第2話

 帝国南部に位置するベルダンの町は、北側を川が流れ、周辺に農地が広がっている。そして市壁の南側には、すぐそばに深い森があり、それは遙かにそびえる大山脈まで続いている。

 貴重な薬草の類は、その南の森で採れるらしい。町の北側では、自生しているものはずっと昔に採りつくされてしまったそうだ。

 ではどうして、南の森にはそれがほとんど手つかずで残っているのか。その理由は単純だ。


 南の森は、この領邦の「結界」の外にある。即ち、そこには魔物が出るのだ。


 魔物が跋扈ばっこするこの世界において、人間が安穏と生活できるのは結界の中だけだ。この町はその結界のちょうど南端に位置しており、そこを一歩出れば、いつ魔物に襲われてもおかしくなかった。

 それでも南門から伸びる太い街道には、道の脇に等間隔に石の柱――魔物よけの入った簡易結界が設置されている。従って、街道沿いに進めば滅多なことがない限り、魔物に襲われることはない。


 町に近い場所ならば、現れるのは下等な魔物ばかりで、強力な魔物が出現するのは、森の更に奥地。とは言っても、そこは既に人間の領域外だ。だからこそ、南の森には、薬草の群生地が豊富に存在している――というのは、アルフェが組合の素材課で受けた説明である。

 本来その森は、間違っても、自衛の手段を持たない少女が一人で踏み入ってよい場所ではない。あるいは完全に無知ならば、アルフェも自重しただろう。しかし、なまじ城からの逃避生活で、森での経験があったことが、彼女を無謀にさせていた。


 ――クラウスと二人でここを抜けてきたときは、特に危険はなかったんだもの。少し行って戻ってくるだけなら、私一人でも……。


 この領邦の隣にある自領から、街道を使わず森を抜けて来たときには、魔物らしい魔物には遭遇しなかった。森にいた数ヶ月の間、アルフェが不自由に感じたのは、粗末な食事と寝床だけだった。

 実際それは、隣にいた従者の手により、危険は目に触れる前に排除されてきたからこその結果だったが、彼女には知る由も無い。

 南の街道を逸れ、がさりと落ち葉を踏みしめて、アルフェは森の中に入った。


 ――すごい木の匂い……。


 あまりにも濃い緑の空気にむせ返りそうだ。アルフェの故郷の城の周囲にも、森があった。それすらも彼女は外から眺めた経験しかなかったが、この森の雰囲気は、明らかに彼女の知っている森と違う。きっとここに人間が足を踏み入れること自体、稀なのだろう。そこは混沌とした生命力と魔力に満ち溢れ、自ずから自然に対する畏怖を感じさせる。

 振り返れば、まだ木々の隙間からベルダンの市壁が見える。が、それも徐々に遠くなる。黙っていると妙に不安になるので、アルフェの独り言はだんだんと大きくなっていった。


「え~と、シムの花は森の中、日の差し込む場所に群生している……」


 目当ての薬草の特徴を口にしながら、彼女は初めての冒険を始めた。

 シムの花は、一般に薬草と呼ばれる植物の中でも、最もありふれた品だ。効果は低いが、それ故に安価で、道具屋に行けばたいてい並んでいるという。アルフェが冒険者組合で閲覧した薬草辞典の中でも、最も採集難度が低く設定されていた。

 森に入って三十分も歩いたころ、アルフェは少し開けた草地に出た。そこだけぽっかりと木が生えておらず、上には青い空が覗いている。草地の中央には大きな倒木があり、その周囲一面には白い花が生えていた。


「これですね!」


 やりましたと、たいした苦労も無く目当ての薬草を見つけ出したことに、少女は歓喜の声を上げた。


「カゴいっぱいに取ってくれば、銀貨二枚で買い取ってくれるということですし……、案外簡単でしたね!」


 少女はうきうきとした気分で採取にかかった。慣れない作業だったが、これが自分の初めての稼ぎになるのだ。疲労すらも心地よく、アルフェは花を摘んでいった。


 ――薬になるのは花びらだけ……。採り尽くさなければ、一月程度でまた採れる……。これだけたくさんあるんだから、私が暮らしていく分は、簡単にお金を稼ぐことができるんじゃないでしょうか。


