第2話
帝国南部に位置するベルダンの町は、北側を川が流れ、周辺に農地が広がっている。そして市壁の南側には、すぐそばに深い森があり、それは遙かにそびえる大山脈まで続いている。
貴重な薬草の類は、その南の森で採れるらしい。町の北側では、自生しているものはずっと昔に採りつくされてしまったそうだ。
ではどうして、南の森にはそれがほとんど手つかずで残っているのか。その理由は単純だ。
南の森は、この領邦の「結界」の外にある。即ち、そこには魔物が出るのだ。
魔物が
それでも南門から伸びる太い街道には、道の脇に等間隔に石の柱――魔物よけの入った簡易結界が設置されている。従って、街道沿いに進めば滅多なことがない限り、魔物に襲われることはない。
町に近い場所ならば、現れるのは下等な魔物ばかりで、強力な魔物が出現するのは、森の更に奥地。とは言っても、そこは既に人間の領域外だ。だからこそ、南の森には、薬草の群生地が豊富に存在している――というのは、アルフェが組合の素材課で受けた説明である。
本来その森は、間違っても、自衛の手段を持たない少女が一人で踏み入ってよい場所ではない。あるいは完全に無知ならば、アルフェも自重しただろう。しかし、なまじ城からの逃避生活で、森での経験があったことが、彼女を無謀にさせていた。
――クラウスと二人でここを抜けてきたときは、特に危険はなかったんだもの。少し行って戻ってくるだけなら、私一人でも……。
この領邦の隣にある自領から、街道を使わず森を抜けて来たときには、魔物らしい魔物には遭遇しなかった。森にいた数ヶ月の間、アルフェが不自由に感じたのは、粗末な食事と寝床だけだった。
実際それは、隣にいた従者の手により、危険は目に触れる前に排除されてきたからこその結果だったが、彼女には知る由も無い。
南の街道を逸れ、がさりと落ち葉を踏みしめて、アルフェは森の中に入った。
――すごい木の匂い……。
あまりにも濃い緑の空気にむせ返りそうだ。アルフェの故郷の城の周囲にも、森があった。それすらも彼女は外から眺めた経験しかなかったが、この森の雰囲気は、明らかに彼女の知っている森と違う。きっとここに人間が足を踏み入れること自体、稀なのだろう。そこは混沌とした生命力と魔力に満ち溢れ、自ずから自然に対する畏怖を感じさせる。
振り返れば、まだ木々の隙間からベルダンの市壁が見える。が、それも徐々に遠くなる。黙っていると妙に不安になるので、アルフェの独り言はだんだんと大きくなっていった。
「え~と、シムの花は森の中、日の差し込む場所に群生している……」
目当ての薬草の特徴を口にしながら、彼女は初めての冒険を始めた。
シムの花は、一般に薬草と呼ばれる植物の中でも、最もありふれた品だ。効果は低いが、それ故に安価で、道具屋に行けばたいてい並んでいるという。アルフェが冒険者組合で閲覧した薬草辞典の中でも、最も採集難度が低く設定されていた。
森に入って三十分も歩いたころ、アルフェは少し開けた草地に出た。そこだけぽっかりと木が生えておらず、上には青い空が覗いている。草地の中央には大きな倒木があり、その周囲一面には白い花が生えていた。
「これですね!」
やりましたと、たいした苦労も無く目当ての薬草を見つけ出したことに、少女は歓喜の声を上げた。
「カゴいっぱいに取ってくれば、銀貨二枚で買い取ってくれるということですし……、案外簡単でしたね!」
少女はうきうきとした気分で採取にかかった。慣れない作業だったが、これが自分の初めての稼ぎになるのだ。疲労すらも心地よく、アルフェは花を摘んでいった。
――薬になるのは花びらだけ……。採り尽くさなければ、一月程度でまた採れる……。これだけたくさんあるんだから、私が暮らしていく分は、簡単にお金を稼ぐことができるんじゃないでしょうか。
シムの花は簡便な傷薬の材料になる。人里での需要は常に絶えない。
先行きが全く見えなかった暮らしに目途が立ったことで、アルフェの想像は一挙に膨らんだ。
「そうしたら、飢え死にする心配はないし、お腹いっぱい食べられるようになるかもしれないし――」
彼女の頭の中には、独りで立派に生活する自分の姿が浮かんでいる。
そして夢中で採取すること一時間。花びらが籠一杯になり、そろそろ帰ろうかかと彼女が腰を浮かせた時だった。
「…………え?」
アルフェは異変に気がついた。
木々の隙間から、何かが彼女の様子をうかがっている。
「……誰?」
こんなところに人間がいるはずもないのに、アルフェはそう問いかけてしまった。その声を受けたからか、隠れていたものが、彼女の方に飛び出してきた。
「あ……。ま、もの?」
ゴブリン――。見るのは初めてでも、知識はある。かつて城で読んだ物語に、絵姿が載っていた。小鬼とも呼ばれる亜人種だ。
実際には地域や種類によって様々だが、一般的にゴブリンは最下級の魔物とされる。一対一で剣を持てば、訓練を受けていない平民でも対処はできるだろう。だがアルフェは今、まったくの丸腰だった。ナイフの一本すら、彼女は身に帯びていない。
――……もしかして、私のことを、狙っているの……?
