第4話
「あ、あれ? ここは……」
目覚めたアルフェは周囲を見回した。ここは家のリビングだ。一昨日はベッドにたどり着いたが、昨日は床に倒れたまま眠ってしまったのか。アルフェは伸びをして、体を動かした。半日以上寝たおかげか、疲労感は全く残っていない。その代わり、とても腹が減っている。
キッチンのテーブルの上に、細長いパンが乗っている。昨日の朝買ったものだ。疲労困憊していたが、あれを持ち帰ることだけは忘れなかったらしい。とても大きなそのパンを、アルフェは夢中で食べてしまった。副菜は何も無いが、水だけで腹に流し込んだ。
パンを食べきって、彼女はようやく人心地ついた。これを一度に食べてしまうと、早速今後の食料が危ぶまれるはずだが、どうしても我慢できなかったのだ。
気がつけば、数日前から身体もまともに洗っていない。年頃の乙女としては耐え難いものがあっただろうが、濡らした布巾で一通り身体を拭くと、アルフェは身支度を整えた。
「……よし」
その声は、少しだけ力強い、決意の籠っている声だった。昨日と違い、今日の彼女には行く当てがある。とにかく資金が尽きる前に戦い方を身につけ、冒険者として依頼を達成するのだ。
「よく来た。早速鍛錬を始めようか」
「はい、お師匠様!」
まだ早朝と言える時間だったが、幸いにしてコンラッドは道場にいた。
「とは言ってもな、やることは昨日と変わらん。十日でゴブリンと戦えるようになりたいのだったな? その期間で、お前に肉をつけろと言っても難しいだろうしな。なので当面は体内の魔力を高める訓練と、基本的な構え、打ち込みだけだ」
それからアルフェは、ひたすら昨日と同じ動作を続けさせられた。そのたびに少しずつ構えを修正される。さらにアルフェはコンラッドの助言に従って、打ち込む際の魔力の放出を、できる限り少なくするように心がけた。
そのおかげか、昨日と同じ技を使ってもそれほど疲労はしなかった。その代わり、打ち込みの威力は落ちているらしい。昨日は藁束の背中がはじけたが、今日はせいぜい若干背中が膨らむ程度だ。アルフェが目で問うと、コンラッドは首を縦に振った。
「心配するな。ゴブリン程度ならばこれで十分だ。この技は、無生物に対するよりも、生物に対するほうがより効果を発揮する。……と、もう昼だな。飯にするか」
「え……」
アルフェは愕然とした表情になった。彼女は弁当など持ってきていない。金に余裕が無いからだ。
「何だその目は……、なぜ涙目になる…………。お前も食うか?」
「――! はい、いただきます! ありがとうございます!」
「見た目よりも、食い意地の張った奴だな、お前は……」
やはりお師匠様は素晴らしい方だとばかりに、アルフェは即答した。
コンラッドの昼食も豪華とは言い難かったが、パン以外に食べるものがある食事はずいぶんと久しぶりな気がした。夜は食べられるかどうかも分からない。コンラッドは若干引いていたが、アルフェは食べられるだけ食べた。
「ありがとうございました」
「ああ、ではまたな」
その日の訓練が終わり挨拶をすると、アルフェは道場を出た。
坂を下って家に戻る途中、アルフェはふと足を止めた。
――きれい……。
丘から見える町が、夕焼けで染まってとても美しい。アルフェはつい今の悲惨な境遇を忘れ、しばらくの間景色に見入ってしまった。
この数日は、とても大変な日々だった。考えてみると、城を脱出してからこっち、彼女は悲惨な目にばかりあっている。しかし不思議と、アルフェが城に帰りたいと言い出したことは無かった。
なぜだろうか。それは多分、アルフェが今の自分に満足していたからだ。
今の生活は、確かに惨めだ。己の愚かな選択で、状況はより悪い方向に向かってしまった気がする。だが、これは自分が決めたことだ。その結果に後悔することはあるが、それさえも自分が選んだ結果だ。そんな風に彼女は考えていたのだ。
城でのアルフェは、自分では何も決められなかった。彼女の姉のように、自分の境遇に抵抗しようとも思わなかった。そう考えれば、今のアルフェは少なくとも自由であった。
