残っていたが、それは先ほどのような面白がっている笑いではなく、目の前の男の何かを、肯定するような笑顔だった。
「大丈夫です。そのままで」
「……何が」
「その格好のままでも良いですよ。――あなたはちゃんと、立派な騎士に見えますから」
「な……」
アルフェの言いたい事を理解して、フロイドは、ふいと彼女から顔を逸らした。しかしそれは明らかに、ただの照れ隠しだった。
負け犬のままで居たくない。もう一度自分に、忠節というものを貫く機会を与えて欲しい。フロイドはそうやってアルフェに懇願し、彼女の正式な臣下に収まった。その事を念頭に置いて、今、アルフェは喋っている。
フロイドの騎士というものに対する憧れを、彼女は知っているのだ。今さらそれを誤魔化しても、無意味だった。
「お師匠様も、そうでしたから」
同じように、勇者というものに憧れて、その言葉に強いこだわりを持っていた人間を、アルフェは一人知っている。アルフェに勇者の話を聞かせてくれた時、その人は、笑わないで欲しいと彼女に言った。
だから――
「笑ったりして、すみませんでした」
アルフェは椅子から立ち上がると、丁寧な所作で深々と、臣下に向かって頭を下げた。
詫びられるような事ではない。フロイドはもごもごと、口の中でそう言った。それを聞いて、アルフェはまた微笑む。
「そうですね、私も」
そして彼女はスカートを軽くつまみ上げ、ふわりと拡げた。
町娘の服装をしていても、彼女の立ち姿には、気品を通り越したある種の高貴さのようなものが備わっている。所詮農民の出である自分とは、生まれ持ったものが違うのかもしれないと、フロイドはぼんやり考えた。
アルフェは言葉を続ける。
「実はこの部屋にも、宿の方が置いていった服があるんです。ちょっと、私には似合いそうにありませんが……。でも、この宿に居る間は、私もそれに着替えますね」
あなたの主として、せめてあなたに、恥ずかしい思いをさせないように。
その声はいつもよりも大人びていた。
フロイドは、窓から差し込む光に照らされたアルフェの笑顔を、まともに見る事が出来なかった。
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