第145話
家出をして一人旅をしていた頃の彼女は、自らの所属を偽っていたが、本来のステラ・サンドライトは、神聖教会に所属する治癒士である。両親が死んで、彼女の兄マキアスが騎士団に入ったように、ステラは、幼い頃から教会で治癒士としての訓練を積んできた。
教会付きの治癒術士は、傷病人の治療だけを行っていれば良いというのではない。時には必要に応じて、教会儀礼の手伝いもしなければならないし、聖職者たちから神学の講義を受けることもある。
教会はあくまで、民の心の平穏を守るための信仰の砦だ。治癒を施すのは、その行為を通じて神の恩寵を信徒たちに分け与えるためであり、ステラたち治癒術士もまた、神の御使いとして、それに相応しい教養と振る舞いが求められるのだ。
結界の力と、治癒術の行使。この二つが、教会という組織の権威を裏付けている二本柱だ。さらに言えば、教会の行う治癒は、信徒に寄進という名の対価を要求する。これが教会の主たる収入源になっているという、現実的な側面も否定はできない。
ステラはその日、帝都の大聖堂で行われた、ある儀礼に参加していた。
今日は聖女エウラリアが、一般信徒たちの前にその御姿を見せる日だ。聖女はその奇跡とも言える治癒の力を、参列した信徒たちに惜しみなく与える。がめつい教会職員も、今日ばかりは寄進という言葉を口にしない。
口さがない者たちは、「信者にもたまには飴が必要だからだ」とか、「誰でも参加できると謳っているが、貧民が席に並んでいるのを見た事は無い」とか、そういうことを言うだろう。
だが、これはあくまで、教会の寛容さゆえに催される行事なのだ。さっきのような疑問を、以前ステラが神学の講師に投げかけたときには、そういう答えが帰ってきた。
「お疲れ様でした、エウラリア様」
儀式が終わり、聖女が控えの間に戻ってくると、ステラは他の娘たちと声を揃えて、聖女に対して深々と頭を下げた。
今日のステラの役目は、聖女の側仕えと雑用である。教会組織のあり方には、色々と疑問を持っているステラだったが、彼女も聖女エウラリアに対してだけは、あれこれ言うつもりはない。エウラリアは治癒の技能的にも人格的にも、無条件で尊敬できる人間だと、ステラは思っていた。
「ありがとうございます、皆さん」
どこか儚げな空気をまとった聖女が、ほのかに微笑んだ。腰まで届く長い金の髪と、翠色の瞳。聖女の外見は、側仕えの少女たちと、ほとんど同年代の娘に見える。十八のステラと比べても、せいぜいで二つか三つ年上としか思えない。
「今日はもう、終わりましたから。皆さん、本来の務めに戻ってください」
聖女はステラたちを含め、どんな人間に対しても丁寧な言葉を使う。絶大な魔力を有し、信徒の尊敬を一身に集めているこの女性が、誰かに対して怒りや苛立ちを見せたり、立場を笠に着た傲慢な態度を取ったりしたところを、ステラは見たことが無い。
エウラリアはもう切り上げていいと言ったが、娘たちは留まって、何かと彼女の世話を焼こうとする。ステラと同じく、教会の娘たちは皆、聖女の近くに寄れるこの務めを楽しみにしている。ステラの友人のゾフィも、しきりに羨ましいと言っていた。
「エウラリア様を困らせてはいけません。皆さん、退出いたしましょう」
ある高位貴族の令嬢が、すまし顔でそう言うまで、娘たちは聖女の控え室に留まろうとした。だが、同年代の女子たちのリーダー格がそう言うのだから、渋々でも出て行かなければならない。
実は、ステラは今日、聖女にどうしても願い出たい事があったのだが、どうやらその機会は得られなさそうだ。元々大それた願いではあった。だがそれでも、どうしても願いたかった。後ろ髪を引かれる思いで、ステラは娘たちの最後尾について、扉をくぐろうとした。
「ステラ・サンドライトさん」
その声を聞いて、娘たちがちょっとざわついた。
エウラリアが、ステラ個人の名前を呼んだのだ。当然である。
「少し、よろしいですか?」
エウラリアは、優しい声でそう言った。
よろしいも何も、聖女が言えば、パラディン筆頭だろうと八大諸侯だろうと足を止めなければならない。自身を引き留めるエウラリアの言葉に、ステラは頷くしかなかった。
おまけにエウラリアは、ステラ以外の娘たちが、その場から去るのを待った。ステラと二人だけで話したいという意志を、エウラリアは明確に示している。さっきのリーダー格の貴族令嬢が、一瞬凄い顔をして自分をにらみつけてきたので、これはあとで何か嫌味を言われるなと、聖女に声をかけられた緊張と喜びを余所に、ステラはうんざりとした。
「あの、何か、私に御用でも……」
他の娘たちが去ると、二人きりになった控え室で、ステラはたどたどしくエウラリアに尋ねた。
「用と言うほどのものではありません。一度、あなたと話をしたかったのです。今日は良い機会でした」
「こ、光栄です」
ステラは、震えながらそう言う以外に無い。
エウラリアは、儀礼で使用していたものよりも、一段簡素化された略式の法衣を身に付けている。椅子に座る彼女の後背からは、本当に神々しい光が差しているようにさえ見えた。
「あなたは、優れた治癒術の才をお持ちだそうですね」
「いえ、そんな」
「謙遜される必要はありません。しかも、とても熱心に病の方々に接しておられるとか。素晴らしいことだと思います」
ステラは戸惑った。彼女は、自分の治癒術の技能が、十年か五十年に一人の才能と言われていることは自覚している。
この才能は、死んだ両親が偶然ステラに残してくれたものだ。だから、彼女はそれを、とにかく人々のために役立てなければならないと思っている。しかし、それでこんなに聖女から褒められるというのは、嬉しいが違う気がする。
「そんな、それに私なんか、エウラリア様と比べたら――!」
言ってから、しまったと思った。そもそも己と聖女を比べようなどと、それ自体がひどいうぬぼれである。続きを言うわけにもいかず、さりとて発言を無かったことにする事は不可能だ。怒られるかと思ったが、やはり聖女は怒らない。ほのかな微笑みを崩さず、そんなことはありませんと、エウラリアが言った。
「重要なのは魔術の技量ではなく、人に対する想いです。あなたは、その想いを持っている。それを大切にしてください」
どう答えて良いか分からずに、ステラはただ、深々と頭を下げた。
聖女がこのように達観しているのは、彼女自身の立場というものが大きく影響していることは確かだ。だが、それを差し引いても、エウラリアの振る舞いは二十歳前後の小娘のものには見えなかった。
その理由は単純である。エウラリアは、見た目通りの年齢ではないからだ。
御年七十の現総主教よりもはるかに昔から、あるいはこの大聖堂の建物よりも古くから、彼女はこうして、教会の「聖女」であり続けている。エウラリアの実年齢を問うことは、畏れ多くて誰もできない。だが、語られるところによると、彼女は数百年の昔から、こうして生きているそうだ。
聖女は人ではないからだと言い張る者もいる。人という卑小な生物の枠を越えた、本物の神の御使いなのだと。
「私にも、今のあなたのような時代がありました」
昔を懐かしむように、エウラリアがつぶやいた。
誰がどう言おうと、彼女は人間だった。それが数百年という長命を保ち、今なお若く美しくあり続けているのは、まさに彼女の、神に与えられたとしか言い様の無い、治癒の力が原因だった。
エウラリアの治癒術は、四肢を切断された者ですら、命さえあれば無傷に戻せる。主教級の聖職者が十数人集まって行使する大魔術も、彼女は一人で、何でもないように扱うことができる。
そしてその力は、エウラリア自身のことも、常に癒し続けているのだ。
永い時を生きてきた聖女が、一種の神々しい空気をまとうのは、自然なことなのかもしれない。
「すみません。あなたも忙しいのに。ただ本当に、あなたとお話をしてみたかっただけなのです。気を悪くなさらないで下さい」
「と、とんでもございません!」
恐縮過ぎて、ステラは頭を上げることができないでいた。この話を他人にしたら、それこそどんな風に妬まれるか分からない。
「あなたは、ご家族は?」
「兄が一人います」
「……ご両親は?」
「小さいときに、病気で」
「……そうですか」
エウラリアが何とも言えない寂しい声を出したのは、彼女が、果てしない時をこの大聖堂で過ごし、多くの人を看取ってきたからなのかもしれない。
「お兄さんとは、仲が良いのですか?」
しかしそれにしても、エウラリアはなぜこんなにステラに興味を持つのだろう。ステラの治癒の才能のせい、というだけでは、説明が付かない気がする。それでも、内心舞い上がっていたステラは、聖女の質問に答え続けた。
それに今しているのは、まさにステラの兄マキアスの話である。そもそもステラは、兄について、エウラリアに願いたい事があったのだ。
「あの、エウラリア様。畏れ多いのですが、一つだけ、お願いしたいことがあります」
「なんですか?」
ステラは昨日、兄のマキアスから、どこか危険な場所に行くと打ち明けられた。彼女はその話を聞いてから、この側仕えの役目を利用し、エウラリアに頼めないかと思っていた事があった。
「神殿騎士団にいる兄が、危険な役目を仰せつかったのですが――」
兄は無事に帰ってくると言った。彼が今、必死に打ち込んでいるものについても、正直に話してくれた。だからせめて、兄のために、ステラは自分に出来ることをしてやりたかった。
「分かりました」
ステラが事情を説明すると、エウラリアは頷いた。その微笑みは、さっきよりも大きくなっている気がする。彼女は机の棚を探ると、ガラスのように透き通った、無色の宝石を取り出した。
「これを差し上げます。お兄さんに、持たせてあげて下さい」
そう言うと、軽く目をつぶり、エウラリアが呪文を唱え始める。掌の上にある宝石を中心に平面の魔法陣が展開し、それはやがて、エウラリアの半身を飲み込むぐらいの大きさの、球状の立体魔法陣へと変化した。
――最高位魔術……!?
これはまさに、大陸でもエウラリアにしか出来ない業だ。
ステラも、そして恐らく総主教すら使えない、超々高度な治癒術が発動し、宝石の内部に吸い込まれていく。無色だった宝石は、揺らめく翠の光を発するようになった。
「少々の怪我でも、これがあれば大丈夫です」
その宝石を、両手で包み込むように渡され、ステラはまた震えた。
少々の怪我どころか、例えるならこれは、一つの命をもらったようなものだ。これがあれば、兄はきっと大丈夫だ。そう確信することができる。
「ありがとうございます、エウラリア様」
涙声で礼を言い、ステラは宝石を抱きしめた。
それが、彼女がマキアスに渡した“お守り”だった。
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