結局上手くいかず、飢えて死ぬことになるかもしれない。魔物に殺され、無残な屍をさらすことになるかもしれない。それは確かに、辛くて、苦しいことだ。だが、それでもきっと、自分は満足することができるだろう。アルフェはしばらく景色を眺めてから、自由な足取りで坂を下った。
ちなみにその日の晩餐は、塩と豆だけのスープだった。道場でおなか一杯食べてきて良かったと、アルフェは心から思った。
◇
アルフェとコンラッドが出会ってから、あっという間に九日間が経過した。
今日も彼らは、二人で修行にいそしんでいる。
「この辺りのゴブリンの動きは鈍い。落ち着いてさえいれば、お前でも十分に見切れる。重要なことは、緊張しすぎないことだ。それに、ゴブリンに戦術というものは無い。手に持った武器を大振りしてくるだけだ。落ち着いて動きを見れば、必ずかわせる。そこに掌打を叩き込むのだ」
コンラッドはモンスターについても一通りの知識を持っていた。現在二人は、ゴブリンの動きを想定した訓練を行っているところだ。
「恐れるな。正面から一対一で戦えば、子供でも負けはしない」
アルフェはあれから、毎日朝早くから道場に出かけ、日が暮れるまで修行に励んだ。そのおかげか、少しは動きが様になってきた気がする。今ならば、あの時のゴブリンに遭っても対応できるだろうかと思えるほどに。
時間切れは迫っている。アルフェを取り巻く経済的な状況は、いよいよ切迫していた。昨日はついに灯りが尽きた。火をともす油も、ろうそくさえもない。陽が沈むと家の中は真っ暗闇だ。その中で豆スープをすする少女の姿は、なかなかに悲壮感が溢れている。
――今日くらいは夜に、パンを食べたいです。でも、残りのお金は銅貨二枚……。
その金がなくなれば、彼女は正真正銘の一文無しだ。ゆえに明日、アルフェはついに南の森に再挑戦する。コンラッドにもそのことは伝えてあるので、今日は午前中だけで稽古を切り上げる予定であった。
「今日はこんなところで止めておくか……。疲労をためてもいけない。早めに休んで、明日に備えるといい」
「はい、何から何までありがとうございます、お師匠様。きっと成し遂げてきてみせます。その時は真っ先に報告しに参りますので、どうか期待してお待ちください」
「そ、そうか。……俺は明日は付いて行くことはできない。これはお前の仕事だからな。……しかし、少しでも無理だと感じたらすぐに逃げろ。命を粗末にするな。いいな?」
コンラッドがそうやって念を押すのは、これで数回目だ。しかしもとより彼に頼り切りになるつもりなどなかったアルフェは、理解しているという風にうなずいた。
「承知しております。……それでは、私はこれで失礼します。どうかお元気で」
「……今生の別れのようなセリフを抜かすな。……本来、ゴブリンは駆け出しの冒険者でも何とかなる相手だ。わずか十日とはいえ、俺の指導を受けたおまえだ。後れを取ることはない。もう一度言うが、自信を持て」
優しい声を掛けられ、アルフェの胸は、思わずじわりと暖かくなる。それを抑えるように胸に手を当て、彼女は言った。
「はい、大丈夫です。……依頼を達成したら、そのお金でお師匠様にお食事をご馳走します。楽しみにしていてくださいね」
「だから、そういう不吉なことを言うのはやめろと……。……それはそうと、アルフェ、最後にお前に言っておくことがある」
しばらく何かに思い悩んだような表情を見せてから、コンラッドが口を開いた。そう言えば、アルフェが彼から名前を呼ばれたのは初めてではなかったろうか。
「何ですか?」
「……俺がお前に仕込んだ技は、おそらくは、お前が思うよりもずっと強力な術だ。ゴブリン程度、たやすく葬れる」
「はい」
「だが……、剣や魔法と違って、素手で相手を倒すということは、お前が想像しているよりずっと心に堪えるかもしれん。それ以前に、魔物とはいえ、お前が生き物の命を奪えるのかどうか。……実のところ、俺はそれを一番心配している」
ゆっくりと、諭すようにコンラッドが語る。それに対し、彼の言っている意味が分かっているのかいないのか、アルフェは優しく微笑んだ。
「大丈夫です。覚悟はしております。……ですがなぜ、お師匠様は今になって、そのようなことを仰るのですか?」