緊張に、アルフェの喉がごくりと鳴る。
彼女は一瞬、魔物が自分のことを観察しているだけかもしれないと期待した。
「う……」
しかし、ゴブリンの顔に浮かんだ表情を見て、すぐにその考えを改めた。
ニチャリと音がしそうな、醜悪で、喜色に満ちた笑み。目の前の怪物は完全に、自分のことを、ただの柔らかそうな肉として見ている。
「あ……」
その笑みを目にして、アルフェは腰を落としたまま後ずさった。
――ど、どうしよう。
後悔が頭をよぎる。完全に甘く見ていた。
――助けを呼ばなきゃ! いえ、こんなところに人がいるはずなんて――!
先ほどまでの楽観的な想像が消し飛び、恐怖で叫び声をあげることもできない。それに、音を立てれば、無用に目の前の怪物を刺激するかもしれない。少しでも距離をとらなければ。そう考えた彼女は、じりじりと後ずさりを続ける。
「……え?」
すると、背中に何かが当たった。草地の中央にあった倒木だ。驚いてアルフェが後ろを確認した瞬間、ゴブリンが手斧を振り上げて少女に迫ってきた。奇声を発しながら、ゴブリンは見た目に反した速い動きで、アルフェのすぐ側まで近づいた。
「――きゃあ!」
アルフェはとっさに、唯一手に持っていた薬草籠をゴブリンめがけて投げつけた。ゴブリンの顔にカゴがぶつかり、白い花びらが舞い散る。
しかしそれが功を奏した。面食らったゴブリンは、手斧を背後の倒木に打ち込んでしまった。それは幹に深く食い込み、抜けなくなってしまったようだ。
その足元に腰を抜かしたようになりながら、アルフェは何とか、魔物の影の下から這いだした。
――ギャギャギャ!
手斧を諦めて、ゴブリンはアルフェの背中に馬乗りになってきた。片手で少女の首元を掴み、もう片方の手で服を掴む。食料にするためには、まず、動かないようにする必要がある。
「つぅ!?」
ゴブリンの尖った爪は、アルフェの皮膚に食い込み、上着を裂いた。アルフェは馬乗りになられたまま、地面を掻いて無我夢中で暴れる。
――嫌!
このままだと、殺される。
アルフェは初めて、己が、自身の命を対価にこの森に踏み込んだことを自覚した。
――いやだ!
恐怖。すぐ、そこにある死。
城を脱出した時ですら、それは感じたことの無いものだった。
「たす――」
助けてと叫びかけて、アルフェは口をつぐんだ。
私は独りだ。この森の中に、私は独り。いや、この世界を見渡しても、助けてくれる人はもう――。
「うああ!」
滅茶苦茶に叫んで、アルフェはうつ伏せの状態から、何とか仰向けになろうとした。
ゴブリンは、成体でも人間の子供並みの大きさだ。この個体も、アルフェより体重が軽い。ぎぎぃと声を出して、ゴブリンはアルフェから引きはがされた。
――殺される! 嫌だ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!