 シムの花は簡便な傷薬の材料になる。人里での需要は常に絶えない。

 先行きが全く見えなかった暮らしに目途が立ったことで、アルフェの想像は一挙に膨らんだ。


「そうしたら、飢え死にする心配はないし、お腹いっぱい食べられるようになるかもしれないし――」


 彼女の頭の中には、独りで立派に生活する自分の姿が浮かんでいる。

 そして夢中で採取すること一時間。花びらが籠一杯になり、そろそろ帰ろうかかと彼女が腰を浮かせた時だった。


「…………え?」


 アルフェは異変に気がついた。

 木々の隙間から、何かが彼女の様子をうかがっている。


「……誰?」


 こんなところに人間がいるはずもないのに、アルフェはそう問いかけてしまった。その声を受けたからか、隠れていたものが、彼女の方に飛び出してきた。


「あ……。ま、もの?」


 ゴブリン――。見るのは初めてでも、知識はある。かつて城で読んだ物語に、絵姿が載っていた。小鬼とも呼ばれる亜人種だ。

 実際には地域や種類によって様々だが、一般的にゴブリンは最下級の魔物とされる。一対一で剣を持てば、訓練を受けていない平民でも対処はできるだろう。だがアルフェは今、まったくの丸腰だった。ナイフの一本すら、彼女は身に帯びていない。


 ――……もしかして、私のことを、狙っているの……?


 緊張に、アルフェの喉がごくりと鳴る。

 彼女は一瞬、魔物が自分のことを観察しているだけかもしれないと期待した。


「う……」


 しかし、ゴブリンの顔に浮かんだ表情を見て、すぐにその考えを改めた。

 ニチャリと音がしそうな、醜悪で、喜色に満ちた笑み。目の前の怪物は完全に、自分のことを、ただの柔らかそうな肉として見ている。


「あ……」


 その笑みを目にして、アルフェは腰を落としたまま後ずさった。


 ――ど、どうしよう。


 後悔が頭をよぎる。完全に甘く見ていた。


 ――助けを呼ばなきゃ! いえ、こんなところに人がいるはずなんて――!


 先ほどまでの楽観的な想像が消し飛び、恐怖で叫び声をあげることもできない。それに、音を立てれば、無用に目の前の怪物を刺激するかもしれない。少しでも距離をとらなければ。そう考えた彼女は、じりじりと後ずさりを続ける。


「……え?」


 すると、背中に何かが当たった。草地の中央にあった倒木だ。驚いてアルフェが後ろを確認した瞬間、ゴブリンが手斧を振り上げて少女に迫ってきた。奇声を発しながら、ゴブリンは見た目に反した速い動きで、アルフェのすぐ側まで近づいた。


「――きゃあ!」


 アルフェはとっさに、唯一手に持っていた薬草籠をゴブリンめがけて投げつけた。ゴブリンの顔にカゴがぶつかり、白い花びらが舞い散る。

 しかしそれが功を奏した。面食らったゴブリンは、手斧を背後の倒木に打ち込んでしまった。それは幹に深く食い込み、抜けなくなってしまったようだ。

 その足元に腰を抜かしたようになりながら、アルフェは何とか、魔物の影の下から這いだした。


 ――ギャギャギャ!


 手斧を諦めて、ゴブリンはアルフェの背中に馬乗りになってきた。片手で少女の首元を掴み、もう片方の手で服を掴む。食料にするためには、まず、動かないようにする必要がある。


「つぅ!?」


 ゴブリンの尖った爪は、アルフェの皮膚に食い込み、上着を裂いた。アルフェは馬乗りになられたまま、地面を掻いて無我夢中で暴れる。


 ――嫌!


 このままだと、殺される。

 アルフェは初めて、己が、自身の命を対価にこの森に踏み込んだことを自覚した。


 ――いやだ!