「こんな技を教えておいてから言うのは何だが……、言わないのも、卑怯な気がしたんだ」
アルフェから目をそらしながら、ぶっきらぼうにコンラッドが言った。
それを見て、アルフェは何を思ったのだろう。少し目を丸くしてから再び微笑み、丁寧にお辞儀をすると、彼女は道場から出て行った。
――お師匠様は、私を気遣ってああ言ってくださった……。
その夜、寝台の上で、アルフェはコンラッドの言葉を
――でも大丈夫、私は、できる。
アルフェは目を閉じ、故郷を追われた日のことを思い出している。
あの日彼女は、自ら命を絶つつもりだった。
城が陥落した後、押し入ってきた敵に辱めを受ける前に、自ら懐剣をのどに突き立てる。それは、貴族の娘としては当然の作法だった。
遠くから、兵士の怒号や女の悲鳴が聞こえる。そしてそれは、だんだんと、少しずつ近づいている。抵抗を続ける兵の数は少ない、彼らも長くは持ちこたえられないだろう。侍女がそう言ったので、アルフェは言われるがままに首筋に剣を当てた。その時の刃の冷たい感覚を、彼女は今も憶えている。
しかしその時、大きな音を立てて部屋の扉を蹴破り入ってきた青年の顔を見て、アルフェはつい、首に当てていた懐剣を下ろしてしまった。
――間に合った。
アルフェも見知った顔だった。城を守る衛兵の一人だ。名前は知らないが、彼はいつもアルフェの部屋の前に立っていた。これで助かると思ったのではない。ただそれが覚えのある顔だったので、アルフェはつい、懐剣を下ろしてしまったのだ。
だがその青年は何を思ったか、扉の側に立っていた侍女に、持っていた槍を突き出したのだ。
――ずっとあんたのことを、こうしてやりたいと思ってたんだ。
アルフェに対して抱えていた、下卑た想いを吐き出しながら、顔をゆがめて男が迫る。覆いかかってきた青年と寝台の上でもみ合いになっている内に、気がつくと、アルフェの懐剣は青年の胸に突き刺さっていた。
――……そう、魔物の一匹や二匹、どうということもないです。
あの時の光景を思い出しながら、アルフェは闇の中で、独り暗い笑みを浮かべた。
◇
「お嬢ちゃん、また来たのか……」
再び冒険者組合に現れた娘を見て、呆れたように男がつぶやいた。彼はこの組合の受付の、確かタルボットといっただろうか。その視線を受けながら、アルフェはためらいもなくカウンターの前に立った。
「はい、シムの花の採取依頼を受けに来ました。それで、また薬草籠を貸していただきたいのですが――」
「依頼を受けるのは確かに当人の自由だ。……でもな、あんた、この間危ない目に遭ったばっかりじゃねぇのか? まだ懲りてねぇのか? 命を粗末にすんのもいい加減にしろ!」
少女の言葉を遮って、禿げた額に青筋を立てながらタルボットが怒鳴る。同時に彼に叩かれたカウンターが大きな音を上げた。
しかしアルフェは動じない。その瞳は真っ直ぐとタルボットを見つめている。
「私には、これしか生活の当てが無いのです。ご心配はありがたいですが、思いとどまることはできません」
「な……! ……この間来た時は、ただの世間知らずって感じだったが、今日は何だ? はん! えらく頑固じゃねぇか! ……なあお嬢ちゃん、あんたまだ若い、なんかあったら家族だって悲しむだろう?」
大きな声を出した後、タルボットはなだめるように言った。彼はなんとか少女の無謀を押しとどめたいのだろう。周囲では他の冒険者たちが、遠巻きに何事かと様子をうかがっている。
「……私は今、一人です。家族もいません。籠は二階で貸してくださるのですよね? ……失礼いたします」
依頼自体は受けなくとも、薬草はいつでも買い取ってくれると言っていた。とりあえず、籠さえ借りられればいい。押し問答を止めて、アルフェはカウンター横の階段を上っていった。
「あっ、ちょっと待てっ! ――くそッ、もう知るか! 勝手にしやがれ!」
タルボットが書類とカウンターに当り散らしていると、やがて薬草籠を持った少女が降りてきた。
「おい!」
タルボットが叫んでも、少女は足を止めようともせず扉に向かう。
――さっきの話の感じだと、こいつは孤児か? こんなガキが、食うために死にに行くってのか? ……くそッ、世ん中どうなってやがる!