その隙に、アルフェは何とか立ち上がった。上着が破れた所から、肩と下着が露出している。それに気を取られる余裕すら、彼女には無かった。
とにかくここを離れなければ。アルフェはゴブリンがどうなったかも見ず、一心に足を動かす。薬草の群生地を出て、木々の間に走りこむ。森の地面は起伏が激しく、足が取られる。枝が肌をかすり、血がにじむ。
少し走っただけで、心臓と肺が破裂しそうになった。それでも走らなければ、あの魔物に捕まる。
捕まったら、どうなるのだろうか。
殺されて、食べられるのだろうか。
殺される前に、食べられるのだろうか。
食べられるのは、痛いのだろうか。
それとも、もっとひどいことをされてしまうのだろうか。
どこをどう走ったのかわからない。魔物が追いかけてきているかどうか、アルフェには振り返って見ることもできない。
ただ、気がつくと彼女は森を抜け、街道沿いに出てきていた。しかし街道に出てからも足を止められず、さらにもうしばらく走って、彼女はようやく足を止めた。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ――」
いや、止めたというよりは、止まってしまった。もうこれ以上、走ることはできない。アルフェは倒れこみ、激しく息をついた。彼女の整った顔からは、大粒の汗が次々と地面に滴り落ちている。
息が収まっても、彼女はしばらく後ろを確認する勇気が持てなかった。まるで背後に、あのゴブリンが彼女を見下ろして立っているとでもいうように。
「……っ! …………ああ」
ようやく振り向く勇気がわいたアルフェは、背後の森に目を向けた。しかし、彼女を追ってきているものは何もいなかった。
生き延びたのだ。アルフェの心に少しの安堵が浮かぶ。だが、それはすぐに大きな失望に変わった。
――薬草が……。
冒険者としての初仕事は、失敗である。それは誰の目にも明らかだった。それどころか、アルフェは組合で借りた薬草籠もなくしてしまった。弁償しなければならないのだろうか。とはいえ今からあれを取りに戻る勇気はない。徒労感を感じながら、それでもアルフェはとぼとぼと町に向かった。
「お嬢ちゃん――、あんた、本当に森に入ったのかい!?」
アルフェが組合に着くなり、いきなり立ち上がったタルボットが、彼女に声をかけてきた。
破れた衣服。血のにじんだ首元。顔を泥まみれにした少女が、どういう思いをしてきたのか。問わずとも、そんなことは見ればわかった。
「……その様子だと、大分ひどい目にあったみたいだな……。悪かった。まさか本当に、一人で森に行くとは思わなかったんだ。なんにしても、命があってよかった」
タルボットは殊勝な顔をして謝ってくる。彼は真実、少女の安否を気にかけていたのだろう。
「いえ……、私が軽率だったのがいけないのです……。すみません、お借りした籠、失くしてしまいました……。弁償しなければなりませんよね……?」
アルフェは今にも消え入りそうな声で言う。
「本当なら損料をもらうんだが……、今回はいいよ。な? とりあえず今日は帰って休め。ひでぇ顔してるよ、お嬢ちゃん。悪いことは言わないから、な?」
アルフェが軽率だった事は間違いないのに、タルボットは優しい言葉をかけてくる。それが逆に情けなく、アルフェは目頭が熱くなるのを感じた。
「はい……。そう、させていただきます。でも、これで二度と、依頼を受けられないということには、ならないんですよね?」
しかし彼女は涙を飲み込み、顔を上げて聞いた。
「あ、ああ。常設の依頼は失敗扱いにならない。でも本気か? もうやめとけ……! 良く分かっただろうが……!」
「私なら、大丈夫です」
頑なな声。タルボットは、アルフェの次の言葉に耳を疑った。
「後日、また参ります。そのときは、改めてよろしくお願いします」
「な……、おい!」
また泣きたくなる前にと、アルフェは踵を返し組合の建物を出た。
外に出ると、空はすっかり紅く染まっている。ひとまず今日は家に帰ろう。彼女は足早に家への道をたどった。
――今夜は、自分で稼いだお金でご飯を食べるはずだったのに。
その途中、我慢しきれなくなって、少し涙がこぼれてしまった。
「……あれ?」
そして彼女が誰も居ない我が家に帰り着き、玄関のドアの取っ手に触れると、違和感を覚えた。
――鍵が……?