 恐怖。すぐ、そこにある死。

 城を脱出した時ですら、それは感じたことの無いものだった。


「たす――」


 助けてと叫びかけて、アルフェは口をつぐんだ。

 私は独りだ。この森の中に、私は独り。いや、この世界を見渡しても、助けてくれる人はもう――。


「うああ!」


 滅茶苦茶に叫んで、アルフェはうつ伏せの状態から、何とか仰向けになろうとした。

 ゴブリンは、成体でも人間の子供並みの大きさだ。この個体も、アルフェより体重が軽い。ぎぎぃと声を出して、ゴブリンはアルフェから引きはがされた。


 ――殺される! 嫌だ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!


 その隙に、アルフェは何とか立ち上がった。上着が破れた所から、肩と下着が露出している。それに気を取られる余裕すら、彼女には無かった。

 とにかくここを離れなければ。アルフェはゴブリンがどうなったかも見ず、一心に足を動かす。薬草の群生地を出て、木々の間に走りこむ。森の地面は起伏が激しく、足が取られる。枝が肌をかすり、血がにじむ。

 少し走っただけで、心臓と肺が破裂しそうになった。それでも走らなければ、あの魔物に捕まる。


 捕まったら、どうなるのだろうか。


 殺されて、食べられるのだろうか。


 殺される前に、食べられるのだろうか。


 食べられるのは、痛いのだろうか。


 それとも、もっとひどいことをされてしまうのだろうか。


 どこをどう走ったのかわからない。魔物が追いかけてきているかどうか、アルフェには振り返って見ることもできない。

 ただ、気がつくと彼女は森を抜け、街道沿いに出てきていた。しかし街道に出てからも足を止められず、さらにもうしばらく走って、彼女はようやく足を止めた。


「はぁッ、はぁッ、はぁッ――」


 いや、止めたというよりは、止まってしまった。もうこれ以上、走ることはできない。アルフェは倒れこみ、激しく息をついた。彼女の整った顔からは、大粒の汗が次々と地面に滴り落ちている。

 息が収まっても、彼女はしばらく後ろを確認する勇気が持てなかった。まるで背後に、あのゴブリンが彼女を見下ろして立っているとでもいうように。


「……っ! …………ああ」


 ようやく振り向く勇気がわいたアルフェは、背後の森に目を向けた。しかし、彼女を追ってきているものは何もいなかった。

 生き延びたのだ。アルフェの心に少しの安堵が浮かぶ。だが、それはすぐに大きな失望に変わった。


 ――薬草が……。


 冒険者としての初仕事は、失敗である。それは誰の目にも明らかだった。それどころか、アルフェは組合で借りた薬草籠もなくしてしまった。弁償しなければならないのだろうか。とはいえ今からあれを取りに戻る勇気はない。徒労感を感じながら、それでもアルフェはとぼとぼと町に向かった。