理不尽なものを感じながらも、タルボットは立ったまま、外に出て行く少女の背中を見送るしかなかった。
◇
薄暗い森の中を、少女は一歩一歩確かめるように歩いている。
――落ち着いて、ゆっくり歩きましょう。もしかしたら、今日は魔物には遭わないかも知れないですから。
確証は無いが、多分ここは十日前、初めて森に入った時に通った道だと思う。
魔物と戦うことが目的ではない。自分は薬草の採取に来たのだ。心の中でそう唱えて、アルフェは逸りそうになる心を落ち着けた。目をこらし、周囲の音に耳をすませながら、彼女は薬草の群生地を目指した。
――平常心です。平常心を保てば、何があっても大丈夫。お師匠様もそう仰っていました。
彼女が森に入ってから、もう一時間は歩いたはずだ。警戒しながら慎重に進んでいるため、前よりもはるかに時間がかかっている。記憶が正しければ、もうすぐこの前の薬草の群生地に着くはずだ。
ふと、アルフェの視界を遮っていた木々が無くなり、開けたところに出た。中央に大きな倒木があり、その周囲に白い花が咲いている。ここはあの時の場所だ。アルフェは確信した。
「あれは……」
倒木の前に、口の開いた籠が落ちている。あれは前回ゴブリンに襲われたとき、アルフェが落としたものに違いない。
まだ周囲に魔物はいない。アルフェは恐る恐る倒木に近づいた。籠の中にはまだ少し、採取した薬草が残っていた。しかし全てからからに干からびてしまっている。使い物にはならなそうだ。
――……とにかく、採取を始めましょう。
感慨にふけっている時間はない。ともかく花を集めなければ。そう考え、アルフェは手早く採取にとりかかった。籠は二つあるのだ。二つ分採取してもいい。この群生地には、それ位の量は十分にある。
どれくらい経っただろうか。二つの籠には、既に花びらが一杯になろうとしている。そろそろ切り上げて、帰り支度をしよう。そう考えた時、アルフェは森の中に何かの気配を感じ取った。
「…………」
森の薄闇の中から、何かがアルフェのことを見ている。
この前のように、誰なのかと尋ねるようなことはしない。彼女はただ深呼吸をして、跳ねる心臓と息を整えた。
――ゴブリン。
出ないはずがないのだ。覚悟はしていた。きっとここは彼らの狩り場なのだろう。薬草を求めてやってきた、間抜けな動物を狩るための。
気付かれたことを悟った魔物は、少女の様子をうかがうのをやめ、木々の間から飛び出してきた。しかし、今日のアルフェは落ち着いている。彼女は籠の蓋をしっかり閉めると、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がり己を見た獲物に対して、ゴブリンが奇怪な鳴き声を発している。
前回とは違って、今のアルフェには相手を観察する余裕があった。
魔物の口からは、黄色がかった牙がのぞいており、口の端からはねばついたよだれを垂らしていた。その体長は、アルフェよりも頭一つ分くらいは小さいか。あばらが浮き出るほどがりがりにやせ細った体。手にはいびつな石斧が握られており、腰布のようなものを身につけている。
もしかしたら、これはこの前自分を襲ったのと同じ個体だろうか。なんとなくそんな感じがする。だとしたら、このゴブリンは今度こそ自分を狩るために、ここで待ち伏せていたのだろうか。
――落ち着いて。
怯えは不要だ。
――落ち着きなさい。
やることは決まっている。
今日を生き延びるために。明日の糧を得るために。相手だって、そうなのだから。
そうしなければ、自分が飢える。これがこの世界の理だと、この数日で、十分学んだ。
アルフェの頭の中で、何かがかちりと切り替わった。彼女は冷ややかな目で魔物を真っ直ぐ見据えると、コンラッドから教え込まれた構えを取った。
ゴブリンは、目の前の少女に敵対の意志を感じ取ったらしい。ひ弱な獲物に馬鹿にされたと思ったのだろうか。形相がより凶悪なものとなる。
「――すゥ」
細長い息を吐き、アルフェは体内の魔力を高めていく。僅かなにらみ合いの後、ゴブリンは甲高い鳴き声を上げて、アルフェに打ちかかってきた。
――見える。