かかっていない。出るときにかけ忘れたのだろうか。
そんなはずは無いと思う。もしかしたら、クラウスが帰ってきたのだろうか。アルフェは不安になりつつも、ゆっくりと扉を開いた。
「…………どろぼう?」
一目で分かった。家の中が荒らされている。わずかな家財道具が床に散乱し、目も当てられないありさまだ。でも、家には盗るようなものは無いのに……。そう考えて、アルフェははっと気が付いた。二階に駆け上がり、彼女は化粧台の引き出しを開けた。
「……そんな」
絶望した声を出したきり、彼女の口から言葉は出なかった。
何ということだろうか。そこにあったはずの、クラウスがアルフェのために残した生活資金が、全てきれいに無くなっていたのだ。
◇
「……う」
粗末な窓に、申し訳程度についているカーテンから、光が差し込んでいる。朝になり、アルフェは目覚めた。彼女は一瞬、ここがどこだか分からず、戸惑う。
寝台の上だ。ここはベルダンの、自分の家か。そうだ、昨日はとても疲れたので、家に帰るなり、倒れるように眠ってしまったのだ。まだ床の上で眠ったのでなくてよかった。体の節々が痛む。自分はどうして――
「――!」
――そうだ……。泥棒が…………。
寝ぼけていた頭がだんだんと覚醒し、アルフェは昨日のことを思い出した。南の森でゴブリンに襲われ、命からがら逃げ帰って来たら、盗人に家を荒らされていたのだ。
昨日は、アルフェにとって踏んだり蹴ったりの一日だった。疲れたやら哀しいやらで、わけがわからなくなって、彼女は現実から逃避した。とにかく眠ることを選んだのだ。
だが、否が応でも朝はやってくる。彼女は自分の置かれた状況を、直視しなければならなかった。床にはアルフェが所持している、わずかな衣服が散らばっている。これはアルフェがそうしたのではない。盗人がやったのだ。これを片付ける気力すら、昨夜のアルフェには残されていなかった。
――お金……。
そして、そのことを思うと、アルフェの顔は青ざめる。家にあったわずかな財産は、全て盗まれてしまったのだ。
今となっては悔やまれる。なぜ軽率に、仕事を探そうなどと思ったのだろう。もっとよく考えればよかった。こんなことになるのなら、外に出ず、家の中に閉じこもっていればよかった。
昨日と今日では、アルフェを取り巻く状況は大きく違っていた。冷えた頭で考えると、クラウスが残してくれた資金はやはり大金だった。あれがあると無いとでは、全く持って大違いだ。稼ぐことの難しさを知った今では、余計にそう思う。
――銀貨が二枚と……、銅貨が二十四枚……。
昨日、アルフェが皮袋に入れて、外に持ち出していた金はそれで全部。それだけは無事だった。
――これで……、これで何日生活できるの?
昨日は銀貨一枚と銅貨六枚を使った。昼の食事代と、薬草辞典の閲覧料だ。夕飯は食べていない。
あまり真剣に想像したくない。が、切り詰めれば食事代だけで一ヶ月くらいは生活できるだろうか。そうやってじっと待っていれば、クラウスが戻ってくる可能性も――。
――そう、クラウスが戻ってくれば……。
だがしかし、あの従士はどこに行ったのだろうか。自分をこんなところに放っておいて、あの男は何をしているのだろうか。
――だいたい……、本当にクラウスは帰ってくるの?
考えたくないが、そう思わざるを得ない。
城から救い出されて以来、アルフェはクラウスに盲目的に従ってきたところがある。箱入り娘だったアルフェにとっては、頼れる者が彼だけだったのだから、仕方ない面もあるだろう。だが、クラウスにとってはどうだろうか。家も何もかも失った今のアルフェを守る理由が、彼にあるとは思えない。
――私はもう、大公家のお姫様じゃない……。クラウスが守る意味なんて……。
その想像からは、ずっと目をそらしていた。しかしひょっとしたら、自分は見捨てられたのかもしれない。昨夜から引き続く空腹のせいだろう。アルフェの思考は、つい悪い方、悪い方へと転がっていく。
仮に見捨てられたのが事実だとしても、アルフェには他に行くところもない。頭を振って、彼女は妄想を頭から追い払った。結局、今できることは昨日と変わらないのだ。
――働かないと……!
アルフェは無理矢理、己を奮い立たせた。そう、働く道を見つければ全てが解決する。その必要性と緊急性が増しただけだ。可及的速やかに、アルフェは自活できるようにならなければならない。
しかし、この惨状の後始末をどうしようか。そう思って、彼女は荒れ果てた室内を見渡した。盗人が出たら、町の衛兵に通報しなければならないはずだ。
「あ……」
衛兵という単語を思って、アルフェは急に気がついた。そう言えば、クラウスは衛兵を避けて行動していた。
――ひょっとしたら、私は、お尋ね者なの……?
