第102話

「改めて思うと、結界外の山で逃げるオークを追うっていうのは、かなり無謀な話だな。言ってみれば、ここは奴らの地元なんだろ」


 フロイドは、岩を踏みしめながらそう言った。

 以前にトロルやルサールカを討伐するために山を登った時よりは、晴れている分移動には快適だ。しかし今回の標的は、山のどこかに住み処がある訳ではなく、追跡者を避けて、ひたすら逃亡しているのだ。それを捕捉することの難しさは、言うまでもない。


「追いつけるのかね?」

「……これがありますから」


 アルフェが手にしているのは、小さな透明の球体である。その中心からは、黄色い雷のような光がチリチリと、一定方向に向かって放出されている。

 その光が指し示す方角はただ一点。球体と結びつけられた奴隷の手かせがある場所だ。


「その手かせだって、どこかで外されたらどうするんだ?」

「簡単には壊せないと言っていましたが……」

「奴隷の牢だって、簡単には壊せないはずだったんだろうが」

「それはそうですね」

「ゲイツの奴も、えらく間の抜けた事をしたもんだ」


 道の無い岩場を、二人は身軽に登る。

 今日の早朝、アルフェとフロイドの元にメリダ商会のゲイツから一つの要請があった。さすがに情報屋組合の重鎮だけあって、ゲイツは二人の居所を把握しており、そこに直接使者がやって来たのだ。

 その要請とは、逃亡した奴隷オークの追跡・討伐である。

 パラディンの――今はアルフェによって変質者というレッテルを貼られている――ロザリンデが繰り出した常識外れの大技によって半壊した闘技場から、闘技奴隷になっていた魔物が一匹逃げ出した。だからこれを追って討伐して欲しい。言うのは簡単だ。しかしフロイドの指摘する通り、山はむしろ彼らの領域であり、本気で逃げるオークに追いつくのは不可能な作業に思えた。それでもゲイツが討伐依頼を出すのは、仮にこのオークが人里に戻り何らかの被害を出した時、責任を問われるのが彼だからだそうだ。


「標的は、ダルマキアの方角に向かったようですね」


 晴れているにも関わらず、山の空気は以前来た時よりも冷たくなっている。冬の訪れを予感させる秋の山は紅葉しており、外目からはとても風雅な景色に見えた。

 気分転換には、ちょうど良い依頼だったかもしれない。いつもと変わらぬ表情のまま、内心アルフェはそう思った。

 昨日は色々とあった一日だったが、ロザリンデとの試合の内容も、その後に彼女にされたことも、アルフェの中では印象が薄まっている。それほど、ゲートルードから示唆された情報はアルフェの中で衝撃的だった。


 ――私は、城にいた時の私について、無意識に考えないようにしていた。


 改めて、アルフェがラトリアにいた頃の自分の記憶を探り出そうとしてみると、それが非常に曖昧なものだということに気付く。家族の思い出、その他に城にいた人間とのやり取り、城の間取りや、自分がそこで何をしていたのか。そういったものが、まるで霞がかかったように不明瞭なのだ。

 幼い頃に死んだ父、哀しそうな母、怒ったようにアルフェを見る姉、アルフェの部屋を守っていた衛兵、世話係だった侍女、窓の外の景色。それらの記憶が、断片的にしか思い出せない。

 そして、その霞を取り払おうとすると、決まってアルフェの眼の奥が痛む。


 ――記憶と心の枷と、ゲートルード博士は言った……。


 本当に自分が何らかの魔術をかけられているとして、それを解除すれば、過去の記憶が明瞭になるのだろうか。そうすればもしかしたら、コンラッドを殺したあの男の手がかりが見つかるのかもしれない。


「大丈夫か?」


 顔を上げると、十歩ほど先の岩場で、フロイドがアルフェを振り返っている。

 自分の心を探ろうとすると、アルフェの顔はどうしても苦痛に歪む。それを気にしたのだろう。この男らしくない気遣いだ。


「無用な心配です。……イコを預けてきて良かったです」


 表情の変化を隠そうと、通ってきた道を振り返りアルフェは言った。白いごつごつした岩が転がる急な傾斜が、彼女の背後に広がっている。

 この、見るからに移動が困難な岩場を突っ切り、標的のオークは逃亡しているようだ。


「できれば、山を越えて森に入る前に捕捉したいですが……」


 そう言いつつ、景色を楽しむほどにはこの仕事を喜んでいない自分にアルフェは気付いていた。

 賞金首を追うことはよくあったし、その時に特別な感慨を持ったことも少ない。人間の賞金首ですらそうなのに、魔物を追うことをためらう気持ちがあるのはどうしてなのだろう。


 ――……あのオークは、五年、あの地下にいると言っていた。……だから?


 五年の間あの場所に閉じ込められ、ずっと見世物になっていたということを知って、自分は魔物に同情しているのだろうか。

 ずっと閉じ込められていたという事実が、自分の境遇と重なるからだろうか。自分も、あのオークと同じだったからだろうか。


「同じ……? ううん」


 ――違う、私は望んであの部屋にいた。出たかったけど、あの部屋にいたかった。だからあの魔物とは違う。同じだ。違う。


 ――【違う】


「――くッ……。何……これ……」


 アルフェは脳をかき回されたような気がして、頭を抑えた。

 今一瞬、自分の思考が、自分の意思以外の何かによって歪められるのを感じた。どう歪められたのかは分からないが、歪められたという事実は認識できた。これがゲートルードの言う、アルフェにかけられた心術の影響なのだろうか。


「逃げられた時は逃げられた時だ。ゲイツにそれ程義理があるわけじゃなかろう」


 今度はアルフェの様子に気がつかなかったフロイドが、歩きながら言った。


「……そういう訳にはいきません。これは依頼です」


 そうフロイドをたしなめた時も、確かにアルフェの中には、逃げられたら逃げられたで構わないと思っている自分がいた。



「こんな場所があるのか……」


 絶景だなとフロイドが感嘆し、アルフェは声も無く眼下の光景に目を奪われていた。

 はるかな景色を一望できる切り立った山の上に、彼らは立っている。オークを追って半日ほど岩山を登ると、ここまで来た。

 登ってきた方を見ると、谷底に流れるレニ川とバルトムンクの町が見える。非常に幅の広いあの川も、この位置からだと一本の筋のようにしか見えなかった。峡谷地帯を抜けたレニ川は、広大な黄緑色の平野に出て蛇行している。あの平野のあたりから、帝都を中心とした大結界が拡がっているはずだ。


「ひょっとして、あれは帝都か?」


 平野の中には、ところどころ都市が点在しており、そのずっとずっと奥にはぼんやりと、一際大きな灰色と茶色の塊が見えていた。

 大陸中で最大の都市、帝都。百万とも言われる人口を抱える帝国繁栄の象徴。当然アルフェは本の中でしか見たことが無い。地図の上でははるか遠くに位置するはずだが、それがまるで手の届くところにあるかのように、二人の映っている。

 フロイドは少しだけ片頬を上げた。


「悪くない。オークも良い場所を知ってるじゃないか」

「……向こう側に降りたようですね」


 それでも、二人が景色に見とれていた時間は短かった。

 アルフェが手に持つ球体を確かめると、オークは帝都の方角ではなく、やはり旧ダルマキアの方に向かっている。

 この山の上からは廃都市ダルマキアの位置も確認できる。帝都よりずっと近く、森の中に頭を出している建物群がそうだ。


「まさか、あの廃墟にいるんじゃないだろうな」

「いえ、少しだけ方角がずれています」

「どちらにせよ、森まで降りたか。ならさっさと行こうか。寒くて叶わん」


 閉口したようにフロイドが言った。景色に目を奪われて一時忘れていたが、ここは低地よりもはるかに気温が低い。二人の吐く息が白くなっているほどだ。


「あんたのそれは、寒くないのか?」


 フロイドは、アルフェの短く切られたスカートを指した。


「寒いです」

「ふうん、またあんたの不思議な技で何とかしてると思ったんだが……。じゃあ、なんで履くんだ、そんなもの」

「動きやすいからです」

「やっぱりあんたはズレてるな」

「たわ言を言っていると置いて行きますよ」


 はいはいと返事をして、フロイドは歩き出したアルフェの後ろについた。


「降りる頃には日が暮れるな。夜営することになるか」

「ええ」

「それとなぁ、一つ確認したいんだが」

「何ですか、さっきから」

「今日の晩飯はそいつか?」


 フロイドはずっと指摘するのをためらっていたのだが、アルフェは肩に魔物を背負っている。道中で二人が返り討ちにしたコカトリスの死骸だ。

 アルフェに足を持たれた巨大な鶏のくちばしからは、真っ赤な舌が飛び出ている。死んだコカトリスと目が合ったフロイドは、憮然とした表情になった。


「当然でしょう。イコを連れてこなかったから、食料は最低限しかありません」

「携帯食があるだろうが」

「それは非常食です。好き嫌いをしないで下さい」

「好き嫌いの問題か……?」


 ひょっとしたら、こいつは好きで魔物を食っているんじゃなかろうか。フロイドは腕を組んで考え込みながらアルフェについていった。

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