「お嬢ちゃん――、あんた、本当に森に入ったのかい!?」


 アルフェが組合に着くなり、いきなり立ち上がったタルボットが、彼女に声をかけてきた。

 破れた衣服。血のにじんだ首元。顔を泥まみれにした少女が、どういう思いをしてきたのか。問わずとも、そんなことは見ればわかった。


「……その様子だと、大分ひどい目にあったみたいだな……。悪かった。まさか本当に、一人で森に行くとは思わなかったんだ。なんにしても、命があってよかった」


 タルボットは殊勝な顔をして謝ってくる。彼は真実、少女の安否を気にかけていたのだろう。


「いえ……、私が軽率だったのがいけないのです……。すみません、お借りした籠、失くしてしまいました……。弁償しなければなりませんよね……?」


 アルフェは今にも消え入りそうな声で言う。


「本当なら損料をもらうんだが……、今回はいいよ。な? とりあえず今日は帰って休め。ひでぇ顔してるよ、お嬢ちゃん。悪いことは言わないから、な?」


 アルフェが軽率だった事は間違いないのに、タルボットは優しい言葉をかけてくる。それが逆に情けなく、アルフェは目頭が熱くなるのを感じた。


「はい……。そう、させていただきます。でも、これで二度と、依頼を受けられないということには、ならないんですよね?」


 しかし彼女は涙を飲み込み、顔を上げて聞いた。


「あ、ああ。常設の依頼は失敗扱いにならない。でも本気か? もうやめとけ……! 良く分かっただろうが……!」

「私なら、大丈夫です」


 頑なな声。タルボットは、アルフェの次の言葉に耳を疑った。


「後日、また参ります。そのときは、改めてよろしくお願いします」

「な……、おい!」


 また泣きたくなる前にと、アルフェは踵を返し組合の建物を出た。

 外に出ると、空はすっかり紅く染まっている。ひとまず今日は家に帰ろう。彼女は足早に家への道をたどった。


 ――今夜は、自分で稼いだお金でご飯を食べるはずだったのに。


 その途中、我慢しきれなくなって、少し涙がこぼれてしまった。


「……あれ?」


 そして彼女が誰も居ない我が家に帰り着き、玄関のドアの取っ手に触れると、違和感を覚えた。


 ――鍵が……?


 かかっていない。出るときにかけ忘れたのだろうか。

 そんなはずは無いと思う。もしかしたら、クラウスが帰ってきたのだろうか。アルフェは不安になりつつも、ゆっくりと扉を開いた。


「…………どろぼう?」


 一目で分かった。家の中が荒らされている。わずかな家財道具が床に散乱し、目も当てられないありさまだ。でも、家には盗るようなものは無いのに……。そう考えて、アルフェははっと気が付いた。二階に駆け上がり、彼女は化粧台の引き出しを開けた。


「……そんな」


 絶望した声を出したきり、彼女の口から言葉は出なかった。

 何ということだろうか。そこにあったはずの、クラウスがアルフェのために残した生活資金が、全てきれいに無くなっていたのだ。



「……う」


 粗末な窓に、申し訳程度についているカーテンから、光が差し込んでいる。朝になり、アルフェは目覚めた。彼女は一瞬、ここがどこだか分からず、戸惑う。

 寝台の上だ。ここはベルダンの、自分の家か。そうだ、昨日はとても疲れたので、家に帰るなり、倒れるように眠ってしまったのだ。まだ床の上で眠ったのでなくてよかった。体の節々が痛む。自分はどうして――


「――!」


 ――そうだ……。泥棒が…………。


 寝ぼけていた頭がだんだんと覚醒し、アルフェは昨日のことを思い出した。南の森でゴブリンに襲われ、命からがら逃げ帰って来たら、盗人に家を荒らされていたのだ。

 昨日は、アルフェにとって踏んだり蹴ったりの一日だった。疲れたやら哀しいやらで、わけがわからなくなって、彼女は現実から逃避した。とにかく眠ることを選んだのだ。

 だが、否が応でも朝はやってくる。彼女は自分の置かれた状況を、直視しなければならなかった。床にはアルフェが所持している、わずかな衣服が散らばっている。これはアルフェがそうしたのではない。盗人がやったのだ。これを片付ける気力すら、昨夜のアルフェには残されていなかった。


 ――お金……。


 そして、そのことを思うと、アルフェの顔は青ざめる。家にあったわずかな財産は、全て盗まれてしまったのだ。

 今となっては悔やまれる。なぜ軽率に、仕事を探そうなどと思ったのだろう。もっとよく考えればよかった。こんなことになるのなら、外に出ず、家の中に閉じこもっていればよかった。


 昨日と今日では、アルフェを取り巻く状況は大きく違っていた。冷えた頭で考えると、クラウスが残してくれた資金はやはり大金だった。あれがあると無いとでは、全く持って大違いだ。稼ぐことの難しさを知った今では、余計にそう思う。


 ――銀貨が二枚と……、銅貨が二十四枚……。


 昨日、アルフェが皮袋に入れて、外に持ち出していた金はそれで全部。それだけは無事だった。


 ――これで……、これで何日生活できるの?