難しいことは、アルフェにはよくわからない。だが、逃亡した大公家の娘を捕らえるために、王国から追っ手がかかっている、ということもあるのだろうか。衛兵のところには行かない方がいい。それは最後の最後の手段にしよう。とりあえずはそう判断し、彼女は室内を片付け始めた。
片付けが済むと、アルフェは一階に降りた。とにかく腹が減っている。昨日の残り物のパンだけは、キッチンに残されていた。さすがの盗人も、これには手をつけなかったらしい。
昨日よりもさらに硬くなったパンを飲み込み、どうにか少女の空腹は満たされた。しかしこれで正真正銘、家にあった食料は尽きたことになる。あとは、手持ちの金を元になんとかするしかない。
アルフェはもう一度、自分にできることを考えた。
物乞いにでもなるべきだろうか。いや、それはできない。それは許されない。そんな惨めな思いをするぐらいならば、飢えて死ぬか、魔物に食われた方がいい。ならば商会所の男が言っていたように、誰かの「支援」を受けるべきか。それならば、物乞いになる方がましだという気がする。ということは、それも選べない手段ということだ。
――昨日はあと少し……、もう少しで上手くいったのだから。あのゴブリンさえ出てこなければ……、もしくは、私がゴブリンを倒せたら。
根本的には、彼女はあまり懲りていなかったのかもしれない。結局、そんな風に考えていた。
――戦う方法を見つけないと……。冒険者の人たちは、とても強そうでしたし、私も強くなれば……!
そうすれば、魔物から身を守りつつ、薬草を採取できる。
とにかく、家に引きこもっているという選択肢は失われたのだ。飢えないためには、行動を起こさなくてはならない。彼女は立ち上がり、扉に向かう。ドアを開いたところで、ちょっと振り返った。
――もう、本当に盗むものはありませんし……。泥棒がまたやってくるなんて、ないですよね?
そう考えると怖くなって、アルフェは足早に家を出た。
◇
冒険者組合の裏手から、少し急な坂を上っていくと、鍛冶屋や道具屋の並ぶ通りがある。この町の組合の冒険者は、ほとんどがこの一角で物資を調達していた。
戦う手段を見つけよう。そう決めたアルフェは、その通りの武具屋に並べられた刀剣類を物色していた。カウンターでは年配の店主が口を開けて、武器を眺めている謎の美少女に見入っている。
――高い……。何故こんなに高いのでしょう。
アルフェは細長いパンを小脇に抱えながら、真剣に悩んでいる。武器調達よりも、食料調達のほうが優先されたためだ。
――
必要は成長の母と、誰かが言った。世間知らずだったアルフェの経済観念は、この二日間で大きく発展していた。その目から見ると、この店で扱っている武器防具は、どれも値が張る。冒険者組合の御用達だけあって品質はいいのだが、彼女に使える手持ちは銀貨二枚。とても買えるものではない。
唯一アルフェの手が届くのは、革製の
この通りには、他にもいくつかの武具屋が並んでいた。中には中古品を扱う店もあり、一応全てをのぞいてみたものの、今のアルフェに
――だいたい、剣を買ったからと言って、戦えるようになるわけではないですよね……。お姉様のように、私に剣の才能があるわけもないですし……。
アルフェの姉は、女だてらに剣を振り回すのが趣味だった。大人の兵隊ですら、そう、アルフェを助けたクラウスも、姉には訓練で叩きのめされるばかりで、誰も敵わないと聞いたことがある。しかしそれは姉の話であり、アルフェが剣を振った経験は皆無だ。
では、魔術ならばどうだろうか。
貴族の子弟ならば、大体が魔術教育を受ける。ご多分に漏れず、アルフェにも魔術が使えた。しかし、こと戦闘に用いるとなれば話は別だ。アルフェが使えるのは、簡単な治癒術だけ。それも擦り傷を治す程度のものだ。戦いに使用するような、破壊的な魔術は使えない。
――今から魔術を身につけて、間に合うわけがないし……。
魔術は高度な学問知識に裏打ちされた技術体系だ。数年かけて努力して、ようやくまともに魔術を使える。対して、アルフェが家人から学んだのは基礎の基礎だけ。今から魔術を学ぶなど、彼女にはそんな悠長なことを言っていられる時間も、資金もない。
悩みながら通りを歩いていると、アルフェの耳に、なにやらわめき声が入ってきた。それは、男たちの叫び声だ。
「練兵場……?」
考え込んだまま、いつの間にか坂の上まで登ってきてしまったようだ。見ればその一角には、民家でも商店でもない建物が並んでいる。柵の向こうに見えるのは、ならされた土の上で木剣を構え、大声をあげて打ち合う若者たちだ。
練兵場と言った、彼女の見当は大外れでもない。ここは剣の道場だ。町には衛兵や冒険者を志す若者たちのために、戦闘技術を教えるこうした私塾が、いくつか存在していた。
アルフェはしばらく、そんな若者たちの訓練風景を、柵の向こうから見学していた。周囲には、アルフェの他にも何人かの少女がいて、見目の良い若者の一挙手一投足に、黄色い声を上げている。
――このような練兵場に通えば、私も戦えるようになるのでしょうか?
