第150話

 領境に近いトリール伯領の最南部に、小島のようにぽつんと浮かんだ教会領、その中央に、それはあった。天に向かって荘厳にそびえるいくつもの尖塔と、巨大なドーム状の屋根。広大な敷地内には、よく手入れされた庭園が広がっている。

 これこそがキルケル大聖堂。帝国各地にある大聖堂の一つ。トリール・ノイマルクとその周辺の結界を司る、神の座所である。

 ここのすぐ南では、トリールとノイマルク両軍の戦いが始まっているというのに、キルケル大聖堂の周囲は、聖域特有の静寂に支配されていた。


「頼む! トーレス卿への目通りを願いたい!」


 しかし、大聖堂を囲む高い塀、その閉ざされた門の外から、静寂に似合わぬ叫びを上げる者がいる。


「頼む、トーレス卿を! 俺は、ベレン・ガリオだ!」


 ベレンの姿は、全身が泥と土埃に汚れきっている。その中でも特に足元の汚れがひどいのは、ここまで駆け通してやって来たためだろうか。

 俺はベレン・ガリオだ。ノイマルクのベレンだとも、将軍であるとも、彼は名乗らなかった。それは、身分を隠すためではない。名乗る資格が無いからだ。

 筆頭将軍という責任有る立場の者が、私的な理由で勝手に戦線を離れたのだ。普通の兵でも罰を受けるところを、仮にも将軍であった自分が許される訳が無い。自分に下される罰は極刑が妥当だと、ベレンは思っている。

 そして、首を切られるなら受け入れよう。ただ、その前に一つだけ願わせて欲しい事がある。そのためだけに愛馬を潰し、その後は自分の脚で走って、彼はここまでやって来た。


「俺の妻子が、ここに連れて来られたはずだ!」


 数日前、前線の陣中にいたベレンのもとに、何者かから文が届けられた。

 リーネルンの町に住む彼の妻子が攫われ、キルケル大聖堂に連れ去られたという。差出人は不明だが、トリール女伯の差し金であることに疑いは無かった。

 家族の命が惜しければ、誰にも知らせず、一人で大聖堂まで来い。そんな決まり文句が、そこには書かれていた。

 幕舎で一晩、血を吐くほどに悩んだ。しかし最終的に、ベレンは部下たちを見捨て、家族を助けに行くことを選んだ。


「頼む!」


 破門者が大聖堂の門を叩く。これ自体が神と教会に対するひどい冒涜である。だが、ベレンは希望を抱いていた。

 女伯が大聖堂にベレンの妻子を連れ込んだのは、こうして彼に教会の禁を犯させ、あわよくばパラディンのエドガー・トーレスと戦わせようという算段に違いない。しかし、この前に直接顔を合わせた事で、ベレンはエドガー個人の人柄を知った。パラディンとは思えぬほど気弱で腰が低いが、エドガーは、穏やかで礼儀正しい常識人だ。喪った同朋に対する思いやりも持ち合わせていた。

 いくら自分が破門者であろうとも、何の罪も無い妻子を拐かすという無道が、世の中にまかり通るはずが無い。その事を、エドガーならば話せば分かってくれる。

 だからベレンは、こうして喉を枯らす程に叫び、エドガーへの目通りを願っている。そして彼は、エドガーの前にひざまずき、家族を返してくれるよう、額を地面にこすりつけて頼むつもりだった。その引き換えにエドガーが自分の首を要求するなら、それすらも喜んで差し出すつもりだった。

 ベレンは将軍の鎧を着ていない。馬への負担を減らすため、そんな物は置いてきた。平服を着た彼はただ、愛用の大剣だけを携えている。伯への忠誠の証であるこの剣も、エドガーが望むなら、差し出してもいい。


「クラリッサ! イエルク!」


 ベレンが門の鉄柵を掴むと、太い鉄の棒が指の形にひしゃげた。


「俺だ、ベレンだ! 返事をしてくれ!」


 かなり長く呼びかけているのに、教会の者は誰一人出てこない。よく手入れされ、形を整えられた緑の前庭にも、人っ子一人見当たらない。叫んでいるベレンを除けば、周囲は恐ろしく静かだった。

 いっそ無理矢理にでも押し通るしかないのか。ついにベレンは剣の柄に手をかけた。次の瞬間には大剣が抜き放たれ、鉄柵が何の抵抗もなく切り払われている。ベレンは大聖堂の敷地内に押し入った。

 前庭の中央には噴水があり、その奥に大聖堂正面の大扉が見える。ベレンが噴水の手前まで来たところで、噴き出す水の向こうに、ゆっくりと扉が開いていくのが目に入った。


「トーレス卿!」


 出て来たのは、パラディンのエドガー・トーレスだ。さらにその後ろに、十名ほどの神殿騎士が付いている。あれは、エドガーの麾下である。


「トーレス卿……?」


 法服と一体化した、白を基調とした神殿騎士の鎧に、凧状の盾とスパイク付きのメイス。エドガーを始め、神殿騎士の面々は完全武装している。

 その様子に不穏なものを感じ取ったベレンだが、それは当然なのだ。今の自分は不法に大聖堂に侵入しているのだから。だがこうして出て来てくれた以上、男同士、腹を割って話せば通じるはずだ。ベレン自身がそういう男であったため、彼は、他の人間もそうであると信じていた。


「トーレス卿、俺の妻と子供が、ここに居ると聞いた!」


 神殿騎士たちは、エドガーを中心に両翼に広がった。

 ベレンは手に持っていた大剣を石畳に突き刺し、膝を突いてエドガーに訴えた。


「トリール伯ヨハンナの奸計だ! あの女が、俺の妻子を攫ったんだ! ……確かに俺は破門を受けたかもしれない。だがそれで、家族にまで害を及ぼす道理があるだろうか!」


 エドガーは門前の階の上から、黙ってベレンを見下ろしている。


「俺に償えることがあるなら、何でもしよう。破門者が許せぬというなら、俺の首をくれてやる! だが、クラリッサとイエルクだけは助けてくれ!」

「…………」

「トーレス卿、教えてくれ! 二人はここに居るのか……? トーレス卿!! 居るんだろう!! 答えろ!!」

「その二人なら、確かにここに運ばれてきた」


 エドガーが初めて口を開いた。


「トリール伯の家臣が連れてきた」

「――やはりか! お願いだトーレス卿! 俺は教会に対し、何一つ含むところは無い! あの二人も敬虔な信徒だ! だから――」

「私は神に仕えている」


 エドガーの発する言葉はこれまでと違い、抑揚の無い、高圧的な声だった。


「そして、神の代行である総主教様の命に従っている。神殿騎士として、パラディンとして」

「トーレス卿」

「ベレン・ガリオよ。貴様は教会の意志に反した、背教者だ」

「何を、言っているのだ……」

「背教者に対し、かける慈悲を私は持たない」


 議論の余地は無い。すぐにそう理解できるだけの、有無を言わさないものがその台詞には込められていた。

 狂信。そう表現するべき、エドガーの瞳にある暗い光を、ベレンは見た。


「だが、クラリッサとイエルクは――!」

「黙れ」

「――――ッ!」

「背教者の家族も、背教者である。今頃は、もう死んでいるだろう。貴様にも後を追わせてやる」


 その断定により、議論は完全に打ち切られた。

 押し黙ったベレンは、唇をわななかせた後、ゆっくりと立ち上がり、地面に突き刺していた剣を抜いた。


「……たとえ」

「我が名は、栄光ある神殿騎士団パラディン第九席、エドガー・トーレス! 神の御名において、総主教様より賜りしこの神盾にかけて、これより背教者ベレン・ガリオに、鉄槌を下す!」


 エドガーの言葉と共に、彼の両翼にいる騎士たちは一斉に盾を構えた。盾に刻まれた神殿騎士団の紋章に、魔力の光が宿る。


「……たとえお前たちを」


 それを前にしたベレンの瞳には、既に憤怒の炎が燃えていた。


「せめて苦しんで死ぬがいい。神と教会に反抗した愚か者よ」

「お前たちを皆殺しにしても、俺は二人を、取り戻してみせる!!」


 そうして、ベレンとパラディンの死闘は幕を開けた。



「始まったな」


 大聖堂内部のとある部屋で、ベレンがつぶやいた。

 前庭のある方角から、凄まじい音と振動が伝わってくる。

 ようやく、ベレンとエドガーの戦いが始まったのだ。


「ベレンとパラディン、どちらが勝つかも面白い見世物だが……、今はそんな事より、はるかに重要なものがある」


 ここで喋っているベレンは、外で戦っているベレンとほとんど同じ外見をしている。声も匂いも、肌に刻まれた古傷も、全てが同じだ。ただ、服装だけは違う。外のベレンが鎧を着ていなかったのに対して、このベレンは将軍の鎧を身につけている。


「本当に、人間というのは愚かなものだ……。つまらん縁に振り回されて、死地と承知しながら踏み込んでくるとは。……なあ?」


 このベレンは、同意を求める目を、自身の眼前の床に転がされている二人に向けた。その二人とは、ベレンの妻子であるクラリッサとイエルクだ。二人はリーネルンの屋敷に居た時と同じ部屋着姿のまま、この石牢のような部屋に押し込められていた。

 二人の前に居るベレンは、当然本物のベレンではない。本物は今、二人を取り戻すために外で必死に戦っている。ここに居るように見えるのは、トリールの幻術士ライムント・ディヒラーの幻影だ。


「今すぐに、あの人の姿をやめなさい。吐き気がします」


 拘束されて身動きが取れないながらも、息子であるイエルクを後ろにかばうようにしながら、クラリッサが気丈な目をディヒラーに向けた。イエルクもまた、母を守るために前に出ようと、幼い力で踏ん張っている。

 その姿を見て、ベレンのようなものは歪んだ笑みを浮かべた。


「そうよなぁ。家族の愛は、なんと素晴らしいものか。お前たちはそう思っている。……だが、儂のように長く生きると、そういったものも幻に過ぎないことが分かる。いや、この世に確かなものなど何も無い。全ては幻のようなものだ」

「私たちをどうするつもりですか」


 恐れと震えを隠し、クラリッサは言った。

 この、夫の姿をかたどったおぞましいものが彼らの家に現れた時、クラリッサは不覚にも、本物のベレンであると騙され、家の中に招き入れてしまった。しかし、彼女の息子はすぐに見抜いた。「これは父上じゃない」とイエルクが大声を出した時には、既に遅かった。

 攫われた二人を乗せた馬車は、まるで誰の目にも映っていないかのように、堂々と街道の中央を走ってここまで来た。

 自分たちが夫をおびき寄せるための人質であることは、クラリッサも承知している。いざとなれば、夫が全てを捨ててでも、自分たちの命を優先するであろうことも分かっている。

 だからこそ、彼の足手まといにはなりたくない。何よりも彼の誇りを守るために、本当ならば自ら命を絶つべきだった。殺すなら殺せと言うべきだった。

 しかしクラリッサがそうしなかったのは、ひとえに二人の息子であるイエルクの存在があったからだ。そしてまだ夫には話していない、新しい命が彼女の中に宿っているからだった。


 外から響く激烈な戦闘音は、クラリッサの耳にも伝わっている。

 彼女の夫はもう、彼への罠が仕掛けられたこの地に来てしまった。

 クラリッサには、涙が出るほどにそれが嬉しく、同時にたまらなく悔しい。


「お前には、もう用は無い」


 ディヒラーは言った。それはそうだろう。ベレンをおびき寄せるという彼らの目的は果たされたのだ。従って、既に人質は不要であり、生かしておく意味はどこにも無い。

 だが、ディヒラーはクラリッサに対し、「お前には」と言った。「お前には」とわざわざ限定する理由は何か。それはすぐに分かった。


「ヨハンナの目的は、これで達成されるだろう。義理は果たした。ここからは、儂の目的のために動かせてもらう」


 ディヒラーはそう言うと、幼いイエルクの腕を掴み、引っ張り上げた。クラリッサはあっと叫び、イエルクも身をよじって抵抗するが、それは空しく終わる。


「この魔力……、やはり、ベレンの血か」

「やめなさい! やめて! イエルク!」

「母上!」

「直感で儂の幻影を見破れる素養の持ち主など、そうはいない。これを触媒にすれば、この聖堂の封印を騙すこともできるかもしれん。――これでようやく、儂の悲願が達成される。この大聖堂の真の姿を、この目にすることが出来るのだ」


 母子の悲痛な叫びを無視し、ベレンの姿をしたディヒラーは、満足そうに微笑んだ。

 石牢の扉の前では、エドガーから、ベレンの妻子を処分するよう指示を受けた神殿騎士が、苦悶の表情を浮かべて絶命している。それをしたのは他でもない、ここに居るディヒラーだ。

 このディヒラーという男は、明らかに主人の命令の範囲を越え、暴走していた。

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