第149話

 首都ムルフスブルクの自邸で、トリール伯ヨハンナは、一人言い知れぬ不安を感じていた。


 全てがヨハンナの思う通りに進行している。

 教会総主教や神殿騎士団総長に根回しをし、ルゾルフとベレンを破門させることに成功した。大分金を使ったが、それはいい。上手くベレンを罠にはめることができたのだから。

 これでベレンを排除するための策は、次の段階へと移行した。ベレンさえ居なくなれば、ノイマルク軍など残り滓に過ぎない。ノイマルクで本当に厄介なのはあの男だけで、ルゾルフまで破門させたのは、むしろおまけだ。

 そう、策は上手く進行しているのだ。ヨハンナは館に居ながらにして、手を汚す事無く戦況を優位に運ぶ事に成功している。しかしそれなのに、ヨハンナは何故か不安だった。


 若干の不確定要素はある。エドガー・トーレスが、ヨハンナの思い通りに動くだろうかというのがそれだ。あれは、見かけの冴えない、頼りなさそうな男だった。しかしあの男が正真正銘のパラディンであることは確認してあるし、どんな性格なのかも詳しく調べさせた。それで確信したのだ。間違い無く、エドガーはヨハンナの思い通りに動き、ベレンと戦う。

 計画が計画した通りに進んでいるのに、自分はどうしてこんなに不安を感じているのだろう。一人きりの会議室で、軽く頬杖を突きながら、ヨハンナは考えた。


 ベレンの妻子を攫わせて、一人でトリールにおびき寄せ、孤立したところを討ち取る。この計画の大枠を定めたのはヨハンナだ。だがディヒラーの献策により、攫った妻子を運び入れる場所は、キルケル大聖堂になった。

 大聖堂は教会領だ。そこに破門されたベレンがやって来れば、エドガーは絶対に迎撃する。その主張にはヨハンナも頷いた。仮にエドガーがベレンに敗北しても、将軍が教会領に殴り込んだという事実は、ノイマルクにとって致命的な汚点になる。それも確かだ。

 大聖堂にベレンをおびき寄せるという案は、元々ヨハンナの頭の内にあった。しかし、教会の最重要施設をそのような謀に利用する事で、教会勢力との関係にヒビが入る可能性も危惧していた。

 だが、ディヒラーは策の舞台として、積極的に大聖堂を推し、だからヨハンナも決意した。


 ――爺やはどうして、あれほど大聖堂にこだわったの……?


 ヨハンナが“爺や”と呼ぶ、幻術士ライムント・ディヒラーは、大聖堂に対して妙な執着を見せていた。あの奥に自分の見たい真実があるのだと、彼が叫んだ時の異様さを、ヨハンナは覚えている。

 臣下ながら、元々得体の知れないところがある男だったが、あの時はヨハンナをして、寒気を感じて身震いさせる異常さ、異質さがあった。

 ディヒラーが見たいという大聖堂の奥にある真実。それは恐らく、教会が秘匿している結界の秘密だ。帝国では教会が、他国では王族のみが知るという結界の秘密。それに固執するディヒラーが、大聖堂を戦いの場にするために、無理を言った。そういう可能性は無いだろうか。


 ――ちょっと考えすぎね。


 ヨハンナが鼻で笑ったのは、己の心の内に有る不安を吹き飛ばすためだ。

 策を弄しすぎるなと、ディヒラーには言われた。あの時は一笑に付したが、策を弄しすぎるせいで、己が無闇に疑り深くなっているという部分は、もしかしたらあるのかもしれない。この不安はそのせいだと。

 仮にディヒラーが、戦いのどさくさに紛れて教会の秘密をのぞき見るにしても、あの男ならば上手くやるだろう。あの男が本気で偽装すれば、パラディンでもそれを見破るのは難しい。

 教会権力との関係も盤石だ。総主教と騎士団総長は、ヨハンナが自分たちの野望のために、無くてはならない存在だと知っている。多少の関係悪化があったとしても、十分に取り返せる。


 ――爺や以外は、全て私の手のひらの上で踊っている。何を不安になることがあるの……?