この若者たちが、どの程度戦えるのかは分からないが、少なくとも、昨日見たゴブリンを相手に遅れをとることはあるまい。
気が付くと、何人かの若者がアルフェを見ているのに気が付いた。彼らの打ち合いの手は止まっていたが、アルフェと目が合うと、真っ赤になって訓練を再開した。さっきまでよりも、はるかにすさまじい熱の入れようだった。何となく妙な空気になったので、アルフェはその場を後にした。
剣の道場の隣には、槍術の道場があり、さらにその隣では弓を教えていた。そうやって見学しながら歩いていると、建物の並びは途切れた。そこまで来ると、風景は小高い丘の上のようになってきた。町の大部分を見渡すことができ、市壁の外の、少し遠くの景色まで見える。町の中心部に顔を出している大きな建物は、アルフェが昨日訪れた、商会所だろうか。
――ん?
町を眺めている間に、アルフェは道の突き当たりにまで来てしまった。奥には一軒、みすぼらしい建物が建っている。先ほど見たような道場と、外見は似たような造りをしているが、それらと異なり活気がない。人が居るかどうかも怪しい。
あれも何かの私塾だろうか。なぜか興味を惹かれたアルフェは、てくてくとその建物に近づいた。
「魔物を素手でぶちのめそう。君も十日で強くなれる。見学者歓迎、体験無料……。無料?」
玄関の横には、そんな文句が書かれた張り紙が張ってある。顔を上げると、「武神流道場」と大書された看板が掛かっている。武神流、良く分からない、大げさな響きだ。
アルフェはもう一度、張り紙に目を注いだ。そこには先ほどの宣伝文句の他に、ひげ面の男が魔物を拳で打ち倒している絵が描かれている。男の笑顔がやけにキラキラしていて、なんだか気色が悪い。張られてから随分時間が経っているようで、張り紙の端は破れ、風になびいていた。
――拳闘術? を教える道場でしょうか……。
絵と文句からはそう読める。アルフェは首を傾げた。
拳闘術とは、いざと言うときの護身術や、競技として行われることがあるらしい。これも本の知識だが、帝都では毎年、拳闘大会なるものも開かれていると聞く。だがこの張り紙を見るに、どうやらここでは、素手で魔物と格闘する術を教えているようだ。
――十日……、十日で強くなれる? 拳闘術なら武器を買う必要も無いし……、何よりも、無料というのがいいですね。
金銭にまつわるここ最近の悲劇が、少女にこの怪しい過剰広告を信じさせた。
物は試しと思ったアルフェが扉をくぐると、外と雰囲気が一変した。この建物の外観は、町の他の建物のようにレンガと漆喰造りだったが、中は壁にも床にも木の板が貼られている。玄関は土間になっているが、それはわずかな空間だけで、二段ほどの階段を上ると、すぐに板張りの床に変わる。見たことのない建築様式だ。
「すみません」
アルフェはおとないを告げるが、応対するものは誰もいない。
いや、広間の奥に誰か座っている。やけに大きな男だ。
「すみません、よろしいですか?」
もう一度アルフェが玄関から声をかけても、その男は微動だにしない。
しかたがないのでアルフェは室内に入り、男性の側まで歩み寄った。
「あの、表の看板を見たのですが」
そう言いながら、彼女はしげしげと座っている男を観察した。
大きい。男は座っているのに、頭の高さがアルフェの身長くらいまである。着ている白い奇妙な服の上からでも、巌のような筋肉が盛り上がっているのが分かった。
そして顔だ。目を閉じてはいるが顔が怖い。眉間にしわが寄っている。短髪で浅黒い肌をしている。このひげ面は、表の看板に描かれていたのと同一人物だろうか。
しかし、まるで反応が無いのはどうしてだろう。首を傾げながらさらに近くまで寄り、アルフェはもう一度男に声をかけた。
「あの――」
その瞬間、突如として男が目を見開き、大音声を挙げた。
「神聖な道場に!! 土足で踏み入るとは何事かぁぁ!!」
「すみませんんん!!」
アルフェは思わず、謝ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます