騎士と幽霊

第5話

 アルフェが初めての依頼を達成してから、一ヶ月が経過した。彼女はあれから三日に一度は森に出かけ、薬草採取の依頼をこなしている。残りの日はもっぱら鍛錬のために道場通いだ。

 一ヶ月の間に状況に変化があった。従者のクラウスから手紙が来たのだ。故郷の城が陥落したおり、アルフェを助け出したクラウスは、今どこをほっつき歩いているのか。それは知らないが、少なくとも、彼女のことを忘れてはいなかったということだろう。

 アルフェを一人にしておくのは、真に遺憾だが――とか何とか、一通り彼女に対する詫び言を書いた後、クラウスはアルフェの故郷、帝国の南東に位置する大公領に関する、いくつかの情報を書き記していた。

 それによると、どうやらアルフェのただ二人の肉親、母と姉は生きているようだ。母である大公妃は隣国の王の手によって、城に軟禁状態にあるらしい。姉は何がどうなったものか、アルフェと同じように城を脱出し、どこかをさすらっているという。

 そしてクラウスはというと、どうやら姉の消息を追っているらしい。手紙の最後には、しばらくはアルフェの元に戻ることができない旨が記され、当座の資金として、金貨二枚が同封されていた。


「……なるほど」


 久しぶりに見た金貨の輝きを前に、アルフェは頷いた。やはり自分は、もうしばらく一人暮らしを強いられるようである、と。


「お姉様が心配なのは分かるけど、私はいいのかしら……」


 アルフェは愚痴らしきものをこぼしたが、そもそもクラウスという青年は自分の従者でもなんでもなく、姉の従者だった。それが城が急襲されたあの日には、彼はどうしてか姉ではなく、アルフェを城から救い出した。

 そのことには感謝している。感謝しているが、救い出したままで放置というのもどうなのか。


 ――このお金は、しばらくは使えませんね。


 当分自活しなければならないとなると、貯えはいくらあっても困らない。アルフェは寝室の屋根板を外して天井裏に金貨をしまい込むと、仕事に出かけた。


「う~ん」


 そして今日も、アルフェは冒険者組合の掲示板を見ている。最初の依頼をこなした日から、これは日課になっていた。

 最初は他の冒険者から、奇妙なものを見るような目で見られていたアルフェだが、最近はそれも少なくなってきた。一応彼女は、町娘の格好をした変わった冒険者として、周囲から認知されてきたようだ。

 しかしそんなことよりも、アルフェには最近悩みがある。アルフェの通っていた南の森だが、最近そこで採れる薬草の量が、明らかに目減りしてしきたのだ。その原因を、アルフェは承知していた。


 ――私が採り過ぎてしまったから……。新しい群生地を見つけられればいいんですけれど。


 アルフェが最初に発見した薬草の群生地は、やはりゴブリンたちの狩場だったようだ。薬草を採りに来た弱そうな人間や動物を、獲物として襲っていたらしい。彼女がそう思うのは、あれからあそこに行く度にゴブリンに襲われたのと、草地の隅でいくつかの白骨を見つけたからだ。

 襲ってきたゴブリンを、彼女は全て返り討ちにした。それはコンラッドに教わった技術を、実戦で試すいい機会にもなった。

 はじめは敵討ちとばかりに、ゴブリンはだんだん数を増やして襲い掛かってきた。しかし、十匹ほどのゴブリンを引き連れて襲ってきた、一回り大きなゴブリンの頭をアルフェが吹き飛ばしてから、それもなくなった。今ではあそこは薬草群生地というよりも、ゴブリンの墓場と言った方が良い。

 ゴブリンを倒すだけでも、いくらかの懸賞金が出ることも後から知ったが、向こうが出てこなくなったのでは仕方がない。だからアルフェは、黙々とシムの花を採取し続けた。

 だが、いくら何でも間を置かずに通いすぎたようだ。目に付くシムの花を、彼女は全て採り尽くしてしまった。一月ほど待てば、再び花をつけるとは言っても、その間無収入になるのは勘弁願いたいところである。


 ――でも、なかなか見つけられないんですよね……。


 ゴブリンの狩場とは言え、アルフェが最初にあの群生地を見つけられたのは、かなりの幸運だったらしい。同じような場所が無いかと探索したが、あそこ以外には、ぽつぽつと生えている薬草しか見つけられなかった。それを採取するのも一つの手ではある。だが、まとまった収入を得るためには、あまりにも非効率だ。


 ――もっと、森の奥に入ってみようかな?


 しかし、森の奥にはゴブリンなど比較にもならない、さらに恐ろしい魔物が出現すると言う。

 ゴブリンを倒して、いささか自信を付けた少女だったが、屈強な冒険者たちが「恐ろしい」と表現するような魔物と戦う危険を、あえて冒すほど無謀ではないし、またその必要も感じなかった。

 ならばいっそ、薬草摘み以外の全く新しい金策の方法は無いものかと、掲示板に貼り付けられた依頼をにらみつけているアルフェだった。


 ――ん……、これはどうでしょうか。酒場から食材の調達依頼、沼地の滑りキノコの採取、十本で銅貨三十枚、三十本につき銀貨一枚……、結構割がよさそうですね。


 頭の中で、アルフェは素早くそろばんをはじく。この彼女がひと月前まで、貨幣に触れたことすら無かったとは、とても思えない。


 ――沼地、ですか……。沼地って、いったいどこにあるんでしょうか?


 たまには森以外にも出かけてみたいし、食材の調達というのが気に入った。自分で食料を確保する当てがあれば、お金が尽きても食べることはできるだろう。そう考え、アルフェはこの依頼を受けてみることに決めた。


「あの、すみません。この依頼をお受けしたいのですが……」

「お前か……。ああ、はいはい、分かったよ……」


 力なく答えたのは、冒険者組合の受付のタルボットだ。

 彼もちょっと前までは、アルフェが森に行こうとするたび、すごい剣幕で押しとどめようとしてきた。しかし、アルフェがゴブリンの首領の頭を持ってきて以来、止めようとはしなくなった。その代わり、この様に何かを諦めたような、投げやりな応対をされるようになってしまったわけだが――


「……沼地? まあ、お前なら何とかするか……」


 冒険者としての信用はついてきているのかもしれない。タルボットは口ひげをいじり、首をかしげながら、アルフェの力と行先の危険度を秤にかけているようだ。


「だがなぁ……。う~ん……」


 と言ってもタルボットには、目の前の娘の力を、どのような基準で判断するべきかが分からなかった。数多の冒険者を見てきた彼の眼力が、この少女には全く通用しないから困ったものだ。


「危険でしょうか。私では無理ですか?」

「いや、変わったことをしなけりゃ、森の浅層と大して変わらないんだが……」


 そもそも彼には、アルフェが、どうやって魔物を倒しているかが分からない。森に入って薬草を採取しているのも、襲ってくるゴブリンを返り討ちにしているのも本当らしいが、その方法が完全に不明だ。

 アルフェは確かに若い。しかし、このくらいの歳の子供が冒険者をしていることが、あり得ないことだとは言わない。実際にタルボットも、アルフェほど若い冒険者のことを、何人か知っている。だがそういう者たちはたいてい、剣の腕か、魔術の才能に秀でているものだ。聞けばアルフェは、そのどちらもまともに使えないという。前に好奇心旺盛な冒険者の一人が、そのことを本人に確かめていた。


 ――なぁ、お嬢ちゃんは武器もなしでゴブリンを倒したんだろう? 魔術士なのかい?


 ――いえ、私は魔術はあまり使えないので……。


 ――じゃあ、どうやってゴブリンを倒したんだい? 


 その質問に、アルフェはあっけらかんと「手を使いました」と答えていた。ほっそりとした、白い指を見せながら。

 それはそうだろう。手は使うに決まっている。その時は結局はぐらかされて、タルボットたちには彼女の得物が何かはよく分からなかった。分からなかったが、この娘はその後、森のゴブリンチーフまで討ち取ったのだ。ただの町娘だと思ったが、それなりのことはやれるのだろう。

 タルボットはそこまで思考し、歯切れ悪く答えた。


「まあ、大丈夫……、かな。ただ、手強そうなのには手を出すなよ」

「手強そうなの? 何がいるのですか?」

「アンデッドだよ」



 帝国都市ベルダンから街道を南に一日ほど行ったところに、その廃村はあった。そこは、もともとは街道の中継地点として建設が試みられた開拓村の名残である。魔物の侵入を拒む大結界の外にこうした開拓村をつくる試みは、昔から定期的に行われていた。

 しかし、人類の生活圏を拡げようというこの種の試みは、魔物の襲撃や物資の不足によりたいていは失敗に終わっていた。ここもそうして遺棄された村の残骸の一つだ。もはやそこには、人の営みの気配はない。


 そして、その廃村からほど近い低地には、かなりの大きさの沼地が広がっている。そこにはかつて、見渡す限りの草原が広がっていたのだという。しかし古代から、この地は何度も戦場として使われた。斃れた兵士たちの屍が積み重なり、行くあてのない彼らの怨念が周囲の魔力に影響を与えた事で、草原は沼地に変貌を遂げたのだ。その結果、現在この地はアンデッドたちが跋扈ばっこする死の領域となっている。

 以上が、アルフェが冒険者組合で教わった、南の沼地についての説明だ。


 ――沼地の情報が銀貨二枚、魔物辞典と薬草辞典の閲覧料が銀貨一枚ずつ……。


 手痛い出費である。新しい採取地に出かけようとすると、思ったよりも支度に投資が必要だった。市壁の側にあった森と違い、沼地まではそれなりに距離もある。野営の準備なども考えると、他にも細々と調達しなければならない物もあった。


 例えば、この機会にアルフェは背嚢バックパックを一つ購入した。ベルダンの道具屋の品ぞろえは思ったよりも充実しており、中には女性的なかわいらしいデザインのものもあったが、彼女が選んだものは実用本位だ。アルフェはできるだけ丈夫そうで、たくさん荷物を詰め込めるものを買った。


 品によっては、魔術で内容物の重さを軽減してくれるものや、見た目以上の荷物を入れられる物もあるそうだ。しかし、それらはどれも目の玉が飛び出るような値段だった。

 正直そんなものを買うぐらいなら、その金で何年か働かず暮らした方がいいのではないかと考えるくらいには。


 ――いつかはああいう物も、手に入れられるようになるでしょうか……。


 組合のベテラン冒険者たちは、騎士のように華美ではないが、それでも質のよさそうな品を使っている。冒険者は体が資本だ。優秀な冒険者ほど、稼いだ金を最優先で装備の充実にあてていた。

 ともかくもそうやって準備を済ませ、アルフェは廃村への道を歩いていた。彼女の他に徒歩で移動している人影は無い。ベルダンへと向かうらしい馬車の一団と何度かすれ違っただけだ。魔物の危険性の少ない地域とは言え、ここは結界の外である。それらの馬車も愛想無く走り去っていった。


 アルフェはできるだけ速足で歩いているが、目的地に着く前に一度は野営をする必要があった。そして日が暮れる前に、彼女は街道脇の小屋にたどり着いた。旅人たちの宿泊地または避難所として、誰かが建てた掘っ立て小屋だ。簡単な魔物除けが施されていて、一晩留まる程度なら大きな危険はないという。アルフェは一人で野営するのは初めてだったが、その辺りの要領は組合の冒険者に聞いてきた。


 夕食には用意してきた簡単な糧食を頬張る。ちゃんとした食べ物があるのは良いことだ。夜は寝袋にくるまり、次の日アルフェは、まだ太陽が昇り切らないうちに小屋を出発した。