 ヨハンナは、自分にそう言い聞かせた。



「多分もう、トリール領に入っている! 教会領はすぐだ!」


 鞍の上からフロイドが叫んだ。アルフェはフロイドの背中越しに、その声を聞いた。

 街道から外れた草原を、二人を乗せた黒馬が全速力で駆けていた。手綱を取っているのはフロイドだ。アルフェはフロイドの後ろで、その腰にしがみついている。文官の、ベレン一家を助けて欲しいという依頼を受けてすぐ、二人は馬のイコに跳び乗って、グロスガウ砦を出立した。それから夜通し疾駆し、ついに朝になった。


 ノイマルクからトリールに入ったからといって、風景は似たようなものだ。特に、アルフェたちは街道を使わず、草原の真ん中を突っ切ってきた。人里がまばらな地域だから、領境を越えたかどうかは推測するしか無かった。

 既にトリール領に入ったようだが、まだ、アルフェたちの道を遮る者は現れていない。だが、長大な領境に沿った、全ての地域に警備を配置することはできないだろうし、軍勢の移動ならともかく、馬一頭が駆けていても気付かれないのが普通なのかもしれない。それならそれで好都合だ。

 もちろん油断はできないだろう。だが、仮にトリールの警戒兵に見つかっても、アルフェたちはただの冒険者である。ただの冒険者である自分たちがトリール領に入ったからと言って、咎められる道理は無い。アルフェはそう開き直っていた。


「アルフェ! イコがもう限界だ!」


 またフロイドが叫んだ。アルフェは自身の股の下にある、汗に濡れた黒馬の背中に触れる。手のひらから、激しい筋肉の動きと、どうしようも無い疲労が伝わってくる。フロイドの言う通り、イコの体力は限界に来ている。

 しかし、イコもアルフェの想いを受け取ったのだろうか。フロイドが鞭をくれるたび、前にも増した速度でイコは駆けた。

 フロイドはイコを気に入っていた。都市バルトムンクで馬飼からイコを買ったのはこの男だし、ノイマルクに来てからも、この男がずっとイコの世話をしていた。

 しかし、フロイドがイコに足並みを緩めさせる気配は無い。彼はアルフェの命令を、イコの命に優先しようとしている。イコもそれに従って、潰れるまで走り切るかもしれない。


「――降ります!」


 フロイドが次に何か言う前に、アルフェは地面に飛び降りた。彼女はすぐに、馬と同じ速度で併走を始めた。


「ここからなら、走った方が早い! 後から追いつきなさい!」


 既に、大聖堂に至る道の、半ば以上まで来ているはずだ。ここから全力で駆ければ、自分の脚の方が速い。体力も、きっと保つ。アルフェは脚に魔力を込めた。

 爆発的な加速を受けて、アルフェは走った。フロイドとイコの姿が、みるみると後ろに遠ざかっていく。イコが力尽きたように倒れ、フロイドが介抱を始めた。しかし、アルフェは振り返らない。

 時間的に考えれば、ベレンはアルフェたちよりも、ずっと早くに大聖堂に向かって出発した。下手をすると、彼はもう大聖堂に到着している頃合いだ。しかし位置関係で見れば、アルフェたちのいたグロスガウ砦の方が、大聖堂までの距離は短い。しかもベレンは前線にいた。ノイマルク、トリール両軍の目をかわして進むのは、かなり手間取るはずだ。追いつく希望があるとすれば、その辺りか。


 ――もっと、もっと速く走れる! もっと!


 自分はまだ限界ではない。

 繰り返し念じながら、アルフェは走った。

 間に合う。きっと間に合う。間に合わせてみせる。


 アルフェは走りながら、いつか師と一緒に、ベルダン近くの魔の森に入った時のことを思い出した。

 あの時は、道場の大家であるローラの病気を治すため、二人で治療薬の材料を採りに行った。最初コンラッドは躊躇っていたが、どうしてもローラを助けたいと、アルフェがだだをこねたのだ。

 アルフェを森に置いて、大山脈まで駆けていく彼の後ろ姿。誰よりも頼れる、あの分厚い背中を追いかけるイメージで、アルフェは脚を動かした。

 ぐん、と、アルフェの速度が一段上がる。彼女が追い抜いた木々が、枝を揺らし葉を散らした。


「な、何だお前!」


 茂みを突っ切り街道に出たところで、川があった。橋が架かっており、数人の兵がそこを守備している。兵の武装が、ノイマルクとは少し違う。やはり、もう既にトリール領に入っていた。