アルフェは半歩退き、ゴブリンの打ち込みをかわす。
この十日間の修行の中で、アルフェはただ魔力を高める訓練と、打ち込みの訓練ばかりをしていたわけではない。一日に一時間ほどは、コンラッドの演舞を見させられたのだ。嵐のような迫力を持つ彼の動きに比べれば、このゴブリンの速度など何ほどでもない。
「――!」
石斧をかわされたゴブリンは、バランスを崩してたたらを踏んだ。アルフェはその隙を見逃さず、ゴブリンのあごをめがけすくい上げるようにして掌打を叩きつけた。
相手に掌が触れた瞬間、アルフェはゴブリンの内側に魔力を流し込む。ゴブリンの身体がのけぞり、不自然に硬直した。
そして次の瞬間、水が弾けるような音がして、ゴブリンの後頭部が弾け飛んだ。
どす黒い血が噴水のように吹き上がる。上顎から上を失ったゴブリンの体は、しばらくふらふらと花畑をさまよった後、どさりとその中に沈み込んだ。
「可哀そうかもしれませんが……、これも、冒険者のお仕事なんです」
彼女はそう言ったが、その顔に浮かんでいたのは、本当に死んだ魔物のことを哀れんでいる表情だっただろうか。
彼女の美しい銀髪についた返り血、手に残る魔物のざらついた肌の感覚と、身体の温度。――アルフェは初めて、その「手」を使って命を奪った。だがしかし、彼女の心を占めているのは、一つの達成感であった。
「……!」
――まだ、いる……。
満足げに薬草籠を拾おうとしたアルフェは、まだ魔物の気配が消え去っていないことに気が付いた。振り向くと、三匹のゴブリンが新たに森の奥から走り出てきたところだ。
今回は単独ではなく、集団で襲いに来ていたのか。
「――ふふ」
こうなればいくらでも相手にして見せよう。我知らず、アルフェの口に笑みが浮かぶ。その顔は、とても少女とは思えぬほど艶やかで美しかった。
三匹のゴブリンが、少女の三方を取り囲む。仲間を殺されて怒っているのか、彼らはギャーギャーという鳴き声をあげて少女を威嚇している。
アルフェは周囲の状況を確認した。前と左右に魔物。背後には巨大な倒木がある。後ろには下がれない。
向かって左に位置していたゴブリンが、ひときわ大きな鳴き声を上げて打ちかかってきた。手には錆びた短剣を握っている。アルフェは先ほどと同じ要領でその打ち込みをかわすと、魔物の腹に掌打を突き入れた。
身もだえしながら後退した直後、そのゴブリンの背中が爆ぜる。
非力であるはずの得物から思わぬ反撃を受け、残りの二匹がひるんだ。アルフェはその隙を逃さず、正面のゴブリンに対して攻撃を繰り出す。しかし魔物はその突きを、身をひねってかわそうとした。狙いがはずれ、アルフェの掌打はゴブリンの右肩に当たった。
今度は爆発しなかった。だが、そのゴブリンはひとしきりのた打ち回った後、うつぶせのままぴくぴくと痙攣し、そのまま動かなくなった。
――きちんと魔力を通したつもりでしたが……、肩だと効果が薄いのでしょうか? でもまあ、とにかく……。
「あとは、あなただけですね」
アルフェはそう言って、にっこりと微笑んだ。残った最後のゴブリンは、すでに恐慌状態だ。彼は恐ろしいものを見たように、後ずさって少女から距離をとると、脱兎のごとく逃げ出した。
アルフェは追わずに逃げるゴブリンの背中を見送る。それが森の奥に消えていくと、彼女はようやく息をついた。
――ああ、終わった……。
やはり緊張していたのだろう。本人の強気な思考とは裏腹に、アルフェは全身に震えが襲ってくるのを感じた。己の身体を腕で抱いて、彼女はその場にへたり込んでしまった。
「…………帰りましょう」
どれくらい経っただろうか。震えが収まりしばらくすると、アルフェは立ち上がろうとした。
「――え?」
しかしその瞬間、彼女は自分の上にかかった陰に気がついた。背後の倒木の上から、何かが落ちかかってきたのだ。
「きゃあ!」
ゴブリンである。もう一匹潜んでいたのか。その個体はアルフェの背中におぶさると、わめきながら手斧を振り上げた。
アルフェは咄嗟に、前のめりに倒れた。頭から、花畑の中に突っ込む。背中のゴブリンは、その勢いでアルフェから離れた。
――早く、立ち上がらないと!