「着いた……」


 小屋を出てから半日ほど歩き、アルフェはようやく廃村に到着した。元々はそれなりの規模の村だったようで、周囲が簡単な防塁に囲まれている。しかし三十件くらいある村の建物は、いくつかを除いて倒壊していた。

 アルフェはその中の、まだかろうじて原形をとどめている建物に荷物を隠し、最低限の道具を持った。


「――よしっ!」

 

 アルフェは小さく気合を発した。彼女は大きく身体を伸ばし、体内の魔力を整えていく。


「往復で三日もかかるのだから、その分しっかり採取しないと」


 そう呟いて、アルフェは組合で買った情報を思い返す。

 今回の主目的は、沼地のキノコの採取だ。赤黒い笠が特徴的なそのキノコは、この季節の沼地ならば、探すまでもなく見つかるという。用途は食用・薬用である。スープに入れると独特の風味がしておいしいらしい。単に焼いても煮てもいい万能食材だ。


 出現する主なモンスターはアンデッド。アルフェは今回、採取する品の情報だけでなく、採取地の魔物についてもしっかりと学習してきていた。初めて行った南の森では、軽率さと無知から危険な目に遭ったのだ。まず敵の情報を知ること。それが大切だとコンラッドも言っていた。


「さて、頑張りましょう!」


 そしてもう一度気合を入れると、アルフェは沼地に向かって歩いていった。



 沼地のスケルトンは下級のアンデッドだ。正しい弔いを受けずに放置された骸に死霊が取り付き、骨だけになった体を動かしている。一般的な下級のアンデッドには他にゾンビなどがいるが、その違いはせいぜい肉の有る無しだという。

 結界内にあり、管理の行き届いた町の墓地で、これらのアンデッドが発生することはほとんどない。しかし一歩町を出れば、行き倒れた死体が不死者と化してさ迷っていることはままあった。


 ――……普通に歩いてるんですね。


 アルフェにとっては初めて見る奇妙な光景だが、沼地にはそこかしこにスケルトンが闊歩していた。これだけアンデッドがいるということは、かつてこの地でそれだけの人間が死んだということだが、組合の説明によるとこの辺りは大昔の古戦場なのだそうだ。

 スケルトンと一口に言っても、朽ちた鎧を付けているものや片腕を失っているものなど、その姿は様々だ。ゾンビ的なものが見当たらないのは、ここが戦場となった時代を想像すればわかる。彼らの肉など、とうに風化してなくなってしまったのだろう。


 ――その時からずっと……。


 何百年という昔からずっと、彼らはここでさ迷っているのだろうか。

 アルフェは少し感慨にふけってしまったが、それは無用のものだと気持ちを切り替えた。少なくとも、今の彼女の腹の足しにはならない。

 早速素材の採集を始めたいところだ。しかし、少し見た限りでもかなりの数のスケルトンが、沼地のあちらこちらにたたずんでおり、時折カタカタという骨の擦れ合う音を立ててている。


 ――刺激を与えなければ、大丈夫でしょうか?


 アルフェはそう考え、物音を立てないようにスケルトンとスケルトンの間をすり抜けようとした。だが、ある距離まで近づくと、一体がギョロリと彼女の方を振り向いた。


「……だめですよね」


 アンデッドは、その特性として生者を憎んでいる。彼らは生命を宿すものを見かけると、見境無しに自らの仲間に引き入れようと群がってくる。やり過ごすことは困難だ。

 まずは彼らを片付けないと、落ち着いて採取はできそうにない。アルフェは腕を伸ばして体をほぐす。


「――まずは、お掃除からですね」


 そう言うと、アルフェは両の拳を打ちつけた。


「せやァッ!」


 頭部が砕け、スケルトンが後方に倒れる。その白い体はばしゃりという音を立てて泥たまりに沈んだ。

 戦闘音を聞きつけた近くのスケルトンが、次から次へと集まってくる。一体一体の強さはそれほどでもない。ただ腕を振り回してこちらにつかみかかってくるだけだ。動きものろく単調なので、一体だけならゴブリンよりも弱いかもしれない。


 ――やりにくいッ! ですね!