「止まれ! そこで止まれ!」


 遠方から迫るアルフェの姿を見て、兵が顔色を変え、止まれと叫んでいる。

 だが、アルフェに兵と問答をする暇など無い。戦う時間も惜しい。アルフェは橋に向かうのをやめると、速度を殺さずに方向転換し、大地を蹴って、跳ねた。


「な――」


 川の幅は百歩ほど。空中で銀の髪をたなびかせて、アルフェの身体はその川を一足で飛び越えていく。トリール兵はただ口を開けて、少女の跳躍を眺めていた。

 対岸で着地すると、地面をガリガリと削り、アルフェは止まった。


「――――ッ!」


 そしてすぐに顔を上げ、再び加速する。土が魔力に跳ね上げられ、街道に大穴が開いた。

 その時、アルフェの表情が少し変わった。足元から、彼女にしか聞こえない音が伝わったのだ。ばきりという鋭い金属音。アルフェの履いている鋼のグリーブが、悲鳴を上げている。

 このグリーブは、アルフェが駆け出しの冒険者だった頃に買った。ベルダンからずっと使ってきた、思い入れのある品だ。あの町での思い出が残った、数少ない大切な品だ。今度壊れたら、きっともう修復はできない。でも、脱ぐ暇だって無い。

 気にするな。これはただの「物」に過ぎない。今はそれより、優先するべきものがある。そうやって、アルフェは己に言い聞かせた。彼女の目からこぼれた一粒の光るものは、速度に比例して増していく風圧に、飛ばされて消えた。


 丘などの起伏を避けて、草原や林を駆け抜ける。いくつかの村を通り過ぎた。小さな町もあった。家畜の群れを跳び越そうと、露天を蹴倒し、通りを歩く人間を突き飛ばそうとお構いなしだ。

 大聖堂の方角は、こちらで正しいはずだ。アルフェは足を止めず、ひたすら走った。そうしていると、周囲から、そして彼女自身の心からも、余計な雑音が消えていく。


 ベルダンに居たときのアルフェは、誰かを助けたいと思った時、助けたいと素直に口にできる人間だった。口にしたら、すぐに行動に移してしまう人間だった。実際、それで命が助かった人もいる。大家のローラや、リアナたち幼い姉弟がそうだった。

 しかしいつしか、アルフェはそういう事を口にしなくなった。報酬のためとか、自分の目的のためとか、何か己を納得させられる理由を見つけなければ、他人のために動けなくなった。

 城から出たばかりの彼女には、何もなかった。その頃の彼女は、無知だった。無知ゆえにこそ無謀な行動が取れたのだと、言う事はたやすいだろう。

 そして、あの頃に比べれば、アルフェは世界について多くの事を知った。


 一番大切な人を奪われて、この世界が理不尽だという事を知った。各地をさまよう中で、人の心が醜いという事も知った。そして何より、アルフェは自分自身が、ひどくどうしようもない生き物だという事を知った。

 魔物とは言え、生きているものの命を簡単に奪い、敵対する人間も容赦なく殺してきた。どうやらそれが異常な事だと、理屈では分かるのに、罪悪感を覚えることができない自分に戸惑った。

 きっとこれからも、アルフェはそうする。師であるコンラッドの無念を晴らすまで、障害になるものは実力で排除する。自分が生き延びるため、邪魔なものは喰らってでも進む。それは変えられない。

 ならばしかし、そんな自分が、誰かを助けたいなどと、白々しく言う事は許されるのか。あのイエルクという少年が、怯えた目で自分を見たのは正解だった。汚れた化け物である自分には、誰かのためにと口にする資格など無い。


 走る内、そういった雑音の全てが、そういった悩みの全てが、加速する風景と一緒に、アルフェの心の中から飛ばされていく。

 そして雑音が消えた先に、残った思いは一つだった。


 ベレンとその家族のもとに、彼らが無事な間に、一秒でも早くたどり着く。


 それだけだった。

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