 昨日は銀貨一枚と銅貨六枚を使った。昼の食事代と、薬草辞典の閲覧料だ。夕飯は食べていない。

 あまり真剣に想像したくない。が、切り詰めれば食事代だけで一ヶ月くらいは生活できるだろうか。そうやってじっと待っていれば、クラウスが戻ってくる可能性も――。


 ――そう、クラウスが戻ってくれば……。


 だがしかし、あの従士はどこに行ったのだろうか。自分をこんなところに放っておいて、あの男は何をしているのだろうか。


 ――だいたい……、本当にクラウスは帰ってくるの?


 考えたくないが、そう思わざるを得ない。

 城から救い出されて以来、アルフェはクラウスに盲目的に従ってきたところがある。箱入り娘だったアルフェにとっては、頼れる者が彼だけだったのだから、仕方ない面もあるだろう。だが、クラウスにとってはどうだろうか。家も何もかも失った今のアルフェを守る理由が、彼にあるとは思えない。


 ――私はもう、大公家のお姫様じゃない……。クラウスが守る意味なんて……。


 その想像からは、ずっと目をそらしていた。しかしひょっとしたら、自分は見捨てられたのかもしれない。昨夜から引き続く空腹のせいだろう。アルフェの思考は、つい悪い方、悪い方へと転がっていく。

 仮に見捨てられたのが事実だとしても、アルフェには他に行くところもない。頭を振って、彼女は妄想を頭から追い払った。結局、今できることは昨日と変わらないのだ。


 ――働かないと……!


 アルフェは無理矢理、己を奮い立たせた。そう、働く道を見つければ全てが解決する。その必要性と緊急性が増しただけだ。可及的速やかに、アルフェは自活できるようにならなければならない。

 しかし、この惨状の後始末をどうしようか。そう思って、彼女は荒れ果てた室内を見渡した。盗人が出たら、町の衛兵に通報しなければならないはずだ。


「あ……」


 衛兵という単語を思って、アルフェは急に気がついた。そう言えば、クラウスは衛兵を避けて行動していた。


 ――ひょっとしたら、私は、お尋ね者なの……?


 難しいことは、アルフェにはよくわからない。だが、逃亡した大公家の娘を捕らえるために、王国から追っ手がかかっている、ということもあるのだろうか。衛兵のところには行かない方がいい。それは最後の最後の手段にしよう。とりあえずはそう判断し、彼女は室内を片付け始めた。

 片付けが済むと、アルフェは一階に降りた。とにかく腹が減っている。昨日の残り物のパンだけは、キッチンに残されていた。さすがの盗人も、これには手をつけなかったらしい。

 昨日よりもさらに硬くなったパンを飲み込み、どうにか少女の空腹は満たされた。しかしこれで正真正銘、家にあった食料は尽きたことになる。あとは、手持ちの金を元になんとかするしかない。

 アルフェはもう一度、自分にできることを考えた。

 物乞いにでもなるべきだろうか。いや、それはできない。それは許されない。そんな惨めな思いをするぐらいならば、飢えて死ぬか、魔物に食われた方がいい。ならば商会所の男が言っていたように、誰かの「支援」を受けるべきか。それならば、物乞いになる方がましだという気がする。ということは、それも選べない手段ということだ。


 ――昨日はあと少し……、もう少しで上手くいったのだから。あのゴブリンさえ出てこなければ……、もしくは、私がゴブリンを倒せたら。


 根本的には、彼女はあまり懲りていなかったのかもしれない。結局、そんな風に考えていた。


 ――戦う方法を見つけないと……。冒険者の人たちは、とても強そうでしたし、私も強くなれば……!


 そうすれば、魔物から身を守りつつ、薬草を採取できる。

 とにかく、家に引きこもっているという選択肢は失われたのだ。飢えないためには、行動を起こさなくてはならない。彼女は立ち上がり、扉に向かう。ドアを開いたところで、ちょっと振り返った。


 ――もう、本当に盗むものはありませんし……。泥棒がまたやってくるなんて、ないですよね?