 それでもアルフェは、楽には戦えていない。

 ゴブリンの場合は、相手の体の一部に魔力を打ち込むだけで容易に屠ることができた。しかしスケルトンは魔力の効き目が薄いのだろうか。その一部を砕くことはできるが、完全に活動停止させるには至らない。


 ――頭を砕いただけじゃ止まらないし……。さすがにバラバラになったら止まるけど……、それより、体がスカスカで狙いにくい!


 最も的が大きいはずの胴体には、普通の人間のように肉や内蔵がなく、あばらがむき出しになっている。しかも肋骨を一本二本砕いただけでは、その動きになんの変化も見られない。背骨を吹き飛ばせばほぼ無力化できるが、スケルトンの正面から脊椎を狙うのは、間合いが遠くて距離感を狂わされる。


 骨を砕かなければ、スケルトンに有効なダメージを与えられない。ここまでアルフェは魔力を通すために掌打を使っていたが、拳で殴ったほうが早いと考えたようだ。一旦スケルトンから距離を取ると、少女は拳を握りこんだ。


 硬体術。アルフェが最近コンラッドに習い始めた技である。


 コンラッドが編み出した戦闘技術――武神流の真髄は、相手の体内に魔力を流し込んで破壊することにあった。しかしそれ以外に、体に魔力をめぐらせることで、自らの身体能力を強化する技もある。

 硬体術はその名の通り、魔力によって体の強度を上げることを眼目にしている。拳の先に薄く魔力をまとわせて、アルフェは突きを繰り出した。


「破ァ!!」


 パカンという小気味のよい音がして、スケルトンの体が砕け散った。

 やはり掌打を使うよりずっといい。この種類の魔物には、このやり方のほうが向いている。アルフェはそう思いながら拳をふるい続けた。


「――ふぅ」


 数十分後、汗で顔を濡らしたアルフェは、彼女の銀の長髪をさらりと掻き上げてから息をついた。

 もう彼女の周囲に立っているスケルトンはいない。アルフェはしばらく荒い息を吐いていたが、それもすぐに回復した。ここ最近の生活は、少女をずいぶんと逞しくしているようである。


 上半身だけになったスケルトンが、腕だけでアルフェに足元に這いよって来た。彼女は自分の腰に取りすがろうとするその腕を避け、右足でその頭を踏み砕く。

 アルフェの周りには、二十体ほどのスケルトンの残骸が転がっている。まだぴくぴく動いている部分もあるが、戦闘能力は残されていない。


「……痛たた」


 少し眉をひそめると、アルフェはぷらぷらと両手を振った。いかに魔力で体を硬くしたと言っても、これだけの骨を素手で砕き続けたのだ。彼女の拳にはかなりのダメージがたまっていた。

 アルフェは周りを見渡してみたが、新たに近寄ってくるアンデッドは見当たらない。遠くにはまだ多くのスケルトンが徘徊しているが、彼女を気にする様子は無かった。どうやらスケルトンたちの知覚範囲は、それほど広くないようである。


 このまま沼地中のスケルトンを駆逐するわけにもいかないし、とりあえずこの辺りのキノコを採取するとしよう。そう決めると、彼女は近くに置いておいた採取籠を取りに戻った。


「これ、本当においしいんでしょうか……」


 少女の疑わしげな声が、誰もいない沼地に響いた。

 今回の遠征の目的である滑りキノコは、確かに沼のあちらこちらに生えていた。

しかしこの赤黒い傘と、妙に生白い柄は、どこからどう見ても毒キノコである。おまけに傘の表面には、点々と白いいぼのようなブツブツが浮いている。食用になるというのは信じがたいが、姿かたちは冒険者組合の薬草辞典にあった絵姿と全く同じだった。


「うぅ……、ぬめぬめしてる……」


 滑りキノコの名前は伊達ではなく、そのキノコは全体が粘度の高い液体で覆われている。素手で触るとねとねととして非常に気持ち悪い。


 ――手袋をして来ればよかった……。


 アルフェは心中でぼやいた。

 そういえば、道具屋では採取用の手袋なるものも扱っていた。変に節約せずに買っておけばよかったと後悔する。それでもアルフェは次々とキノコを採取していった。

 冒険者組合からの借り物なのだが、果たして薬草籠についたこの粘液は、洗えば落とせるのものなのだろうか。そんなことを考えながらも、彼女は百本近くのキノコを採取した。籠は既にはちきれんばかりに膨らんでいる。網目の隙間から粘液がしたたり落ちるのを見て、最悪この籠は廃棄しなければならないだろうとアルフェは思った。

 だがそれにしても、キノコを百本採取持って帰ったとして、報酬は銀貨三枚と銅貨が少しだ。丸一日以上かけて遠出してきた報酬としてはちょっと物足りない。


「もう少し、何かないでしょうか……」


 周りに転がっているスケルトンの骨は使えないだろうか。案外、死霊術士か何かに売れるのではないだろうか。――まあ、死霊術士など見たことはないが。そんなことを考えながらきょろきょろと辺りを見回していると、少女の視界に奇妙な物体が映った。


 ――何だろう、あれ。


 沼の周りに生えている枯れ木の根元に、べったりと紫色のコケが付着している。自然のものとは思えない、やけに刺激的な明るさの紫だ。それを見て、アルフェははたと思い出した。


 ――これはもしかして……、貴人ゴケというものでしょうか? 染料に使われるという。


 紫色の染料はそのコケを利用して作るしかないから、紫の布地は貴重なのだと、何かの本で読んだ記憶がある。

 薬草辞典にも、沼地でとれる品の中にこのコケの名前があった気がする。依頼として張り出されてはいなかったが、これならば採取していけば買い取ってもらえるのではないか。そう思ったアルフェは、早速コケが付着している枯れ木の側に行った。


「これを見たら、もう絶対に紫色のドレスは着たくありませんね」


 アルフェは独りで冗談を言ってみた。しかし当然、聞いている人間は周りにいない。辺り一帯よどんだ沼が広がっているだけだ。転がっているスケルトンの残骸が、笑ってくれるわけもない。

 それにもう二度と、自分がドレスを着る機会など無いだろう。そう思うと、アルフェの口の端に自嘲の笑いが浮かんだ。彼女は気分を切り替えるように頭を振り、目の前の紫色に眼をやった。


 腕を組み、さてこのコケをどうやって持ち帰ろうかと考える。アルフェは少し悩んでいたが、最終的に木の皮ごとはがすことにしたようだ。

 立ち枯れた木の皮は、アルフェの素の力でも比較的容易にはぎ取ることができた。薬草籠にはもう入りきらないので、丸めた木の皮をつたでくくった。

 予定よりだいぶ大荷物になってしまったが、これだけあれば幾らかにはなるだろう。満足したアルフェは、拠点の廃村に引き返そうと踵を返した。


 だがその時、人型の黒いもやがアルフェの目の前に現れたのだ。


 ――っ敵!?


 アルフェは素早く荷物を放り投げ、戦闘態勢を整える。


 ――スケルトンじゃない!


 現れたのはシャドウだ。影法師とも呼ばれる、人の輪郭を持つ黒い影。その顔には口も鼻も無いが、目には青白い光が揺らめいている。スケルトンよりも一段格上のアンデッドである。

 シャドウの体は非実体。魔術以外で傷つけるには、最低でも銀の武器か、特殊な処理を施した魔法武器マジックウェポンが必要になる。


「来なさい!」


 だが、魔力を帯びたアルフェの拳ならば、若干でも損傷を与えられるはずだ。

 アルフェは呼吸を整える。シャドウは虫の羽音のような異音を立てて、少女に飛び掛ってきた。


「はァッ!」


 シャドウの攻撃よりも一瞬早く、アルフェは渾身の突きを繰り出した。しかし、まるで霞か煙に腕を突き入れたように、彼女の手はシャドウの体をすり抜ける。それと同時に、シャドウの影がアルフェの胸を通り抜けた。


「ぐぅぅっ!」


 アルフェはとっさに駆け抜け、シャドウから距離をとる。ぐしゃりと、足がぬかるみに踏み込んだ。今まで彼女は沼地の周辺の、固い地面を足場にして戦っていたが、慌ててしまったのだろう。


 ――胸が、熱いッ!!


 やけどをしたような、冷たい氷を飲み込んだような、奇妙な痛みが胸を襲う。左手で胸を押さえながら、それでも精一杯けん制するように、アルフェは右腕をモンスターのほうに向けて突き出した。


 ――泥が、スカートに、まとわり付いて!


 アルフェがまとっているすねまであるスカートが、泥水を吸って彼女の体に張り付く。この状況はまずい。アルフェが足元に視線をやった瞬間、再びシャドウが突進してきた。


「――ぶふッ!」


 回避が一瞬遅れたため体勢を崩し、肩から泥に突っ込んだ。アルフェはつぶされた狸のような声を上げる。何とかすぐに立ち上がってシャドウの方を向いたが、全身が泥まみれだ。

 慌ててはいけない。落ち着いて相手を見なければならない。アルフェはコンラッドの言葉を思い出す。とっさのことで頭が混乱したが、冷静にかかれば決して勝てない相手ではないはずだ。


 アルフェは既に、膝まで沼地に埋まっており、今も少しずつ沈んでいる。対するシャドウの方は、泥に足を取られる様子はない。


 アルフェは冷静に、しかし高速で頭を回転させた。

 さっきの自分の攻撃には、わずかしか手ごたえが無かった。スケルトンと戦っていた時の延長で、魔力のほとんどを身体の強度を高めるために使っていたからだ。自分の未熟さ故の失態である。

 この魔物には物理的な力は通用しない。魔力を直接叩き込むように、攻撃のやり方を切り替えなければならない。


 ――よし。


 アルフェは腰を落として左手を前にし、右の掌を腰の横に構えた。体内の気を循環させる。シャドウがまたも飛び掛かってくる。沼に足を取られ、踏ん張ることができない。アルフェは腰から上の動きだけでシャドウの飛び込みを迎撃した。


「くぅッ!」


 何とか上手く攻撃を合わせたが、それでもシャドウの腕はまた彼女の身体をすり抜けた。再び焼けるような痛みが走る。


 ――やった!?


 今度は手応えがあった。いつの間にか影の魔物は消え去り、辺りに静寂が戻っている。魔力をぶつける事さえできれば、驚くほどに脆い存在のようだった。


 アルフェは沼地から這い出しながら服の胸元をずらし、シャドウに触れられた部分を確認した。白い肌が、若干だが赤くなっている。手傷を負ったというほどではないが、ひどく疲れた感じがした。まるで触れられた部分から、生命力を直接吸収されたかのようだ。


「――はぁ」


 しかしそれ以上に、アルフェは自分の姿を見てため息をこぼした。彼女の全身は、沼地の黒い泥に覆われている。銀に輝く美しい長髪が見る影もない。頭の天辺からつま先まで完全に泥まみれだ。洗ってはみるつもりだが、この服はもうだめかもしれない。

 そもそもこんな場所まで、町娘のような姿で出てきたのが甘かったと反省する。今までは幸運にも、傷らしい傷を負うことはなかったが、自分ももう冒険者なのだ。少しは装備に気を使った方がいいのかもしれない。


 ――……でも、痛い出費になりますね。


 しかし装備を購うとなると、どれくらいの金がかかるのだろう。

 アルフェはそれを思って肩を落とし、もう一度大きなため息をつくと、荷物を抱えて廃村の方に戻っていった。

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