難を逃れることができたものの、まだ終わっていない。ゴブリンはもう立ち上がっている。四つん這いになった自分の背後で、笑みを浮かべているのが分かる。
「――!?」
その瞬間、ゴブリンの身体がびくりと震え、はじかれたように後方を振り向いた。しかし、そこには何もいない。魔物は慌てて向き直るが、時既に遅い。
すでに獲物は立ち上がっている。アルフェの渾身の掌打が顔面に突き刺さり、その上半身は爆散した。
魔物の肉片が宙に舞い散る。下半身だけになったゴブリンはその場でバランスを崩すと、倒木にもたれかかって動かなくなった。
「……くっ」
シムの花の香りに混じって、辺りにはむせ返るような血のにおいが立ち込めている。
少しめまいがして、アルフェは片手で額を押さえた。最後の掌打で、思ったより魔力を消費してしまったらしい。これ以上の長居はできない。薬草籠を手に持つと、少女はゆっくり、町への道を引き返していった。
こうして、アルフェの初陣は終わった。
アルフェが立ち去った後、森の中から出てきた白い胴着姿の男がいたが、そのことを彼女は知らない。
◇
――まだかよ……。
夕暮れが近づいてきた。しかし、あの銀髪の娘は帰ってこない。やはり無謀だったのだ。無理矢理にでも、腕をつかんででも引き止めるべきだった。今頃は魔物に襲われ、森の中で屍になっているのだろうか。
自分があの娘を、見捨てたようなものだ。金に窮していたのなら、邪険にせず、相談に乗ってやるべきだった。
そんな後悔を頭の中で繰り返しているのは、冒険者組合のタルボットだ。彼は受付に座ってそわそわしながら、あの少女の帰りを待っている。その様子を見かねた壮年の冒険者が、タルボットに声を掛けた。
「なぁ、そんなに気になるならよ、今からでも遅くねぇぜ。捜索隊を組んだらどうだよ。あんなかわいい娘を死なすこたぁねぇ。俺も参加するよ。暇してるやつらを連れて、森を探そうぜ」
この男も昼間のやり取りを見ていた一人だ。
確かにその通りだ。まだ間に合うかもしれない。運がよければ、森の中で震えているところを見つけられるかも――。そう考えてタルボットが腰を浮かせた瞬間、入り口の扉が開いた。
「――! お、お前……!」
入ってきたのは、薬草を採りに行った昼間の娘だ。
「無事だったのか! 森には行かなかったのか!? ……良かった。そこまで馬鹿じゃあなかったか。ハラハラさせるぜ、まったく」
彼は安心して胸をなで下ろしながら、つい憎まれ口をたたいた。すると娘は、タルボットのいるカウンターにどさりと二つの籠を置いた。
「薬草を採取して来ました。こちらで買い取っていただけますか?」
「な……」
タルボットはあっけに取られる。あれほど言ったのに、こいつは結局忠告を聞かなかったのか。無謀な娘に対する怒りがむらむらとこみ上げてきて、タルボットは彼女を怒鳴りつけた。
「……今度は魔物に襲われなかったってか!? 結構なことだが、それで世の中を甘く見るんじゃねェぞ!」
「襲われましたが、倒しました」
「――は?」
一瞬彼には、目の前の娘が何を言っているのか分からなかった。
「五体のゴブリンが現れましたが、討ち果たしました。……薬草を買い取っていただけますか?」
――何だこいつは……。何を言っている。ゴブリンが五匹? 同時に襲われたのか? 倒した? こんな小娘が? マジで言ってるのか!?
彼女は真剣な表情をしている。とても嘘を言っているようには見えない。しかしどうやって。タルボットはまじまじと娘を見たが、彼女は短剣一本身に着けていない。
「や、薬草の買い取りも二階でやってる……。査定はそこでしてもらえ……」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、娘は二階に上がっていく。
何だ、何が起こっているんだ。わけが分からない。さっきまで捜索隊を出そうと言っていた冒険者も、タルボットと同じ唖然とした表情で娘を見送っている。
「世の中どうなっていやがる……」
タルボットは、今度は弱々しくつぶやいた。
◇
アルフェが摘んできた薬草は銀貨三枚になった。銀貨をキッチンの机の上に並べ、彼女は何度も眺め返している。
座っている少女の服の裾には、まだ魔物の返り血が残っていた。
命を張って、たった三枚。
――でもこれは、確かに私が稼いだお金だ。
森からここに帰ってくるまで無我夢中だったアルフェだが、初めて稼いだ金を前にしていると、徐々に達成感が湧き上がってくるのがわかった。
――これで、明日からも、何とか生活できます……。
急場をしのぐことはできた。しかしまだまだ安心はできない。これからも生活のために、せっせと働かなければならないだろう。さらなる危険に対処するために、道場にも通い続けなければならない。
だがそれにも増して、今は最優先でやらなければならないことがある。
「……パンを、買って来ましょう」
何はともあれ腹ごしらえだ。まずは今日の夕飯を確保しなければ。
少女はテーブルに手をつくと、立ち上がった。
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