 そう考えると怖くなって、アルフェは足早に家を出た。



 冒険者組合の裏手から、少し急な坂を上っていくと、鍛冶屋や道具屋の並ぶ通りがある。この町の組合の冒険者は、ほとんどがこの一角で物資を調達していた。

 戦う手段を見つけよう。そう決めたアルフェは、その通りの武具屋に並べられた刀剣類を物色していた。カウンターでは年配の店主が口を開けて、武器を眺めている謎の美少女に見入っている。


 ――高い……。何故こんなに高いのでしょう。


 アルフェは細長いパンを小脇に抱えながら、真剣に悩んでいる。武器調達よりも、食料調達のほうが優先されたためだ。


 ――小剣ショートソードが、銀貨三十枚? 安い物でも金貨か、銀貨が何十枚も要る……。このパンが何百本買えるのでしょう……。


 必要は成長の母と、誰かが言った。世間知らずだったアルフェの経済観念は、この二日間で大きく発展していた。その目から見ると、この店で扱っている武器防具は、どれも値が張る。冒険者組合の御用達だけあって品質はいいのだが、彼女に使える手持ちは銀貨二枚。とても買えるものではない。

 唯一アルフェの手が届くのは、革製の投石器スリングだけ。しかしアルフェには、それの用途すら不明である。値段を交渉する気にもなれず、アルフェは武具屋を後にした。

 この通りには、他にもいくつかの武具屋が並んでいた。中には中古品を扱う店もあり、一応全てをのぞいてみたものの、今のアルフェにあがなえる品物は無かった。


 ――だいたい、剣を買ったからと言って、戦えるようになるわけではないですよね……。お姉様のように、私に剣の才能があるわけもないですし……。


 アルフェの姉は、女だてらに剣を振り回すのが趣味だった。大人の兵隊ですら、そう、アルフェを助けたクラウスも、姉には訓練で叩きのめされるばかりで、誰も敵わないと聞いたことがある。しかしそれは姉の話であり、アルフェが剣を振った経験は皆無だ。

 では、魔術ならばどうだろうか。

 貴族の子弟ならば、大体が魔術教育を受ける。ご多分に漏れず、アルフェにも魔術が使えた。しかし、こと戦闘に用いるとなれば話は別だ。アルフェが使えるのは、簡単な治癒術だけ。それも擦り傷を治す程度のものだ。戦いに使用するような、破壊的な魔術は使えない。


 ――今から魔術を身につけて、間に合うわけがないし……。


 魔術は高度な学問知識に裏打ちされた技術体系だ。数年かけて努力して、ようやくまともに魔術を使える。対して、アルフェが家人から学んだのは基礎の基礎だけ。今から魔術を学ぶなど、彼女にはそんな悠長なことを言っていられる時間も、資金もない。

 悩みながら通りを歩いていると、アルフェの耳に、なにやらわめき声が入ってきた。それは、男たちの叫び声だ。


「練兵場……?」


 考え込んだまま、いつの間にか坂の上まで登ってきてしまったようだ。見ればその一角には、民家でも商店でもない建物が並んでいる。柵の向こうに見えるのは、ならされた土の上で木剣を構え、大声をあげて打ち合う若者たちだ。

 練兵場と言った、彼女の見当は大外れでもない。ここは剣の道場だ。町には衛兵や冒険者を志す若者たちのために、戦闘技術を教えるこうした私塾が、いくつか存在していた。

 アルフェはしばらく、そんな若者たちの訓練風景を、柵の向こうから見学していた。周囲には、アルフェの他にも何人かの少女がいて、見目の良い若者の一挙手一投足に、黄色い声を上げている。


 ――このような練兵場に通えば、私も戦えるようになるのでしょうか?


