不穏な気配

第166話

 その空間は全体が、天界を模して作られていた。

 天井からは十重二十重の金色の飾りが垂れ下がり、幾何学模様を描いた、巨大な窓のステンドグラスからは、七色の光が取り入れられていた。

 放射状に並べられた数百もの長椅子の間を、等間隔に並ぶ列柱。その柱には、翼の生えた天使や、神の御使いである空想の動物たちが彫られ、中央の階の上にある説教壇の向こうには、荘厳たる神の偶像が安置されている。

 さらにどこからか、厳粛なる楽の音と、ふくいくたる香りが漂ってくる。帝都にあるミュリセント大聖堂。それは神聖教会の総本山であり、北と南の両大陸における、信仰の象徴であった。

 その中央礼拝堂の説教壇に立ち、満座の聴衆に語りかけているのは、純白の法服に身を包んだ、白髪白髭の老人である。老人の名はクォンタヌス八世。当代の神聖教会総主教だ。


「先のノイマルク伯を破門した事は、私にとっても苦渋の決断でした」


 老齢でも、総主教の声には張りがあった。ゆったりとした手振りを交えながら、聞いている者一人一人と眼を合わせ、訴えかけるように、総主教は話した。


「しかし神を冒涜し、それ以上に、圧政で民を苦しめる者に対して、私は教会の長として、断固たる態度を示さなければなりませんでした」


 総主教はここで、先代のノイマルク伯ルゾルフに破門宣告を下した事について、その判断の正当性を主張していた。

 どうして彼が、わざわざそんな事をしているのか。それは、今日ここで行われている儀礼の内容が関係していた。


「新しい伯であるオットー殿は――」


 そこで総主教が差し伸べた手の先にいる者は、顔にまだ幼さが残る少年だ。総主教に誘導されたように、幾百の聴衆の視線は少年に集まり、少年は起立して深々と頭を下げた。

 彼、ルゾルフの義弟の息子であるオットーは、十三歳という若さにも関わらず、非業の死を遂げたルゾルフに代わって、次のノイマルク伯の座を継いだ。

 総主教の語りは続いている。


「――彼自身に何ら落ち度が無いにも関わらず、前伯の過ちを精算し、我々と共に、人々の信仰を守る助けとなりたいと、強くこいねがわれました」


 この語りは、教会の正当性と優位性を崩すこと無く、しかし同時に、新しいノイマルク伯の立場と自尊心を傷つけることが無いように、練りに練られた演説だった。

 市井の言葉で表現すると、今日の儀礼は、言わば教会とノイマルク伯の手打ち式だ。前伯の過ちを悔いたオットーが、敬虔にも、破損したキルケル大聖堂の修築や、各地の教会堂造営のために多額の寄進をした。その返礼として、新しい伯に手ずからの祝福を授けるため、総主教クォンタヌスはオットーを総本山に招いた。

 世間向けに、そういうもっともらしい理屈がこねられてはいた。しかし、とどのつまりは、教会との敵対関係を解消し、領内の混乱と外交関係の行き詰まりを改善するために、オットーが教会に莫大な資金を供出した。それだけの話だ。

 満座を埋めているのは、ノイマルク伯の関係者を始めとした、帝国貴族や有力商人、そして聖職者たちである。彼らのほとんどは、当然、総主教の語りに含まれているそうした意味を理解していた。


 しかし、それらの人々にとっても、伯に就任してすぐのオットー・ノイマルクが、教会に対して、これほど下手に出て来た事は驚きであった。

 寄進の件もそうだし、祝福を与えるという口実で帝都に呼び出されれば、一も二も無く参上する。彼のこのような、明らかに教会に恭順する姿勢については、ここにいる有力者たちの間でも、解釈の別れる部分があった。


「あの坊やの後ろ盾には、エアハルト伯ユリアンがいる。総主教にすり寄って見せるのは、あくまで上辺だけだろう。教会に寄進した金が、どこから出て来たと思う?」


 と言う者も居れば、


「いや、エアハルトの傀儡になることを望まないからこそ、教会に近づき、エアハルト伯を牽制する構えを示したのでは? 現にここには、エアハルトに近い者が一人も出席していない。金は、先代が貯め込んでいた私財を切り崩せば、どうにでもなったはずだ」


 と言う者も居た。

 しかしいずれにしても、この儀礼の場において、そういう事を大っぴらに口にする愚か者は存在しなかった。総主教が演説を終えると、聴衆たちは拍手の代わりに、目を閉じて神に祈りを捧げた。

 総主教の後ろには、二人の護衛騎士が直立している。この礼拝堂内で武器を帯びる事を許されているのは、僅かにあの二人だけ。即ち、神殿騎士団の総長カール・リンデンブルムと、同じく神殿騎士団のパラディン第六席、ケルドーン・グレイラントだ。

 パラディンであるケルドーンは言わずもがな、総長カールも一騎当千の実力を持つと言われる強者だ。二人ならば、どんな狼藉者がこの場に現れたとしても、瞬く間にその首を落とす事が可能だろう。

 神聖教会総主教と神殿騎士団総長、そしてパラディンが一人。この三名がここに居ること自体、教会側も、ノイマルク伯との関係改善に重きを置いているという事が読み取れた。

 そして、更に駄目押しとして――。


「おお……!」


 そんな抑えきれない感嘆が、堂内のあちらこちらから同時に漏れた。総主教が説教壇の横にずれると、奥の扉の一つが開き、そこから一人の女性が進み出てきたのだ。


「聖女様……!」


 金色の輝きをまとった聖女エウラリアが、供の娘たちに付き添われて、聴衆の前に姿を現した。数百年の時を生きると言われる癒しの聖女は、まさに存在そのものが神秘であり、神がこの世に在るという事の、何よりの証左に思えた。

 ある老貴族は、彼女の姿を見て堪えきれずに涙を流し、別のある聖職者は畏れのあまり、周囲に構わず椅子から降りて、床に膝を突いた。若きオットー・ノイマルクも、聖女の姿に心を打たれたように、瞬きもできずに目を見開いている。

 そして聖女の隣で、総主教は慈しむような笑みを浮かべていた。

 さっきまで俗界の勢力図について考えていた人々も、この時だけはそれを忘れ、己の中に信仰の光が沸き起こってくるのを感じていた。



「今日はお疲れ様でした」

「いえ」

「あなたの目から見て、オットー殿はどうでしたか」


 小さな祭壇のある祈りの室で、にこやかな表情を崩さずに、総主教は尋ねた。質問を受けたのは神殿騎士団総長のカール・リンデンブルムである。

 少し細身の長身に、肩ほどまである、波打った暗い茶色の髪。カールの年齢は三十代後半で、パラディン筆頭のヴォルクス・ヴァイスハイトと、ほぼ同年だった。騎士服の背中に羽織った緋色のマントには、騎士団の紋章が大きく刻印されている。

 総主教とカール以外、この部屋の中には誰も居ない。パラディンのケルドーンは、外の扉の前で、怪しい者を近づけないように目を光らせているはずだ。その日予定されていた儀礼は全て、既に滞りなく終えられた。今は夕べの祈りの時間である。しかし、総主教は祈りの手を止めて、総長カールと会話していた。


「子供です」


 カールの言葉は、見たままを表現したようでもあり、それ以上の何かを伝えているようでもあった。総主教は頷いた。


「帝都滞在中のオットー殿のもてなしには、あなたにも気を配って頂きたいですね。オットー殿の信仰を、より確固たるものにするために」

「承知しました」


 カールはそう答えると、直近に控えている他の儀礼の話をし始めた。


「五日後は、新しい団員の任命式ですが、総主教様は」

「もちろん出ますとも。その方が、彼らにとっても良いでしょう」

「ありがとうございます」

「そこにオットー殿を招くのも良いかもしれません。信仰に身を捧げる高潔な神殿騎士の姿を見れば、オットー殿のような少年には、必ず感じるものがあるでしょうから」

「はい」


 総主教の言葉は、どこか婉曲的だった。

 それが純粋な信仰心に基づくものなのか、それとも単に新しいノイマルク伯を取り込もうとして言っているのかは、彼の心を直接覗かない限り、判別する事は不可能だろう。


「結局、エアハルト伯は来ませんでした」


 カールの言葉に、総主教は、残念ですと表情を曇らせた。


「ぜひユリアン殿にも、出席していただきたかった」

「どうやら、あの男に恭順の意思は無いようですね。オットーのような子供とは、やはり違う。だからこそ、オットーを一人でここに寄越した事が不可解ですが。……随行の者たちの身元を、早急に調べ直す必要があります。何かを、潜ませているのかもしれない」

「総長殿、ここは神の御前ですよ。不穏な言葉は、慎まなければ」

「…………失礼しました」


 頭を下げようとしたカールを、総主教は手で制した。


「いえ、言い過ぎました。あなたも信頼する団員を喪って、気が立っているのでしょう」

「……エドガーの事は、まだ調査中です」

「…………」

「誰が封印を開けたのかという事だけは、およそ確定しました。一時的にせよ、あの封印を破れる人間は限られている。トリール伯の子飼いだった、ライムント・ディヒラーという幻術士です」

「……なるほど」

「だが、エドガーを殺したのは、その幻術士ではない可能性が高い。と言っても、乱入してきた破門者のベレン・ガリオは、エドガーに討たれたはずです」

「しかし、遺体は消えている」

「持ち去った者が居ます」

「……探しましょう。その者が行った事は、許しがたい大罪です」


 心当たりは有るのかと、総主教が目で問うた。

 カールはそれに頷いた。


「銀髪の、若い娘が居たと」

「娘……? ……それは、その幻術士が見せた幻ではなく?」

「否定はできませんが、有力な証言です。……証言を取ると同時に、あの日、大聖堂に居た者は、順次入れ替えを行っていますので、ご心配なく。入れ替えた者が、次に行く場所はどこにも無い。“あの奥”を目にした可能性がある者は、この世のどこにも存在してはいけないのですから」

「カール総長」


 総主教から強い調子で名を呼ばれて、カールはぐっと言葉を詰まらせた。

 温厚な笑みの向こうで、総主教の瞳が怪しく光っている。


「だれが聞いているのか、分かりません。その話を、してはならない」

「……はい」

「ですが、あなたの言う通りです。そんな者は、存在してはいけない。あなたには、然るべき処置を望みます」


 私は祈りを再開しなければ。そう言うと、総主教はカールに背中を見せ、祭壇の前にひざまずいた。そして、カールはその背中をしばらく見つめた後、祈りの室を出た。

 表に立っていたケルドーンは、カールが出て来たのを見ると目礼した。

 ケルドーンとその麾下は、総主教と聖女の護衛が主な任務である。カールはこれで大聖堂を去るつもりだが、ケルドーンは総主教が祈っている間、この場に何時まででも立ち続けるはずだ。


「ご苦労」


 カールは一言ねぎらいの言葉をかけた。するとケルドーンは、無言で姿勢を改める。

 供回りの一人も連れず、カールは騎士団本部に戻った。


 自室に入ると、カールは緋色のマントを外し、椅子の上に投げた。そして立ったまま、机の上にある開きっぱなしの書簡を手に取る。

 その書簡の差出人は、騎士団の重鎮、ディートリヒ・アイゼンシュタインだ。内容は、彼の娘のロザリンデと、パラディンのシモン・フィールリンゲルの婚約を認めるよう、カールに迫ったものである。

 騎士団内に閨閥を生む危険が有るとして、パラディン同士の婚約を認めようとしないカールに対し、それは横暴だと、ディートリヒは訴えている。


「――ふん」


 カールはその書簡を、再び机上に投げ戻した。

 そして次に手に取ったのは、エドガー・トーレスが死の前に送ってきた、ノイマルク領における調査結果である。


 ――もしもイジウスが死霊使いに殺されたのだとしたら、その穢れた術の痕跡は、必ず残るはずです。ですが、イジウスが殺害された現場に、総長の言われたような兆候は有りませんでした。エアハルトで起きたと言われるアンデッドの出現と、イジウスの死には関係が無いと考えざるを得ません。


 何度読み返しても、文面は同じだ。

 そしてこの手紙を寄越したエドガーは、直後にキルケル大聖堂において果てた。カールは自分に忠誠を誓うパラディンを、これで二人失った事になる。

 トリール伯に小さな恩を売ろうとして、逆に重大な損失を被ってしまった。トリール領内の交易利権を、ほぼほぼ教会の手中に収める事ができたとは言え、それでは全く釣り合わない。先ほど総主教に話した理由以外に、そういう意味でも、カールはエドガーを殺した相手に対する憤りを感じていた。


 ――銀髪の娘。


 既に候補は数人に絞られた。そしてその全員に対し、カールは総主教の言うところの「然るべき処置」をしようと手を打った。

 だがしかし、カールにとって、本当に考えるべきはそんな娘の事ではない。実際にその娘がエドガーを殺したのだとしても、そうなるように仕向けた人間が、娘の裏に必ず居るに違いないのだ。


「ヴォルクス……」


 窓際に立ったカールは、己と共に神殿騎士団を支えるパラディン筆頭の顔を思い浮かべ、掌中にあるエドガーの書簡を握り潰した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る