 この若者たちが、どの程度戦えるのかは分からないが、少なくとも、昨日見たゴブリンを相手に遅れをとることはあるまい。

 気が付くと、何人かの若者がアルフェを見ているのに気が付いた。彼らの打ち合いの手は止まっていたが、アルフェと目が合うと、真っ赤になって訓練を再開した。さっきまでよりも、はるかにすさまじい熱の入れようだった。何となく妙な空気になったので、アルフェはその場を後にした。

 剣の道場の隣には、槍術の道場があり、さらにその隣では弓を教えていた。そうやって見学しながら歩いていると、建物の並びは途切れた。そこまで来ると、風景は小高い丘の上のようになってきた。町の大部分を見渡すことができ、市壁の外の、少し遠くの景色まで見える。町の中心部に顔を出している大きな建物は、アルフェが昨日訪れた、商会所だろうか。


 ――ん?


 町を眺めている間に、アルフェは道の突き当たりにまで来てしまった。奥には一軒、みすぼらしい建物が建っている。先ほど見たような道場と、外見は似たような造りをしているが、それらと異なり活気がない。人が居るかどうかも怪しい。

 あれも何かの私塾だろうか。なぜか興味を惹かれたアルフェは、てくてくとその建物に近づいた。


「魔物を素手でぶちのめそう。君も十日で強くなれる。見学者歓迎、体験無料……。無料?」


 玄関の横には、そんな文句が書かれた張り紙が張ってある。顔を上げると、「武神流道場」と大書された看板が掛かっている。武神流、良く分からない、大げさな響きだ。

 アルフェはもう一度、張り紙に目を注いだ。そこには先ほどの宣伝文句の他に、ひげ面の男が魔物を拳で打ち倒している絵が描かれている。男の笑顔がやけにキラキラしていて、なんだか気色が悪い。張られてから随分時間が経っているようで、張り紙の端は破れ、風になびいていた。


 ――拳闘術? を教える道場でしょうか……。


 絵と文句からはそう読める。アルフェは首を傾げた。

 拳闘術とは、いざと言うときの護身術や、競技として行われることがあるらしい。これも本の知識だが、帝都では毎年、拳闘大会なるものも開かれていると聞く。だがこの張り紙を見るに、どうやらここでは、素手で魔物と格闘する術を教えているようだ。


 ――十日……、十日で強くなれる? 拳闘術なら武器を買う必要も無いし……、何よりも、無料というのがいいですね。


 金銭にまつわるここ最近の悲劇が、少女にこの怪しい過剰広告を信じさせた。

 物は試しと思ったアルフェが扉をくぐると、外と雰囲気が一変した。この建物の外観は、町の他の建物のようにレンガと漆喰造りだったが、中は壁にも床にも木の板が貼られている。玄関は土間になっているが、それはわずかな空間だけで、二段ほどの階段を上ると、すぐに板張りの床に変わる。見たことのない建築様式だ。


「すみません」


 アルフェはおとないを告げるが、応対するものは誰もいない。

 いや、広間の奥に誰か座っている。やけに大きな男だ。


「すみません、よろしいですか?」


 もう一度アルフェが玄関から声をかけても、その男は微動だにしない。

 しかたがないのでアルフェは室内に入り、男性の側まで歩み寄った。


「あの、表の看板を見たのですが」


 そう言いながら、彼女はしげしげと座っている男を観察した。

 大きい。男は座っているのに、頭の高さがアルフェの身長くらいまである。着ている白い奇妙な服の上からでも、巌のような筋肉が盛り上がっているのが分かった。

 そして顔だ。目を閉じてはいるが顔が怖い。眉間にしわが寄っている。短髪で浅黒い肌をしている。このひげ面は、表の看板に描かれていたのと同一人物だろうか。

 しかし、まるで反応が無いのはどうしてだろう。首を傾げながらさらに近くまで寄り、アルフェはもう一度男に声をかけた。


「あの――」


 その瞬間、突如として男が目を見開き、大音声を挙げた。


「神聖な道場に!! 土足で踏み入るとは何事かぁぁ!!」

「すみませんんん!!」


 アルフェは思わず、謝ってしまった。

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